アグネスタキオンとのやり取りがあって一息ついたころ、
扉を開けて1人の人物が入ってきた。
彼はこの村に住むKの一族に仕える執事、村井である。
【村井】
現代のドクターKの一族、神代家に仕える執事。
医者としての実力は非常に高く、師匠としてKを鍛えたのも彼である。
クローン臓器製造組織の一員となっていたが、一也との出会いにより改心。
組織をやめた後は執事に戻り、Kの診療所でKの補佐や一也の教育を行う。
また再生医療に可能性を見出しており、日々研究を続けている。
「K先生、アグネスタキオンさんの分析が一通り終了しましたぞ。
こちらに来ていただいて… !? 富永君、なんだねその脚は!?」
「いやァ…ちょっと変な薬を飲んだ副作用でですねェ…」
「村井さん、この脚のことはあとで説明します。
では研究室へ行って確認してみよう。アグネスタキオンさんも来てくれ」
診療所の一部にある、様々な機械がある部屋が研究室である。
主に村井が管理しており、成分分析、技術開発、培養など様々な作業を行っている。
「おおー!これが研究室かい!素晴らしいねぇ!」
「ふふ、この研究室にウマ娘のお嬢さんを入れるのは初めてですな。
アグネスタキオンさんはこういうものに興味がおありということで?」
「もちろんさ!私の生きる目的はウマ娘の可能性の限界を探ることだからね!
君たち医者は人間すべてを調べているのだろうが、似たようなものだろう!」
あたりの研究機材を眺めて興奮するアグネスタキオン。
「いやあ、しかし外観にそぐわないほどしっかりしているね。
正直言うと田舎の小さな診療所に連れてこられたときは騙されたかと疑ったのだが。
逆の意味で騙されたね、こんな素晴らしいものだとは!」
「お褒めいただき光栄ですな。
K先生を中心として、常に最先端の医療を目指すのがこの村なのです」
「ふぅン。この村は凄いのだねぇ」
「まあ見学はいったん後回しにしていただいて、検査結果を見ていただきましょう。
こちらをご覧ください」
村井が検査結果を提示する。
血液検査の成分分析や各種写真の所見などがまとめられている。
「村井さん、ご苦労様です。ふむ…これは下腿部にサルコペニアの疑いがあるな」
「さるこぺにあ…?なんだいそれは」
「サルコペニアって言うのは筋力が低下する病態のことさ。
でもK先生、それって老化が原因で起こるものなんじゃないですか?」
「確かに、富永の言うように老化が原因で起きるのが普通だ。
しかし別な理由…栄養不良、寝たきりなどの不活動、内臓疾患等が原因で、
若い人間にも起こることがある。
血液の結果を見ると若干肝臓が悪いな。この辺りが影響してるのかもしれん」
【サルコペニア】
骨格筋量が低下すること。筋力低下により副次的に別の能力低下も誘発する。
基本的に加齢が原因であることが多いが、まれに若者にも起きる。
寝たきりや出不精など体を動かさないこと、臓器不全によるもの、
腫瘍や炎症によるもの、栄養不良によるものも存在する。
原因が加齢以外に想定できないものを一次性サルコペニア、
その他の原因によると想定されるものを二次性サルコペニアという。
「ふむ、つまり私の脚の問題はそれだというのかな?」
「そうだな、幼少期から発症していた場合は筋肉が付きにくい体質だっただろう。
すると骨格の成長に対して筋肉の成長が弱くなりバランスが崩れてしまう。
君の脚は非常に速いようだが、上腿の筋肉が生み出すそのスピードに、
下腿の骨や筋肉が耐えられなくなってしまっているのだ」
「なるほど。で、サルコペニアというのは治療できるものなのかい?」
「サルコペニアはいまだ研究段階であり、具体的な原因というのもわかっていない。
そのためこれ専門の治療法というのはないが、対応はできる。
我々がこれから君に施すのは筋肉の細胞を増殖させるものだ。
そのためにまず、君の体から骨髄を採取させてもらう」
「骨髄を。骨髄が筋肉にどう関わってくる?」
「まず骨髄を採取したらそこから幹細胞を取り出します。
この幹細胞を培養して点滴や筋肉注射を行うのです。
幹細胞というのはどんな細胞にも分化しやすい性質がありましてな、
点滴ならば全身の、今回の場合は肝臓の再生や活性化が期待でき、
脚の筋肉の再生能力の向上も図ることができるでしょう。
薬物とは異なりますからな、ドーピングにも引っかかることは無い」
「それを聞いて安心したよ。試してみる価値はありそうだ、是非お願いしよう」
「随分あっさり決めるのだな。
この治療は数か月は見てもらった方がいいが、構わないか?」
Kはここで即断するアグネスタキオンの姿勢に少し驚いたようだった。
「自分だけの研究では少々行き詰っていたのでね、
できることがあればやろうと決めている。
期間は別に構わないよ、特に目標としているレースもないからね。
それに脚の異常を治療するなら、例えば1週間なんてそんな簡単にはいくまいよ」
「理解されているなら結構。ならば早速やりましょうか。
今日から準備を始めていくことにいたしましょう」
「ああ、任せるよ。ところでだがね」
アグネスタキオンは少し神妙な表情になって言う。
「治療費はもちろん払うが…いくらくらいかな?
これは保険が適用される気がしないのだが…」
「そうですな、元々我々からお呼び立てしておりますからな。
その点をおまけして、おおよそ300万円くらいでしょうか」
「………なるほどねぇ。ま、そのくらいだったら払えるとも。
でも…これからはしばらくレースで稼げないわけだから、
もう少しまけてくれるとありがたいのだがね。
無論タダとはいわないよ。私の研究成果を提供してもいいし、
私というウマ娘を臨床試験の被検体として使ってもらってもいい」
「ほう、あなたの研究には興味がありますな。どのような研究を?」
「ほとんどウマ娘専門の私だが、いろいろ研究してあるのだよ。
それと薬品関係だね。そこの彼の脚が光ってるのは私の薬の副作用なのだが、
これを医療に応用できるのではないかと考えているよ。癌細胞を光らせるとか」
「あっ!村井さん、今のはアグネスタキオンさんが自分で考えたようなこと言ってますけど、
さっきK先生と僕が応用の可能性について話してたからですよ!」
富永が会話に割って入った。
「あーっ!余計なことを言うんじゃないよ!
いいじゃないか別に、私の研究の成果なのだよ!?」
「なるほど、確かにこれは何かに役立ちそうですな。いったいどういう仕組みなのです?」
富永の輝く脚を興味深そうに眺める村井。
「それがわからなくてねぇ。村井君もやはりメカニズムが気になるかい?
トレセン学園ではメカニズムを気にするものが少なくてね、
ただの変な薬だと切り捨てられてしまって悲しいよ。
まあこれは意図していない副作用だから私もどうしようもないのだが。
化学的なアプローチでは原因不明だったが、薬理学だと何かわかるかもしれない」
「あり得る話ですな、調べがいがありそうです」
「薬品は数種類しか持ってきていないが、
研究データはあらかた持ってきているので好きに見てくれたまえ。
手元にない薬品も要望があれば提供するよ」
「是非見せていただきたいですな。まあそれはあとのお楽しみとして、
ひとまず今日の所は骨髄採取の準備として血液採取を行います。
採取時の貧血等に備えて自己血を保存しておくわけですな。
骨髄の採取を行うのは2週間後、そこから幹細胞の抽出と培養をして投与を始めます。
骨髄採取は腸骨から。一般のヒトの場合は採取時の痕が治るには半年ほどかかりますが、
あなたのような若いウマ娘の場合は2か月ほどで済むでしょう」
「その程度で済むのなら言うことは無いね。やってみようじゃあないか!」
麻上が細かい注意事項を説明しながらアグネスタキオンの採血をしていると、
学校を終えた一也が帰宅してきた。
「ただいま帰りました…あっ!アグネスタキオンさん!?」
「やあやあ、他にも職員がいたのかい。お邪魔しているよ。
しかし随分若いね、高校生くらいかな?」
「いえ、僕はまだ中学生です。それに職員というよりはお手伝いみたいなものですね。
アグネスタキオンさんは採血中ですか…何かあったんですか?」
「細かいことはK先生に聞いてくれたまえ。そうだ、帰ったばかりでお疲れだろう?
採血が済んだら、私特製の紅茶を君にも入れてあげようか」
「アグネスタキオンさんの紅茶ですか。それは美味しそうですね」
一也に紅茶を勧める声を聞きつけ、輝く脚の富永が走ってくる。
「やめろ一也くん!彼女の紅茶を飲むととんでもないことになるぞ!」
「富永先生、ただいまです…なんですかその脚は!?」
「アーッハッハ!ここの人たちはみんないいリアクションをしてくれるねぇ!」
一方、Kと村井はアグネスタキオンの研究成果を眺め、感嘆の声を上げていた。
「K先生見てくだされ。アグネスタキオンさんの研究データですが、なかなかのものですぞ」
「そのようだな。ウマ娘に対する医療に応用できそうなものがいくつかある。
治療費代わりとしては十分そうだな」
1週間後に再度の採血を行い、2週間後に骨髄採取の日が来た。
この作業のためにアグネスタキオンは泊りがけでKの診療所に赴くことになっている。
「ではトレーナー君、2日ほど留守にするからね。
それと頼んでたように、これから8週間のトレーニングメニューは、
学習系と上半身の筋トレのみで組んでおいておくれよ」
「ああ、わかった。
…なあタキオン、最近ちょくちょく外出するが何をしに行ってるんだ?
タキオンが遊んでいるわけではないことはわかっている。
だから、俺に手伝えることがあるなら一緒に行かせてほしいんだ」
「残念ながら君に手伝えることは無いだろうね。
頼んだ通りのトレーニングメニューを組んでくれるのが一番の貢献になるよ」
「それは…俺が頼りないからか?俺に出来ないことがあるのは仕方ないかもしれない。
だけど…何をしているのか教えてももらえないのは、
タキオンにとっては俺が役に立たないからなのか?」
不安と悲しみが入り混じった表情でアグネスタキオンを見つめるトレーナー。
それを見たアグネスタキオンは少し逡巡した。
自分は前から好き放題やっているが、最近はさらに程度が甚だしい。
それを考えるとトレーナーが不安を感じるのは当然のことだろう。
「…トレーナー君、君は優秀なモルモットだよ。
私の研究に嫌な顔をせずに付き合い、効能も聞かずに薬を飲んでくれる。
わがままな言動を繰り返す私に対して熱心にトレーニングをサポートしてくれた。
誇りたまえよ、自分の優秀さを」
「でも…」
「だがね、だからこそ今は話せないのさ。君には中途半端な情報を与えたくないのでね。
後で必ず説明はする、約束するよ。だからそれまで待っていてくれ」
いつになく真剣な表情で話すアグネスタキオン。
その表情を見たトレーナーは少しだけ動きが止まり、
「わかった、タキオンがそういうのなら。
だけどもし何か俺に手伝えるようなことがあったら何でも言ってくれ」
「ふふ、やっぱり君は最高のモルモットだね。
そういうわけだ、トレーニングメニューの件はよろしく頼むよ」
「わかった。じゃあ、いってらっしゃい」
「…うん。行ってくるよ」
約束通り、Kの診療所へ赴いたアグネスタキオン。
今日はついに骨髄採取の日である。
「お邪魔する!いやあ、ついにこの日が来たね!」
「待ってましたよ、アグネスタキオンさん。
確認しますけど、昨日の夜から絶飲絶食していただきましたね?」
麻上が確認のための聴取を取った。
「もちろんさ。余計なことをして延期になっても嫌だからね」
「それなら問題なしですね。手術衣に着替えてから手術室に移動していただきます」
「ああ、ありがとう。しかし骨髄採取なんて初めての経験だ。楽しみだねぇ」
「これを楽しみとか言ってる人は初めてだよ。肝が据わってるなァ…」
全く物怖じしないアグネスタキオンを見て、富永は少々引き気味だった。
手術室に移動し、Kたちが骨髄採取の作業を始める。
「ではまず患者に全身麻酔をかけていく。
薬剤を吸入すれば数秒で眠りにつくから、目が覚めたころには終わっているよ」
「宜しく頼むよ。全身麻酔も初めてだな、そういえば前に原理を教えてもらったね。
確か薬剤によって中枢神経系の脂質ラフトが分解され…」
「騒がしい患者だな。はい、リラックスしてゆっくり呼吸してください」
手術が始まるというのにペラペラと喋りはじめるアグネスタキオンの顔に、
Kは問答無用で薬剤の吸入マスクをつけた。
「PLD2という酵素が放出されてからTREK-1というタンパク質とっ
…………すやぁ…」
「患者、入眠を確認しました」
「よし。穿刺針準備!骨髄液採取開始!」
特に問題なく採取作業が行われ、約2時間後に採取終了した。
「うむ、十分とれたな。ではあとは村井さんに抽出と培養をお願いします」
「お任せくだされ」
麻酔から目が覚めたアグネスタキオンは、
何事もなかったかのような平然さで麻上と雑談をしていた。
「聞いてはいたけれど、全身麻酔とはすごいな!
眠気に抗ってみようと少し気合を入れてみたのだが、全く効果がなかったよ」
「ふふ、全身麻酔は気合では防げませんね。でもあまりやらない方がいいですよ、
それで万一効き目が薄くなったら苦しいのは本人ですから」
「全くの正論だねぇ。でも好奇心には勝てなかったんだ」
「うん、体にも脳にも異常はないようですね。
それなら今日は入院してもらいますけど、予定通り明日には退院できそうです」
「準備は面倒だが、意外と手軽なもんだね。これで効果があればいいのだが」
「そうですねぇ。K先生が勧めているのですから可能性は高いのでしょうけど、
とはいえ確実ではありませんからね」
「うむ、可能性か…」
可能性。
それはアグネスタキオンが常に追い求めてきたモノ。
ウマ娘という生物に肉体に込められた能力の限界を探ることだ。
しかしここで言う可能性は彼女のそれとは少々趣が違い、統計的な確率の意味である。
確率という意味での可能性は不確定要素であるため、それほど重視してこなかった。
「まったく、こういう可能性にこれほど期待するのは初めてかもな」
アグネスタキオンは小さく呟いた。
その後、新しく持ってきた薬品を診療所のメンバーに披露するアグネスタキオン。
顔が紫色になる薬品、頭髪が水色になる薬品、全身が淡く発光する薬品など、
得体の知れないことが起こる薬品が多くあった。
「私だってこんな作用を求めているわけではないんだよ?
でもなぜか大抵こうなるんだよねえ。運命的なものを感じるよ」
と、アグネスタキオン談。
とはいえ不気味な薬品と言えども前代未聞の効果を発揮する薬品群に、
診療所のメンバー、特に村井は興味津々であった。
採取から2週間後、抽出し培養した幹細胞を静脈注射し、さらに下腿の筋肉へも注射。
1か月後に健康診断を行った。
「うむ…アグネスタキオンさん。前より下腿の筋肉量が増加している。
肝臓やその他内臓の数値も軒並み良化。
幹細胞による再生療法が効果を出しているようだな」
「そりゃ本当かい。術後だから脚は鍛えていないのに筋肉量が増えている…
確かに効果があるようだね。安心したよ」
「幹細胞はどのような細胞にも分化しやすいため、
弱い部分に投与するとそれを再生・強化する動きをする。
元々は肝硬変などを移植以外で治療する再生医療で使われていた技術なのだ」
「ふぅン。いろいろ応用が利くというのは良いことだね、私も恩恵にあずかれたのだから。
それでどうだろう、これでもう私の脚は問題はないのかい?」
「おそらくは。ただ…どれほど効果があるか、いつまで効果があるか、
それについては未だに研究中の療法でな」
「なるほどねぇ、それなら私はちょうどいい被検体というわけだ!
まあ私は私の研究も継続するから結果が混ざってしまうかもだけどね!」
「ふ…頼もしいな。ひとまず経過観察としてしばらくは毎月1度検査させてもらう。
それ以外は穿刺痕が癒えればトレーニングに戻ってもいいだろう。
予定通り来月には腸骨も治りそうだ」
「そうか、それなら…うん。
決めたよ、私は次の菊花賞に出る。そこで治療の成果を見せようじゃないか」
「菊花賞…3か月後だな。問題はないだろう」
「なあK先生。少し聞いてくれるかい?
私はね、研究なんて1人でできればそれでいいと思っていたんだ。
ああ、被験者の存在は別だけどね。
私の思考も嗜好も志向も、理解してくれる者はあまりいなかったからさ。
前に言ったプランBでは仕方なく協力者を必要としていたが。
でも出会いとは不思議なものでね。
興味のなかった者に興味を持ち、諦めていた道を歩みたくなる。
他者との関わりが私を変えてしまった。
トレーナー君との出会い…それは私の心を変え、君との出会いは私の体を変えた。
心も体も他人に変えられた私というのは、本当に私なのだろうか?
それを考えた時、答えはただ一つだったよ。
『これが私』だとね。
君には感謝してる。私の目標を諦めずに済んだのだから。
これで私は研究を続けていくことができる。
よい成果が得られたら、また提供させてもらうよ」
「期待しておこう。君の研究は医療にも役立ちそうだからな。
村井さんも興奮していたよ…その礼として今回の治療費は無しにしておく」
「おお!それは有り難い!研究を続けると費用が掛かるからね!
特に私は個人だから。ここの研究所は結構いい設備だがスポンサーでもついてるのかい?」
「まあそんなところだな」
「ふぅン。ところで…私の脚のことを見抜いた君の観察眼は相当なものだったが、
私も研究者のはしくれだからそれなりに自信があってね。
この診療所は山中の田舎にある割に異様な設備を誇っているね。
それに君の瞳から感じる黒い輝き…一也君、彼の中にも同じものを見たよ。
まだ中学生というのに相当の覚悟を持っているように思える。
これも村井君が少し言っていた、この村の特異性なのかねぇ…」
「……」
「ふふ、私は君たちの邪魔をする気は全くないよ。
ただシンパシーを感じただけさ。発展のためなら多少のしがらみに囚われない姿勢にね。
だから私の研究成果を利用したいという時は何だって提供しよう。
その代わり…この研究所のものを私が欲しがった時に融通してもらいたい!」
「まあ、考えておこう」
「いい返事を期待しているよ。
それでは私は帰ろう、トレーニングをしなくてはならない。
治療の結果に興味があったら菊花賞を見てくれたまえ」
1か月後。アグネスタキオンは穿刺痕も無事に塞がり、
本格的にトレーニングに打ち込めることとなった。
「さぁて、トレーナー君。随分待たせてしまったが…
実はようやくプランAが検証段階に入ったところでね。
今日からトレーニングは制限なしだ。なので君に選択肢をあげよう!
筋力トレーニングとランニング、どちらがいいかい?」
そう言ったアグネスタキオンの表情はキリリとしたものだった。
やる気に溢れている、とトレーナーは感じる。
「わかった。じゃあまずはランニングから始めよう。
君の走りを見せてくれ」
「了解した。では君はラップタイムを計ってくれ!」
そうして駆け出すアグネスタキオン。
彼女の細い背中は見る間に小さくなり、あっという間にコーナーに消えてしまった。
「ハハハ、ハハハハ…!いいぞ!ついに、手に入れた―――!」
コースを回って帰ってきた彼女の瞳は、爛々と輝いていた。
トレーナーがしばらく見ていなかった、ギラついた色だった。
アグネスタキオンはしばらく息を整えると、
「成功だ…!」
そう口元を綻ばせたのだった。
そして迎えた菊花賞。
Kの診療所でも、富永らがレースを観戦するためにテレビの前に座っていた。
「ついに今日が菊花賞ですね。アグネスタキオンとマンハッタンカフェの対決…
優勝候補はどちらかだと思いますけど、どうなりますかね?」
富永が画面を眺めながら麻上に話を振ると、
「菊花賞の記事を見ると、タキオンさんは『観客の期待度は依然として低い』とか
『やる気が感じられない問題児』『またドタキャンをしないことを祈る』とか、
悪口ばっかり書かれてて人気は低いですね。
彼女にだって事情はあったのにそれも知らないで!頑張れアグネスタキオン!」
麻上はアグネスタキオンを揶揄する言葉に憤慨していた。
「まあ不真面目ってわけじゃないのはわかりましたけどね。
僕はやっぱりマンハッタンカフェ推しかなァ…」
(だって変な薬飲まされたしな…問題児なのは本当だったよ)
麻上が応援しているので口には出さないが、内心そう思う富永だった。
「ふふ、ついに公の場で検証する日が来たね。実に楽しみだよ」
アグネスタキオンはレースの際にやる気の落差が大きいウマ娘だった。
義務感で出ているときもあれば、やる気を出しているときもあったが、
この菊花賞ではかつてないほどのやる気を感じられる。
「タキオンさん。随分やる気がありますね…」
地下バ道で佇むアグネスタキオンに声をかけたのは、マンハッタンカフェ。
「おや、カフェじゃないか!今日はよろしく頼むよ!」
「アナタがそんなにやる気を…だけど何か…前とは意気込みが異なるような…」
「おお…カフェの観察眼も大したものだね。
確か前に君が言ってたな、私の走り方がどうとか」
「…少し気になっただけですが。走り方が普段と違う気がしたので。
今日はそれともまた雰囲気が違うような…」
「いやぁ、あの時にネタばらしするわけにはいかなかったんでね。
君の観察眼は正解さ。あの時も、そして今も、心構えが違ってるのさ。
そういえば『君に未来を賭けている』とも言ったっけ。
悪いがなかったことにしてくれ。君に賭けずとも、自分の脚で行けそうでね」
それを聞いたマンハッタンカフェはわずかに表情を緩ませた。
「…そうですか。」
「じゃあそろそろ行こうかね。
今回の成果が証明されれば、私の研究は新たな領域へスタートできる。
さあ、いざ!行ってみようじゃないか!」
(走れる、動かせる。かつては別の部位だと感じていた骨と筋肉が、
1つの存在として完結したように感じる。これが進化した私の脚だ。
感謝するよK先生!だがこれはゴールではない!
私の研究はこれからも続き、そして私自身で完成させてみせる!)
『最終コーナーを回り、先頭はアグネスタキオン!
2番手のマンハッタンカフェを2バ身、3バ身と突き放してゴール!
評判の実力を如何なく発揮し、菊花賞ウマ娘を手にしました!』
アグネスタキオンの熱意が籠り、心から楽しそうな走りを見た多くの観客は、
彼女への厳しい評価を少し和らげたのだった。
「ふう、これで1つの研究に区切りがついたな。
これから新しい研究に着手できるというものだ…」
「お疲れタキオン!よかったよ!」
「やあトレーナー君、私もそう思うよ。
頭の中から記憶を切り取って保存したいぐらいだ。
ともあれこれで…ようやくスタートを切れたというわけだ」
「スタート?」
「そうとも。君には区切りが付いたら話すと約束したね。
これまで黙っていてすまなかったが、トレーナー室に戻ったら話すよ。
私の未来のビジョンには…君も一緒にいるのだから!」
そうして経緯をトレーナーに話したアグネスタキオン。
トレーナーは驚いてばかりだったが、かつて自分が彼女に言った言葉、
そして今彼女に言われた言葉、『一緒に限界の先を見たい』。
それを聞いたとき、トレーナーとして信用されていることを実感し、
思わず嬉し泣きをしてしまったようだ。
彼女がレースに出たり出なかったりしたのは、水面下で戦っていたためだった。
それに勝った今、これからは気まぐれに目標が変わるようなこともなくなる。
トレーナーと共に、ウマ娘の限界を探るべく走り抜けていくだろう。
「さて、せっかくだから今の君のストレス値を計っておくか。
脈拍を計るから指を出したまえ」
「ええっ!?」
「いいじゃないか!君はモルモットになるためにトレーナーになったんだろう?」
「逆だ!!」
村井がアグネスタキオンの作った薬を応用し、
癌細胞、腫瘍、梗塞部など体内の異常部に作用、
発光させるようにする薬品を完成させたのは、また別のお話。