子連れの怪物   作:ラスキル

6 / 6


 最初の出会いは何の思い入れもなかった。

 

 あの日、一人の青年と出会った。

 彼はアタランテを見上げ、言葉を口にする。

 

『麗しと称されるアナタを一目見たかったのです』

 

 軟弱で、気弱。男か女かも判断しかねる半端者。それが私が彼に抱いた最初の印象だった。

 彼は言った、私に挑まないと。

 少し意外だった。彼も私を手に入れようとする...いや、正確にはこの国の王の後継になろうと画策する愚かな男共と同様だと考えていたからだ。

 

「ふんっ。挑戦者でないのであれば即刻この国を去るといい」

 

 だが、それだけだ。挑戦者ではない、名も知らぬ青年。

 明日になればその顔も声も忘れてしまう...はずだった。

 

 二度目の出会いは最悪だった。

 

 その日の挑戦もひと段落つき、私はいつものように森に入った。

 森の奥に踏み入ってゆくと、岩が剥き出しになった斜面へと出る。そこには湧水が渓流となって沢をつくり、奥まった場所には滝と小さな水場が出来ていた。少し上の方の斜面には無数の木々がそびえ立ち、いくつか獣道らしきものも見える。

 

(あとで、獣を狩るのもいいかもな)

 

 水場の深い辺りはちょうど岩場の影になっており、また滝の音もあるため、たとえ誰かが通りがかってもおそらくは気付かないだろう。それゆえ、私もここでは誰かの目を気にせず解放的になることができた。

 

「———っと...」

 

 身に纏った衣服を脱ぎ、狩りを行うため持参した弓矢も近くの木へ掛ける。そして、全裸のまま水場へ足を踏み入れて、身を沈める。...その心地よい冷たさに思わず、笑みが溢れた。

 

「ふぅ...気持ちいいな」

 

 この国に来てから川や池、湖で水浴びをしたことは多々あるがこの場所が一番気に入っていた。この水場で競争の疲れを癒し、狩りに向かう。それが私の日常であり、日々の中で唯一の心休まる時間だった。

 夕暮れが穏やかに水面を照らして、今日の終わりを告げる風を運ぶ。巣へ帰る鳥のさえずりが遠くの方から、少しにぎやかに聞こえてくる。時折、水の岩陰には小さな川魚の動く気配。そして、適度な水量の滝は直接に浴びても心地良さを全身に伝えて、この長く伸びた髪を梳き洗うにはもってこいだった。

 

(明日も挑戦を受け、勝利し、殺す...その次の日も、また次の日も)

 

 ばしゃばしゃ、と何度も水を手ですくって、脳裏に浮かんだ戯言を冷やす。そしてふと、視線を水面に落とし...そこに映し出された自分に思わず、顔をしかめた。

 

「なぜ、私はここにいるのだろう」

 

 父から呼び出しを受けた時はあんなにも心が躍ったというのに。...家族と、生きれると思ったのに。そんな泡い希望はとうに消えた。

 

 私は、ひとりぼっちだ。

 

 しかめ面を水で洗い流す。栓無きことと押し込み、体を水に沈めた。

 

「...ん?」

 

 その時、頭上に見える木々の奥から、風のものではない葉擦れの音が聞こえる。それは断続的に響いていて、時折土を踏み締める足音も混ざり合っていた。

 

(獣か...? いや、これは人のものだな)

 

 そう思って耳をすませ、その音の正体を確かめようとする。そして反射的に、岩場に立てかけていた弓と矢を手繰り寄せる。

 わずかに岩場の影から身をのり出して、森の奥を見る。

 

「ふむ...」

 

 が、ちょうど死角になっているためかその音の主の姿は見えず、心なしか遠ざかっていくようにも聞こえた。

 

(...狩りか、採取か)

 

 確かこの山には、かなり美味な果実がなる木があると聞いた。

 ただ、ここは人里からかなり離れた奥地のため、危険な獣が住みつきやすく、狩人であっても危険は大きい。ゆえに、この付近を今まで他人が訪れることは滅多になかった。

 

(まぁいい。やり過ごせば、すぐに立ち去るだろう)

 

 正直言って、今は心が疲れていた。ゆえに隠れて、様子を伺うといった好奇心も起こらない。

 

 ———しかし、

 

「...っ?」

 

 先ほどのものとは明らかに異なる気配が重なって伝わる。それは禍々しいほどの狂気と殺気があり...今度こそ間違いはなく、獣と呼べるもの。

 そして、その衝動は明らかにある一点に向けられていた。

 

「わぁ、本当にあった。ありがとう、君たちのおかげだね...ん? どうしたの? 後ろかい?、——え? っ...?!」

 

 それを示すように思いがけない驚嘆に引きつった声が、かすかに聞こえてくる。やはり、人間。それも男で、それほど年を経ていない若者だろう。

 間違いなく獣はそれを狙っており、...そして気の度合いを探っても、このままではその者の生命を奪われることが容易に想像できる。

 

「あはははは、いやぁすまない。キミの縄張りに入るつもりはなかったんだ。できれば話し合いで解決をしようじゃないか...だめ?」

 

「———グォオォォォ!!」

 

「わっ、ちょっと待って! わ、わぁぁあぁぁ.....!!」

 

 叫び声を聞いた途端、私は水場から飛び出ると軽やかな足取りで岩場を一気に駆け上がり、瞬く間に斜面へと登りでる。

 そこにいたのは、やはり若い男と...私の背丈の倍ほどもある、巨大な猪。

 助ける義理はないが、見て見ぬ振りが出来るほど落ちぶれてはいない。男と猪の前に私は飛び出した。突然現れた私の姿に、猪はその動作を止めてその巨体をこちらに向ける。

 その距離はほんの僅かでしかなく、私の乱入があと一瞬遅れていれば、その巨体の突進により青年の体は宙に舞い散っていたことだろう。

 

「えっ!? キミは...」

 

「下がっていろ」

 

 状況が飲み込めていないのか、あっけに取られている青年を庇うように立ち、背中越しに声を掛けてから、猪と対峙する。そして、その獣係の相手を私に選び直し、足を掻き突進を開始しようとした隙を付き、弓を振り絞り矢を放った。

 

「グォオォォォッッ!!」

 

 その矢は猪が突進を開始する前に脳天を射抜いた。震え上がるほどの咆哮が響く。それに気圧されることなく、第二射、第三射を両眼、喉元に放つ。

 

「グォオォォォ!!!!」

 

 しかし、それでもなお猪は突進を止めることなく私に迫ってきた。

 

「このっ...!!」

 

 ...押しつぶされそうな重量感が四肢に伝わって、関節がみしりと、悲鳴をあげる。

 次の瞬間。

 

「——————はぁぁぁァァァ!!」

 

 私をかち上げようとする猪の頭部を掴む。そして、重心を受け流すように巨体を背負いながら、自分諸共に崖下にめがけて投げ放った。

 ドォォンと、豪快な響きと水柱を上げて、私たちは滝壷に打ち付けられる。

 

「え...えぇぇ...」

 

 ほんの数秒の出来事に、しばらく青年は呆然となっていたが... はっ、と我に返り斜面を軽々と下ってゆく。

 そして、滝壷に溢れ返っている大量の血溜まりを見て、思わず沢に飛び降りた。

 

「......」

 

 間も無くして、猪の死体が浮かび上がってくる。だが、彼を身を挺して守ってくれた彼女の姿はどこにもない。

 

「まさか」

 

 沈んでしまったのか?そう悟った青年は、少女を助けようと駆け出し、水音を立てながら沢へと踏み入っていく。

 その時、

 

「....ふん。 馬鹿の一つ覚えのように向かってこなければよかったものを」

 

 猪の身体を掻い潜るようにして私は水面から浮かび上がって、沢のほとりに上がり出る。少し身体を打ったが特に問題ではない。

 

「だ、大丈夫ですか?」

 

「それはこちらの台詞だ、汝こそ大事はないか?」

 

 先程の青年がこちらに駆け寄って心配そうに声をかけてくる。それに答え青年に対しても問いかけをするが、これが不思議なもので青年は顔を真っ赤に染めながらこくこく、と頷くのだ。

 疑問は残るが、青年の様子から無事を感じた私は、共に転がり落ちた弓と矢を担ぎ直し猪の亡骸に振り返ってため息をついた。

 

「気に入った水場だったが、当分は使えそうにないな。まずは猪の身体を運び出さねば」

 

「.......」

 

「むっ? ああ、念のため言っておくが、お前を助けようとしたのではない。後ほど狩りをするつもりだったからな、手間が省けた。ゆえ礼などいらぬ、命を拾ったことを幸いに思い、早急に立ち去るといい」

 

「あ、あぁ...」

 

「....?」

 

 青年の反応を見て、違和感を抱く。恐怖や、不測の事態に思考が停止しているのなら、わかる。ただ、青年はそのどちらでもない。むしろ顔を紅潮させて、何かを恥ずかしがっているような...。

 

 ...あっ。

 

 よく考えてみれば、今私は衣服も何もかも身に付けていない。

 ゆえに、今の姿は———

 

 待て、待ってくれ。咄嗟に飛び出して気が付かなかったが、何も纏っていないということは...つまり、今の私は、

 

 ———裸?

 

「....ひ、ひゃあああぁぁぁあぁぁっっ?!!」

 

 今までほとんど上げたこともないような悲鳴を上げて、大慌てで水場の中へと身を沈める。それを見て、青年も硬直が解けたのか我に返り、急いで背を向けた。

 なんたる迂闊、なんという失態...っ!!

 

「き、貴様...っ!!」

 

「?! い、いやっ、僕は見てないです! ええ、もう全然!! じ、実は目が悪くてね、ええ本当!なのでキミの裸は全く見えてない!!」

 

「———裸だとわかっておろうがっ!!」

 

 見られた! 間近で、力いっぱい見られたのだ!!

 しかも、よりによって全裸! 

 少なくとも、この生涯においてあの船の仲間にも...同性にすら見られたことがなかったのに?!

 それを、よりにもよって、男にだとぉっっ?!

 

「...正直に言え、貴様、どこまで見た?」

 

「い、いえっ、全然見てないから! ち、ちらっと全身見えただけです!!」

 

「〜〜〜〜〜ッッ!!」

 

 よし、殺す。

 この男にとっては精一杯取り繕っているつもりなのだろうが、明らかにそれは逆効果で私の羞恥と憤怒はますます高まる。というか、この男わざと言っているのでは?

 

「あ、あはははっ...あ、あのぉ...」

 

「———はっ」

 

 ぷちん、と頭の中にある何かが切れて、燃え上がるように熱くなった思考が急速に冷えていく。

 そうだ、わざとだ。今の言葉で確信した。背を向けながら、今見た光景を思い出してほくそ笑んでいるに違いない。

 ...殺しても文句はあるまい? 

 私にも恥じらいぐらいはある。少なくとも異性に自らの秘所を曝け出したなど、屈辱以外の何物でもない。

 

「最後に...何か言い残すことはあるか?」

 

「あ、あのあのっ...! と、とりあえず...」

 

「...なんだ?」

 

 青年は満面の笑みで、

 

「ご馳走様でした...」

 

「———沈めッッ!!」

 

「にゃっがぁぁ?!」

 

 襟首を掴み上げて、そのまま後ろの沢に放り込む。

 ドボンッ、と豪快な水柱が吹き上がり、青年の姿は滝壺の中へと消えていくのだった。

 

 

 

「ほら、しっかりせんか。...まったく」

 

 呆然とした気分のまま、私は衣服を羽織って再び滝壷に向かった。...その間、先ほどまで全裸であったことが思い出されて、恥ずかしさで悶えてしまう。本当であれば、この青年を殺してしまいたい程だが、

 

(私も道徳心ぐらいは持っている)

 

 ...一応ではあるが。

 ゆえに、ぷかぷかと水面に浮いていた青年を引き揚げた。

 

「う、うぅん....」

 

「おい、起きろ軟弱者」

 

 滝壷から引き揚げた青年を岩場に横たえて、私はその頬をペシペシと叩く。青年は呻き声をあげながら目をうっすらと開く。

 

「目を覚ましたか。気分はどうだ?」

 

「え———」

 

 声をかけられたことで、青年は側に立つ私の存在に気づき頭を押さえて顔を顰めながら起き上がってくる。

 私は先程の痴態を見られた気恥ずかしさを押し隠す意図もあって、あえてしかめ面のまま見下ろした。

 

「ぼ、僕はなんでここに...」

 

「よい、何も思いだすな。そのほうが長生きができるだろう」

 

「...美しいもの見た気が」「———何か言ったか?」「いえ、綺麗さっぱり何も覚えていません...多分

 

「うむ、よろしい」

 

 お互い何もなかったと、言い聞かせる。...これで、いい。のか?

 いや、これ以上考えるのはやめておこう。一刻も忘れなければ舌を噛み切ってしまいそうだ。

 

「そうだ...さっきはありがとう。おかげで助かったよ」

 

「礼はいらぬと言っただろうに」

 

「いやいや、お礼は大事だよ。お陰様で良いものを見れ「忘れろと言っただろう!!」

 

 なんなのだこの男は!人がせっかく何も考えぬようしているというのに、なぜ掘り返す!!

 

「いや、それはできない。無理だよ。見たのは事実なんだから」

 

「無理でも事実でも、なんでも忘れぬか! さもなければその脳天撃ち抜いてみせようぞ!?」

 

「え、それは困る。せっかく話せたのに...大丈夫、誰にも言わないよ。僕の心の中に永遠に焼き付けるとも」

 

「ふざけるなっ!なれば、その心の臓ごと撃ち抜いてみせる!....?」

 

 ....何をやっているのだろうか、私は。

 我にかえり、弓を取りかけていた腕を引っ込めた。いつにもない自分の反応に、自分自身でも驚く。裸体を見られたことに対する羞恥心は確かにあった。それでも今まで、こんなにも相手に、ましてや名も知らぬ他人に感情的になることなど、思い出す限りほとんどなかったはずだ。

 

「?」

 

私はまじまじと青年の顔を見る。名は確かに知らぬが、その顔には見覚えがあった。男か女、言われなければ気がつかぬ程の中性的な見た目の軟弱者。そういえば、あの日も安い口説き文句をかけてきたことを思い出す。

 

「私は言ったはずだぞ、用がないのであればこの国を去れと」

 

「ん? ああ、そうだったね」

 

「そうだったではないだろう!?」

 

「ごめん。あの日出会ったキミがあんまりにも印象的でね、そんなこと『すっかり』忘れていた。あっはは...」

 

「笑うなっ! ...なんなんだ、汝は」

 

 声を荒げながら、胸にかき抱く戸惑いがどんどん大きくなる。それにさっきから、なぜか顔が非常にほてって...暑い。わけもなく息苦しいほどに動悸が止まらず、言葉が時々もつれるほどだった。

 今まで、私の近くにきた男は皆欲にまみれ、穢らわしい視線を向けてくる輩ばかりだった。しかし、目の前の青年はそれとは違った。会話してる内にやわらかな空気に飲まれるというか、馬鹿らしくなってくると言うべきか。それに猪に対して手も足も出てなかった癖、それを屠った私に対してこれほどに余裕をぶちかました態度は、どこから来るのだろうか?

 あいも変わらず、人当たりのいい笑みを浮かべる青年を見ると、考えるだけ無駄な気がしてくる。

 

「もう、いい...他言しないことを誓い、ここから消えるがいい」

 

「いいのかい? 良かった、その弓で射抜かれたらどうしようかと、少し怖かったんだよ」

 

「そうは思えんがな...ほら、私の気が変わらぬうちに去れ。そして、この国から出ていけ」

 

 私はしかめ面を保ったまま、青年で手で追い払う。青年は「わかったよ」と返事をし、立ち上がる。むぅ...本当にわかってるのだろうか。

 

「じゃあね、今度はたくさんお礼を持ってくるから」

 

「...もしや、話が通じない獣か何かか、汝は?」

 

 思わずため息をついてしまう。

 なんなのだ、本当に。

 

 

 まあ、流石に青年も懲りただろう。

 私はあれ以来水場には足を運んでいない。体を洗い流す程度であれば付近の川でも十分だからだ。だからもう出会うことはない。

 

「...それにしても変な男だったな」

 

 今まで会った男と比べればある意味純粋な目をしており、不思議と向けられる視線は不快ではなかった。

 ...まあ、話を聞かないとこは難点であり私の痴態が広められてないかは不安ではあるが。

 

 今日の競走も終わり、私は自分の天幕の元に帰る。

 間も無く日も暮れる。そろそろ火を焚くかと準備をしようとした時、

 

「———おーい!」

 

 と、何やら聞き覚えのある声が森の奥から足音と共に聞こえてくる。

 ため息と共に、頭を抱えてしまう。

 振り返れば腕いっぱいに果実を抱え、こちらに手を振る青年の姿。

 

「...汝は、馬鹿なのか?」

 

「え゛っ」

 

 それが、私たちの関係の始まりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「汝が持ってくる果実は(もぐもぐ...ゴクッ)美味いな」

 

「本当かい? それは嬉しいな、わざわざ獲りに行った甲斐があった」

 

 彼が持ってきた果実を頬張る。これがなんとも美味なもので、一口頬張るたびに甘い果汁が溢れ出し喉を潤す。そしてまた一口、また一口と果実に手が伸びる。思わず、顔が綻びそうになるがそれを見られるのは少し癪なのでついそっぽを向いてしまう。

 

「ふふっ」

 

「...むっ、なんだ」

 

「いいえ、なんでも」

 

「むぅ(もぐもぐ)」

 

 不思議なもので、彼は腕いっぱいに果実を持ってくる癖して自分で口をつけようとはしないのだ。聞けば、“食べるよりも、誰かが美味しそうに食べてるのを見る方が好きなんだ“、と嬉しげな声色と共に返事が返ってくる。

 ...本当に変な奴だ。

 

 

 

『よかったら一緒に食べませんか? これ、凄く甘いんだ』

 

『...いらぬ』

 

 出会ったその数日後、彼は何度も私の元を訪れた。この国を去れと言い聞かせたのにも関わらず、何度も何度もしつこく。それを嗜め、時には武力行使で思い知らせる。それでも訪れる彼に呆れ果てる、それが日常となっていった。

 

『今日はブドウを持ってきたんだ、よかったら』

 

『いらん、去れ』

 

『え”』

 

 次の日も

 

『今日はザクロを』

 

『...(無言で矢を放つ)』

 

『なんでぇ?!』

 

 そのまた次の日も

 

『あれ?居ないのかな...』

 

「……(木の影に隠れている)」

 

『...また明日来るね』

 

『(何なのだ、いったい)』

 

 性懲りもなく私のもとを訪れてくる。それが何日続いたのだろうか。そんなある日のこと、こちらもいい加減、我慢の限界がきた。

 

『今日はね、林檎を貰っ『っ...ええい、寄越せ!』え、あ』

 

 一度、食ってやれば満足するだろう。それに、林檎など等に食べ飽きている、こんなくだらないもの...。

 そう考え、少々乱暴に口に入れる。

 

『もぐっ——————こ、これは!』

 

 口いっぱいに広がる甘美な味わい。噛めば噛むほど溢れてくる甘み。何なのだこれは、私が今まで食べた林檎は腐ってでもいたのか?一口食べるたびに身震いするほどの快感が全身を駆け巡る。噛むたびに溢れる果汁はとにかく甘い!思わずほっぺたが落ちそうになる。

 口に運ぶ手が止まらない、あっという間に一つを平らげてしまう。思わずもう一つ食べようと手が伸びてしまうが、ふと視線に気づいた。

 

『...なんだ』

 

『いえいえ、気に入って貰ったみたいで。もしよかったら、一緒に食べませんか?』

 

『...好きにしろ』

 

 林檎につられたとか、断じてそういうわけではない、決して。

 彼はどこか嬉しそうに私の隣に座って話し始める。気に食わないが、私は果実に齧り付く。

 

『森にいる動物たちが美味しい果実が実っている場所を教えてくれるんです。

 

モグモグモグモグ...(林檎を食べるのに夢中)』

 

『え、もしかして聞いてない?』

 

 何か言ってるような気もするが、今は林檎を齧るのに夢中になってしまう。

 そういえば、と青年の方に視線を向ける。名前をまだ聞いていなかった。あちらは知っていて、こちらが知らないのは不公平だろう。

 

『...汝、名はなんという?』

 

『名前、なまえ...そういえば決めてなかったな。ううん、いつもは誰かが名付けてくれるからなぁ、そうだな....。

 

 僕の名は———メラニオス。うん、メラニオスだ』

 

 

 

 

 その日から、彼が何か持ってくるたびに、共に食事をするようになった。始めは彼の話をただ聞いていることが多かったが、次第に私からも話題を振ることが増えていった。所詮たわいのない会話だ。だが、それが心地よい。

 

「どうしてこの国に来た?」

 

「ん?...さあ、なんでだろう」

 

「おい、考えなしにも程があるだろう。汝はもう少しこう、頭を働かせた方が...」

 

「あははっ、そうだね。

 この国に来たのは偶々なんだ。一晩もすれば去る予定だった。ここは居心地も悪いしね」

 

「ならば、なぜ?」

 

「最初に言っただろう? 噂に聞いた君を一目見たかった」

 

 彼はグイッと体をこちらに近づける。

 ち、近い!

 思わず顔を背ける。しかし、彼はクスリと笑って言葉を続ける。

 

「そして想像以上だった。君は強く美しくそして可憐だ。うん、君という女性に会えただけでこの国に来た甲斐はあった」

 

「〜〜〜〜!!」

 

 鼓動が痛みを感じる程早まる。なんなのだろうこの痛みは。今までだってこんなこと、こんな想いを抱くことなかったのに。

 

「おや?顔が林檎のように赤い、熱でもあるのk、———ひでぶっ!?」

 

「っ...ふんっ」

 

 それはそれは見事な肘打ちだった。

 

 つまらないことで騒いだり、軽口を叩きあったり。...まぁ、さっきのように少々勢いづいてしまうこともあったが。イタズラ遊びのような児戯、でも私にとっては、怒りながらも嬉しく、嫌がりながらも楽しいひとときだった。

 

 思えば、あの船に乗るまで私は、誰かと親しく会話を交わした記憶があまりない。まして、男に挑まれ競争し勝利する。———そんな日々の繰り返しに、誰かと触れ合う機会など皆無だった。

 だからこそ、なのだろうか。彼と出会ってからというもの、...自分以外の誰かと会話することがこんなにも心地良いということが、新鮮な驚きだった。

 メラニオスのほうでも、...一度、遠目に見ただけではあるが商人や群がる女性に対しては完璧に気取っていたが、私にだけは子供のような茶目っ気と明るさをさらけ出してくれている。勝手な自惚れかもしれないが、それが私には他の人とは違う、上手く言い表せないが...きっとそれは——に似た感情を持ってくれている所作のようにも思えて。

 

「ん? どうしたのそんなに見てきて」

 

「べ、別に。相も変わらず間抜け面だと感心してただけだ」

 

「え゛...弱ったなぁ、作り替えるべきか?

 

 ...嬉しかった。

 

 

 

 

 

『どうして? 他人から向けられる好意ほど

 

 ———気持ちいいモノなんて...ないのに❤︎』

 

 

 

 

 

 

 私は知らなかった。

 それを知らなかった。

 

大丈夫...大丈夫だから。大丈夫何度だってやってきたことなんだから....失敗なんてしない。こんなの、僕にだって...!

 

 彼と、メラニオスと出会うまでは。

 彼は私を一人の人間として見てくれた。野蛮な男どもの欲望を孕んだ目とは違い、父親からの醜い侮蔑の目とは違い、柔和な優しい目で私を見てくれる。

 

どうして...どうして僕は、助けることが出来ない...!

 

 私が病に浮かされた時、彼は何度も私の名を呼び、手を握っていてくれた。必死に、自分のことではないのに必死に.

 

 初めてだった。誰かに手を握られるのは。

 知らなかった、手を握られるのが心地よいことに。

 

 優しい彼にいつしか惹かれていった。

 似たような男と友人になったこともある。その男は英雄と呼ぶに相応しい男だったが、メラニオスは違う。決して英雄ではない、それでも強い者だ。

 

 私は彼の手を強く握った。

 

...ほら、口を開けて。 そう、この林檎を食べればきっと良くなるから

 

 ...だから、私に挑んで欲しくない。

 アタランテはメラニオスが自分に勝負を挑もうとしてることを、培ってきた経験から察していた。

——————殺したくない。

 その優しさは他の誰かに向けられるべきものだ。決して私ではない。願わくばその優しさに見合う生き方をして欲しい。私を忘れて、どうか幸せに。

 

 ...それでも彼は、

 

「勝つよ。僕は絶対に、君に勝つ」

 

 悲しい笑みを浮かべ、そう言った。

 

 

 

 その日のことは、記憶に焼きついている。

 

「はあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

「っ....」

 

 メラニオスはアタランテにかけられた呪いを解くために女神アフロディーテの元に向かった。女神に呪いを解くように訴えたが、それと引き換えにある条件を指定された。

 それはアタランテを負かすこと。彼女を汚すこと。

 彼には黄金の林檎が渡された。数は4個。一つは彼女の呪いを解呪するために。残りの三つは、競争の際に彼女の注意を引くために。

 

 女神は笑う。

 怪物がアタランテに——をしているのを知っているから。それを利用しようと画策したのだ。

 

 走り続ける今も、メラニオスの懐には黄金に輝く林檎がある。一つ投げれば目が泳ぐ。二つ投げれば足は止まる。三つ投げれば貴方は虜に。それが林檎の魅了の力。だが、彼は林檎を投げることができなかった。

 

『———隠し事や、卑怯な手を使う者は、あまり好かん。...汝は違うだろう?』

 

 こんな勝負、挑むつもりなどなかった。

 本当に救いたいのであれば、無理矢理攫ってしまえばよかった。翼を生やして、大空へ羽ばたきどこか遠い地へ——————

 

 それはしなかったのは、何故?

 

「はぁっ...はぁ...はっ...」

 

 何はともあれ彼は必死に、がむしゃらに走り抜けた。誰一人、たどり着くことなかったゴールに、彼はたどり着いてしまった。無様なものだったかもしれない。それでもいいとメラニオスは思う。勝たなければならない、それは勿論そう。でも、どんなに無様でも、彼女と並び走れたことが何よりも喜ばしいことなのだから。

 

 

 

 私は彼に駆け寄る。

 

「無茶をする」

 

「絶対に勝つ、と言ったろう?」

 

「そうだな...お前の勝ちだメラニオス」

 

 彼は私に勝利した。手を差し伸べる。

 言わなければならない。今まで言葉にできなかったけれど、今ここで言うのがふさわしい、そうに違いない。

 彼が手を握り、立ち上がる。彼に向かいあい、私は口にする。

 

「メラニオス、私は汝を——————え?」

 

 その言葉は続かなかった。

 

「あ——————」

 

 彼の体が揺れ、こちらに倒れ込んでくる。

 その背中には、一本の矢が突き刺さっていた。

 

「「「うおおおおおおおおおおおおおお!!」」」

 

 沸き立つ観衆。周りを囲んでいた男衆が一斉に叫び出す。それに呼応してか次々と矢の雨が二人に降り注ぐ。

 メラニオスはアタランテを引き寄せ、庇うように抱きしめる。痛みに苦しみ悶えながらも、彼女を守るために

 

 それでもなお、矢の雨は降りそそぐ。

 

 

 

「お、おい。いいのか?アタランテごと撃っちまっても?」

 

「ああ?知らねえよそんなの。あの怪物を退治すれば、この国の王にしてやるって”アフロディーテ”様から直々の神託だぞ。へっ、それによぉ———王になれば、あの程度の女、いくらでも抱き放題だぜ?」

 

「そ、それもそうだな。競争に勝つより、こっちのほうがいいってもんだもんな!!」

 

「おい!早く矢を持ってこい!!あいつを殺し続けろ!!」

 

 男たちは矢を放ち続ける。誰もかれもが、チャンスを狙い続ける。あの怪物を退治すれば王になれるのだ。

 

 

 

 アタランテは自分をかばい続けるメラニオスを前に何もできない。何が起きているのか、理解するにはそう時間はかからなかった。数百もの矢を受け、いまだ自分をかばい続ける彼のことを引き剥がそうとするのに必死だった。”もういい、私を置いて逃げてくれ”と、胸の中で訴え続ける。

 

「———大丈夫。君を自由にして見せるから」

 

「メラ、ニオス?」

 

 そこからの出来事はあまり覚えていない。

 

 瞬間、血の海が広がった。彼は姿を———に変え、その翼を振い、向かい来る矢を———

 それは、古より伝わる———であり、私はただ———だけだった。男衆は、恐れ慄き逃げ出す者もいたが彼はそれを———。

 

「はっ?!なn———ぎゅぎゅぎゅううううう」

「おいおいおい聞いてないぞ!あ”あ”あ”あ”あ”あ”」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいいいいいい」

「神様、神さ...おっごお」

「殺せ!殺せ!早く!」「殺せったってどうすりゃあいいんだよ!」

 

 

 血に塗れた大地からはあらゆる武具が生み出され次々に———した。彼の身体から無数の触手が伸び———、叫び声と泣き声が響き渡っている。私は何もすることができずただ、目の前の惨状を———。

 

 

 いつの間にか日は暮れていた。空には月が浮かび、星が瞬いている。

 私は憔悴しきっていたんだと思う。黙って彼の腕の中で揺られるだけだった。その腕は言い表せないほど——な物であり、それは彼が人間ではないことを示していた。

 彼は、何も喋らず身体を引きずり続けていた。その身体は血に塗れており、それが彼のモノなのか返り血なのかはもう判断できない。

 

「...すまない、ゴホッ...ここで降ろす」

 

 彼は、私を優しく地に降ろした。

 それと同時に、身体を人の姿に変化させていく。...どちらが、本当の姿なのだろうか。

 

「残念、だ。君の記憶の中では、人の姿で在りたかった」

 

 彼は酷く暗い声色で言った。

 だが、私にとってどの姿の彼も、彼であることには変わりないと信じていた。恐ろしい怪物であっても、あの日あの時、私に向けてくれた青年の笑みを思い出すことができる。

 だから「大丈夫だ」と彼を安心させるように声を掛けた。

 彼は、驚いたように表情を変えたが、すぐに微笑み、

 

「君は優しいね」

 

 と、子供の頭を撫でるように私の頭に手をおいた。

 そして、そのまま

 

「これで、君は自由だ。どこへだって走り出せる」

 

 と、地平線の方へ目を向けながら言った。

 

「...自由?」

 

 聞き返した。「そうだ」と彼は答える。誰も彼も、父ですらも、もう縛ることはできない。

 

「そして、君が西へ行くなら、僕は東へ。北へ行くなら南へ。...ここに留まるというなら、まぁそれも君の自由だろう。どちらにせよ、ここでお別れだ」

 

「い、一緒に来ては...共に居てくれないのか?」

 

 震える声で聞き返す。「何故?」という返事が返ってくる。

 嫌だ、と心の底から声が聞こえた。もう二度と、一人になりたくないのだ。

 彼の目を真っ直ぐ見て、疑問に答えるように言葉にする。

 

「私は、汝を——————愛している、から」

 

 月が私たちを照らしている。

 私はようやく、言葉にすることができた。今まで、胸に抱いていた想いを伝えることができた...

 

 が、

 

「——————嘘だよ、それは」

 

 聞いたこともないような無機質な返事が聞こえる。

 

「え...?」

 

 相も変わらず、彼は笑みを浮かべていた。

 貼り付けたような...まるで、人の振りをしているような異質さを纏って。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。