「・・・単刀直入に言うとさ・・・・・・俺、“就職”が決まったんだよね・・・」
「・・・うん」
「だから・・・・・・その関係で3日後にはこの家を出ることになったわ・・・」
「うん・・・分かった」
「あぁ、おめでとうございます・・・」
「・・・・・・ん?」
・・・・・・
「えぇぇぇぇぇっ!!?」「えぇぇぇぇぇっ!!?」
「いや2人揃って反応すんの遅っ(しかもタイミングまで一緒だし)」
「いや何がどうなったのそれ!?」
「だからそれを今から言うって言ってんだよ」
考えてもみれば、そりゃあつい昨日まで部屋に引き篭もってた“ヒキニート”が久しぶりに外出して帰って来たら“就職が決まりました”なんて、いきなりこんなことを言ったら思考回路がショートするのも無理はない。
「おうマジか、おめでとう」
「逆に親父は何でこんなに平然としてられるんだよ?」
「そりゃあ母さんに逃げられたときと貴臣が引き篭もったときに比べたらこれぐらいどうってことないよ」
「その節はご迷惑をおかけしました(俺も痛いぐらい感じてるけど言い方・・・)」
ただし約1名だけ例外がいるけれど、気にしていたら負けだ。
「・・・ごめん兄ちゃん・・・・・・疑うつもりは全くないんだけど、嘘じゃないよね?」
「嘘だったらわざわざ玲奈さんもいるところで面と向かって言わねぇよ(まぁ、嘘なんだけど)」
「そうだよね・・・良かったぁ」
「(そして少しは俺を疑えよカズ)当たり前じゃん」
「すいませんお兄さん。和臣のことは私が代わって後でキツく言っておきますので」
「いや何で?」
「何でってそれはこっちの台詞でしょ!?せっかくお兄さんの就職が決まったっていうのになんてこと言うのよ!?」
「それはホントにゴメンて」
「あはは・・・玲奈さんは本当に優しいな(言うてカズと同じくらい驚いてたけど)」
玲奈さんがカズをきつく叱ってくれたおかげである意味では言いやすくなった。正直俺はそこまではカズのことを悪く思ってないし、何ならカズの言っていることのほうが寧ろ正しいんだけれど。
「なあ?その、貴臣の友達っていうのは結局誰なんだ?」
「えっ?カズ、お前親父に新太のこと言ってないの?」
「いや、起きた時にちゃんと父さんには説明したはずだけど」
「・・・悪い、寝起きだったせいで聞き逃してたかも」
「うん。何となくそんな予感はしてた(なんか受け答えがすげぇ雑だったし・・・)」
そして隣に座る親父は、今から俺が海崎さんとのことを家族と玲奈さんに話すという“重大な場面”でもいつものようにマイペースなまま話の腰を折ってくる。まぁ、そんな絶妙に空気を読まないこの感じが、良くも悪くも俺たちの緊張を解いているわけだが。
「マジか、そこから話すことになるのか」
「嫌だったら適当に飛ばしてくれてもいいぞ」
「そういうのは冗談でも一番言っちゃダメなやつだぞ親父(ホントにこのダメ親父は・・・)」
とにかく俺が外に出て
数時間前_
「えっ?家族にはどう説明すればいいか?」
「はい。さすがに薬を飲んで高校生をやるなんて馬鹿正直に話したら通報されるでしょうから」
「ははは、通報は言い過ぎかと・・・(通報・・・オーガはともかく狩生が知ったら普通にされそうだ)」
“偽物の思い出の場所”で眼前の東京湾を海崎さんと眺めていたとき、俺はリライフのことを家族にどうやって打ち明ければいいか相談していた。
「そもそもリライフ研究所は表向きにはどんな仕事内容で通しているんですか?」
「う~ん、まだ貴臣さんとは正式に契約が結ばれていないので規約の関係でざっくりとしか言えないのですが、とりあえず色々な人の“人生支援”に携わっている“人生相談所”とでも言っておけば大丈夫だと思います」
「・・・はぁ、なるほど」
“人生相談所”。確かにそう言っておけばまず安全だし、リライフ研究所で被験者の対象になる俺みたいな“ヒキニート”だったり何かしらを抱えている人が世話になるという意味では、100%間違ってるわけじゃない。
ただ問題は・・・
「ただ・・・内定が決まったとかの経緯はどうすれば・・・」
問題はここだった。契約が決まれば最低でも1年間は家を出てアパートに移り、当然リライフを行っている期間中は原則として家族や知り合いと会うこともできない。会えないことはともかく、いきなり外に出て内定を貰って帰ってきたと言ったところで、果たしてそんなおとぎ話のような“引きこもりの主張”をカズと親父は信じてくれるのだろうか・・・多分、親父は二つ返事でOKはしてくれるしカズも俺の言うことは基本的には信用してはくれるとは思うけれど・・・・・・内容が内容だけにかなりの不安材料だった。
「・・・申し訳ありませんがここから先のことは貴臣さん自身でお考えください」
「あの、しかし」
「もちろん正式に契約をして頂いた暁には担当者として貴臣さんのリライフを全力でサポート致します。ただし、リライフとはあくまで貴臣さんのような“ニート”を更生させるための
そんな不安材料を海崎さんに聞いてみたら、返って来たのは爽やかな笑みと手厳しい正論だった。
「きつい言い方をしてしまいスミマセン。ですが、目の前の壁に対して自分で考えて自分なりに進んで行くからこそ、リライフはやる意味があるんです・・・」
「・・・そうですよね・・・全くもってごもっともです」
相変わらず仲の良い友達を相手にしているように微笑みながらも、俺の顔を見る目は真剣そのものだった。本当にこれは海崎さんの言う通りだ。サポートしてくれる海崎さんに“おんぶにだっこ”の体たらくじゃ、人生なんてやり直せるわけがない。
「ですが、もしも墓穴を掘って全部バレるようなことになっても責任は取れませんからね」
「普通におもしろい冗談も言えるじゃないですか、貴臣さん?」
「冗談じゃなかったら?」
「僕は知っていますよ。貴臣さんはそんな無責任なことは絶対にしない人だってことは」
「(どうせ調べたんだろうな・・・)・・・普通に考えてするわけないじゃないですか、そんな誰も得しないようなこと・・・」
「_というわけで・・・4月から友人の海崎新太さんが働いている
海崎さんからの助言の通り、俺は自分で考えて自分なりに導き出した“
「1年ってことは正社員ってわけじゃないんだ?」
「まぁそこから正社員登用になる場合もあるかもだけど、そもそも“支援”を前提に内定貰ってるから今はなんとも」
「でもよかったじゃないか、1年の契約とはいえこうして貴臣のことを必要としてくれる人がいてさ」
「あぁ・・・けど友達と一緒に海を見に行ったつもりがいきなり会社を紹介されて、まさかとんとん拍子にそのまま働くことになるとは思わなかったわ」
とりあえず3人には、俺の現状を心配した海崎さんからの伝手で人生相談などを中心にいじめや引きこもりなどが原因で社会復帰が困難になった人たちを対象に様々な“支援”を行っている会社で働くことになったと説明した。
「けど新太さんっていう人と同じ会社で働くってことは、もしかして貴臣が直属の部下になるなんてこともあるのか?」
「そうなったら本当に俺は頭が上がらねぇよ(ある意味ホントなんだけど・・・)」
もちろんいきなりつい昨日まで“ヒキニート”だった人間を正社員にするような会社だと胡散臭さが拭えないため、俺自身も“支援”の対象者となったことを踏まえて1年間の契約社員として働くことになったことを付け足した。あんまり細かいところまで作り込んでしまうと適当な性格の親父はともかく、地頭の良いカズは勘づいてしまいそうだったから敢えてボカすところは怪しまれない程度の塩梅で徹底的にボカした。
「ほんと、新太さんに感謝だね兄ちゃん」
「おかげで大きすぎる借りが出来ちゃったけどな」
「だけどここを出るってことは勤務先は県外とかになるってこと?」
「う~ん、詳しいことは言えないけれど、多分この1年は忙しくてこっちには戻れないと思うわ」
「・・・そっか」
「急に色々と勝手に決めちゃってごめんな。でも昨日まで“ヒキニート”だった俺に四の五の言ってる暇なんてないし」
「ううん。俺も親父も、それに狩生も兄ちゃんが決めた道を本当に心の底から応援してるから」
「そっか・・・ありがとな」
ともあれカズが親父ほどではないにしろ割とあっさりした性格で正直助かった。
「玲奈さんもごめんね。せっかくみんなで楽しくご飯を食べていたのにしんみりするような話をしちゃってさ」
「いえいえ、あたしのほうこそ色々と気を遣わせるような真似をしてしまってすみません」
「あはは、そんなの全然謝らなくても気にしなくても大丈夫だよ。だって玲奈さんのことは俺も親父もちゃんとカズの彼女として“受け入れて”いるからさ・・・だから、玲奈さんにはカズといるときみたいに“そのままの玲奈さん”でいてほしいんだ・・・・・・って言っても、3日後にはこの家を出ちゃうんだけどね、俺」
誤算だったことと言ったら家に帰ったらカズの彼女の玲奈さんがいたことぐらいだけど、彼女も彼女でちゃんと空気を読める人で特に深く掘り下げられることなく済んだ。
「・・・ありがとう・・・ございます」
「(あ、ヤバッ)」
それが油断になって、俺はまた玲奈さんを動揺させるような言葉を無意識に発してしまった。もう過去形だし彼女は赤面しているし、時すでに遅し。
「うん。俺もそのままの狩生が一番好きだよ」
直後、よりによって玲奈さんの隣に座る“鈍感彼氏”が火に油を注いだ。
「大神まで何なのよ・・・!?///」
ベシッ_
「痛ぁ!何で!?」
「だって急に変なこと言うから!」
「いや兄ちゃんと同じこと言っただけですけど!?」
「そうじゃなくて!」
「だから何で!?」
「それぐらい自分で考えろよカズ、“彼氏”だろ?」
「うっ・・・それはそうだけど理不尽すぎないですか2人とも?」
「あははは、やっぱ良いねぇ~若いっていうのは」
「呑気に笑ってないで父さんも助けてよ!」
鈍感を遺憾なく発揮する
「玲奈さん。カズがまた気に障るような真似したら今みたいにガツンと行っちゃっていいよ」
「あぁいえ、流石にぶつのはなるべく封印しますんで・・・」
「イマイチ信用できない」
「またぶたれたいのかな和臣君?」
「スイマセン何でもないです」
「言っとくけど
「とうとう暴力を肯定しちゃったよ
少々ぶっきらぼうで我が強いところがありそうだけれど根は人思いでとても優しい玲奈さんがいてくれたおかげで、昔の俺みたいに限界へと突っ走り続けていたカズは立ち止まって、突っ走り続けて壊れてしまった俺とは違う“別の道”があることに気付けた。
そんな俺と“同じ道”を進みかけていたカズの足を引き留めてくれた玲奈さんには、本当に感謝してもしきれない・・・
「いや~しかし、こんなにも食卓が賑やかなのは本当に久しぶりだよなぁ」
久しぶりに家族全員が揃って、そこに玲奈さんも加わったことでいつになく賑やかになった食卓の光景に、親父は感傷に浸るように俺たちに話しかける。
「そうだね・・・こんなに賑やかに夕飯を食べるのは本当に久しぶりだよ」
親父の感傷が移り、カズもまた同じような言葉を呟く。
「・・・・・・そう、なんですね」
そして親父とカズの言葉で何かを察したのか、玲奈さんは何とも言えない複雑そうな表情を一瞬だけ浮かべて、すぐに作り笑いを浮かべた。
“そっか・・・玲奈さんはもう母さんのことを知っているのか・・・”
「・・・玲奈さん。改めて“和臣”のことを“彼氏”として受け入れてくれて、本当にありがとう」
「えっ・・・あの、あたしはそんな感謝されるようなことは」
「玲奈さんがいなかったら、カズはきっと今も誰にも相談しないで昔の俺みたいに立ち止まらずに突っ走り続けて・・・さすがに“ヒキニート”になるほど落ちぶれないだろうけど、少なくともここまで幸せにはなれてないって俺は思ってるから・・・本当かどうかはカズに聞かないと分からないけど」
「俺は少なくとも“ヒキニート”にだけは絶対になってないよ」
「その“ヒキニート”になった人間がいま目の前にいるってことを忘れるなよカズ」
頭の中で少しばかり悩んだ末に、俺は“母さん”の存在を余計に気にしている玲奈さんへ思い切って正直な気持ちを伝える。
「・・・でも、兄ちゃんの言う通りだよ。狩生にはもう話してるけど、自分も周りも何も見えないまま走り続けてた俺を狩生が必死になって止めてくれたおかげで、それが巡り巡って兄ちゃんの復活にも繋がったから・・・・・・狩生には本当に感謝してる」
「ちょっと大神」
「まさしく玲奈ちゃんは、“大神家に現れた救世主”だな」
「・・・広臣さん・・・」
俺たち大神家の3人から一斉に感謝されて、タジタジになる玲奈さん。繊細だと海崎さんから事前に聞いていた彼女には少しだけ居心地の悪い思いをさせてしまう形になってしまったが、俺たちが玲奈さんのことを心の底から感謝しているこの気持ちだけは、紛れもなく本当だ。
「みんな・・・・・・大袈裟なんだって・・・」
玲奈さんがカズを彼氏として受け入れてくれたおかげで、母さんがいなくなってから進んでいるようで止まっていた家族の中にある時計がようやく動き出した。
「大袈裟なんかじゃないよ・・・・・・恩着せがましい部分もあるかもしれないけど、ここにいるカズも親父も、もちろん俺も・・・玲奈さんには感謝してもしきれないくらい心の底から感謝してる・・・こんな問題だらけの家族だけれど、そんな“俺たち”ごと受け入れてくれて本当にありがとう・・・」
「・・・・・・それぐらいのことで冷めちゃう程度だったら・・・あたしは和臣のことを好きになんてなってませんよ」
心の底からの感謝を告げた俺を見る瞳に一瞬だけ涙を浮かべて、それを瞬きで引っ込めた玲奈さんは真っ直ぐ俺の目を見つめて健気に自分の思いをぶつける。ここで素直にありがとうとは言わずにきっちり言いたいことを言ってくるところが、何となく彼女らしいと俺は思う。
“・・・こんなにも
と、今すぐにでもカズに言ってやりたいくらいだ。
「それに、和臣のことが好きになれたのは・・・・・・お兄さんが和臣のために頑張ってくれたおかげだって・・・あたしは思っています」
ってちょっとだけ感心していた俺の心に、玲奈さんの一言が深く突き刺さる。
“『貴臣さんが家族のために必死になって頑張った日々は、ちゃんと形になって和臣君やお父さん、その周りの人たちに届いています』”
これは参ったな。まさか7つ年下の弟の彼女に“気付かされて”しまうとは・・・
「・・・だから・・・無責任かもしれませんけど、“貴臣さん”には周りに転がってる幸せから逃げずにずっと笑っていてほしいので・・・・・・お仕事頑張ってください・・・自分の“家族”だと思って、あたしも貴臣さんを応援しますから・・・」
全く、カズと同い年の玲奈さんにこんな言葉を言わせるまでに心配させてしまう自分が・・・本当に情けなくて腹立たしい。
「・・・うん・・・・・・ありがとう・・・」
でも・・・俺が死に物狂いで自分を犠牲にして心を壊すまで突っ走っていたあの日々が無駄じゃなかったことが形になって還ってきたことは、それ以上に嬉しかった。
「・・・それにしても玲奈さん、まるで人生を既に一回経験しちゃってる人みたいなこと言うよね?」
「!?・・・もー何でからかうようなこと言うんですかせっかく人が勇気を出して応援してるっていうのに!」
「ごめんごめん。ただ、玲奈さんからそういうふうに言われたら無心になって頑張り過ぎてた時間も無駄じゃなかったって思えて、それが嬉しくてさ・・・」
「・・・これは別に・・・ついこの間まで同じクラスにいた人が言ってたことの受け売りみたいなものですよ・・・」
次は俺が、
「・・・・・・そういえば誰だっけ和臣?」
「忘れるなんてヒドイな狩生、ほらアイツだよバカだけどすげーお人好しで女慣れしてて」
「女慣れって何よ?」
「あと何かいつも仲の良い女子2人と一緒にいなかったその・・・アイツ?」
「アンタも忘れてんのかい」
「さっきまでちゃんと覚えてたはずなんだけど・・・・・・ヤバいマジで誰だ?」
「・・・あともう一人3年に上がったときに急に仲良くなった女子がいたけど・・・ヤバいどうしよう顔も名前も出てこない」
「もしかしてワンチャン幽霊だったり?」
「絶対ないわよそんなこと・・・っていうかこんなに思い出せないことってあるのついこの間まで一緒にいたはずなのに・・・・・・超ショックなんだけどあたし」
「LIMEとかに連絡先入ってない?」
「ナイス大神・・・・・・・・駄目だいないわ」
「俺も」
「あの・・・2人はさっきから何の話を?(マジで何の話してんだこの2人?)」
「あぁ全然お兄さんとは関係のないことですので、どうぞお気になさらず」
「お気になさらずて・・・」
「そんなことより貴臣が家を出るってことは、ひと部屋が空くってことか」
「言われてみれば・・・だったら父さん、ちょうどいいからお兄ちゃんの部屋使えば?」
「いや・・・いっそのことここはひとつ玲奈ちゃんに使ってもらうってのはどうだ?」
「ちょっといきなり何言ってるんですか広臣さん!?」
「俺は居間でいいから」
「そういう問題じゃなくて!」
「父さん、さすがに冗談だよね?」
「おう、そうだけど?」
「紛らわしいわ!!」「紛らわしいわ!!」
「けれど本当に一緒に住みたくなったら冗談抜きで俺はいつでも大丈夫だよ、なぁ貴臣?」
「だから俺に聞くなよ親父」
結局カズと玲奈さんが思い出そうとして忘れてしまったクラスメイトの正体は最後まで分からなかったが、そんなこんなで2年半ぶりの食卓は母さんがいた頃と同じくらいに賑やかで、誰かと一緒に会話をしながら夕飯を食べる時間の大切さを改めて思い知らされた。
それからの3日間は引っ越しの準備を進めたこと以外は特にこれといって何もない普段通りの大神家の一日だったけれど、何故か恐ろしいくらいに時間の流れが早かった。
3日後_
「寂しくなるね・・・兄ちゃんが家を出るのは」
「なんだやっぱり嫌か?」
「また“引き篭もられる”よりはマシだよ」
「幾ら相手が俺でも少しはオブラートに包めよオイ」
そしてあっという間にこの家を出る瞬間がきた。母さんが知らない男と逃げて家族が3人になってから住み始めた平屋建ての思い出は、どんなに思い返しても楽しいことよりも辛いことのほうが多かった。
「2人だけだとやけに広く感じるよねこの家?」
「そりゃあ3人家族なのに二部屋しかなかったからな。逆に今までが狭かったんだよ」
「でも一部屋足りないこの狭さが、“ちゃんと父さんと兄ちゃんがここにいるんだ”って感じがして逆に俺は心地よかったよ」
「・・・そっか」
でも、こうやっていざ家を出るとなると、そんなロクな思い出のないはずの平屋建てに名残惜しさを感じる。
「にしても父さんはツイてないよね、本当なら今日は休みだったはずなのに急遽シフト組まされるなんてさ。今日ぐらい断れば良かったのに」
「仕方ないよカズ。親父だって仕事頑張ってんだから」
「分かってるよ兄ちゃん。家ではグータラしてるけど、何気に仕事だけは真面目にやる人だからね」
ちなみにシフトだと今日は休日だったはずの親父は、体調を崩してしまった同僚の代わりで日勤のシフトに就いた関係で朝早くに家を出てしまった。よりによってカズと一緒に見送るはずだったこんな日に代理出勤が被るのは本当に災難だけれど、あの親父のことだからこれっぽっちも気には留めてないだろう。
ついでに言っておくと、空いた俺の部屋は親父がそのまま使うことになった。まぁ、本音を言うと俺の部屋を使うことになったのが親父になって本当に良かったと思っている。もしも間違えて玲奈さんが同居すると言い出して俺の引き籠っていた部屋を使うなんてことになったら、変な“悪運”が彼女にまで纏わりつきそうな気がしたからだ。
神様からの不幸に振り回されるのは、どうか俺までで終わって欲しいと心から思う。
「じゃあそろそろ出るわ。向こうにいる管理人さんを待たせるわけにはいかないし」
「・・・うん」
引っ越し用の荷物をまとめたスーツケースとバッグを引っ提げて、玄関へと向かう。いま目の前に広がっている当たり前の景色とは、少なくとも1年以上はおさらばだ。
「兄ちゃん・・・くれぐれも無理だけはしないでね・・・もしものことがあったら、全然周りに頼っていいから・・・」
スニーカーの紐を結ぶ俺の背後から、カズのやや心配げな声が聞こえてきた。本当にお前ってやつは、こんなどうしようもない金食い虫の“ダメ兄貴”のことなんかほっといて玲奈さんと“イチャコラ”でもしていればいいのに・・・・・・って、
「お前もな・・・」
「・・・うん。分かってる」
でも俺は、そんな
何も変わらなかった日々を大きく動かしてくれたのは海崎さんや玲奈さんかもしれないけれど・・・・・・全てのきっかけはこんな俺のことを今日まで“家族”として支えてくれた・・・親父と
「あと、玲奈さんのような素敵な人は滅多にいないからマジで大切にしろよな」
「わ、分かってるよ言われなくても!」
「だったら少しは鈍感なところを直す努力しろよ?」
「・・・努力します」
「ホントかオイ?」
「ホントだよ。これでも俺は・・・誰よりも狩生のことを幸せにできる自信があるから」
「(・・・なるほどな、玲奈さんはカズの“こういうところ”に惚れたのか)・・・分かった・・・じゃあ俺はそんなカズの言葉を信じるよ」
「・・・何か自分で言っといてアレだけど急にすげぇ恥ずかしくなってきた」
「自爆してんじゃねぇかよ(やっぱ買い被りすぎか)」
空気がしんみりし過ぎないようにカズを軽くからかいながら、玄関のドアノブに手を掛ける。この扉の外に出たら、今度こそ後へは引き返せない。
「じゃあ・・・・・・行ってきます」
「・・・・・・行ってらっしゃい」
静かながらも満面の笑みを浮かべ見送るカズの表情を横目で凝視して、俺は玄関の外へと出た。