ヒキニート、高校生になる   作:ナカイユウ

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ヒキニート、彼女と会う

 「ただいま・・・」

 「あ、お帰り。思ったより早かったね」

 

 日が沈んで空が暗くなり始めた6時過ぎ。海崎さんの力を借りた久しぶりの外出を終えて昨日まで文字通り年がら年中を過ごしていた家の玄関に入って靴を脱ぎ居間に向かうと、キッチンに立つカズの隣に見知らぬ赤髪の女性が立っていて、カズと手分けして夕飯の支度をしていた。

 

 「カズ・・・この人は?」

 

 居間に入った俺を認識して振り向いた赤髪の女性。パッと見た感じだと年齢はカズとだいたい同じくらいだろうか。顔立ちは美人系で隣に並ぶように立っているカズも兄の俺から見れば“無駄にイケメン”なものだから中々にお似合いだと思うのと同時に、どこか“はじめまして”じゃないような既視感も感じた。

 

 「はじめまして。そしてお邪魔してます、狩生玲奈(かりうれな)です・・・」

 

 俺と目を合わせるや否や赤髪の彼女は俺に深々と一礼して挨拶する。

 

 「あぁ、全然かしこまらなくても大丈夫ですよ」

 「はい」

 

 いきなり初対面の兄に出くわしたことでやや緊張気味な彼女の顔をもう一度目視する。

 

 「初めまして。俺は隣にいる和臣の兄の大神貴臣(おおがたかおみ)です」

 

 相手が年上で初対面だからか少しばかり緊張しながらもしっかりと俺の目を見て話す姿勢、彼女の気の強さが第一声で分かるようなよく通りそうな声、そして両耳にはカズと“お揃い”のピアス・・・

 

 “・・・そうか・・・彼女が・・・

 

 「・・・もしかして・・・君がカズの彼女さん?

 「・・・///

 

  試しに頭に浮かんだ確信をカズの彼女にぶつけてみると、彼女は分かりやすく頬を赤くして視線を斜め下へと移した。どうやら予感の通り図星みたいだ。

 

 「あぁごめん、考えてみれば互いに“存在”だけ知ってて初めましてだから驚くよね?」

 「当たり前じゃないですか、だっていきなり・・・」

 

 でも思った以上に本気で動揺されたものだから、言った後に少しばかりの罪悪感が伴った。

 

 「・・・あぁ兄ちゃん、狩生は」

 「自分で言うからいい」

 

 俺からの悪気のない一言であからさまに動揺する玲奈さんを見たカズが咄嗟にフォローしようとするが、彼女はそれを遮って再び俺に視線を向ける。

 

 「実は、お・・・“和臣”とは、去年の花火大会の日からお付き合いしていて、もちろん、お兄さんのことも家族のことも和臣から聞いています・・・・・・はじめましての分際でこんなことを言うのもどうかとは思いますが、“和臣”のことをずっと支えてくれて、ありがとうございます

 

 そうして俺の目を真っ直ぐ見たまま感謝を告げると、玲奈さんは深く一礼した。昨日まで“ヒキコモリ”だった俺にはやや大袈裟に聞こえたが、その言葉に何ひとつの嘘もないことは彼女の目と表情だけで一瞬で分かった。

 

 “・・・本当に素敵な彼女(ひと)と出会えたな、カズ

 

「・・・多分、カズから俺のこと色々聞いちゃってるだろうからどう話していいか分からないところもあるかもだけど、“ヒキコモリ”だったのは昨日までの話だから俺のことは“身内”だと思って全然気を遣わずに接してくれて平気なんで・・・・・・“玲奈さん”こそ、カズの支えになってくれて本当にありがとう

 

 心の内をまた口にしてしまうと玲奈さんの感情がまた“ショート”しそうになる予感がしたから、俺は自虐ネタを挟みつつも俺に代わって“家族のため”に頑張り過ぎていたカズの“彼女(支え)”になってくれた玲奈さんに同じく感謝を告げた。

 

 「あぁ・・・はい」

 

 たださすがに昨日までヒキニートだった人間に気を遣うなと言って“はい分かりました”となるには、まだ少し無理があるみたいだ。これも全部、俺が蒔いた種だ。次にまたこの家を“訪ねる”ときまでには、今ここにいる“3人”と本当に分け隔てなく話せるようにしなければならない。

 

 「おっ、今日はカレーか」

 「兄ちゃんが思った以上に早く帰ってきたからこれから鍋に入れるところなんだけどね」

 

 空気が気まずくなる前に話題を逸らそうとカズと玲奈さんが立つキッチンの奥へと目を向けると、大神家で最低でも月1回は必ず出していたカレーライス(献立)の食材がまな板とボウルの上に置かれていた。

 

 「そういや親父は?」

 「風呂入ってるよ」

 「風呂・・・ってことはついさっきまで寝てたのか親父(あの人)

 「昨日は夜勤だったからね」

 「いくら何でも寝すぎだろそれ」

 「兄ちゃん、こんなんでも意外と生活リズムだけは規則正しいからね」

 「俺が部屋から出たら本当に容赦なくなったなお前・・・」

 

 ちなみに親父は夜勤明けの睡眠からの目覚めのルーティンとして欠かさずやっている“寝起きの風呂”に入っている。2年半も部屋に引き篭もっていたこの俺が言える筋合いはないけれど、カズの彼女でもある玲奈さんが家に上がっていようがお構いなしにいつも通りに振る舞うようなところは、ある意味で俺以上のマイペースっぷりだ。

 

 「びっくりしたでしょ?家に上がったらいきなりカズの親父がリビングで寝ているところに遭遇しただろうから」

 「・・・確かに初めてお邪魔したときは驚きましたけど、お父さんの広臣(ひろおみ)さんとは少しだけ話をしてみたら結構気さくな感じの人でしたので、もう大丈夫です(年齢の割にチャラかったけど・・・)」

 「そっか・・・なら良かった(ホントにあの親父はマイペースだからなぁ・・・)」

 「狩生、何気に父さんと会話したの昨日が初めてだからね」

 「仕事の都合のせいで夜勤多くてだいたい朝昼は寝てるからなあの人」

 

 ちなみに玲奈さん曰く、親父とは昨日ここに来たときに初めて面と向かって会話したという。ひとまず親父のことについては特に悪くは思ってはなさそうだ。

 

 「さて、俺も手伝うか」

 「いえ、あとは炒めて煮込むだけなんでお兄さんはゆっくりしてもらっていいですよ」

 

 そのことを確認した俺はカレーを作るために一歩足を進めようとしたが、その足を玲奈さんの言葉が止める。

 

 「いいよいいよ、俺手伝うからさ。あと難なら玲奈さんはあそこのソファーでゆっくりして」

 「いえいえ、お兄さんは是非とも“部屋”でゆっくりしてもらって」

 「部屋?」

 「ごめんなさい、そういう意味で言ったわけじゃないんで」

 「そういう意味って?」

 「あぁいや・・・とにかく、今日のカレーはあたしと・・・和臣で作るって決めていたので、そうよね?」

 「うん、だから兄ちゃんは普通にいつも通りに夕飯ができるのを待ってていいよ」

 「・・・おう、そうか(いつも通りって、その言い方だと“ヒキコモリ”に逆戻りすることになるぞ俺・・・)」

 

 手伝おうとする俺を玲奈さんがしきりに気を遣う繰り返しに困惑気味にさり気なく俺の心を抉るカズ。キッチンは何とも言えない空気感に包まれる。きっとカズのことだからずっと引き篭もっていたことやそうなるに至った経緯も含めて全部話しているからだろうか、分かりやすく俺を前にどう接して良いのかが分からずに緊張しているのが伝わる。当たり前だ。相手はただの彼氏の兄じゃなくて、心を病んで“ヒキコモリ”になってしまった兄だから。

 

 

 

 “『ちなみに和臣君の彼女さん、パッと見気は強そうですけど意外と繊細なところがあるのでいつかご挨拶をしようと考えているならあまり刺激はしないように』”

 

 

 

 そして今更ながら、墓参りのときに海崎さんが言っていた忠告を思い出した。俺としたことが、初っ端からいきなり“禁じ手”を使ってしまったことに気が付いた。それからカズと一緒に作ると言っているから、逆に下手に気を遣ったらそれこそ迷惑だろう。

 

 「とにかく、手伝ってくれるのはすごく嬉しいんだけど、今日は“どうしても”兄ちゃんを“祝いたい”から、俺たちに作らせてよ」

 

 2人のために敢えて一歩引こうと決めた俺に、カズが笑いかけながら言葉を掛ける。

 

 「カズ、“祝う”って」

 「それは後で教えるから」

 「・・・分かった、じゃあ楽しみにしとくわ。そうだ玲奈さん、どうしても手伝ってほしいことがあったら普通に部屋のドア開けて呼んでくれて大丈夫だから」

 「あぁはい、分かりました」

 「兄ちゃん、カレーはあと3,40分ぐらいで出来るから」

 「おう、了解」

 

 何となくカズの言った“祝いたい”の意味は割とすぐに頭の中に出てきたが、“2人のため”に俺は気付いていないフリをして自分の部屋がある方角へと足を向ける。

 

 “ ・・・本当に素敵な彼女(ひと)と出会えたな、カズ

 

 去り際にまたしても心の内が口から溢れ出しそうになったが、その言葉を心の内に留めたまま黙って自分の部屋へと歩を進めようとする。でも何か、気を遣いがちな玲奈さんの緊張をほぐす言葉はないかと俺は考える。

 

 「・・・玲奈さん

 

 頭を回転させながら自分の部屋に向かい足を一歩踏み出したところで“代わりの言葉”が思い浮かんだ俺は、玲奈さんの方へと振り返る。

 

 「・・・“和臣”のこと・・・これからもよろしくお願いします

 「・・・はい・・・・・・こちらこそよろしくお願いします

 

 口にした当たり障りのない代わりの言葉に玲奈さんが少しだけ頬を赤くしながらも真っ直ぐ俺の目を見据えて小さく頷いたのを見て、俺は軽く一礼して今度こそ自分の部屋へと戻った。きっとこれで、少しは彼女の心がラフになったと信じたい。

 

 

 

 

 

 

 “・・・やっぱりいきなり“カズの彼女”はまずかったか・・・”

 

 海崎さんからの忠告を無視した一言に軽く後悔を抱えながら、俺は“半日ぶり”に自分の部屋へと戻る。

 

 カチッ_

 

 「・・・ついた」

 

 引き篭もりになってからすっかりつけなくなったドアの隣にあるスイッチを押してみると、2年半の月日を嘲笑うほどの早さで電球色の明かりがついた。まぁ、俺が風呂やトイレに行っている間にカズがこの部屋の電気をつけて掃除をしてくれていたことは知っているから、当たり前の話だけれど。

 

 にしても昨日までこの部屋に閉じこもっていた日常が、一度だけ外に出て太陽の光を浴びてきただけでもう既に懐かしく思えてくる。俺はつい昨日までこの部屋で明かりすらつけずに風呂とトイレ以外の全ての時間を費やす日常を送っていた。

 

 “・・・この部屋ともついに“さよなら”か・・・”

 

 そして3日後の朝には、俺はこの家から出て4月からは“高校生”として1年間を過ごすことになる。思い返せば親父とカズのために自分の時間を犠牲にして働いていたときも、心が壊れてヒキニートになっていた昨日までの俺にとっても、本当の意味で自分があるがままの自分で居られていた唯一無二の空間が、この部屋だ。

 

 

 

 “・・・何で神様は“俺たち”を選ぶんだよ・・・

 

 

 

 この部屋で俺は今までに、どれだけの涙を流しては行き場のない感情を貯め続けて来たのか。カーテンを閉め続け、明かりすらもつけずに、たった1人で・・・

 

 

 

 “『リライフ・・・してみませんか?』”

 

 

 

 そんな行き場のない感情の暗闇をこじ開けたのは、俺がずっと守ってきた家族ではなく会ったことはおろか名前すら知らない“友人”を名乗るスーツ姿の海崎さんという人。でも今まさに、昨日まで全くの初対面だった海崎さんという人のおかげで、俺の人生は大きく変わろうとしている・・・実際に変わるかどうかは、ここからの俺次第だけれど。

 

 “・・・まさかこの部屋が名残惜しく思える時が来るなんて・・・

 

 母さんが姿を消して残された親父とカズと一緒にこの家に引っ越してから約9年。ロクな思い出が全くと言っていいほどなかったこの部屋に最後の最後で“良い思い出”が出来たことは、この部屋の(あるじ)として少しだけ誇りに思う。

 

 「出来たよ、兄ちゃん」

 

 という感じで意味もなく感傷に浸りながら引っ越し先へ持っていく荷物の整理をしていると、あっという間に時間が過ぎてカレーが出来上がった。

 

 

 

 

 

 

 40分前_

 

 「・・・大丈夫?狩生?」

 「・・・大丈夫」

 

 自分の部屋へと戻っていった兄ちゃんを見送って、俺は隣で炊事を手伝ってくれている狩生に声をかける。

 

 「なんかごめん。どうしても兄ちゃんに狩生のことを紹介したかったばっかりに無理言って呼び出しちゃって・・・どうせならもっと段取りとか決めて良かったよね?」

 「ううん、あたしのことは全然良いし悪いなんてちっとも思ってないから・・・」

 

 

 

 “『お兄さんの友達です。ちょっとお兄さんに話があって来ました』”

 

 兄ちゃんの“友達”だという男の人が突然この家を訪ねてきたのはつい昨日のこと。その男の人は開口一番でいきなり俺と父さんと狩生しか知らないはずの兄ちゃんの過去をあたかも全部知っているかのように話してきたから、最初は戸惑いと恐怖が半端じゃなかった。

 

 “『お兄さんから色々聞いててね・・・ここまで知ってる仲なんだ、信用してよ』”

 

 だけれど玄関を開けて話を聞いている瞬間から“初めましてじゃない”ような親近感に近いものを感じたのと、今までずっと1人で俺と父さんを支えていた兄ちゃんに友達が訪ねたのは初めてのことだから、それがきっかけで“兄ちゃんが部屋から一歩踏み出してくれたら”と思った俺は、その人を兄ちゃんの部屋へと上がらせた。

 

 “『俺は本気だから』”

 

 友達を名乗るその人が家にいた時間は10分かそこらだったけれど、久しぶりに友達と再会して何かを話した兄ちゃんは、自分の足で2年前の秋から引き篭もり続けていた部屋から外に出た。友達とどんな話をしたのか詳しいことは教えてくれなかったけど、久しぶりに心の底から兄ちゃんが笑ってくれていたから、俺は自分のことのように嬉しかった。

 

 それで気が抜けたのか、今日の朝は久しぶりに寝坊をやらかして危うく狩生と映画を観る約束をすっぽかしかけてしまったことは・・・少し反省(※人生史上一番の全力疾走で、なんとか10分の遅刻で済んだ)。

 

 『狩生、サプライズとかじゃないんだけど_

 

 ということがあって柄にもなく舞い上がってしまった俺は、狩生を巻き込んで2年半ぶりに外に出た兄ちゃんを少しだけ驚かせようと兄ちゃんには内緒で大神家では月に1度は食卓に出している大神家直伝のカレーを作らないかと提案した。もちろん兄ちゃんが昨日家に上がってきた“友達”と再会したことをきっかけに久しぶりに外出していることもその時に伝えた。

 

 そして映画を観た帰りにカレーの食材を買い出しして、こうして2人で調理していたタイミングで兄ちゃんが帰ってきた。“夕飯までには帰る”と言ってはいたけど、思っていたより早かった。

 

 

 

 「自分でも分かってるのよ。お兄さんはきっとこんなふうに気なんて遣ってほしくないってことは・・・でも、いざ面と向かってみたら何て話したらいいのか分かんなくて・・・」

 

 やっぱり狩生のことは、もっとちゃんとした形で兄ちゃんに紹介したほうが良かったかもしれないと珍しく申し訳なさそうに弱る狩生の顔を見てふと思う。ちょっと落ち着いて考えてみれば、いきなり昨日まで自分の部屋に引き篭もっていた“ヒキニート”と会って話をしても、何を話したらいいかなんて赤の他人にはそう簡単に分かるわけがない。

 

 「・・・まあしょうがないよ。だって相手は“ヒキコモリのニート”だし」

 「いくら身内だからって言い方ヒドイなオイ」

 「一応兄ちゃんは自分が“ヒキニート”だって自覚してるからね」

 「いやそういう問題なのコレ?」

 

 

 

 “『・・・2年半も勝手に部屋に閉じこもって・・・部屋に入ったお前を無理やり追い出して・・・あんな状態になるまで誰も頼ってやれなくて・・・・・・お前に苦労を全部押し付けてしまって・・・・・・本当にごめん・・・』”

 

 

 

 「・・・身内の俺だって兄ちゃんのことは何でも理解しているつもりいても、話していて何を考えてるのか分かんなくなることは偶にぐらいは普通にあるし_」

 

 母さんが知らない男と出て行って、そのショックでしばらく働けなくなった父さんに代わって高校に通っていたときから一生懸命バイトして、大学を卒業してサラリーマンとして働くようになっても嫌な顔ひとつせずに家のことまで全部やってくれて残された家族(俺たち)を支えてくれた兄ちゃん。本当はもっと高校や大学で友達と一緒に遊んだり夢中になって自分の好きなことをしたかったかもしれないとは薄々感じていたけれど、俺以上に気を遣われることを嫌う兄ちゃんの優しさに、俺はつい頼り続けてしまった。

 

 ”『出てけ!!』”

 

 

 

 そして兄ちゃんの心は“あの日”、完全に壊れてしまった。

 

 

 

 “『兄ちゃん・・・・・・ごめん・・・』”

 

 身内の俺でさえ、兄ちゃんが“ヒキコモリ”だったときは何を話していいかなんて全く分からなかった。“些細な一言”が兄ちゃんをまた傷つけてしまうかもしれないと考え込んでしまって、部屋に籠り始めた最初の1週間は隣にある自分の部屋にいるだけでも息苦しさすら感じるほどだった。

 

 もちろん月日が経てば物を投げて暴れたりとかはしなくなって、風呂やトイレから出るときにバッタリ会えば普通に話もするようになったけれど、引き篭もる前と変わらない感じで普段通りに話そうと心掛けても、一緒に話していて“見えない壁”を感じていた。

 

 

 

 「でも兄ちゃんはきっと、本当に心から狩生に感謝してるって俺は思う」

 「・・・感謝って何よ?」

 「狩生にはまだ言ってなかったけどさ_」

 

 

 

 そんな“悪くはならないけど良くもならない”平行線のままだった兄ちゃんが変わり始めたのは狩生を初めてこの家に上がらせて、自分の部屋で一緒に買ったお揃いのピアスを耳に開けるときに“不意打ち”で狩生にキスをした日。

 

 “『今日来てたの誰?』”

 

 狩生が帰った後、キッチンで食器を洗っていた俺に背後から兄ちゃんがいきなり話しかけてきた。正直、話しかけられた瞬間は兄ちゃんが“こんな”状態のときに隣の部屋で俺だけ楽しそうにしているみたいに感じて、罪悪感で押しつぶされそうになった。

 

 “『いきなり襲ったりしちゃダメだぞ』”

 

 罪悪感でいっぱいになった俺の肩に手をやり、兄ちゃんは俺を揶揄った。思えばあんなふうに俺のことを揶揄ってくる兄ちゃんを見ること自体、ヒキコモリになってからは一度もなかった。

 

 “『・・・大事にしなよ』”

 

 久しぶりの揶揄いに俺がどう返したのかは覚えていないけれど、分かりやすく動揺していた俺を見ていた兄ちゃんの顔は、笑っていた。“大事にしなよ”と言って嬉しそうに微笑みながら自分の部屋へと戻って行った兄ちゃんの姿は、ずっと鮮明に頭の中に残っている。

 

 

 

 「_だから兄ちゃんは、ていうか俺も本当に狩生に感謝してる・・・兄ちゃんがまた笑えるようになれたのは、狩生がいてくれたおかげだって少なくとも俺は思ってるから・・・

 

 かける言葉に悩んだ末、俺は狩生にピアスを開けた日の後に起こったことを話した。ただ最後の方は兄ちゃんというよりも俺が狩生に対して思っていたことをそのまま話してしまった感じになったけれど。

 

 「・・・早く作るよ。“お兄さん直伝”のカレー」

 「えっ?あぁ、うん」

 

 こんな感じで兄ちゃんが久しぶりに笑ってくれた話をすると、狩生は素っ気なく返事をしてそのまま鍋の中を軽く水ですすぎ火をつける。良かった。これで“いつもの狩生”に戻ってくれた。

 

 「油は大さじ1ね」

 「さっき聞いた」

 「あと鍋の中に水が残ってるうちに油を入れると」

 「うっさいわねそれくらいわかるっての!

 「何で怒ってんの・・・」

 

 あまり自分で料理をしたことがないという狩生のために良かれと思ってアドバイスをして、理不尽に怒られる。“彼女”として付き合う前までは急に素っ気なくなる理由が分からなくて割と本気で困惑していたけれど、家族のことを打ち明けてさらに距離が縮まって狩生の“それ”が“照れ隠し”だということに気付いてからは、そういう理不尽なところすらも一気に可愛いと思えるようになった。

 

 とはいうものの、それ以外の理由で“普通に”怒られることもあるにはあるけれどその場合は大抵俺が悪いってことも分かり始めた。何が悪かったかは悪気がないから分からないままだけど。

 

 「言っとくけどあたし、カレーぐらいは自分で作れるから」

 「・・・はいはい」

 

 そんな当の本人は“ありがとう”の気持ちを素っ気ない態度で誤魔化しながら、水が蒸発しきった鍋に大さじ1のサラダ油を入れて肉を炒め始める。そして俺は手伝うわけでもなく、レシピ通りの火加減と油の分量で鍋に入れた肉を炒める狩生をじっと見守る。

 

 “・・・“和臣”・・・

 

 「・・・さっきからなに見てんのよ?」

 

 斜め後ろからじっと見守る俺に、狩生が手元に目を向けたまま態度はそのままに声をかける。

 

 「そういえばだけどさ・・・・・・狩生から“下の名前”で呼ばれたの、初めてだよ

 「・・・!?///

 

 いつも通りの様子の狩生に自分の気持ちをそのまま伝えると、分かりやすい驚きになって返ってきた。

 

 「あれはっ・・・その、“大神”のままじゃお兄さんも“大神”だからややこしくなるし・・・下の名前で呼ばないとなんかお兄さんに“失礼”だなって思ったから・・・仕方なくよ」

 「狩生、そろそろ肉取り出さないと」

 「悪かったわね私が頼り無くて

 「そんなこと一言もないって・・・」

 

 そして狩生はまた理不尽に俺に感情をぶつけながら焼き色のついた肉を取り出してまな板の上に敷いたラップの上に置き、同じ分量の油を入れて玉ねぎを炒め始める。もちろん、狩生の“こういうところ”も含めて俺は“彼氏”として受け入れている。

 

 「・・・ホント・・・悪く言うつもりはないけどお兄さんもお兄さんよ。自己紹介でいきなりあたしに“彼女ですか?”って聞いてくるし、いきなりあんな感じで初対面の人から言われたらビックリするのが普通でしょ?」

 「兄ちゃん。ヒキコモリになる前はコミュ力が化け物レベルで高かったからね」

 「いや、あれはそういう次元とは別の話でしょ?もしかしてアンタはお兄さんのあれを見て何とも思わなかったの?」

 「ホントのこと言うと内心でちょっとだけビックリしたけど・・・俺は兄ちゃんのそういうところはもう慣れてるから」

 「・・・まぁ・・・お兄さんが良い人だっていうのは・・・何となく顔も雰囲気も似てる大神を見ていれば分かるから」

 「何で俺を見たらそれが分かるの?(確かに兄ちゃんは良い人だけど)」

 「・・・何でもないわよこの鈍感」

 「(また“鈍感”って言われた)」

 

 狩生が俺のことを見ただけで兄ちゃんが“良い人”って分かったと言い張る理由は今一つピンと来ない。けれど、仕方なくとはいえ狩生から“和臣”と名前を言われたことは、言葉にするのは簡単じゃないけれど・・・

 

 「・・・兄ちゃんのことはともかく、俺は嬉しかったよ。狩生が俺のことを下の名前で呼んでくれたこと」

 「だからあれは違っ」

 「狩生にとっては“仕方なく”だとしても・・・俺にとってはまた一歩狩生との距離が近づいたって感じがして、なんかすげー嬉しかった

 「・・・それは・・・どーもアリガトウゴザイマス」

 

 言葉にするのは簡単じゃなかったけれど、俺は初めて自分のことを“和臣”と言ってくれたときの気持ちを言葉にして狩生に伝えてみた。

 

 「・・・・・・よかったらあたしのこと、“玲奈”って呼んでもいいよ

 「えっ?何か言った?」

 

 そしたら狩生が小声で何かを俺に言っているように聞こえたものの、具材を炒める音にかき消されてよく分からなかった。

 

 「・・・この後お兄さんやお父さんと一緒にカレーを食べる時も大神のこと“和臣”って呼ぶけど、あくまで“仕方なく”だから・・・・・・そこんとこよろしく」

 

 多分、少しだけ赤くなっている頬を見ると本当はもっと違うことを言っていたのかもしれない。それでも俺は、気になるからといって人の心を押しつけがましくこじ開けるようなやり方で無理やり聞き出すなんて真似はしたくないし、したいとも思わない。

 

 特にそれが自分の好きな人だったら、絶対だ。

 

 「じゃあ俺は普段通り“狩生”呼びで行くから、この後よろしく」

 「・・・大神は普段からあたしのこと狩生って呼んでるから言う必要ないでしょ?」

 「それはそうだけど、何となく流れ的に俺も言っといたほうがいいかなって思ってさ?」

 「・・・・・・あっそ」

 

 なかなか自分に素直になれないところもたまに理不尽になるところもあるけれど、そういう部分も全部ひっくるめて俺は狩生のことが好きだ。

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