この帝都大学付属病院には耳鼻咽喉科も設置されている。
そこへ身を置く戸倉教授は耳鼻咽喉科の長として、日々の業務に明け暮れている。
「耳鼻咽喉科の戸倉と申します。
お待ちしておりました、マチカネタンホイザさん。もう準備はできていますよ」
戸倉は患者であるマチカネタンホイザらには柔和な対応をする。
その一方でKらには鋭い眼光を飛ばし、
(Kとその後継者が雁首をそろえて登場とは実に豪華なものだ。
確かに素晴らしい医者だが、私の専門では負けるつもりはないぞ…!)
バチバチにライバル意識を持っていた。
【戸倉信茂】
帝都大学に勤める耳鼻咽喉科の教授。
大垣とはライバル意識があり、会うたび喧嘩や嫌味を言い合う仲だが、
本心ではお互いに相手を認めているので関係自体は良好である。
自信家で名医を自称しているが、それに違わぬ確かな実力も持ち合わせている。
最近は一般ヒトとウマ娘の聴覚器官の相違について研究中。
「お願いします戸倉先生。先ほどの聴取では、
鼻血を出すことが多いことや関節の違和感、
肌荒れ、頭痛、胸鎖乳突筋の付け根の痛みなども確認できました」
「うむ、それならば間違いはあるまい」
「あ、あのー。耳鼻科に来たのは、私がいつも鼻血ブーしてるからですか?」
「いえ、この検査は鼻血の問題とは異なります。検査自体はすぐ済みますので…」
戸倉はファイバースコープと呼ばれる、先端にカメラのついた細い管を取り出した。
「これをマチカネタンホイザさんの鼻に入れて確認します。
少々苦しいですが、我慢してくださいね」
そう言ってためらいなく管を鼻に突っ込んでいく。
「ゔえ゙え゙!な゙んか変な感じがじまず~!」
「うん、やはりここか、しかし随分悪くなってますな。
映像を見てください、ここは鼻の奥、上咽頭と呼ばれる部位です。
ここが激しい炎症を起こしています」
戸倉に続けてKが言う。
「これは急性上咽頭炎…ですが、長期間続いているために慢性化していますね」
「ぶえ゙え…わだじの鼻の奥、ごうな゙ってたんですね゙ぇ…」
「上咽頭炎…鼻の奥の炎症がタンホイザさんの不調と関係があるのですか?」
今一つ状況を理解できない南坂が質問をする。
「意外に思うかもしれませんが、上咽頭という所は体全体に影響を及ぼす部位なのです。
鼻や喉の奥というのは呼吸をする際に必ず空気に触れる部位。
すなわち空気中にある細菌やウイルスと常に戦う、免疫装置の最前線…
それはつまり、非常に炎症が起きやすい部位でもあります」
「マチカネタンホイザさんの不調。肌荒れ、眠りが浅い、頭痛がする、関節の違和感…
この辺りはいずれも自己免疫システムの異常から発生することがあります。
そしてその異常にかかわる部位の一つが上咽頭なのです」
【上咽頭炎】
喉は一般に上・中・下咽頭の3つに分類される。
そのうち上咽頭は鼻咽腔とも言われ、鼻の一番奥、鼻と咽頭との境界部分を指す。
呼吸で取り入れた空気は必ず上咽頭を通過するため常に外気と接する部位でもある。
外気中の細菌をはじめとした様々な原因で炎症を起こし、多彩な全身症状が出る。
しかし上咽頭の不調を自覚し説明できる患者は少なく、
症状も多岐にわたるため診断が困難で、慢性化することも多い。
急性上咽頭炎は主に細菌やウイルス感染から、
慢性上咽頭炎は主に疲労やストレスなどの免疫力の低下から引き起こされる。
症状としては喉や目、鼻などの痛み、頭痛や関節痛、首や肩のコリ、後鼻漏、
倦怠感やめまい、睡眠障害、集中力の低下、下痢、掌蹠嚢疱症、乾癬、湿疹など。
非常に種類が多いため症状から原因に結び付きにくい。
「話を聞いたところ、マチカネタンホイザさんは鼻血を出すことが多いそうですね。
原因そのものは鼻への衝撃など、物理的なものが殆どだそうなので病気の心配はないでしょうが…
鼻血から誘発される疾患というものもあり、今回の上咽頭炎がその一つです。
一口に鼻血と言っても、出血部位に大きく分けて3種類あります。
一つ目は鼻孔…鼻の穴から1.5cmほどの浅い位置にある、
キーゼルバッハ部位と呼ばれる毛細血管の集まった場所。
一般的に鼻血の9割以上はここからの出血です」
(ビコー…鼻の穴…)
ビコーペガサスを思い浮かべたマチカネタンホイザ。
彼女はヒーローを目指すかわいい子である。
「残りは鼻中隔という鼻の中ほどにある部位、
それと蝶口蓋動脈という鼻の最後方。上咽頭部にある所ですね。
特に蝶口蓋動脈は太い血管であるため、出血した際には血の量が多く、
止まりにくいことが多いのです。
マチカネタンホイザさん、そのような鼻血の経験がありますね?」
「あー、ありましたねぇ。けっこう前でしたけど。
あの時はもう、鼻どころか口からも血がブシャーってなって、まさに出血大サービス!
全然止まらないから校医さんに止血してもらったんですよね。
あの時は血がバケツ一杯分になったって、鼻血の神様まで出てきて…」
「「「神様…?」」」
怪訝な表情をする周囲。
「あっ、いえいえ何でもありません!
そうですか、あれはその…ナントカ動脈が傷ついちゃったんですね」
「そうでしょうね。そしてその時の傷から空気中の細菌などが入り込み炎症を引き起こした。
炎症と言っても具体的に苦しみを覚えるようなものではないので、
あなたも上咽頭炎とは気づかずに過ごしてしまったのでしょう。
なのであなたの不調はそこからくるものです。
治療をすれば劇的に体調は良くなるでしょう」
「わ、そうなんだ…!それじゃあ…それじゃ…」
マチカネタンホイザは一瞬目を輝かせたが、また暗い表情に戻った。
「でも…私、みんなの期待を裏切っちゃったんですよね。
せっかく期待をしていただけるようなウマ娘になれたのに、みんなガッカリしてます。
それにお話を聞いた限りでは、私がもっと早くから調べてもらっていれば、
こんなことになってなかったんですよね?
気合が足りないーとか素人判断して、余計なことしちゃったおバカさんなんです。
主人公になりたいなって思ってましたけど、やっぱり脇役の器なんですねぇ…」
また落ち込み始めたマチカネタンホイザに、ナイスネイチャが声をかける。
「はー、まったくタンホイザは。
アンタ、いつもほわほわして元気もりもりなのにヘコみすぎでしょ。
ちょっとこれ見てみ?アンタが倒れて出走取り消しになった後のSNS」
『大丈夫、次こそ待ちかねた勝利があるはずです!』
『マチカネタンホイザがいなくて残念!体を治して、次のレースで頑張ってほしい!』
『次のレースでは絶対に1着だから!また観に行くから、頑張ってね!』
『タンホイザが早く元気になりますように!』
『マチタンの復活を期待してるぞ!頑張れ!』
ナイスネイチャがスマホを差し出すと、
そこにはマチカネタンホイザに向けたたくさんの応援メッセージがあった。
「わあ、こんなに…」
「タンホイザは脇役なんかじゃないよ。
カッコいい主人公だって、みんな応援してるじゃん」
そこに一也も声をかける。
「マチカネタンホイザさんは、自分のことを平凡だけど頑張ってるって言ってましたよね。
僕の先輩も同じようなことを言ってまして、
だからか凄くマチカネタンホイザさんのことを応援してるみたいです。
負けても挫けず立ち上がる姿は僕も見習ってます。
それにほら、倒れてまた立ち上がる、それってすごく主人公みたいですよ!」
「そっかあ…主人公っぽいかあ…」
こんなことになってしまったのに自分を応援してくれる人がいる。
マチカネタンホイザがそう思った時、心の中が温かくなるのを感じた。
「えへ、なんか元気出たかも。
ネイチャも一也くんも、優しくてかっこいいね。2人とも主人公みたい。」
「あ、アタシはそんな主人公なんて…」
「ぼ、僕はそんな主人公なんて…」
思いがけない言葉に照れる二人だった。
「私、やるよ!諦めない、やってみる…!次こそ絶対に勝って見せる!」
迷いが晴れた表情のマチカネタンホイザ。次こそは勝つ、じゃあ次のレースは…
「あの、戸倉先生。治療をしたらどのくらいで回復できますか?」
「そうですね。上咽頭炎の治療は抗生物質の投与と薬品の塗布で行いますが、
かなり効果が高いのでウマ娘の回復力ならば1週間もすれば不調はほとんど収まるでしょう。
完治そのものは10週間ほどを見ていただければよいかと思います」
「1週間!すぐ収まるんですね。そっか、それなら…」
マチカネタンホイザは少しだけ考え、そして。
「私、決めました、トレーナー、ネイチャ。私は次のレース、有馬記念に出る!」
「タンホイザさん、その気なんですね?」
南坂は元気を取り戻したマチカネタンホイザを優しく見つめる。
「うん!パーマーさんとかチケットさんとかライスさんとか、
そうそうたるメンバーが出ますけど…私、勝ちたいです!
そしてネイチャへ主人公勝負を申し込むよ!私かネイチャか、はたまた他の誰かか。
どの主人公が一番強いのか、勝負だ!」
「うぇっ、アタシは主人公なんて…!
いや…アンタを励ましといてアタシが自分を否定してたらダサいよね。
あーもう、わかりました!やったろうじゃん!アタシだって主人公を目指してんだからね!
有馬ではアタシが勝ーつ!!」
「望むところだよっ!」
熱く燃え上がるマチカネタンホイザとナイスネイチャを前に、
いたって冷静な戸倉が割って入った。
「盛り上がっているところ申し訳ありませんが、院内ではお静かに…」
「「ご、ごめんなさい…!」」
「まあそれだけ元気が出たのならよいでしょう、では早速治療の方を始めます。
これから行うのはBスポット療法というものです。
塩化亜鉛という消炎剤を患部に塗布する、これだけです」
「へえ、意外と単純な。おや、Bってことは他にもAとかCがあるんですか?」
「いえ、ありません。このBは鼻咽腔(BI IN KU)の頭文字なんです。
和製英語と言いますか、日本独自の治療法でしてね。海外では未だ広まってませんし…
近ごろでは日本でも行われることが少なくなりました…全く嘆かわしい!」
少し興奮した戸倉だったが、軽く咳払いをしてすぐに収めた。
「失礼、少々興奮してしまいました。
では綿棒で鼻側と口側の両方から塗っていきますね。
ちょっと苦しいですし、炎症がひどい場合はかなりしみますが…ここは頑張ってください」
「は、はい…!うっ、ぐええっ…!あがががが…!!
げほっ、げっほ!!!え゙ぅっ!ゔっ!お゙えっ!」
慣れた手つきで塗布を行う戸倉。
それでもマチカネタンホイザはたいそう苦しそうであった。
「うえぁー…し、しみました…!」
「お疲れ様でした。綿棒を見てください、べったりと血がついてるでしょう?
これが炎症を起こしている証拠で、出血までしているわけですね。
だいぶ悪い状態でしたが、今塗った塩化亜鉛は効果抜群ですのですぐ良くなりますよ。
これを1週間に1度行い、患部が完治するまで継続します。
それに加えて抗生物質を処方しますので、そちらで細菌などを倒していきます」
「ありがとうございます…。うわあほんとだ、もうなんか少し体が軽くなった気がします!」
「さっそく効いてきましたか。この調子で治していきましょう」
「いやいやタンホイザさんや。
いくらなんでもそんなに早く効くなんて…え、マジなん?」
戸倉たちの言う通り、マチカネタンホイザの症状は劇的に回復した。
1週間後、2度目の塩化亜鉛の塗布時の検査でも良好との判断を貰い、
体調も加味してトレーニングは問題ないとお墨付きをもらった。
それからは適度な休息は取りつつも、トレーニングに明け暮れる日々。
有馬記念までは3週間しかない。
トレーナーとツインターボ、イクノディクタスに支えられながら、
マチカネタンホイザはナイスネイチャと共に全力でトレーニングに励んだ。
迎えた有馬記念当日。
Kの診療所でも、テレビを付けてレースを見守っていた。
『先日のジャパンカップでは不調による無念のリタイアをしたマチカネタンホイザ。
そのリベンジをするべく、この有馬記念に現れました!』
マチカネタンホイザは笑顔でカメラに手を振り、キリっとした表情でゲートへ向かった。
富永はそれを見て喜びの声を上げた。
「おおー、マチカネタンホイザだ!倒れた時は心配したけど、今日は元気そうでよかった!
K先生たちが診たんでしょう?いや、ちょっと不謹慎ですけど羨ましいっス。
僕も会いたかったなァ」
「タンホイザさん、明るくて元気をもらえるようなウマ娘でしたよ。
富永先生がファンになる気持ちが僕にもわかりました」
「おっ、一也くんも彼女の魅力がわかったのかい!?
じゃあ一緒に応援しような!」
富永は一也の背中をバンバンと叩くと隣に座り、
レースが始まるまでずっとマチカネタンホイザの魅力について語っていた。
(タン、タン、タン…ホイ、ホイ、ホイっと。うん…今日は絶好調!
今日まで頑張ってきたトレーニングの成果を発揮できそう!)
マチカネタンホイザは軽く体をひねりながら、自身の体調をしっかりとかみしめる。
(みんなが応援してくれて、みんなが期待してくれて、みんなが手伝ってくれて。
みんなが作ってくれたこの私が、この有馬で勝てるってことを証明して見せる!)
「私はマチカネタンホイザ!地味でドジだけど頑張り屋!
みんなの期待を背中に背負い、主人公になるため…行っきまーす!!」
観客席に向けて雄たけびを上げると、多くの拍手が返ってきた。
「ほほーう、これはタンホイザさん。気合入ってますな~。
ずいぶんと人気も高いようで羨ましいですよ」
そこに現れたのはナイスネイチャだ。
「おや、ネイチャ。ふっふっふ、今日のレースは私が貰いますよっ!」
「い~や、勝つのはアタシ。こっちもアンタに感化されちゃったから…
主人公になるために全力で勝ちを取りに行く!
ブロンズコレクターなんて称号ぶん投げて、ゴールドハンターになってやるから!」
『おっと、マチカネタンホイザとナイスネイチャが火花を散らしております!
この2人はチームカノープスの同門となりますが、これはレース、勝つのは1人だけ!
勝者となるのはこのどちらかか、それとも別の誰かでしょうか!』
観客席にいるツインターボ、イクノディクタス、南坂も応援の声を上げる。
「うおおおお!!行ったれマチタン!ネイチャ!!!2人とも勝て!!!」
「ターボさん、勝つのはだれか1人だけですよ」
「それに年末を締めくくる有馬記念。
ネイチャさんもタンホイザさんも十分な実力者ですが、勝つのは容易なことではありません」
イクノディクタスが眼鏡をクイッとしながら冷静な分析を行う。
「ですが…やはり。どちらかに勝っていただきたいですね」
『さあ、レースも残り終盤に入り、各々がラストスパートをかけていく!
先頭を逃げるメジロパーマー、それを追うライスシャワーとマチカネタンホイザ、
背後から追い上げるナイスネイチャ!はたして勝つのは…!?』
マチカネタンホイザの周囲を走る沢山のウマ娘たち。
みんなキラキラ眩しくて、まさに主人公と呼ぶべきウマ娘ばかりだ。
(だけど)
自分もその中の1人。自分の事を応援してくれるたくさんの人がいる。
勝ってる時も、負けてる時も、支えてくれた人たちがいる。
(私が)
その人たちにとっての主人公になりたい。
そう思うといっぱい力が湧いてくるんだ。
だから今日の勝負は、私が、マチカネタンホイザが、
(最高の主人公に、なってみせる!!!)
「うりゃああああ!!!」
『マチカネタンホイザだ!1着はマチカネタンホイザ!
2着ライスシャワー、3着ナイスネイチャと続きます!』
「や…やった~!」
「ま、負けちゃった…」
「ぐおおお~!!!ま、また3着だぁぁ~っ!!!」
『今日の主人公はマチカネタンホイザ!
ジャパンカップ欠場の無念を晴らし、待ちかねた勝利を観客席へ捧げました!』
「えへ、えへへ…!うれしいな。これは自慢しちゃってもいいよね!
みんな…みんな応援ありがとう!」
マチカネタンホイザは最高の笑顔を観客席へ向けた。
「よっしゃあああ!!マチカネタンホイザーッ!!僕は信じてたぞ!!」
富永は涙を流しながら大喜びで部屋内を飛び回っている。
「タンホイザさん、素敵な走りでした。きっと上咽頭炎もきちんと治ったんですね」
「うむ、あれならもう心配はあるまい。これからの活躍も楽しみだな」
一也とKもマチカネタンホイザの勝利を見届け、治療の効果を確信していた。
『おっと、マチカネタンホイザがカメラに向かってきました!
では、勝利した感想をどうぞ!』
『今日はみんなの期待に応えられたかなって思います!
私が頑張れたのは、トレーナー、チームのみんな、ライバルのみんな、
応援してくれたみんな、体を治してくれたお医者さんたち…
たくさんの人のおかげです!ありがとうございました!
また私を応援してください!次もそれに応えられるように頑張りますので!
えい、えい、むっ―――』
マチカネタンホイザは興奮のあまり足をもつれさせ、
地面に顔面から突っ込んでいった。
『おおーっと!?マチカネタンホイザ転倒!転倒です!大丈夫ですか!?』
『びええーっ!ま゙だ鼻血出じぢゃっだーっ!』
「あーっ!マチターン!!!」
「タンホイザさん!?」
「ああっ!?タンホイザさんの鼻血もここまでくると、運命的な何かを感じますね…」
まさかの展開に観客もライバルたちもリポーターも、
南坂とツインターボ、イクノディクタスもびっくり仰天してしまった。
有馬記念の勝者がカメラの前で出血騒ぎ。
この出来事はマチカネタンホイザの話題が出るたびに掘り起こされ、
皆の記憶に刻み込まれることとなる。
Kの診療所でも。
「あっ!タ、タンホイザ!!彼女らしいと言えばらしいんだけど、締まらないなあ…!」
「ま、また鼻血のようですね…大丈夫でしょうか?」
「まあ…抗生物質も処方されていることだし感染の心配はあるまいが…
ドジにつける薬は現代医学では存在しないな」