6月に入り、夏の到来を感じさせる季節。
梅雨に入って雨が続く中でつかの間の雨間が訪れ、
少しだが晴れ間も見えるためこれ幸いと外出する人々が多いようだ。
とあるレース場もそうだった。
雨のせいで走りに飢えたウマ娘たちがいつもより多く集まっている。
しかしここはレース場と言っても公式のものではなく、
ウマ娘たちが好きに走り回るフリースタイルレースを行う場所。
それもアマチュアや趣味のスポーツと言うようなものではなく、
そこらのヤンキーが半ば喧嘩のようなレースを行う、あまり治安のいいとは言えない場所だった。
今日もここでレースが行われているが、
前述のとおり治安の悪めなフリースタイルレース場は、整備が行き届いているとは言い難く、
芝は所々剥げ、穴も空いていたり、水たまりができていたりと悪い環境だ。
特に梅雨のこの時期はぬかるみも酷く、かなりの道悪状態である。
とはいえそれが逆に公式のレースでは味わえないスリリングなレースを作り出すため、
刺激に飢えている者にとっては走る方も見る方も楽しめるものではある。
そのレース場を通りがかった1人の男がいた。
白衣を纏い、杖を突きながらレースを眺めている。
男の名はドクターTETSU。
闇医者として活躍を続け、ドクターKと浅からぬ因縁を持つ男である。
【ドクターTETSU】
高い技術を持つ闇医者。
詳細は番外編の"Report『ドクターTETSUとその弟子について』"参照。
「全く、ガキどもはこんな汚ねぇコースでもずいぶん楽しそうに走るもんだぜ」
そんなことを呟きながらレースを眺めていると、コーナー付近で悲鳴が上がった。
どうやら走っていたウマ娘が転倒したらしく、数人が倒れているのが見える。
ただでさえ悪い足元の中、勝利を求めるあまり逸り気を起こし、
無茶な体勢で走ってしまったようで、重傷であることが遠くからでもわかるほどだった。
「チッ…!これだからガキは嫌いなんだよ…!」
TETSUはすぐさま荷物を持って走りだし、転倒したウマ娘たちの元へと向かった。
「うあああ、痛い~!」
「脚が動かない…!」
「やば…凄い怪我!」
「どうしよう…救急車呼べばいいの…?」
痛みにあえぐ負傷したウマ娘と、周りに集まる者たち。
まだ冷静になれていないようで、どうすればいいかとオロオロしている様子だった。
「何やってんだおめえら!とっとと救急車を呼べェ!」
TETSUは大声で叫びながら駆け寄った。
すぐさま白衣を脱ぐとそれを地面に敷いて、特に怪我の深そうなウマ娘の足をそこに乗せた。
「こりゃ開放骨折起こしてるじゃねえか、傷口も泥だらけだ。これはまずいな。
他の奴らは…折れてはいるが開放骨折までは至ってないか。ならこいつが最優先だ」
突然現れた男に驚く周囲のウマ娘。
「お、おっさん誰だよ!?」
「オレは医者だ!おめえらボケっとしてんじゃねえ!
そこのお前は救急車を呼べ!怪我人は3人、全員脚の骨折で開放骨折は1人と伝えろ!
そっちのお前らはきれいな水と添え木になりそうなものを持ってこい!
こいつらの応急処置をする!さっさとしろ!」
「わ、わかった!救急車呼んでくる!」
「私らは水持ってくるわ!」
「じゃあ私は添え木を!急げ!」
TETSUが指示を出すと、周囲の者たちがいっせいに行動を始めた。
救助行動をしなければならない状況だと認識しているのにもかかわらず、
しかし周囲の者が具体的な行動をとらないことを「傍観者効果」と言う。
そういう状況では、誰かが具体的な指示を出すと動けるようになるのである。
【傍観者効果】
他者に対し援助すべき状況であるにもかかわらず、
周囲に多くの人がいることによって、援助行動が抑制されてしまう集団心理のこと。
傍観者効果が生じる原因としては、
「責任分散」「聴衆抑制・評価懸念」「多元的無知」などがある。
『責任分散』
自分がしなくても誰かが行動するだろう、
他者と同じ行動をすることで責任や非難が分散されるだろうと判断してしまうこと。
『聴衆抑制・評価懸念』
何か行動を起こした時に失敗した際、
他者のネガティブな評価に対する不安から、援助行動が抑制されること。
「善きサマリア人の法」にも繋がる心理。
『多元的無知』
周囲の人が何もしていないのだから、
援助や介入に緊急性を要しないだろうと誤って判断してしまうこと。
TETSUはすぐさま鞄から医療道具を取り出し、怪我人に局所麻酔を投与した。
「よし、今から応急処置をするぞ、麻酔を打ったとはいえ痛ェだろうが我慢しろや。
おめぇらの根性の見せ所だぜ?」
開放骨折は、まずは持っていた生理食塩水で洗いながら止血の作業を行い、
その後運ばれてきた水も使って可能な限り患部を洗浄した。
太い血管は素早く結紮し、飛び出た骨はガーゼで保護、その上から包帯を念入りに巻く。
その後添え木をしてさらに固定して応急処置は完了である。
次に重傷には至っていないウマ娘への応急処置も行う。
末端部を視認するため靴や靴下を脱がしてから、添え木を当てて固定した。
「ふう…まあこんなところか。救急車もあと5分かからず到着するらしい。
こいつらは救急隊員が来るまでこのまま動かさないでおけよ。
んじゃオレの出番は終わりだな」
TETSUはそう言うと、立ち上がって歩き始めた。
傍にいた、怪我をしたウマ娘の友人が礼を言った。
「おっさん、サンキューな。世話になった礼はあとでするよ」
「別にいらねぇよ。まあこれに懲りたら次はもっと考えて走るこったな」
TETSUは手をひらひらと振りながら去っていく。
それを追い、今の騒動を眺めていたウマ娘が1人その男へと近づいて行った。
「全く面倒事に巻き込まれたもんだぜ。
白衣が持ってかれちまったな…帰って新しいのを出すか」
TETSUがブツブツと呟きながら歩いていると、後ろからウマ娘に声をかけられた。
ラフな格好にニット帽をかぶったウマ娘だ。
「よう、お医者さんよ。ちょっと話いいか?」
「…あ?なんだおめぇは。さっきの奴の友達か?」
「いや、友達ではないけどな。
私はナカヤマフェスタ、さっきアンタの処置を見てたぜ。
私はそれほど医療に詳しいわけじゃないが、アンタの腕前が相当なものなのはわかった。
それを見込んで頼みたいことがあるんだ。ちょっと重病の知り合いがいてね」
「そうか、そりゃあ大変だな。大きい病院で診てもらうといいぜ」
TETSUは軽く流して立ち去ろうとするが、ナカヤマフェスタは前に回り込んで道をふさいだ。
「待ってくれって。病院には行ってるに決まってんだろ。
でもそう簡単にどうにかできる状態じゃないんだよ。
だから凄腕の医者を探していてな、アンタのことは噂で聞いて興味があったんだ。
探そうと思っていたところに丁度現れてくれた…頼むよ」
噂で聞いた、という発言にTETSUは意外そうな顔をした。
こんなガキがオレの噂を知っているとは、ろくな世の中じゃねえらしい。
「オレの噂をどこで聞いたのか知らんが、悪いがそういうのは受け付けてないんでね。
お褒めいただいて光栄だが、お前さんの言う通りオレはけっこう実力があってな。
財政の要人とか筋モンとかに人気あるんだわ。忙しいから別なやつに頼みな」
TETSUが冷たくあしらうと、ナカヤマフェスタは少し苛立ちを覚えた。
「少しくらい話を聞いてくれてもいいじゃないか。
こっちはウマ娘、アンタを力づくで連れて行ってもいいんだぜ?
私も必死なんだ、あんまり手段は選んでいられないんでね」
本気で実力行使するつもりはないが、食い下がるために言った言葉。
だがTETSUはそれを聞いてニヤリと笑みを浮かべた。
「ほう、力づくだと?面白いじゃねえか、やってみろや」
「な、なんだと…?」
ナカヤマフェスタは予想外の返答に怯んだ。
今対峙している男は体格はいいがただの人間だし、
杖もついていて健康状態も万全ではなさそうだ。
そんな者がウマ娘に対して、力づくでやってみろと言い出した。
しかしただのハッタリとは思えない、確かな強さをオーラで感じる。
ナカヤマフェスタは内心で「やはり当たりかもしれないな」と思った。
「…力づくは本気でやる気はなかったが、挑発されちゃあ話は別だ。
アンタは麻袋詰めにして連れて行かせてもらうぜ」
「ガキをいじめる趣味はねえんだが、じゃじゃウマに躾をしてやるのも大人の仕事だな。
ホレ、来てみなポニーちゃん」
ナカヤマフェスタは手をポキッと鳴らし、TETSUは挑発するようにチョイチョイと手招きをした。
「その舐めた態度、後悔させてやるよ」
ナカヤマフェスタはTETSUへとゆっくり近づいていく。
いくら挑発されていても、さすがに普通の人間相手に本気で攻撃するのは憚られる。
組み伏せてしまえばいいだろうと考え、TETSUのタンクトップへと手を伸ばした。
しかし次の瞬間、地面に組み伏せられていたのは自分の方だった。
「なっ…!?」
「おいおい、力づくとか言っておいてこの程度かよ。
お前こそ舐めすぎじゃねえか?」
ナカヤマフェスタはTETSUの手を振りほどいて立ち上がり、距離を取った。
本気の戦闘態勢ではなかったにしろ、あれほど鮮やかにやられてしまうとは…。
「驚いた…アンタ、やっぱりかなりの実力者だな」
「へっ、オレァこう見えて結構な修羅場をくぐって来てるんでな。
お前さんのようなガキに負けるほど老いぼれちゃいねェぜ」
「そうか…言い訳になってダサいが、私も本気でやったわけじゃないんでね。
アンタがそのレベルなら本気でやっても大怪我はさせずに済みそうだ!」
今度は走って向かうナカヤマフェスタ。
こんな喧嘩のようなことになるとは思っていなかったが、
想定外の強者との出会いに楽しさを感じていた。
しかしTETSUはやはり強く、
格闘術をろくに習っていないナカヤマフェスタは何度も地面に投げられた。
「ハッ…ハハッ!クッソォ、全然勝てないじゃねえか…!」
「ふう…そろそろ気が済んだか?もうやめとけ、お前じゃオレには勝てねえよ」
「いいや、まだだ!」
流石に息を切らしているTETSUだが、それでもまだ余裕がありそうである。
真っすぐ向かって行っても同じことになるだけだろう。
それならば策を使わせてもらう、と考えを練った。
ナカヤマフェスタはもう一度TETSUに向かっていくと、また軽く投げられた…のだが、
変な態勢で地面に激突し、かなり苦しそうにせき込みながら地面に突っ伏した。
「カハッ…!ゴホッゴホッ!!オエッ…!」
「おいおい大丈夫か?言わんこっちゃねえ…」
TETSUが心配そうにナカヤマフェスタの顔を覗き込むと、
ナカヤマフェスタはニヤリと笑い、突っ伏したままTETSUの足に手を伸ばして握りしめた。
ウマ娘が本気で握りしめれば、骨ごとそのまま容易く砕けるだろう。
「かかったな…!アンタは医者だ、こうすれば心配してくれると思っていたぜ!」
「演技かよテメエ…!全く、卑怯なことをするガキだな」
「さっきも言ったが必死なんでね。
アンタが私の話を聞いてくれるまで、絶対にこの手は離さないぜ」
TETSUは大きくため息を吐いた。
「ったく…わかったよ、オレの負けだ。少しなら話聞いてやるよ」
「よし…!アンタが言い出したこととはいえ手荒な真似して悪かったな」
ナカヤマフェスタは手を放して立ち上がる。
服の汚れも払おうとしたが、どうしようもなく汚れていたため諦めたようだ。
「ふう、最初に名乗ったがもう一度言うぜ。私はナカヤマフェスタ。
お医者さんよ、アンタの噂は聞いていたけど噂以上だったよ。
アンタは伝説の医者『ドクターK』だろ?ゴールドシップから聞いていたぜ。
凄腕の技術を持ち、大きなガタイと高い戦闘能力、そして医者なのに黒い恰好をしている。
全部アンタに当てはまることだ」
ドクターK、それは伝説の医師の呼び名。
しかしそれはTETSUのことではなく、現在では神代一人がその名を継いでいるものだ。
TETSUも高い技術と高い戦闘能力を持っていて、
今は白衣を脱いでいるため黒のタンクトップ姿をしているし、黒のブーツも履いている。
どうやらナカヤマフェスタは断片の情報とTETSUの姿から勘違いをしているようだ。
(ン…?ドクターKだと…?そォか、こいつたぶんオレを神代一人と勘違いしてやがるな。
まあそりゃそうか、闇医者のオレのことをその辺のガキが知ってるわけがないよな)
てっきり自分のことを知っていると思っていたので若干がっかりしたTETSUだった。
TETSUは少し考え、誤解を解いて帰るのもいいが、どうせKの所に話が行くのなら、
自分が手柄を分捕ってしまおうと思った。TETSUがニヤリと笑う。
「いかにもオレはドクターKだ。ナカヤマよ、患者の話を詳しく教えな」
TETSUとナカヤマフェスタは近くにある喫茶店へと移動した。
シックな雰囲気の店で、そこそこの料金ながら席も離れていて会話もしやすいようだ。
TETSUは店員を呼んでコーヒーを2つ頼むと、すぐにいい香りのコーヒーが運ばれてきた。
そのコーヒーをすすりながらTETSUが尋ねる。
「さて、患者ってのはどんな奴だ?普通の病院じゃ手に負えねぇレベルなんだろう?」
「ああ、患者は50代の女性、病気は食道癌だ。
カルテは少しだけど写真を撮ったものがここにある」
ナカヤマフェスタはそう言うとスマホの画面をTETSUに見せた。
そこには病気の内容といくつかのCT画像があった。
TETSUはそれを一通り眺めた後で言う。
「ほォ、扁平上皮癌、しかも切除不能なタイプか。確かにこいつはなかなか厄介だな…。
しかもだいぶ進行している、すぐにでもなんとかしねぇと1年持つかどうかってとこか」
「今の医者からもそう言われてる。一応化学治療は受けているんだが、
場所が悪くて手術による切除は厳しいし、あまり強度の高い化学治療も難しいと。
でも伝説の医師と言われるドクターKならなんとかできるんじゃないか?」
「ことはそう単純じゃねぇ。
確かにオレの技術は凄ェがな、この食道癌では簡単に行かねえな。
いいか、この食道癌はステージT4。割と進行した挙句、大動脈にまで到達してるんだ。
つまり病巣を切除しようとすると大動脈まで持ってかれてオダブツよ。
だから切除不能ってなってんだ。誰がやっても大差はねぇな」
【食道癌】
食道に発生する癌。
食道のどこにでも発生する可能性があるが、約半数が食道の中央付近に起きる。
主に扁平上皮癌と腺癌に分けられ、全体の9割が扁平上皮癌である。
食道の壁の粘膜内にとどまる癌を早期食道癌、
粘膜内から粘膜下層までの癌を食道表在癌と呼ぶ。
食道癌は、初期には自覚症状がないことがほとんどである。
癌が進行するにつれて、飲食時の胸の違和感、飲食物がつかえる感じ、
体重減少、胸や背中の痛み、咳、嗄声などの症状が出る。
食道癌の進行度はどのくらいの深さまで食道癌が達しているか(壁深達度)と、
転移の状況から食道癌の進み具合を評価する。
壁深達度はTis(上皮内癌)、T1a(粘膜筋板)、T1b(粘膜下層)、
T2(筋層)、T3(外膜)、T4(周囲臓器に浸潤)に分類される。
「じゃ…じゃあどうにもならないってのか!?
アンタは伝説の医師なんだろ!何とかしてくれよ!」
ナカヤマフェスタは必死の形相でTETSUに詰め寄った。
「まァ…オレならばなんとかする手段はあるけどな。
と言っても患者にも苦労がだいぶある治療法になる。本人としっかり話す必要があるな。
なあナカヤマ、この患者は誰なんだ?お前の母親ではねぇよな?」
「ああ…。この人は私の恩師。小学校で担任教師だった人だ。
私がちっこいガキだったころ、適当に流れるように生きていたころ、
私に生きる道を教えてくれた先生だ。私の大切な人なんだよ…。
先生はもう諦めているようなことを言っているんだが、どうしても死んでほしくない。
治せる可能性があるなら、先生と話をしてみてくれないか?」
「別にいいが、成功したら治療費を貰うぜ?
言っとくがオレは闇医者だ、バカ高ぇうえに保険なんて適用されねえ。
当然払うのはお前さんだ…それでもいいか?」
「闇医者…!?マジかよ!治療費っていくらだ…!?」
「まぁ、今回なら1000万円ってところか」
「ゲッ、1000万…!?い、今は手持ちはない…。でも必ず払うよ。
言ってなかったがな、私は中央で走るウマ娘なんだ。
しかも皐月賞とダービーで勝って二冠を獲った。
これからもレースを勝ちまくって、いずれフランスへ渡り凱旋門を制覇するウマ娘だ。
そうすりゃ金は十分手に入る、1000万に利子付けて払う!だから頼む!」
ナカヤマフェスタはそう言って頭を下げた。
彼女の悲痛なほどの思いはTETSUにも伝わってくるようだった。
それを見たTETSUはナカヤマフェスタの頭を軽くひっぱたいた。
「いてっ!何すんだ!」
「バーカ、おめぇみたいなガキから金なんか取れるかよ。
今のはおめぇがどこまで本気なのか確認しただけだ。
しょうがねえ、オレは貧乏クジを引いちまった気でやるからタダにしてやるよ」
TETSUはやれやれといった表情で頭を掻いた。
「えっ…!いや、ありがたい話だがアンタはそれでいいのか!?
時間は少しかかるが必ず払うって言っただろ」
「オレは別に金欠なわけじゃねえんだよ。だから虫唾の走る金は受け取らねえ主義だ。
ガキから大金せしめたって単に気分が悪くなるだけだっての」
「で、でも…じゃあどうすればいい?
タダなんて言われると今度は私の方が気分が悪くなるんだが…」
「なかなか面倒なやつだな、じゃあ対価は考えておくからあとで話すわ。
それより少しでも早く行動した方がいい。患者の居場所を教えな」
「わかった、先生の場所はここだ」
ナカヤマフェスタは先生の居場所をメモに書いてTETSUに渡した。
「じゃあ先生のこと頼むよ、ドクターK。アンタの実力、信じているからな」
「おっとォ…そういやそう言う設定だったな、忘れてた。
一応ネタばらししとくか。騙して悪いが、オレはドクターKじゃねえ。
お前さんの話に興味があったからつい嘘をついちまったぜ」
「ハァ!?ドクターKじゃないって、じゃあアンタ誰だよ!?」
ドクターKと話しているつもりだったナカヤマフェスタは驚愕していた。
そりゃそうである。やたらと強くて技術の高い医者なんてそうそういないのだから。
「オレはドクターTETSU。まあドクターKの野郎とは腕前はどっこい…って感じかねぇ。
クーリングオフするなら今ならいいぜ。そしたらKの居場所も教えてやるよ」
「ドクターTETSU…!?ドクターKじゃないのか…いや…でも…」
ナカヤマフェスタは考えるそぶりを見せたが、すぐにTETSUの目を見て言った。
「いや、TETSU。やっぱりアンタに任せよう。
どうせ私はドクターKのこともよく知らないからな。
だったら自分の目で見て信用できると思ったアンタのことを信じたい」
「ククク、なかなか活きのいいガキだな。少し気に入ったぜ。
じゃあお前の先生はオレが治療してきてやろう」
「こっちはもう後のないギリギリの状態、ドベのオーラスみたいなもんだからな。
全部アンタに賭けてみるよ」
「ほう、それじゃまあ期待しておきな。ナカヤマは運がいい。
オレを選んだことは、配牌で大三元がそろってるようなもんだぜ?」
TETSUはすぐに準備を始め、ナカヤマフェスタの先生がいる病院へと向かった。
訪れる際にはKと違って闇医者なので突然現れてもいかんだろうと、
TETSUと『親しい』病院の院長に頼んで紹介状を作らせたらしい。
まずは担当医から詳しい状況を聞くTETSU。
細かい状況を見ても、やはり当初の見立て通りかなり悪い状態のようだった。
幸いなのはいまだに転移は起こしていなさそうなことである。
「なるほど、だいぶ進行してるがまだ転移は見つかっていない、と。
いま患者にやってるのは化学療法なんだな?」
「ええ、シスプラチンとペムブロリズマブの投与を行っています」
「それは正解だが、結局その場しのぎにしかならねえぞ?」
「そうですね、あくまで一次治療ですし、症状を良化できる確率はかなり低い。
やはり根治を目指した治療法を行いたいのですが…
切除が不可能である以上、やれることはかなり少ないですよね」
「だなァ。延命ではなく、あくまで治療を目指すとなれば手段を選ぶことはできねえ。
だからオレが考えているのは化学放射線治療だ」
「化学放射線治療…!も、もちろん私たちも検討はしました。
しかしそれは大きなリスクが…」
「ああ、リスクはあるわな。だが聞くぞ、お前さんが言った『リスク』とは誰の話だ?
『患者』か?それとも『病院』か…?」
「そっ…!それは…。」
「まァそうだろうな。
患者のリスクはもちろんだが、やった後でダメだったら病院の評判が悪くなるもんな」
「いえ…その…。」
「お前らの気持ちもわかる。患者のことを無視してるわけではないこともな。
聞けば患者はもう緩和ケアを受け入れているような話なんだろ?
だがな、可能性があるのならそれを患者に伝えるのが医者の仕事じゃねえか?
オレたち医者じゃなく患者に選ばせろよ。命を賭けるか、賭けないかをな。
それにオレがいれば、死のリスクを大幅に減らせる準備があるぜ」
TETSUは担当医を連れて、ナカヤマフェスタの先生の元へ顔を出した。
「失礼する。あんたが患者だな?」
「あら、担当医さんと、あなたは?初めて見る方ね」
「オレはナカヤマフェスタから頼まれてきた医者だ。
あんたを治療してくれと依頼されてな、だから可能性がある治療法についての話をしに来た」
「まあ、フェスタに?あの子ったらそんなことを…。
しかし私の治療って、もう手遅れと言う話ではありませんでしたっけ?」
「実際それはその通り。だがそれはリスクを回避した場合の話だ。
合併症を起こしたら致死的な状況に陥ることもあるが、根治できるかもしれない治療法がある。
それは『化学放射線療法』だ」
「化学放射線療法…それって癌では割とよくある治療法ではないのですか?」
「それ自体はな。じゃあなぜ今回の癌では行ってこなかったか?
それはあんたが食道癌のステージT4だからだ。
外科手術で切除できないのは病巣と大動脈が近すぎて手術が不可能だからだが…
化学放射線療法でもだいたい同じ理由だ。
さっき言った合併症、それが起こると化学放射線療法をやっていても大動脈に穴が開く。
もちろん死に直結する話だ。そうなれば癌で死ぬ前にそっちで死ぬ」
「大動脈に穴が…。でも、その、絶対に起こるわけではないということですか?」
「絶対ではないな。だがはっきり言っておくが1~2割程度の確率で発生する。
とてもじゃないが無視はできない確率だ。
合併症を起こしても治療すれば死ぬとは限らないが、それでも致死率は3割以上ある。
まァオレならあらかじめその対策をとれるから、死ぬリスクはだいぶ減らせるが。
ちなみに治る確率もだいたい1~2割程度だな。
それに体への負担が大きい治療法だから、そういう意味でも気軽にやれるもんじゃねえ」
【化学放射線療法】
化学療法と放射線療法を併用した治療法。
それらを単独で行う場合に比べて一般的に治療効果の増強が見られるが、
同時に副作用も強くなるため必ずしも誰にも適用できる利用法ではない。
また、進行した食道癌へ行う場合、穿孔・穿通といった、
重篤な合併症を引き起こす可能性もある。
切除不能局所進行食道癌へ適用した場合、
長期生存できるようになる割合は1~2割ほど。
しかし前述の重篤な合併症を起こす割合が1~2割ほどある。
そのためリスクが高く、治療のメリットとデメリットについて、
医者と患者の間で十分な話し合いをしたうえで選択すべき治療法である。
「副作用や合併症がある治療法ですか…」
軽い気持ちでは行えないようなものであることを知ると、
先生はかなり悩んでいるようだった。
「苦労がある上にやっても癌が治る確証はないが、
重篤な合併症を起こす可能性がある化学放射線療法。
無理はしないで緩和ケアに勤め、残った時間を生きるという選択肢も十分アリだ。
どうするかは患者の意思に任せる…が、個人的な意見を言えばやってもらいたいもんだ。
あんたの治療、ナカヤマに頼まれちまったからなァ」
「そうでしたね、あなたはフェスタに頼まれてきたと言ってましたっけ」
「まぁな。…少しオレの話をしようか。
オレは健康に見えるだろうがな、これでも癌を患ってるんだぜ。
スキルス胃癌って知ってるか?しかもそれが悪化して腹膜播種になってんだ」
「腹膜播種…癌のことは食道癌を患ってから調べましたから知っていますが…
それも相当重症なのではないですか?」
「ああ、はっきり言ってオレの見立てでは死、それ以外の道はないと判断した。
だから思ったよ、どうせ死ぬなら残った命を有意義に使おうと。
ちょっとした関係のとあるガキがいてな、そいつのために自分の命を使おうと思ったんだ。
だけどなァ…そいつはオレの死を受け入れようとはしなかった。
そのガキの身内も医者でな、それを呼んできてオレに癌と闘う新しい治療法を施した。
その医者は言ってたよ、『死に方ではなく生き様を見せろ』ってな」
「死に方ではなく、生き様を…」
先生はナカヤマフェスタと出会ったばかりのころを思い出した。
生き方を知らないナカヤマフェスタを、父のいるレースクラブに誘い込み、
レースを通して人生を楽しむ方法を教えたのは自分なのだった。
「本人は癌になり死を受け入れているが、周りのガキは受け入れねえで抗おうとする。
それを聞いたらほっとけない気持ちがあってな…依頼を受けたってわけだ。
あんたもあいつに見せてやらねえか?生き様ってやつをよ」
「あ…あの…少し、考えさせてください。家族と相談したくて」
「勿論だ、だが猶予が少ないのはわかっているだろう。
癌が転移を始めたらもう本当の手遅れだ。数日以内に決めてくれ」
TETSUはそう言って担当医と共に帰っていった。
病室に残った先生は、どうするべきかを考える。
父親に話を伝えると翌日に病院へと飛んで来た。
「お父さん、どうしたらいいと思う?」
「体に負担が大きいうえに重篤な合併症の可能性がある治療か…
やるとしたら賭けになるな…」
「賭け…そうよね」
賭け。それは先生にはなじみの深い言葉だった。
ナカヤマフェスタがいつも言っている言葉だからだ。
フェスタは分の悪い賭けにもどんどん突っ込んでいったっけ、と思いかえす。
あの子はテストでも考えれば大体解けるくせにあてずっぽうで答えることが多いから、
勉強の評価をするのに苦労したっけな。
今も似たようなことをしているみたいだけど。
一度は死ぬことを受け入れたこの身。
しかしフェスタが『希望を見せる』と言ってレースに挑み、
皐月賞とダービーで活躍した姿を見て、私の中で確かに希望が芽生えつつある。
これからもフェスタを見ていたいという希望が。
だけど『夢』を見たいという希望は芽生えても、
『現実』と戦うための希望は見つかっていなかった。
可能な治療は緩和ケアに近い、進行を遅らせるだけのものだったからだ。
だが今、そこに1つの希望が見えた。
心の希望だけではなく、体の希望までもフェスタが持ってきてくれた。
大きなリスクがあろうとも、そこに希望があるのなら。
フェスタが与えてくれた希望に応えるのなら、あの子のように賭けに出てもいいのではないか。
「お父さん、私ね、フェスタと賭けをしていたの。
あの子が私に希望を与えられるかどうかってね。
その賭けはあの子の勝ち…私、フェスタのことをこれからもずっと見ていたくなっちゃったから。
だから、不安もあるけど…可能性があるのならそれに賭けてみたい」
「…そうか。俺は正直…迷ってる…。
お前が死ぬのは嫌だ、治ってほしいが、だが大きなリスクがあると考えると足踏みしてしまう」
先生の父親は、延命治療でもいいんじゃないか…という言葉を飲み込んだ。
娘の目は覚悟を決めている。もう自分の出る幕ではないのだろう。
「でも俺はお前の意思なら尊重するよ。やるなら全力でサポートする。
きっと治るって信じてるからな」
「ありがとう。私、治療を受けてみる。必ず元気になってみせるからね!」