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可及的速やかな撤退を始めた伊勢家に対して、景虎たちはむしろ逆であった。
追撃こそ掛けたものの特に急いで進軍や物資の移送はせず、あえてスピードを求めた部分があるとしたら、情報が出回る前に可能な限りの『伊勢派』を潰して回った事である。
豪族たちの多くは生存戦略もあって家を二分していた。
もちろん位置的な問題で一族全てが伊勢家側に付いた家もあり、そういった豪族に所属する国人たちを、伊勢家の方が隆盛していると信じている間に無慈悲に滅ぼしていったのである。
「なんと? いま報酬は要らぬと……」
「豪族たちの所領、全て管領殿がお受け取りください。上杉家が強く成れば彼らは裏切りませぬ」
「ただ、管領殿の元に出仕したいという越後の豪族が居りましたならば、替地として賜りたい」
関東管領である山内上杉家の当主、憲政に対して景虎は単純に切り出した。
曰く、板東の揉め事であり、それを左右するのは全て憲政の差配であると。そしてひとまず山内上杉家が組み入れた全ての領地を直轄地として、今後の活躍に対する報酬として豪族たちに渡すべきだと言ったのだ。そもそも家を二分した豪族に関しては、厳重注意と僅かな所領没収で許すしかないのだ。完全に滅ぼした国人の領地などそう多くはないのもあるだろう。
「それは無欲な事。大儀と申すほかあるまい」
「いえ。全ては都の御差配で協力したまでであります」
(ただでさえ領地もらっても面倒なのに、それが飛び地とかナイヨネー)
(噂に違わぬ女傑ぶりよな。しかし自分の意のみに従う、気に入らねば知らぬという事か。しかしここで去られても立ち行かぬぞ。少しは分け前をやらねばな……)
徹頭徹尾、内政に興味のない景虎としては全てを憲政に放り投げたつもりであった。
しかし越後人が頭が固く、指図されることが何より嫌いな事を良く知って居る憲政としては別の考えをせざるを得なかった。『頼まれ仕事で戦っただけで全て終わったら帰る』その姿勢自体は実権を守る意味でありがたいのだが、いまの状態で帰られても後ろ盾となる武力が存在しないのだ。いみじくも景虎が言ったように、山内上杉家固有の力を持つまでは手放す訳にはいかなかった。
「では先ほどの弾正殿の言葉を受けるとする」
「越後より国替えに同意する者ならば受け入れよう」
「なに、元は板東より越後に参ったものも多いのだ。父祖の地に戻りたいという者もおろう」
「それはありがたい限り。彼らが坂東で起こし、これからも起こすやもしれぬ非礼をお許しいただければ何よりのことでありましょう」
憲政としても自分の味方は多い方が良い。
そこで移住者が居るならば、殲滅できた国人の領地を与えても良いと思っていた。そもそも地元の事は地元の民にしか判らぬことが多く、そのための者を皆殺しにした以上は立ち行かなくなる場所もあるはずだ。自らは取り上げた所領を手に入れ、必要であれば親族に戻してやるくらいで、配下の豪族たちもまとまるのだから良かろうと考えたのである。
「それで武蔵はいかがする気かな? 北武蔵の辺りは平らげたと聞くが」
「以前に申し上げた通り、このまま越年して帰順せぬ者を一つ一つ叩いて潰します」
「武田家も援軍を寄こしたのであろう? 予定を変えても良いと思うが?」
「小田原城は天下の名城。下手に大軍を集めてしまえばこちらも身動きできぬかと」
当初の予定では、景虎は通年で三千の兵力を動かし続ける気でいた。
憲政としても国を乗っ取られ、勝手な事をされても困るのでその方針を受け入れてはいた。だが今の流れを予想して武田晴信が援軍を出したことで、戦力的には武蔵をすべて取り戻すのも難しくはないと思われたのだ。ここで逆転し、伊勢家を追い詰めて昔の栄華を憲政が求めるのも当然であろう。
「むむ。小田原か……。伊勢が随分と手を入れたと聞くな」
「はい。話によると町ぐるみ、場所によっては畑や井戸も含むそうです」
「村人たちがイザとなれば兵となるのであれば、何年でも戦えましょう」
「それに……間もなく春です。板東の諸将を招集すれば来年以降に響きましょうぞ」
小田原城だけでは憲政とて止まらなかったかもしれない。
だが間もなく春であり、川越城で惨敗した過去が彼に自重を促していた。千載一遇のチャンスというものは同時に博打であり、景虎の言葉通りこのままジワジワと行く方が有益そうに見えたのだ。そうした経緯もあって、流石に大規模出兵は取りやめたのである。
「来年か。この数字は確かなのか?」
「私も専門ではありませぬが、少なくともこの間まで攻められておったのです」
「おそらく諸将に配る兵糧はおぼつきませぬ。手弁当で参らせるのがせいぜいかと」
「……であらば小田原攻めは猶更に無理だな。全員が来れば秋口まで保ちそうもない。……じゃが全員が来そうもないという中々情けないことよ」
加えて食料があつまるのか不安なことが大きかった。
景虎は内政についてはまるで判らぬが、前世では現代人だったので勘定くらいはできる。手持ちの兵糧がまるで足りないのだ。関東の諸将を集めた場合は間違いなく膨大な出費で山内上杉家が破綻してしまう。もちろん逆襲するからと言って、裏切った諸将が味方として駆けつけるとも限らないので、もしかしたら丁度良い人数で秋の収穫まで保つかもしれないという微妙さ加減であった。
なお転生者ゆえの無知から景虎は平然と数字を扱った。
だがこの時代、金勘定は下々がやる下賤な事なのだ(なんなら国土経営も下のやること)。それを関東管領に押し付けて出兵思い留まらせるという暴挙であったという。
「尋ねるがどうやって伊勢を攻め立てる?」
「奴は関東管領を舐め腐っておる。このままで済ますことなど出来んぞ」
「単純に倒すのであれば武蔵に十年、相模には三十年は掛かるでしょう」
「後はどこかで妥協し、伊勢の心を折って恭順させるかどうかです。妥協させるならば言うほどに難しい戦ではありませぬゆえ。全ては小田原城を落とせぬことに起因しております」
頭は冷えた憲政であるが、復権を諦めたわけではない。
史実と違って上野の国を保っている事と、長子である龍若丸が無事であることもあるのだろう。小田原攻めは当面しないという案を受け入れた上で作戦を尋ねると、景虎は勝算ではなく……おおよその年数で返して来たのである。そこには戦いとなれば問答無用で勝つと言う自信と強引さが伺えた。
「ここでも小田原か……。だが武蔵に十年は言い過ぎであろう。伊勢は数年であるぞ」
「余力の範囲で攻め続け、従わぬ豪族を一つ一つ味方に戻し、顔色を変えればその時点で潰しに戻ります」
「関東の諸将がその事を理解し、武蔵の全てが頭を垂れるまでそのくらいは掛かりましょう」
「そうですね……西上野に侵入した武田家を許し、助力と引き替えに援軍を出させる。あるいは管領殿が自ら前線に立たれるのであれば、その都度に半減いたしましょう」
正直な話、この辺りは圧力と言うか本気度による圧迫の話である。
アレな話だが上杉憲政は武人ではない。覚悟を決めて戦力を率いればその間は何とかなるが、味方が少なくなると腰が引けてしまうタイプだった。平井城を捨ててさっさと厩橋城まで下がるなどその辺りからも伺えるだろう。これでは全力で武蔵を攻略など出来る筈はないではないか。そんな姿を知っているからこそ、諸将も憲政を舐めていて従わないのである。
「む。あの火事場泥棒か。まあ関東管領に従うならば領有を認めても良いがな」
「真田の手引きで鎌原家が従ったそうです。羽尾と斎藤は親族のみを助けたとか」
「彼らを警戒しながら進むのであれば残す兵力は必然と多くなります。また追い出すならば南下は当面不可能」
「認めて手を組むならば逆、ゆえに時間が半減するということか」
武田家は上野の諸将が伊勢家に付き始めた時、関東管領への助勢としてやって来た。
そしてそのまま西上野を強引に占領し、従う者には領地を安堵し、従わぬ者は理由を付けて滅ぼしていたのだ。甲斐は米の生産量が相当に低く、食料不足を上野で賄おうとしているフシがある。ゆえに彼らを認めて戦いを避けるか、それとも戦って信濃に追い返すかが分かれ目と言えるだろう。
また武田家と争う場合、少なくとも長尾家は本拠に戻って信濃攻略に専念するだろう。そうなれば元の木阿弥。越後の危機自体は他人事であったとしても、手を借りる故ならば憲政としても他人事ではない。再び上野の国は窮地となり、今度こそ山内上杉家が滅亡する危険性がある。
「しかし武田を組み入れれば五年、儂が陣頭に立てば三年か……考えさせるの」
「重要なのは武田がこちらの陣営に居続ける事でしょうね」
「放置すれば今川家を引き入れて伊勢と同盟を組みかねません」
「さすれば伊勢が受ける圧力は半減どころではないでしょう。今ならばこちらが兵糧を今川から買えますが、同盟を組まれれば逆となります」
景虎としては晴信が信用できないというより、放置すれば前世の知識通りになると思っていた。
武田や今川の立ち位置を考えれば、それぞれ目の前の敵にのみ集中できる三国同盟は魅力的なのだ。彼らからすれば『伊勢は強過ぎる』『もう少し叩いておきたい』という部分は確かにあるのだが、伊勢が完全に滅亡するのは避けたいだろう。
(こちらの苦悩も知らず涼しい顔をしおって……)
(相も変わらず他人事よな。こちらの身にもなって欲しい物だがな)
(しかし戦いの事に成れば頼りになるし、無欲なのは悪い事ではない)
(少なくとも親身なフリをした狼よりはマシだ。世の者どもは儂に必要な話をせず、頼りにならぬばかりと侮るばかり故な)
その辺りの機微は憲政にも判るし、せっかく逆転しそうな雰囲気を無駄にはしたくなかった。
また武田家が東進して上野統一を目指す可能性もあり、ここは懐柔政策で行くべきだとの決断は思いのほか早かった。その上で、何処まで山内上杉家の利益と理想を求められるかを思案し始める。
「時間を掛けるのは旨くあるまい。ここは武田を引き入れるとしよう」
「ここは大樹様に掛けおうて、儂からそなたと武田になんぞ官位を送るとしよう」
「私もですか? 必要として居らぬと先ほど……」
「謙虚もたいがいに致せ。ここは儂とのつながりを喧伝するのが重要じゃ。そなたへの礼は必ずせねばならんし、武田の小僧には儂を裏切ることが恥だと思わせる為でもある」
戦闘や内政ではまるで役に立たぬ憲政であるが、派閥の力学に関しては別だ。
こうすることで上杉家が吝嗇ではないと示せるし、他の諸将にも秩序と言う物を示せるだろう。もちろん憲政自身が口にしたように、裏切って上野全土を攻略した場合、周囲の大名が誰も信じなくなるという効果こそを狙っていたと言える。また権威による工作以外に彼の能力は示せないので、こういった面に疎い景虎への無意識のマウントも果たせるという意味でもあった。
(しかし、何処までを求めるべきか。関東管領の権威は勿論のことだが……)
(儂はまだ若いが何時までも生きられるわけではない。三十年、生涯をかけては伊勢を倒すまで保つまい)
(だが、こやつと武田の小僧を番犬代わりに据えれば当面は勝てよう。それで少しでも早めねばならん)
(だが、いつまでも従順な犬で居てくれるのか? 今は何の欲も見せぬがずっとそうではあるまい。他の手段に頼るか、先の言葉ではないが伊勢と妥協するしかないのか……)
憲政は凡人なりに様々な未来を模索し始めた。
もしかしたらその中に、史実通り関東管領を景虎に譲る未来もあるかもしれないし、それ以外の未来もあるかもしれない。だが、少しずつ関東の情勢が動き始めたのである。
今回はタメ回というか、北条包囲網の準備回ですね。
史実通りに戦ったら何十年たっても駄目な事は判ってるので……。
「なんとかならんのか!」「ならねーよ!」と関東管領さんに現実を見せた感じになります。
ちなみに景虎さんはそろそろ飽きて来たので「お砂糖ほしーなー」くらいの感覚です。