「いや困った。困ったなあ……」
ぽつりと呟いた言葉は、真に迫っていた。
雑多な印象を受けるどこぞの路地裏、元が何だったかもわからない粗大ゴミの端に腰をかけ、肩を落とす。
誰が見たって困っている人間だ。この風景を写真に撮ったら、十人が十人「困った人」とタイトルをつけるだろう。
さて、そんな「困る」の概念と化している私が困っている内容だが――わからない。
わからないのだ。わからないことに困っている。
今ここに至るまでどころか、己が誰であるのかさえ記憶が無い。
より簡潔、かつチープに言うと、記憶喪失なのだった。
さて、規模のでかい迷子だが、鉄則は守るべきだろう。
つまり、迷子であると自覚したのなら、その場から動かず、助けを待つべし。
「なんだテメー、ここはオレらのナワバリだぞ」
――しかし、迎えに来たのは私の知り合いではなさそうだ。さらに困った。
ガラの悪そうな男たちが数人、ガンをつけてくる。
「それは失敬、しかしここで人を待っているんです。寛大な心でもって、少しばかり軒先を貸してはくれませんか」
どんな人を待っているのだかもわからないが、そう言うしかなかった。
返事は拳で返ってきた。相手は喧嘩っ早そうであるからして、それも想定内――だったのだが。
パシリ、とその拳を、自分が難なく受け止めたのは想定外だった。
殴ってきた相手が驚きに目を見開くが、私もそんな顔をしている自覚がある。
あれ? 記憶がないけれど、もしかすると私もチンピラだった?
バシ、ゴス、ドンガラガッシャン。
そんな感じでチンピラを撃退した私は、考えを改めることにした。
たぶん私、一般人でないな。
なんだか身軽だったし、人を殴るのに慣れていた。拳や鉄パイプが眼前に飛んできても、恐れて目を瞑るでもなく、冷静に軌道を見極めて対処した。一人で三人を相手取り、大した怪我もなくしりぞけた。
そんな芸当ができるのなら、それ相応に敵がいる。戦えなければならない環境に身を置いていたに違いない。
ならばここに留まるのは得策ではない。
先立つものは必要だ。もしかすると記憶を失う前の自分は追われているかもしれない。
伸したチンピラたちから財布と衣服を拝借し、服装を変えてその場を離れた。フードを目深に被り、なんとなく喧騒の聞こえる、大通りらしき方向へと足を進める。
さて、問題を整理しよう。
自分がまずしなければならないことは、とりあえず記憶を取り戻すこと――ではない。
それよりも切羽詰った問題が存在している。
チンピラから奪ったのでオーバーサイズな、薄緑のパーカー。
その下、己が初めから着用していたシャツを覗き込む。
血塗れなのだ。
返り血ではない。
シャツには、自分の体ごとなんらかの鋭利な刃物で貫かれたであろう痕跡がありありと残っている。
にも関わらず、自分の体には傷がない。
正確には、シャツに空いた穴のあたりに、ひきつれたような、なんとなく真新しいと感じる白っぽい皮膚が存在しているのみだ。
ここから推測するに、私は
記憶障害に関しても、この大怪我が起因していると、一度仮定しておく。
一般的な考えでもって、こんなに大きな切り傷は致命傷だ。治療には切った貼った、縫った閉じたの大手術が必要だろう。それでもって、手術をするなら服は脱がす。あるいは着せたまま行ったとしても、大怪我が全治するまでには、さすがに新しい衣に着替えさせるものだ。
つまり尋常な治療行為のあとではない。
まるで魔法でも使って、即座に治したかのようだ。
チンピラを殴ったあとの手はジンジンする。
念の為に指先を軽く噛んでみたが、滲んだ血がすぐに体の中に戻っていくことはなかった。
自分はきっと魔法使いではない。
なにをメルヘンな想像にひたっているのだと思わないで欲しい。記憶喪失である時点で、物語の主役、あるいは起点を務めるくらいの器量はあるだろう。
腹にでかい穴が空くような、命に関わる傷
とはいえ、自分にはどでかい腹の穴を即座に治せるような、異能に近い医療を身につけた仲間がいる、という状況に一票だ。
限定的な再生能力を持った自分が記憶を失って単独一人、よりも、記憶を失った己には素晴らしい医療能力を持った仲間が一人いる、と考えた方が心強いからだ。ひとりぼっちは寂しいからな。
私は探偵ではないゆえに、理論的な推理はしない。
人間というのは、高い可能性よりも、自分に都合の良い未来を望む生き物なのだ。
「ちゅーわけで。目標一、生存。目標二、仲間との合流。以上」
三四がなくて、五に記憶を取り戻す、ってなところだろうか。
己を知っている仲間と合流できたのなら、自分の立場は明らかになるだろう。だから記憶の復旧は二の次で構わない。
もちろん記憶を取り戻せれば、仲間との合流も容易になるだろうので、あわよくば思い出したいところだ。
生存に必要なものといえば、衣食住だ。
衣は一旦
この香りを形容する語彙を自分は持ち合わせていない。それが記憶障害のせいなのか、記憶を失う前から知らない香りだからなのかは、現状判断できなかった。
香りは屋台の店先からするようで、呼び込みの声を聞く。
「魚団子スープ、いかがですかい」
魚と団子とスープという単語に覚えはあったが、それらが組み合わさったものに心当たりはなかった。はてさて。
「これだけあれば食えますか」
「うちはそんなに高級志向じゃありやせんぜ」
なるほど、見せた紙幣はそれなりに高額らしい。
あるいはこの屋台が安いのか。どちらにしろありがたいことだ。
私はカウンター席に座ってようやくあることに気づいた。
「お兄さんめちゃくちゃ顔怖いね」
「よく言われやすが、ここまで正面切られるのは珍しいですぜ」
「これは失礼。だが貶したわけじゃないんだ。褒めてもないけど」
「ただの事実ってことですかい」
事実として、青年の人相は悪い。
だがここまでの受け答えでわかるように、性格としては温厚なようだった。
さきほど問答無用で殴り掛かってきた彼らとは大違いである。爪の垢を煎じて飲ませてあげたい。
勉強代ということで、彼らのお金は青年の屋台に流しておこう。ゴチになります。
「苦労してそうだね」
「わかりやすか」
「接客業では笑顔が大切なのに、君は笑っても凄みが出るんだもの。バウンサーでもやった方がいいんじゃない?」
「やったことはありやすがね……」
あるんだ。意外とバイト戦士だった。
「要らねぇトラブルを呼び込むもんで、荒事の多い仕事は進んでやりたくねーんです」
意外でもなく苦労しているようだ。
ことりと目の前に皿が置かれた。
香ばしい香りが、口内に唾液を呼び込む。
行儀も作法もわからないので、私はひとまず皿を持ち、直接口をつけ、スープを啜った。
わかったことがふたつある。
まず、私はやはり魚団子スープを初めて飲むらしい。
私は記憶障害であるが、すべての記憶をなくしたわけではない。
歩く方法は覚えているし、言葉も覚えている。
ただし、チンピラから奪った紙幣が「おそらく金銭であろう」と推測することはできても、どこの国のどんな価値のものなのかはわからなかった。
バウンサーという特殊な警備員についての知識はあるのに、魚団子スープという単語には聞き覚えがなかった。
何を忘れ、何を覚えているかの基準は定かではない。
意味記憶は保持されたまま、エピソード記憶だけを失っているというのなら、私はこの国で常識を学んだわけではない。
推測するに、私はこの国の人間ではない。
だからどうしろという感じだが。
この国の住民でなく、通貨も知らないのに、言語が通じているのも不可解だ。うーん、各国で共通言語が用いられている? あるいは私は多言語話者? この国の言語を理解するほど学んだのなら紙幣価値くらい覚えているのでは――わからん。
「どうですかい?」
人相の悪い青年を見つめたまま、スープ皿に口をつけて静止した私をさすがに不審に思ったのか、声をかけられた。
私は何度か瞬きをして、スープ皿に傾斜をつけていった。
皿を水平に戻した頃には、口をいっぱいにして、もきゅもきゅと咀嚼する私がいた。
「
わかったことのふたつめ。
魚団子スープはおいしい。
3章まで4倍速の速読しててよくわかんねえなと思い、等速で8章までストーリー読んだんですけど結局よくわからなかったのでよくわかんねえまま書いた