入院する話がまとまったので、Kは治療方針について説明をする。
「この原田病は免疫機能の異常によって起こります。症状も全身にわたって発生するため、治療も全身に対して行うことになります。この病気にはステロイドが効果的なので、ステロイドパルス療法を行います。これはステロイドを点滴で全身に大量投与する治療法です。一日一回、数日にわたって行い、症状が治まったらステロイドの量と回数を減らしていく。
退院ができるのは今の症状が一通り治まったらですね。最終的には半年から1年後くらいを目安に治療が終わる予定です」
「結構かかるんですね。でも入院は2週間くらいという話でしたから、最初の処置が終われば通院で済むってことですよね?」
「その通りです」
「眼の方は手術とかをするんですか?網膜剝離があると言ってましたし」
「手術は必要ありません。原田病で発生する網膜剝離は『滲出性網膜剝離』と言いまして、眼内の体液が染み出たことによって発生します。これは炎症が治まれば自然に治るのです」
「よかった~。眼は意識がある状態で手術されると聞きますから結構怖かったので!」
安心したように笑うトレーナーにつられ、スティルインラブもくすくす笑っていた。
トレーナーが受け入れたことで入院の手続きはつつがなく進み、その日のうちに入院となった。翌日から早速治療が始まり、一方のスティルインラブは1人でトレーニングに励む。
トレーナーが懸念していた『本能』が暴れだすようなこともなかった。元々、ここしばらくは本能と折り合いがついていたし、本能としても次のレースを楽しみにしているので変なことは起こらない。それに、トレーナーは知らないことだが……今のスティルインラブは、理性と本能の精神が再び一つに戻っているのだ。
特にトラブルもなく数日が経ち、ジャパンカップ当日。
トレーナーの症状は鎮静化してきているものの退院できるほどではないので、やはりスティルインラブと共に向かうことはできなかった。スティルインラブのことは後輩のトレーナーに頼んで連れて行ってもらった。
レースが始まる前、スティルインラブは1人で集中していた。後輩トレーナーはいい人ではあるが、自分のパートナーとは当然異なる。励ましの言葉はもらったが強く響くものではなかった。傍にいない自分のトレーナーを想い、心を燃え上がらせた。
(トレーナーさん……。貴方が壊れてしまうと思ったから、このレースで最後にするつもりだったけれど。治ってくれるのなら、まだご一緒しても許されるかしら。だって私は貴方を……)
「ふふ、匂い立つわ。とても濃い『愛』を感じるわね」
心を整えるスティルインラブに1人のウマ娘が声をかけてきた。このレースで最大のライバルになるであろう、メジロラモーヌだった。
「……ラモーヌさん」
「今日は貴方の『半身』はご一緒ではないようね。その状態でも、私にきちんと愛を感じさせてくれるのかしら?」
スティルインラブにとって、トレーナーが傍にいないということは通常あり得ないことだ。それを気にかけているのだろう。しかしその問題はとうに受け入れている。
「ご心配なく、離れていても心は繋がっていますので。今日の勝利を……あの方に捧げるわ」
そう言ったスティルインラブは小さくはにかんだ。その姿は一見淑やかだが、闘う心構えが十全なのを感じられる。ただそれは闘志が溢れているというより、愛に満ち溢れていた。メジロラモーヌも満足そうに笑みを浮かべた。
「そう、期待しているわ。貴方たちの愛をね」
発走直前になり、ウマ娘たちがゲート入りを始める。トリプルティアラの2人が激突することは大きな話題となっており、大勢の観客が押し寄せていた。レース場は歓声で溢れており少々喧しいほどだ。
メジロラモーヌは観客たちの愛を受けて心が燃え上がる。
大きな歓声は自分たちへの愛ゆえのものだから。
一方のスティルインラブは、歓声はほとんど耳に入らなかった。
観客が嫌いなわけではない。愛してくれることを嬉しくも思う。
だが、自分が求める愛はただ1つだから。
スティルインラブのトレーナーは病室でレース中継を見ていた。ゲート入りが完了し、もうすぐ発走の時間だ。スティルインラブと控室にいるとき電話で会話をしたが、それ以降はここで見守ることしかできない。
Kも横におり、今日は経過観察を兼ねて訪れたので一緒にレースを見ている。
「がんばれよスティル……」
トレーナーはスティルインラブを想い、手を強く握りしめた。
『2人のトリプルティアラウマ娘が出走するこのレース!国内外に大きな話題を呼んでいる世紀の一戦です!勝つのはメジロラモーヌかスティルインラブか、はたまた別のウマ娘か!
今、レースが……スタートしました!』
レースが始まってしばらく経ち、終盤に差し掛かるころ。前方にいるメジロラモーヌは楽しそうに笑っていた。
「ふふ……なんて素敵なレースかしら。そして感じるわ……後ろにいる貴方から。溶けるような、熔けるような……貴方たちだけの『愛』を……!」
スティルインラブは後方でメジロラモーヌを追っていた。ターフを愛していると常日頃から言っているメジロラモーヌ。彼女の走りは確かに愛に溢れ、そして美しさを感じる。前に自分のトレーナーが彼女に見惚れたと言っていたが、自分と出会う前ならそうなるのも仕方ないと認めざるを得ないくらいだ。
スティルインラブは思う。
ラモーヌさん……なんて美しいのかしら。
彼女も己にあるウマ娘の本能を、あるがままに出して走っている。
でも、それなのに彼女は美しい……
醜い姿だった私とは全く違う。
私が勝つためにはまた醜い姿をさらさないといけない……。
でも、もういいの。
そんな醜い私のことも美しいと言ってくれた人。
貴方さえいれば、他の愛なんて必要ないから。
「うううああァ……!!ガァあああアあああァ!!!」
獣の如き咆哮と共に、スティルインラブが加速した。観る人から、走るライバルから、どれほど拒絶されようが構わない。ただ1人、彼が自分を愛してくれるのならば。
スティルインラブは凄まじい速度と迫力で周囲のウマ娘を圧倒し、前方にいたメジロラモーヌとの距離を一気に詰めた。メジロラモーヌは負けじと強く踏み込むが、スティルインラブはそれを上回り先頭まで躍り出た。
「あはハハっ……あハハハアアああああハハァッ!!!!
全部!全部
「くっ……!ふふ……素晴らしいわ……!これが貴方の『愛』なのね……!」
全てを喰らい尽くすような走りで後方から全員を抜き去ったスティルインラブ。圧倒的な走りでゴールを果たした顔はとても満足そうで、そして一言だけ呟いた。
「ああ……ご馳走様。」
『スティルインラブ、なんという末脚!初代トリプルティアラ、メジロラモーヌさえも超えてゆく!後方から全てのウマ娘を抜き去り、新世代のティアラの輝きを見せつけました!』
メジロラモーヌとスティルインラブ、初代トリプルティアラと2人目のトリプルティアラ。世紀の一戦はスティルインラブの勝利で終わった。
今後も語られていくような激しいレースだった……が、拍手や歓声はそれなり程度である。観客の反応には戸惑いや困惑の声も多い。何しろスティルインラブの本能の走りは、常人では恐怖するほどなのだ。たとえファンであっても手放しには祝福できない者が多い。
しかしこの場にいる中で数は少ないが、心から満足している者もいる。己の勝利を示す掲示板を見てほほ笑むスティルインラブに、メジロラモーヌが拍手をしながら近寄ってきた。
「おめでとう。貴方たちの愛、堪能させてもらったわ」
「ラモーヌさん……。共に走って、貴方の愛が少しわかりました。どうにも、狂おしいものですね」
「けれど、貴方たちの愛。以前に会った時とは少し違ったわね。形は変わっていないけど……器が広がったとでも言うのかしら」
「人に助けられて考えが変わりましたから。そう……あれは愛を注がれていたのですね」
「ふふ、悪くない色をしているわ。なら、いつか濁る時まで捧げ尽くすのね。もし次があるのなら……また感じさせて頂戴」
病室でレースを見ていたトレーナーは、静かに喜び涙を流した。レース場にいたなら声が枯れるほど叫んでいただろうが、病院なので静かに見守った。
「ああ、スティル……君はやっぱり美しい」
トレーナーはむき出しの本能で走るスティルインラブの姿に美しさを感じていた。
一方、傍にいるKは困惑の表情をしていた。といっても、普段は淑やかなスティルインラブの豹変ぶりには引き気味だが、個性的な者はよく目にするし、彼女のそれに襲われた経験もあるのでさほど驚きはない。ああいう者もいるのだな……とレースへの認識を改めることになった。
「スティルさんの勝ちですね、おめでとうございます。あなたのことは現場に連れていけなくて申し訳ありません」
Kがトレーナーに頭を下げると、トレーナーの方も頭を下げた。
「いえ、私の方こそ入院を渋って申し訳ありませんでした。あの子はこんなにできる子なのに、不要な心配をしていたようです。俺が傍にいなくちゃいけないと思い込んでいました」
「そうですね、それもありますが……私としては、あなたは自分の体が壊れてもいいと思っているのが嫌だったんです」
「ああ、そんなことも言いましたね。褒められたことではないとわかってはいますが、ついどうしても」
「私は職業柄そのような方を何人も見てきましたが、医者の立場からはどうしても了承できません。私が尊敬する方も立派な医者でしたが、人を救うことを想うあまりに体を犠牲にし、命を大幅に縮めてしまいました……。自己犠牲は尊いですが、正しいとは限らない」
KはKAZUYAに思いを馳せた。KAZUYAは闘病中にもかかわらず、主治医であるKEIの指示を無視して体を酷使した結果、病状を著しく悪化させてしまった。彼は偉大な医者だったが、患者としては非常に悪いとも言える。
入院前は色々嫌がっていたトレーナーだったが、スティルインラブたちに説得されてからはすっかり考えを改めていた。
「先生たちのおかげで冷静になって、反省しました。俺にとって彼女が必要なように、彼女にとっても俺が必要なんです。だったら、俺は体を壊すことなんてしちゃいけませんよね」
さわやかに笑うトレーナーを見て、Kもフと笑った。
「そうですね。その気持ち、大切に持っていてください」
トレーナーの治療は順調に進んだ。
「ふむ、炎症は治まったようですね。水晶体の癒着もなく、緑内障や白内障も大丈夫。これならステロイドパルスは終了できます」
トレーナーは予定通り2週間後に退院。ここからは主に内服薬によるステロイド治療に切り替わり、通院しながらステロイドの量とペースを調整して半年以上続ける必要がある。途中でサボると症状が再発した挙句、回復力が低下し慢性化する危険があるので、必ずやるようにとかなり念押しをされた。トレーナー自身もサボるつもりはなかったが、何よりスティルインラブが献身的にサポートするつもりなのでそこに不安はない。
通院での治療も順調に進み、半年後の段階で投薬が終了することとなった。ただし原田病は完治というものはなく、完全に治まったと思っても数年越しに再発する場合もあるので、これからも定期検診をしていく必要がある。とはいえ一旦は治まったという判断をもらって一安心である。
痩せ細っていた体も通常の体重近くまで戻った。病状が治まって食欲がある程度戻ったことと、ステロイドの副作用である脂肪の増加がかえってプラスの効果になっていた。眼も綺麗な状態に戻り、かつては霞んでいた視界も澄み渡って気持ちも晴れやかだ。
ある夜、トレーナーとスティルインラブはトレーニングコースに出ていた。夜の方が調子がいいのは2人とも相変わらずだった。
「ジャパンカップ以来しばらくは緩めのトレーニングだけだったけど、そろそろ具体的な目標を決めていきたいな。だから今日は限界まで行こう。今のスティルがどれくらいやれるか見せてもらうよ」
「はい、わかりました」
トレーナーの指示通りスティルインラブがコースを走りだした。トレーナーはそれをいつ見ても綺麗な姿だと感じる。前は自分が壊れてもいいと思っていたが、今思うと実にバカげた話だと思う。こんなに美しいものを見る権利を捨ててしまうなど愚かの極み。気にかけてくれた人々や、治してくれた医者には感謝しかない。
「いけスティル!限界まで走れ!」
スティルインラブたちを見下ろす学園の屋上。
そこに同室のネオユニヴァースが現れた。彼女はトレーニングコースへ視線を向け、スティルインラブとそのトレーナーを見る。そこにあるのは元気そうなトレーナーと、嬉しそうなスティルインラブの姿。
「スティルインラブ。あなたは『しあわせ』を手に入れたんだね」
ネオユニヴァースは眼を閉じて手を空へ掲げる。彼女は集中すると、様々な『世界』を感じることができるのだ。
「"SDK"……。トレーナーに並ぶ、この世界にあるもう1つの『シンギュラリティ』。彼に関わった人は、辿るはずだった運命を変えることができる」
「でもスティルインラブは元々、1つ目の『シンギュラリティ』に出会って"ABSS"と違う道を進んでた。そして"SDK"に出会ってまた更に。道はどういうふうに変わったのかな?スティルインラブ……今あなたたちがいるのは"どこ"?」
同じころ。
アグネスタキオンは自分のトレーナーと一緒に、そのトレーナー室で紅茶を飲んでいた。トレーナーがふと外を見ると、スティルインラブたちがトレーニングしている姿を目にした。
「おっ、見てよタキオン。スティルさんが走ってる。トレーナーも元気そうにやってるよ」
「そうかい。それはよかったね」
トレーナーに話を振られたアグネスタキオンは、まったく興味なさそうに生返事をした。
アグネスタキオンは、スティルインラブのトレーナーのことを心配していた自分のトレーナーに頼まれ、Kへと取り次いであげたのだった。以前から経過は良好で治療も概ね終了していたことを知っているので、今トレーニングをしていることには何の興味もない。
「あいつ、前は本当に様子おかしかったから心配してたんだよな。タキオン、彼をK先生に取り次いでくれてありがとう。それにきっちり治してくれるなんてさすがはK先生だよ。体調が戻ったなら、心も平和な感じに戻ってくれたかな」
トレーナーがそう言うと、アグネスタキオンが紅茶を飲む手を止めた。
「トレーナーくん、今何かおかしなことを言わなかったかい?」
「えっ、俺何か言った?治ってよかったと言っただけだけど……」
アグネスタキオンは大きくため息をついた。
「はあ……君ってやつは私以外のことになると実にニブチンだねぇ。まあモルモットとしては優秀といえるが、些か心配になるよ」
アグネスタキオンはそう言うと、立ち上がってトレーナーに顔を近づけた。まつ毛が触れるほど近寄り、眼をじっと見つめる。
「ち、近いよタキオン……?」
トレーナーは急な行動に動揺し、少し頬を染めた。しかしアグネスタキオンはそれを意に介す様子はない。
「ああ、やはり君は変わらない。覚えているだろう?私が君に出会ったころに言った言葉。『君は狂った色の瞳をしている』と」
「ああ、覚えてる」
「彼も同じだよ。私はスティルくんのトレーナーの眼に……君に勝るとも劣らないほど、深い深い『狂った色』を見た」
「そうなのか……?」
「確かに彼の眼には病気があるだろうと思ったよ。体調も優れないらしいし、K先生に話をする意味があると思った。でもね、私がわざわざそんな親切をしたのは……我々と同じくらい狂っている彼らの姿を、もう少し長く眺めていたかったからさ」
アグネスタキオンはそう言って笑みを浮かべた。
「じゃあ体の方はともかく、言動がおかしかったのは……」
「治るわけないだろう、K先生でも手の施しようがないだろうね。なぜなら彼のそれは『病気』ではなく、『狂気』なのだから」
スティルインラブはトレーナーの指示通り走り、自身の限界値までの走りを見せた。肩で息をしながらトレーナーの元に戻り声をかける。
「はあ、はあ……。トレーナーさん、どうでしたか……?」
「うん、実によかったよ。しばらく強度が強いトレーニングをやってなかったけど、ジャパンカップの時よりも成長してるくらいだね。さすがスティルだ。さて今日の所は…」
トレーナーはスティルインラブの様子を見ると、明らかに限界を迎えているのがわかる。これ以上走らせても能力の確認には役立たないだろう。今日はこれで終了だな、と思った。
「じゃあ、スティル」
「 続 ケ ろ 」
笑いながらそう言った彼の眼は、夜に浮かぶように紅く輝いていた。
病気とは全く別の『何か』がそこにある。
病気が治り、綺麗に澄んだ瞳はかつてよりも紅く染まり。
靄が晴れた視界は、スティルインラブをより強く求める。
『それ』を見たスティルインラブも瞳が紅く輝き、恍惚の表情を浮かべた。
「ああ……トレーナーさん……」
「愛しています……♡」
スティルインラブは再び走り出した。体力はほぼ底をついているが、トレーナーの望みだから断る気はない。最初はフラフラとしていたが徐々にペースを上げ始める。トレーナーにアテられて、本能の領域が強く目を覚ます。
「あはッ……あはハハッ……見て……
本能を剥き出しにし、声も姿も憚らない醜い姿。スティルインラブがあれほど嫌っていたその姿も、今となっては彼に愛されるために必要な愛しいものになった。
「スティル。なんと醜く……そして美しい姿だろう……。その姿を、俺にずっと見せてくれ……。 ずっと…ずっとずっと……ずっとずっとずッとずっトずっとずっとズットズットズットズットズットズットズットズット
病気が治まり考えが変わっても、心の根底にあるものは何も変わらない。
スティルインラブとトレーナー。2人は深い愛で繋がって交わり続けた結果、離れることを拒み、離れることができなくなった。
それでも以前の2人は自分たちの歩むこの道が、危険で破滅的なものであることは理解していた。止まることはできなかったが、止まった方がいいとは思っていたから歩みはゆっくりだった。『病気』という不純物のおかげで。だがその不純物がKたちの治療によって取り除かれた今、2人の邪魔をするものは存在しなくなった。そこにあるのは純粋な『愛』だけだ。
トレーナーの喜びは、スティルインラブの本能のままの走り。
スティルインラブの喜びは、本能のままの走りとトレーナーの喜び。
自分の望みが相手の望み、己が喜ぶことで相手も喜んでくれる。
真っ赤な愛に堕ちていく。どこまでも、どこまでも。
トレーナーとスティルインラブ、2人の思いは1つ。
いまでも。そして……
いつまでも――愛してる。
今夜は雲一つない快晴の夜空だった。だが夜空を彩る、煌めく星々の姿は見えない。ただ一つが……小さな星々の全てを塗りつぶすように、ひときわ大きく輝く紅い満月が2人を照らしていた。