ナカヤマフェスタが凱旋門賞で燃え尽きてしまったら、というお話。

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卒業

 昔から、勝負事は好きだった。

 勝てば全てを手にして、負ければ全てを失う。これほどシンプルで、納得できて、心を熱くさせてくれるものもなかった。他のことにはさして興味をもてず、勝負だけが私を「生かして」くれていた。私に対して、いつも正面から向かい合ってくれた。

 だから私は、卒業というものが苦手だった。

 それは私から、何も言わずに大切なものを奪い去っていく。場所、友人、先生。昨日まで当たり前だった関係を大きく、または少しだけずらしてしまう。勝負の土俵にすら上がらせてもらえないまま、喪失だけが手に残る。私にとって卒業というのは、これまでに紡いだ関係性を一方的に蹂躙されるに等しかった。

 しかし今日だけは、この疫病神に感謝しなければならない。

 向かい風は、時として追い風にもなるのだから。

 

 

「卒業おめでとう、ナカヤマ」

「……ありがとよ」

 咲き乱れる桜に馴染まぬ色をした紫の菫が詰まった花束を受け取ってから、ぶっきらぼうに言う。目の前のトレーナーは満足そうな、しかしどこか物憂げな笑みを浮かべていた。

「おいおい、おめでたくなんてなさそうなツラしてんじゃねえか。本当に祝ってんのか?」

「い、祝ってるよ」

「なら、もっと口角をつりあげとけ。ブラフは大事だよ。いつだってな」

 彼はバカ正直に、あるいは不器用に、唇の両端だけをきゅっと上に引き上げた。とんでもないアホ面だ。普段なら軽く小突いてやりたいくらいだが、今日だけは許す。きっとこいつも、卒業ってやつが憎くて、うまく笑えないんだろう。

「友だちとはもう話さなくていいのか?」

「別れの挨拶は済ませてきた。アンタで最後だ」

「そう、か」

 別れ。その二文字を聞くと、彼はふたたび顔を歪ませた。呼吸は荒く、瞳は過剰ともいえるほどに潤い、表面が荒波のように暴れている。今にも吹き出しそうな未練を、涙で無理やり抑えつけているようだった。

「ナカヤマ」

 短く、そしてはっきりと名前を呼ばれる。

「なんだ?」

 聞き返しながらも、察しはついていた。同時に生涯で初めて、自分の予想が外れることを願った。

「卒業後も、俺と一緒に歩んでくれないか」

 ビンゴ。サイアクだ。

「……というと?」

 私はとぼけたふりをして尋ねる。

「君との日々が忘れられないんだ。猛獣に襲われるようなスリルも、世界に一発かましたときのような極上の快感も、すべてが昨日のことのように思い出せる。もう、昔みたいな平坦な人生には戻れない。俺はこれからも、君と一緒に『生きて』いきたいんだ」

 記憶の熱にほだされたのか、声は次第に興奮を帯びていた。その声には、勝負の世界に生きるやつらと同じような、狂気の色が薄く滲んでいた。

 ……ああ、そうだった。

「私が、アンタを狂わせたんだったな」

 ため息を吐き、ニット帽越しに後頭部を掻く。

 後悔はない。私たちは確かに、私たちでなければ掴み得ない、特別な喜びを掴むことができたから。

 そして申し訳なくも思う。私にはこの生き方しかなかったが、アンタには別の生き方もあったはずだから。

「答えは、ノーだ」

 だけど、その責任を取ることができない私を、どうか許してほしい。

「ナカヤマフェスタは、もう死んだ」

 私にはもう、アンタの望むような生き方はできないのだから。

「どういうことだ?」

 困り顔でトレーナーが訊いてくる。

「凱旋門賞」

 パリの生ぬるい風と、荒々しいターフの感触を思い出しながら続ける。

「あれは楽しかったなァ。間違いなく、人生で一番の大博打だった。ポジティブかネガティブかの判別もつかねえような感情でグチャグチャになりながら、死にものぐるいで脳みそと脚を回してさ。そんで、いざ終わってみれば──まあ、そんなことはいい。私が言いたいのは、あれ以来、私は勝負師として終わっちまったってことだ」

「終わった、って」

「燃えねえんだよ」

 咥えていたロリポップを噛み砕く。ガリッ、と小気味よい音がした。

「誰とどんな勝負をしても、何を賭けても、微塵もアツくならねえんだ。楽しくねえ。ただひたすらに虚しいだけだ」

「ナカヤマが、か?」

 信じられないようなものを見る目のトレーナーに答える。「アタシが、だ」

「あの場所で、私は最高に激しく燃え上がった。燃えて、燃えて、燃え尽きて──燃えカスになったのが、今の私だ。そんなもの、私にとっては死んだも当然じゃねえか」

 わかるだろ? と視線を投げかければ、トレーナーは深く歯ぎしりをして、「兆候はあった」と言った。

「けど、一過性のものだと思った。それか、海外遠征の疲れが抜けていないだけだと。なんにせよ、君は時間が経てば復活して、レースの、勝負の世界に舞い戻ると思いこんでいた」

「だけどアタシはドリームトロフィーリーグに行かず、卒業を選んだ。そのタイミングで、不思議に思わなかったのか?」

「思ったさ。思ったけど、きっと認めたくなかったんだ。君が消えてしまうかもしれないという、最悪の未来を」

 トレーナーの顔を覗き見る。動揺と絶望を悔恨に変えて、まとめて飲み干したような表情だった。そんな顔をしないでくれよ、アンタのせいじゃないんだからさ。

「それでも」

 彼は奥歯の代わりに両手を強く握りしめながら、口を開く。

「俺は、君と一緒に地獄まで行くと約束をした」

「っ、それは」

「あの言葉に嘘はないよ。それくらい、ナカヤマのことが大切なんだ。同じ地獄でも、二人で支え合えば少しはマシにもなるはずだ」

「私のために、自分の人生をドブに捨ててもいいってことかよ」

「そうだ」

「……チッ」

 思わず舌打ちが出る。

 アンタはいつもそうだ。普段は頼りないくせに、ここぞというときに限って妙に凛々しい姿を見せやがる。

 バカ真面目な顔をして、恥ずかしいセリフを吐いて。私はその都度、アンタの強情さに負かされてきた。

 だけど、私は今日、そんなアンタからも卒業するんだ。

 どこまでもお人好しで大好きなアンタを、私のせいで死なせないためにも。

「なら、私たちらしく、勝負で決めようか」

 彼に背を向けて、両手に抱えた花束やら卒業証書やらを桜の木の根本へと置く。その後、私は右ポケットから一枚のコインを取り出した。使い込まれて、傷と手垢でボロボロになったコインだ。

「このコインを真上に弾いて、両手のどちらかに隠す。アンタはそれが、どちらの手に入っているのかを当てればいい。正解すれば、この先も未来永劫、アンタの人生に付き合ってやるよ……お望みどおり、地獄までもな」

「ナカヤマ、それより話を」

「いらねえだろ、そんなもん」

 縋りつくようにこちらに踏み出した彼を、一蹴する。

「アンタも私と同類だってんなら、言葉よりも雄弁に語る術をもっているはずだ。そうだろ?」

 わざとらしく挑発的に問いかけると、彼は「わかった」とうなずいて、背筋を伸ばし、まっすぐにこちらを見据えてきた。涙で潤んでこそいるが、覚悟を決めた、勝負師の目だった。呼応するように、自然と頬が引きつる。そうだ。それでこそ、アタシが認めたトレーナーだ。

「始めるぞ」

 右手の親指をしならせ、爪でコインを弾きあげる。それはちょうど耳の高さまで上昇したのち、限界を迎えたように真下へと落下していく。

 コインの座標が顎と平行になったとき、私は両手を肩幅に開き──交差するように、勢いよく掴んだ。

「さァ、選びな」

「やっぱり、怖いよ」

「恐れなんて不要な荷物は捨てろ……最初に会ったとき、そう教えたろ」

「わかってる、わかってるんだけど」

「……ハァ」

 さっきまでの覚悟はどこへやら。不安げに揺れる声は、こちらの決心さえも共振させてしまいそうなほどに、弱くか細いものだった。

 これは勝負だ。情に流されてはいけない。そう自分の心に言い聞かせたのち、私はふたたび口を開く。

「そして、こうも教えたはずだ。死線なんて、飛び越えちまえばただの線だってな」

 彼はそこで、落としていた視線を上げた。私と目が合った。アイツの目に映る私は、うまく笑えているのだろうか。

「どんな選択をしようとも、否応なしに人生は続いていく。道が大きく分かれようが、結局は何もわからねえ未来に向かって、地道に今という橋を架けつづけていくだけだ。たとえマクロで見れば途方もない絶望だとしても、ミクロで見れば大したことはねえ。だから、今はビビらず選べ」

 らしくないことを言った。要するに「負けてもかまわない」という慰めの理論だった。

 昔の私が聞いたら吐き気を催していたかもしれない。あいつもそれに気がついたのか、心底驚いたような顔をしている。

 これでわかったろ、ナカヤマフェスタはもう死んだって。

「……右」

 選択はあっけないものだった。それでよかった。私はゆっくりと、左手の拳をほどいた。陽光が反射し、キラリと光るコインがそこにはあって、桜の花びらが、念押しをするようにはらりと落ちてきた。

「残念」

「そ、そんな」

 彼は地面に膝をついた。ありえない、とでも言いたげにうなだれた。

 信じていたのは己の動体視力か、それとも運命か。いずれにせよ、何かしらの確信が打ち砕かれたようだった。

「それだけ視界をにじませてれば、間違えてもしかたねえだろ」

 その一言を皮切りに、彼が必死にせき止めていた涙がボロボロとこぼれ落ちた。向かい風に嗚咽の音が混じって、こちらまで流れてくる。私は反射的に耳を絞った。私だって、アンタと別れるのは辛いんだ。

「なあ、トレーナー」

 それでも、と自分を鼓舞して、彼の前に立つ。

「私とアンタは、どう転んでも同じ穴のムジナだ。結局のところ、アンタもいずれは私と同じで、燃え尽きて、死んで、地獄に来るハメになるのかもしれない」

 彼は涙をこらえながら、黙って話を聞いている。それは少しずつ、別れの覚悟を決めているようだった。

「だけどまァ、せめてゆっくり来てくれよ。それまでは、せいぜい私のような──度し難いほどにイカれ狂ったウマ娘を、たくさん生かしてやってくれや」

 トレーナーは静かに、強く頷いた。私はフッと微笑んでから荷物をまとめ、「じゃあな」とだけ言い残し、その場を去った。

 

 

 ぼうっとしながら歩いていると、いつの間にか学園の門を超えていた。トレーナーは追ってはこなかった。

 もうここに来ることも、あいつの顔を見ることもないと思うと、すこし物寂しい気持ちになった。けどまあ、しかたのないことだ。死人に口なし、会う権利なしだ。

 私は左手を開いて、先ほどあいつが選んだコインを見た。それから右手を開き、()()()()()()()()()()()()()()()()見つめた。

「最後の最後に、ダセェ勝負をしちまったな」

 びゅうと、背後から強風が吹いた。それは破滅への追い風のようにも思えて、なんだか心地がよかった。

 今日は、私の卒業式。

 学園の生徒としても、勝負師としても。

 


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