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三河に進駐した今川家の陣地では、ある種の弛緩した空気が漂っていた。
無理もあるまい。武田家との共同で圧倒的な兵力で攻め立て、敵対を試みた場所を殆ど攻め潰したのだ。不可能だったのは早い段階で降伏してしまった場所だけに過ぎない。
奥三河からかなりの部分を武田家が占拠しているので統一はしていない。
だが、港を含む町一つと引き替えに、その大部分を引き取るという話まで既に終わっていた。加えて尾張の織田氏とは当面戦わないとの通告もあり、気分が弛緩してしまうのも無理は無かった。
「三河の取得、執着至極に存じ上げます」
「雪斎。死に掛けのくせに嫌味は止さぬか。……晴信めは動かせると思うか?」
「暫くは無理でしょうな。武田が引き受ける危険の方が大き過ぎますゆえ」
「越後との隣接か。まったく何をやらせても厄介な小娘よ」
今川治部大輔義元は師である太原雪斎の床に訪れ問答を始めた。
三河を完全奪取し、松平家も首根っこを掴んで逃げられない状態にしたと言っても良い。あちこちに居た親族衆のほとんどを平らげ、武田に任せた奥三河などは国人たちの大半を討ち取ったという。また晴信の仲介で一向宗とも仲直りしており、三河一国の支配だけならば満額回答と言っても良かったのだ。
問題は此処までの準備をし武田を引き入れたのは、尾張攻めを予定していたからである。
本来ならば二年もしない内に攻め込むはずであり、三河の支配を甘くしても良いのであれば翌年には第一陣を送れたであろう。斎藤家が暴れ回り、織田勘十郎信行が裏切ることを考えれば、そのまま併呑することも可能であったかもしれない。それが中止せざるを得なくなったのだ。皮肉の一つも出よう。
「だが武田は殆ど傷付いておらぬまま拡大した」
「伊勢……いや北条を我らの仲介で動かせばどうだ?」
「可能であると推察します。ですが、そのためには関東管領がしくじらねばなりません」
「それで暫くは無理と言う事か。……この問答を予想しておったな、雪斎」
義元の不満は、攻めるべき場所がなくなったからである。
東の北条家とは和睦したばかりであり、攻めるとしても途中に小田原城がある。北は同盟者である武田であり、西の尾張が封鎖された故に攻める場所が無いのだ。その上で、武田家も似たようなものだ。
だが異なるのは今川家が安全なのに対し、武田家は逆に越後勢を背負ってしまっている。
北信濃・西上野・東美濃と戦闘する場所が多く、何処を攻めても良い反面、攻められる場所も多いのだ。戦上手の輝虎と戦った場所は敗北する可能性が高いので、慎重にもなろう。
「どうせ暫くは三河や河東を慰撫するために動けぬのです」
「関東管領がしくじるのを待っても良いのではありませぬか?」
「その頃には晴信も新領の不満を抑えておろうし、我慢がしきれなくなると言う訳だな」
戦いで領地を奪ったからといって、そのまま国力に繋がるわけでもない。
反旗を翻そうとする武将は多いのだ。また民が持つ余裕も失われている事が多く、迂闊に放置するのは危険であった。その意味で今川には余裕があるが、甲斐から一気に領地を増やした武田は危険だろう。だが、それ以上に手元がおぼつかないのは、他人の褌で相撲を取った山内上杉家だった。上杉憲政は輝虎に力を借りて戦ったのだ、関東勢がそのまま彼を盟主として担ぐとは思えなかったのである。
「しかし統治に苦労するとなると、あの小娘の気分も判らぬでもない」
「だが彼奴はあれほどの財を何処から手に入れておるのだ?」
「我ら以上に交通の便が良く安全であるがゆえ、矢銭の提供が多いのかと。それと鉱山も相当に」
「そう言えば越中でも港と鉱山だけは押さえておったな。金を産む場所を抑えた上で動員もせぬでは貯まる一方ということか? 羨ましい事だ」
輝虎は見栄っ張りだと思われていたので、金を負担させるつもりだった。
しかし蓋を開けてみれば、自分たちの予想よりも多い額を提供したのだ。これにつられて本願寺も相当な額を出し、今川家も合わせて一万貫にもおよぶ献金を朝廷に施したことになる。
無論、義元とて判らぬでもないのだ。平和な国では商人が往来し易い。
この間の三国協商では越後と駿河を往復する商人たちが増えた。今川家でも青苧などの出費も下がった上で、相当な矢銭提供が増えたのだ。越後だと鉱山は輝虎所有であり、殆ど有力豪族も関わって居ないのが大きかったと言えるだろう。
「しかし銭雇いの常備兵も相当に増やしたと言うが?」
「その兵の多くは国人共の子弟ですからな」
「これまでにない金をもらえば開墾もすれば贅沢もしましょう」
「他所の領地が豊かに成れば我が家も。金があれば使いたくなるのも当然。そして多くは身の丈に合わない金を使い、金を借りるのですよ。……他ならぬ弾正様から」
輝虎は殆ど内政の指示を出さない。
ただ街道を作り、作った者を優先するだけだ。逆に言えば国人たちが常備兵を呼んで工兵として扱い、我が領土に道を作りそのついでに領地を開墾させ、あるいは治水に精を出させる。それで増えた食料を売りに出し、子らが常備兵として受けた報酬金と合わせれば、相当な買い物ができるのである。
問題は止せば良いのに身の丈に合わぬ出費をする愚か者だ。
越後では都の産物や関東の産物も容易く手に入る為、つい大きな買い物をする国人が増えたという。そして越後における金貸しの元締めは輝虎であり(なお史実)、金貸しでも大儲けをしたそうな。羽柴秀長ほど阿漕でないだけマシだと思いたい。
「いっそのこと我が家でも街道整備を行うか?」
「おやめになった方がよろしいかと。今川家は既に大身」
「短い間に隆盛した越後とは違うのです」
「それと弾正様は清々しき程に命令せぬそうで。たった一つの命令ゆえにみな従うのでしょう」
真似しようかと言う義元に雪斎は厳しくたしなめた。
輝虎は他にまったく内政命令を出していないからこそ、諸将は話を聞いているとも言える。そこに絞っているからこそ、大軍を動員しないからこそ、越後の出費は少ないのだ。同じことをするならば大枚をはたいて諸将の顔を叩くくらいの必要があるだろう。
「それもそうだが……。となると晴信は真似をしそうだのう」
「あそこは信濃を中心に獲得したばかりの土地が多いですからな。金山の開発も順調とか」
「従う者には金殻をつかみ取りさせ、逆らう者はそれを理由に罰っすれば良いと?」
「ふむ……それでは武田は暫し動きそうにないのう」
義元は段々と状況を掴んで来た。
ここに来るまでに雪斎が情報をまとめ、その推論をおおよそまとめて来たのだ。その上で、自分に考えさせることで領主として鍛えているに違いない。ただ漫然と情報を受け取り提案されるのと、自分で考えて色々と推敲してから行動するのではまるで違ったものになるからだ。いつもこの様に試されたいわけではないが、雪斎は死の床にあり、生きている内にこう言ったやり取りは少しでも必要だろう。義元はともかく、嫡子である氏真はまだ若いのだから。
(国の主にとって仲が良いなどと言うて攻めぬ理由などない)
(それは我らも晴信も同じよ。我らが武田家を攻めぬのは単に利がない故)
(晴信から見れば、『待ち』の姿勢であろう。今は攻め取った場所が多く、将は服しておらぬ)
(問題なのは晴信には何処でも良いことじゃな。関東管領がしくじれば上野を、輝虎ならば越後を攻めれば良い。そして……我らを狙っても良いのだ。信長や氏康を扇動し三方より攻めて来る。少なくとも『今』、朝廷や大樹を敵にしてはならぬ)
武田家の領域は難治の地であり、縁戚ゆえに、今川家は攻めるべきではない。
だが武田家にとっては美味しい場所であり、安全地帯も作り易いと絶好の場所である。縁戚と言う事にあまり意味を見出さない男ゆえに、安心するべき相手ではない。少なくとも、武田が何処かの国へ攻め込んでから動くべきだろう。そうなれば晴信は、背中を守るために野心をひっこめるからだ。その隙に尾張なり伊豆・相模を攻めるべきなのだろう。
「暫くは模様眺めをしながら氏真の教育と兵の鍛錬になるか」
「その間に関東へと間者を送り、関東管領への不満を探る」
「そのために金を撒き、不満が大きくなって争乱となった所で北条や武田が動くのを待つ」
「主目標は尾張とするが、どうせ関東へ人遣るのだ。伊豆を落とすことも考慮は忘れぬべきだな。無論、氏康に気が付かせてはならんが……いや。同盟を組む可能性を考えれば、尾張の比重が高いと匂わせておくのも悪くはないな。向こうの方で儂を説得するために条件を積み上げよう」
義元は目を閉じて言葉を口に出し始めた。
雪斎と答え合わせの問答をする為だが、その姿を見て反応を見ようとつい考えてしまう。寿命が残り少ない師に安心してもらう意味でも、何度聞けるか判らない助言を聞くという意味でも、ここは自分の考えを自分だけで出すべきなのだ。もちろん答え合わせを聞けると思う時点で甘いのであろう。だがせっかくのチャンスを無駄にするのも惜しいと思う。
狙うべき利益の多い土地は、尾張で間違いが無い。
以前より争った織田家の領地であり、平地が多い場所なのだ。縁戚であり難治の甲斐・信濃へ行く労力の何倍も利益が大きいと言えるだろう。その上で伊豆と相模一部を獲得できるならば、北条家との戦いも考慮から外すべきではない。その事が北条左京大夫氏康が考慮しない筈はないが……その事を計算に入れれば良いだけの事である。同盟を持ちかけて来るならば良い条件で結び、そうならなければ奪いに行けば良いのだから。
「それと、尾張に和睦の条件を出すとしよう」
「最低でも三河守継承の放棄。尾張で港を含む一群、または二郡。それと金」
「賠償とは申さぬ。そうじゃな、尾張より駿河……江戸に至る為の道を通す協力金としようか」
「あるいはそうじゃな。川の治水するための共同事業とでも理屈をつけても良いやもしれぬ。こんなところでどうだ?」
そして尾張に関するちょっかいを考え始めた。
信長の父親である信秀は三河守の地位を得て三河侵攻の大義名分にしていた。父の地位を子供に受け継ぐとも限らないのだが、代々継承する例もあるので、特に誰かが要求しないならば否定されないのも事実であった。そこで最低条件として、三河守の継承を放棄させることを条件に選んだのである。
「港を要求したのは武田にくれてやる穴埋めで?」
「いや。むしろ武田に渡すと伝える。緩衝地帯にすると言うてな」
「三河で渡すと取り決めた港が重要になるやもしれぬ。意味なく反故にする訳にもいくまいよ」
「重要なのは口実だ。尾張に攻め込む理由であり、三河に攻め込ませる為のな」
義元は領土の交渉に関して必ずモメると考えていた。
織田家との戦いに成ればこちらの方が国力的に有利なのだ。ならばイチャモンをつけ易い条件を予め用意しておけば良い。領土交渉は当主が応じても有力武将が不満を漏らして認めぬことが多いのだ。何処かで織田家に所属する武将が不満を掲げて暴発する可能性は高かったと言えるだろう。
「どうにかして吞むやもしれませぬぞ? 弾正様を通せば別の条件を付けられましょう」
「官位を朝廷に掛け合う。あるいは途方もない金を積み上げるというやもしれませぬ」
「大樹様や朝廷に『有利なのだから応じるように』と命じられる可能性があります」
交渉のイロハとして、最初に過大な要求をするのは常の事だ。
少なくともそういう事にして、朝廷や将軍家経由で妥協させに来る可能性はあった。輝虎は彼らから信用されて居るし、金を借りるなりすれば、織田家単独で用意するよりも簡単に行く可能性はあるのだ。その上で大金を積んだうえで妥協を要求されるかもしれない。
「その時は尾張が割れるまで精々海道平穏の為に、水軍でも増強するとしようぞ」
「今のところ我らは強力な水軍を持っておるわけではないし、港も大きくはない」
「だが我らを納得させるだけの金が用意できるならば、それを使うて育てれば良いのだ。行く先は何処でも良いしのう」
「御見事。ただ答えるだけではなく、拙僧の予想を超えてきましたな」
朝廷や将軍家に言われれば仕方がないと内外に宣伝できる。
実際にそれで尾張を諦める訳ではないが、配下を説得するのは難しくないだろう。その上で必要なのは金の使い道だ。今川家をより豊かで強力にするために、もらった金と時間を遣うのだと義元は考えたのである。この方法ならば、織田と戦うにせよ、戦わずに北条なり他の大名を攻めるにも使えるのだから。
そして雪斎が将来を不安に思わないように、その想像を越えて新しい策を練って見せた。
決して卑屈になる事も無く、時間も金も有意義に使う事が出来る。雪斎が関与することが難しくなる武田や北条工作よりも、余程に有意義な使い道だろう。それこそ氏真の時代には有力な水軍が育っているかもしれないのだから……。
今回は今川家から見た情勢と計画の話。
武田家から見ると、攻めるべきでない……となるので止めておきました。
視点を変えると同じ話でも、「いつかやったる!」になるので。
ちなみに太原雪斎はこの功治元年までの寿命です。
●各家の事情
今川家の事情。史実よりも遅いが、史実より直轄地は多い。
武田家の事情。占領地の統治が心配。忠誠度もだけど守る方も。
松平家の事情。半独立従属大名から、完全従属大名になりました。
織田家の事情。斎藤家を追い出したら尾張統一。
斎藤家の事情。撤兵して美濃に戻って戦いたい、しかし追撃されるのは嫌なので悩み中。
上杉(越後)の事情。金持ち喧嘩する。西美濃の次は北伊勢だぜい!
上杉(山内)の事情。関東管領だ! 私が来た! 関東の名手は俺なんだぞおおお!
だいたいこんな感じです。