スプリンターズステークスの出走申し込みの締め切りが近づいたある日。
その出走に関して、ケイエスミラクルとトレーナーは大きく揉めていた。
ケイエスミラクルは絶対に出走すると強固に主張しているが、トレーナーの判断はNGだったからだ。トレーナーはもちろん出走させてやりたかったのだが、身体の状態を考えると許可することはできなかった。オーバーワークを続け、身体は痩せ細り、精神的にも追い詰められている状態の彼女を出走させるのはあまりにも危険すぎた。
だがトレーナーがいくら説得してもケイエスミラクルは了承しようとしない。普段なら一にも二にも他者のことを優先し、トレーナーの指示を拒否することなど無いケイエスミラクルだったが、この件に関しては頑なだった。
「……これは全部、おれのせいです。何が起こったとしてもトレーナーさんのせいじゃありません。だから出走申し込みの書類、出してきます……!」
ケイエスミラクルはどれだけ話しても出走を了承しないトレーナーに業を煮やし、机に置いてある申込書を手に取った。
元々は出走する予定だったため、書類にはトレーナーのサインも済んでいる。提出さえすれば申し込みは完了できる状態だ。それが誰の意思に反していたとしても。
「やめろ、ミラクル!!」
トレーナーはケイエスミラクルの体にしがみついた。もし出走しようものなら最後、彼女の体は壊れるだろう。それもおそらく、致命的に。
それはトレーナーだけでなく、ケイエスミラクル自身も確信めいたものを感じていた共通認識だった。そんな状態の彼女を行かせるわけにはいかないと、トレーナーは必死にしがみつく。
「離してください、トレーナーさん!おれは行かなくちゃ、走らなくちゃ!!」
「だめだ!!絶対に離さない!!」
ケイエスミラクルはしがみつくトレーナーを引きずりながら歩を進める。トレーナーは何とか止めようとして、引っ張ったり押しとどめたりをした。
しかしウマ娘と人間では身体能力に差がありすぎるため、本来その程度で止めることはできない。だがケイエスミラクルはトレーナーの気持ちを分かっているから、トレーナーのことが大切だから、力ずくで引きはがそうとはしてこなかった。トレーナーのことを傷つける可能性があるようなことは行いたくないと思っているからだ。
それでも、しばらくそのやりとりを続けていると。トレーナーはケイエスミラクルを押していた時、まったく動かない彼女に力負けした際に足を滑らせてしまった。
「おわっ……」
「あ!!危ないトレーナーさん!!」
転倒するトレーナーを庇い、ケイエスミラクルが身を呈して抱き留める。それによって2人は抱き合うように転がった。
「ぐおっ!!痛っ……!」
「いてて……大丈夫ですかトレーナーさん……!?」
「ご、ごめんな、ありがとう……。軽く膝をぶつけただけだ。ミラクルこそ大丈夫か!?頭ぶつけてなかったか!?」
「いえ、おれも軽くぶつけただけなので大丈夫です。でも……ごめんなさい。トレーナーさんのことを危ない目に……」
「いや、俺がもっとちゃんとしていれば……ごめん……」
ケイエスミラクルはこの状態でも自分に謝ってくるトレーナーの姿を見る。
状況からして、誰がどう考えても悪いのは自分の方だろうに。
それなのに自分を責めることなどしない。トレーナーはなんて優しいんだろう、と思った。だが今はその優しさが逆につらい。
2人は床に倒れたまま起き上がろうとはしなかった。そのままどちらも何も言いだすこともなかった。
しばらくの沈黙ののち、ようやくケイエスミラクルが小さく口を開く。
「……本当に。本当に、だめ、ですか?」
涙を浮かべ、縋るような表情でそう言った。
トレーナーもケイエスミラクルの気持ちは理解はできる。だが、何と言われようと答えは一つだった。
「ああ。だめだ」
「っ……。わかり、ました……。」
ケイエスミラクルは絞り出すような声でそう言い、震える手で申込書をトレーナーに返した。
そして顔を伏せたまま立ち上がり、トレーナー室から外に出て行った。
ダイイチルビーがスプリンターズステークスへ向けたトレーニングを終えて歩いていた。
彼女はケイエスミラクルのルームメイトである。
「ただいま戻りました。……あら」
ダイイチルビーが自室に戻ると、ルームメイトのベッドの上に大きな団子ができているのが目に入った。それは布団が包まった団子だ。中身の餡はもちろんケイエスミラクルだろう。
ダイイチルビーは「話しかけない方がいいだろうか」とも考えたが声をかけることにした。
「ミラクルさん、気分が優れないのですか?」
「…………」
ダイイチルビーが声をかけてもケイエスミラクルからの返答はない。
寝ているわけではないことは、その団子が微かに震えていることから判断できる。起きているのに返答しないなら今は話をしたくないのだろうと思い自分の机に戻った。
それからしばらく経ったころ、布団がもぞもぞと動いて中からケイエスミラクルが這い出してきた。なるべく顔を整えたのだろうが、少し前まで泣きはらしていたであろうことは一目でわかる。
「ごめんルビー、声をかけてくれたのに無視しちゃって……。聞こえていたんだけど、ちょっと……話せる状態じゃなかったから」
「いえ、お気になさらず。気分が優れないなら無理はなさらないでください」
「うん……でも、気分が良くないのは体調不良ってわけじゃなくて。まあそれが原因なんだけど……」
ケイエスミラクルは少し言い淀んでから、静かに話した。
「おれ、スプリンターズステークスは出ないことにしたんだ。この頃体の調子が良くなくって。
だからごめん……ルビーと勝負、できなくなっちゃった」
それを聞いたダイイチルビーは悲しそうな顔をしたが驚きはなかった。
同室というのもあり、ケイエスミラクルの体調がどのような状況なのかはある程度把握している。なので出走するつもりであったことに対して心配があったくらいである。
そういう点ではむしろ一安心でもあるのだが、そういった雰囲気はおくびにも出さないようにできるのがダイイチルビーだ。
「それは……ご愁傷様です。わたくしもミラクルさんと走れることを楽しみにしておりましたので残念です。今はゆっくりと療養して、また次の機会を待ちましょう」
「うん……『次』があればね。ルビーの活躍、楽しみにしてる」
そう言ったケイエスミラクルの顔は、張り付けただけの仮初の笑顔だった。
ダイイチルビーも、ケイエスミラクルがスプリンターズステークスに対してどれほど強い思い入れがあったのかはある程度把握している。それゆえに演技であろうとも笑顔を見せてくることが少し悲しかった。
それからというもの、ダイイチルビーの目からみるとケイエスミラクルから精気といえるものが消失したように感じた。
かつては──危うさを感じる方面とはいえ──とても強い意志を持ってレースに臨んでいたケイエスミラクル。日々のトレーニングも自己を燃やし尽くすほどの情熱を感じたものだ。しかし今は見る影もなくなり、冷え切った心を表すように表情は常に沈んだままだった。
心配な気持ちはあるものの、自分はスプリンターズステークスを控えており、今は最終調整の段階だ。
とても人のことを気にかける余裕はない。レースが済んだあとでも同じようなら、何かしらをしてあげたいと考えた。
そしてさらに数日が経ち、スプリンターズステークス当日。
出走ができなくなったケイエスミラクルは学園に残り、トレーナーと共にレースの中継を見ることにした。
トレーナーはケイエスミラクルのことを心配して声をかけた。
「大丈夫か?見ているのはつらいんじゃないか……?」
「いえ……。せめて、見届けたいんです」
「そうか……」
トレーナーはそれ以上何も言わなかった。
ケイエスミラクルはレースを見ながら考える。
おれが出ていたら、ここではこう走る。
おれが出ていたら、ここでこう仕掛ける。
おれが出ていたら、ここでスパートをかける。
……おれが出ていたら、きっとおれが勝っていたのに。
レースは前評判通りにダイイチルビーの勝利で終わった。
ケイエスミラクルにとって大切なルームメイトであり、大切な友人である者の勝利。本来は祝福するべきことだったが、出られなかった悔しさを抑えるのに精いっぱいで、形だけの賞賛すら声に出せなかった。
トレーナーはその様子を横目で見ながら、あまり刺激しないような言葉を考える。
「さすがルビー、見事な走りだったね。でもミラクルだって負けてないよ。体を治したら、また挑戦しような」
トレーナーが声をかけると、ケイエスミラクルは苦しそうな表情のまま立ち上がった。
「一緒に見てくれてありがとうございました。おれ、部屋に戻ります」
「ミラクル……大丈夫か?」
「大丈夫ですっ……。すみません、少し1人にしてください」
ケイエスミラクルはそう言ってトレーナー室から出て行った。
トレーナーとしてもどう接したらいいのかわからずそのまま見送るしかなかった。
ケイエスミラクルは早足で歩きながら考える。
さっきのレースはすごかった。元々スプリンターズステークスでは、そこに出走するルビーを超えることが目標だった。
やっぱりルビーはすごい。綺麗な走りで、誇りを背負って、ちゃんと勝利して。本当にすごい、さすがだと思う。
なのに、今のおれは?
今のおれにはルビーを祝福する気持ちがほとんど湧いてこない。
おれが出ていればとばかり考えて、賞賛の気持ちよりもむしろ妬ましい気持ちが湧いてくる。
それにトレーナーさんのこともだ。
トレーナーさんはおれのことを考えて、おれが無理に出走しようとしたのを頑張って止めてくれたのに。
いつもおれのことを一番に考えてくれる、とても優しい人なのに、それなのに。
感謝の気持ちよりずっとずっと、恨めしい気持ちばかりが湧いてくる!
トレーナーさんと一緒にいると、その汚い気持ちを知られてしまうかもしれない。
それにトレーナーさんに対してそんな理不尽な気持ちを抱いてしまう自分のことも苦痛に感じる。
そう思うと、とても一緒の部屋にいる気持ちにならなかった。
しばらくしたら部屋に戻ってくるであろうルビーに対してもきっと同じだ。
せめて今日だけは、ルビーの顔を見ないようにしよう。
明日の朝になったら、きっと「おめでとう」って言えると思うから。そうできるように頑張るから……。
おれに奇跡をくれたみんなに恩返しもできず。
おれを支えてくれた人に感謝もできず。
おれが目標にしていた子に賞賛の言葉も送れなくて。
こんな自分が嫌になる……。
その日の晩になり、ウイニングライブなど諸々を終えたダイイチルビーが寮へと戻ってきた。
外から部屋の窓を見てもわかったが、自室は真っ暗であり既にケイエスミラクルは就寝している。
普段なら間違いなくずっと起きていて労いの言葉をかけてくるはずだが、それができないくらい気持ちの整理がついていないのだろう。
ダイイチルビーも彼女にかける言葉が見つからないので何も言わず、なるべく音をたてないように身支度を整えて床についた。
それからもずっとケイエスミラクルの状況は芳しくなかった。
いつも暗く沈んでいて意欲をまるで感じない。療養もあまり上手くいっておらず、そのせいか周囲から見ても機嫌がよくないように見える。
足の調子はむしろ悪化しており、近頃は少し歩きづらそうな様子が散見された。
ダイイチルビーはルームメイトとしてその姿を見続けていたため、心配する気持ちもどんどん大きくなっていった。
スプリンターズステークスがダメになってもまた次がある、そう思っていたのに。
この様子では「次」が存在しない可能性もあり得るだろう。
「ミラクルさん……大変お労しい。可能なら、わたくしも力になってあげたいところです」
ダイイチルビーはまずケイエスミラクルのトレーナーの所へ赴き、話をすることにした。
「お時間を取っていただきありがとう存じます」
「いや、こちらこそ。ミラクルの寮での様子とかを聞きたかったから丁度よかった」
「そちらについてなるべくお話ししようと思っております。
まずお聞きいたしますが、トレーナーであるあなたの目から見て、ミラクルさんの様子についてどう判断していますか?」
「そうだね、やはり覇気がない。トレーニングはしばらく休みだと指示してあるけど、前のミラクルならそれにもどかしさを感じていた。
だが……今は違う。トレーニングをしないことに焦燥や不満などを感じているようには思えないし、かといって体を治すために受け入れているふうでもない。やる気を全て失ってしまったように見える」
「概ね同意します。ただわたくしが見ている限りですと、もう少し踏み込んだ状態……ミラクルさんは、軽い
「うつ?言われてみると確かにその節もあるかもな……」
「いかに気力が衰えようとも、ミラクルさんはトレーナーである貴方の前ではなるべく平静を取り繕うとしているのではないかと思います。それはわたくしの前でも同様ですが、同室ですので時折、ミラクルさんの素の様子を垣間見ることができます。
部屋ではいつもぼうっとしてりますし、床に就いている時間も以前より大幅に長くなりました。うつではそのような症状が出ることがあると聞いております」
「そうだったのか。俺と一緒にいる時は好きな絵本とかを読んでいたけど、部屋ではそんな様子なんだな。
俺も少し思ってたんだけど、体を使うトレーニングはできないが、賢さトレーニングだったらできるはず。それすらやらないのは不思議だったんだが、うつということなら無理はないか」
「トレーナーであるあなたなら詳しくご存じでしょうが、ミラクルさんがスプリンターズステークスにかけていた強い思いはわたくしもある程度存じています。
それが出走することすらかなわなかったのですから、ショックのほどはお察しするに余ることです。うつになってしまっても不思議ではないと思います。
とはいえ今は推測にすぎません。単に気分が沈んでいるだけかもしれません。それを調べるため、またその点や彼女の脚を治すことについても、力を貸して下さるお医者様について少々考えがございます。
差し出がましいことで恐縮ですが、わたくしに任せていただけませんか」
ダイイチルビーがそう言って深く礼をすると、トレーナーもつられて頭を下げた。
「こちらこそお願いするよ。俺や主治医さんでは改善できてないからね。
別なアプローチを試したかったところだから、ぜひよろしく」
「承知いたしました。それでは進展がありましたらご連絡いたします」
ダイイチルビーはケイエスミラクルのトレーナーと別れるとすぐに、お付きの者へと連絡をした。
「執事。以前頼んでいた件をよろしくお願いいたします。
会いに行きましょう──『あの方』に」
Kが診療所で作業をしていると、外に車が止まった。それは田舎であるT村には似つかわしくない高級車である。
富永はその車を見て、道の悪いこの診療所までよくこれで来たものだと思った。
「K先生、なんか高そうな車が来ましたよ。誰ですかね」
「ああ、それはおそらくダイイチルビーだ。相談事があるから今日ここに来ると連絡があってな」
Kが真顔でそう言うと、富永と麻上が不満そうに声を出した。
「ええ!?もっと早く言ってくださいよ!往診の時間じゃなくてよかった!」
「私も休みの日じゃなくてよかったわ……!」
Kはウマ娘のアイドル的な領域にはさしたる魅力を感じていないので、いかに有名なウマ娘であろうと単なる患者の1人に過ぎない。
そこはウマ娘が大好きな富永や麻上とは大きく異なる点である。話を受けたのが富永だったら間違いなく麻上にも話しておいたことだろう。
とはいえ富永たちも浮かれているわけではない。すぐに医者の顔に戻ってKに尋ねた。
「それで相談事って何です?先日はスプリンターズステークスを見事に走り切りましたが……それが原因で故障が起きたとか?」
「いや、俺も詳しくは聞いていないのだ。直接話したいということなのでな。ただ、自分の体に関する相談ではないと言っていたな」
「そうですか、じゃあ患者として来院されたわけではないんですね。ちょっと安心です」
「ルビーさんは前に蜂窩織炎で休養したことがありましたものね。再発とかではなくてよかったわ」
富永と麻上は少しほっとした表情になった。
ダイイチルビーは診療所に入るとKたちの顔を見回した後で、うやうやしく一礼をした。
「初めまして、ダイイチルビーと申します。本日はお時間を取っていただき、大変ありがたく存じます」
「Kです、お待ちしておりました。本日はどのようなご相談ですか?」
ダイイチルビーはKと名乗る男の顔を見たときに一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、それには他の誰も気づくことはなかった。
「相談したいことはわたくしの友人に関してです。先生はケイエスミラクルというウマ娘をご存じでしょうか」
ケイエスミラクルについて、Kも名前自体は知っているが詳しくは知らなかった。
一方で富永と麻上はすぐに状況にピンときた。
「ケイエスミラクルさんですね。K先生、先日のスプリンターズステークスを脚部不安のため回避したトレセンのウマ娘です」
「そうか、そういえばニュースにもなっていたな。ルビーさんはその件で来たのですか?」
「はい。現在も彼女の脚部不安は解消されておらず、今後の生活に懸念がございます。
ただ、それももちろん問題なのですが……どうやら精神面に問題が生じてるようなのです」
ダイイチルビーは、ケイエスミラクルの状況についてかいつまんで説明した。
本人から治療への気力を感じないため今回は一緒に連れては来なかった。
脚部不安は休養しても解消されず、むしろ悪化している傾向にある。
そしてうつのような状態を頻繁に確認することが特に大きな不安である、と。
「ふむ。脚については直接診てみないと何ともいえませんが、精神的な方は問題がありそうですね。
気力がなくなる、睡眠時間が大幅に伸びたり減ったりする、いつもイライラしている、そういった症状はうつ状態では典型的なもので、実際にうつ病になっている可能性はあります」
「うつについては詳しくは存じ上げませんが、精神的なストレスが大きく関わると聞きます。
彼女の場合は体が治ること、それが特に重要だとトレーナーも判断しております。
先生に診断していただいて、具体的な治療が可能ならお願いしたいですし、長期のリハビリであっても治る余地があるのなら伝えていただきたいのです。
もちろん希望を持たせるために、可能性が乏しいのに噓をつけとは申しません。脚が治る見込みがないのならば、はっきりとそう伝えた方が別の道へ進む契機になるかもしれませんから。
とはいえうつ状態ではそれを悪化させることになるかもしれませんので判断はお任せしますが」
「いいでしょう。次の土曜日は東京に行く仕事があります。翌日の日曜日に伺えますが……例えば朝10時ごろの予定はどうでしょうか?」
「現在はトレーニングも休止中ですし問題はないと思います。とはいえわたくしの一存では決められませんので、少々確認させてください」
ダイイチルビーはそう言うと、席を離れてケイエスミラクルのトレーナーへと電話をかけた。
トレーナーは快諾し、ケイエスミラクルに対しては自分から連絡しておくと言っていた。
ダイイチルビーは電話を切り、元の席へと戻る。
「お待たせいたしました。彼女のトレーナーさんに相談したところ是非お願いしたいとのことでした。
先生にはわたくしとトレーナーさんの連絡先をお伝えしておきますので、何か連絡がございましたらよろしくお願いいたします」
「わかりました。では次の日曜日に診てみましょう」
Kはそう言って予定を手帳にメモした。
ダイイチルビーはその姿を眺め、メモが終わったタイミングで小さく咳払いをした。
「K先生。実はあなたに謝らなくてはならないことがございます。
それは、わたくしがここに直接伺ったのは少々不躾な理由があったからです」
ダイイチルビーが頭を下げながら言った言葉に、Kは不思議そうに答えた。
「不躾な理由……ですか?それはどのような?」
「今回の相談は電話でも済む内容です。もちろん大変なお手間をかけていただくことですから直接伺うのが礼儀であるとは存じますが……それだけではなく、
わたくしは貴方の姿を見たかったのです。わたくしの友人の人生に関わることですので、それを託すに値する人物なのかを自分の目で確かめたいと思いました」
「そうでしたか。医者は時に患者の人生を、そしてその命そのものに関わる存在です。
信頼できるかを確認することは当然のことだと思いますよ。気にしないでください」
「ありがとう存じます。ただ……それもある種の建前なのです。貴方が信頼できるお医者様であることは、ドクターKとして活動なさっていることから理解していました。
真に重要な理由は……わたくしは『ドクターK』ではなく『貴方』に会うことが目的でした」
「私に、ですか?」
「はい。わたくしは幼少期のころ、ドクターKに治療をしていただいた経験がございます。
ですがそれは
ダイイチルビーの言葉を聞いてKが気づいた。
「そうかルビーさん、あなたは……」
「そうです。わたくしは貴方の前任者である『西城KAZUYA』先生に治療していただいたのです」
そうしてダイイチルビーは過去の経験を語り始めた。
わたくしダイイチルビーは『華麗なる一族』の末裔としてこの世に生を受けました。
わたくしがウマ娘であることもあり、一族の者たちもレース界での活躍に大きな期待を寄せていたことでしょう。
しかしそれはあえなく潰えます。それはわたくしの脚が生まれつき形が悪かったからです。
誕生時点でレースを走るのは不可能だろうと宣告され、一族の皆様はさぞ落胆したことと思われます。
そのような事情であれば当然のことですが、周囲の方々は初めから走らせることを諦めていたようです。レース以外にも様々な道があります。一つの道が立ち行かないのなら、別の道を行けばよい話ですから。
ですが当のわたくしは、「華麗なる一族のウマ娘として生まれた以上、レースを走ることが我が使命である」。その気持ちだけが強くあったために走ることを熱望しておりました。
一方で走ることが不可能だという現実を徐々に理解し、絶望に近い感情を抱くようになりました。
そんな姿を見ていた両親はわたくしの思いを尊重してくださり、脚を治すためにさまざまな伝手からお医者様を探していただき、そこで出会ったのが西城先生でした。
西城先生はその見事な腕で、不可能と思われたわたくしの脚を治してくださいました。
走れるようになったその時の嬉しさは、幼心にも強く刻まれております。
その後のわたくしは華麗なる一族の淑女として無事に成長していきました。
そして年齢を重ねて世を知るにつれ、わたくしの脚を治していただいたということが、どれほど有難いことであるかを自覚するようになりました。
わたくし自身はもちろん、一族にとっても状況を大きく変えてくださった出来事であり感謝のしようもないほどです。
幼かったため仕方ないことではありますが、わたくしからはきちんとしたお礼を差し上げられなかったことが心残りになりました。
そこでわたくしはトレセン学園に入学することが決まったことを契機に、西城先生に再度お礼をしようと考えて居場所を調べました。
ですがそこで知ったのは驚愕の事実……西城先生が亡くなっていたというものでした。まだお若い方でしたのに、とても残念に思います。
西城先生、すなわちドクターKが亡くなったことを知ってから少し経った頃です。『ドクターKが再び現れた』という知らせを聞いたのは。
その時に初めて知りました、ドクターKという名は継がれていくものだったのですね。
貴方は実力も西城先生と遜色ないということを聞いて偽物ではないと安心し、何かあったら頼らせていただこうと考えておりました。
トレセン学園でも何度かご活躍なさっていると聞き及んでおります。
幸いにもわたくしに起こった問題は以前罹患した蜂窩織炎のみで、そちらはわたくしの主治医に治療していただけたので、ドクターKに頼ることはなくここまで過ごしてきました。
それに貴方と会うことが少し嫌でした。ドクターKが西城先生ではないことを目の当たりにするのが、西城先生の死を強く意識することであると感じたからです。
しかし今、わたくしの大切な友人が苦しんでいます。自らが想う使命を成し遂げられず道が途絶える、かつてわたくしが味わったものと同じような絶望です。
わたくしも、彼女のトレーナーさんも、彼女の主治医も上手くいっておりません。ですがドクターKならば治していただけるかもしれない。
そう考え、わたくしの心の整理を込めて貴方に会うことを決心したのです。
「……そのような次第です。貴方を見て、西城先生ではないことを確認し、気持ちに整理をつけるため。
わたくしがこちらへ赴いたのは主にそういった理由でした。先生、貴方を見極めたいわけでも、貴方に会いたかったわけでもありません。非礼をお詫びいたします」
ダイイチルビーはそう言って、また深々と頭を下げた。
「いえ、気になさらないでください。KAZUYAさんの死は早すぎましたからね……。
そうだ。ルビーさんはKAZUYAさんから数字入りのメスを受け取ったりしていませんか?」
「メス……といいますと、医療用のでしょうか?いいえ、そういったものは頂戴しておりません」
「そうですか、それなら本当にきちんと治ったのですね。KAZUYAさんも貴方の活躍を見たら喜ぶことでしょう。
私も後任のドクターKとして最大限の努力をしますのでお任せください。
ただ……まだ患者を何も見ていないので保証はできかねますが」
「よろしくお願いいたします。先程述べたように嘘をつけとは申しません。先生の判断で適切と思われることをなさってください」
ダイイチルビーはKとの話がまとまったので帰宅をしようとした。
それを待っていた富永と麻上は、各々が色紙を持ってダイイチルビーへ近づく。
「あのォ~……ルビーさんのサインをいただけないでしょうか?僕たちファンでして」
「そうでしたか、ありがとう存じます。もちろん構いません。おふたりのお名前を伺えますでしょうか」
「僕が富永、彼女は麻上です」
「承知いたしました」
ダイイチルビーはすぐに達筆のサインを書いてくれた。華麗なる一族だけあってファンサービスも一流である。
「書けました。これからも応援のほどよろしくお願いいたします。先生はいかがなさいますか?」
「ありがたい申し出ですが、私は大丈夫です」
「承知いたしました。…………。」
大喜びする富永と麻上と違い、Kは淡白な反応だった。
ダイイチルビーも基本的に淡白なタイプだが、あのドクターKが自分に興味なさそうなことを感じ取ると、なんとなく心がモヤモヤしたのだった。