いい意味で京太郎と霞は相手を尊重できる人間である。
辛い思いをしても我慢し、相手を優先できる。
だがそれは会うことの少ない恋人同士だったから、という点もある。
「京太郎さん!」
「ううっ」
急激に接近し、お互いの悪いところを見る関係になる前に同じ住居で暮らす。
それは思った以上に大変なことだ。
要するに、霞は今怒っている。
「せ、せめて隠して下さい!」
「ゴメンなさい……」
それは数日後、京太郎の部屋を掃除しに入った時の話だった。
学校に通わなければならない京太郎と違い、霞は須賀家で家事手伝いをしている。
霞の両親からは『何とか高校だけでも卒業してほしい』と言われているが、今はまだどうにかなる状況ではない。
少しでも家で出来ることをしよう、と善意で行動した結果だった。
「こ、この女の人の本……」
「やめて、そんなにマジマジと見ないで!?」
喧嘩の要因(と言っても、一方的に霞が怒っているだけだが)は、京太郎の部屋に出しっぱなしだったHな本の存在だった。
京太郎はまだ15歳。そういった本を購入することはできない。
だが正常な男子高校生の性欲はそんな理屈で抑えられるものではない。
さらに言えば、京太郎には『頼れる年上の兄貴分』がいた。
今まで友人同士でなんとか入手出来たら儲け物だったそれを、堂々と購入して京太郎にプレゼントしてくれる兄貴分(19歳)。
内容はエスカレートし、京太郎の好みの本はたくさんある。
「むー」
「うぐぐ……」
ぷっくり頬を膨らませて怒る霞。
京太郎はそれを見て少し微笑ましいと思うが、霞本人は真剣に怒っている。
「た、確かに男性はそういうものが必要だって聞くけれど」
「はい……そうなんです……」
実際、京太郎は悪くない。
強いて言うならば年頃の女性と同居するにあたって配慮が出来なかったくらいだが、なんの心の準備もないまま同居と相まった状態では情状酌量の余地もあるだろう。
霞もそれは理解している。
理解しているが、感情は制御しきれない。
今まで自分だけを見てくれていると思っていた京太郎の側面。
「(ううっ、やっぱり『そういうこと』をしてあげた方が……)」
霞の思考が変な方向に向かっていく。
男にどんな理由があろうと、こういう状況では女が有利だ。
そのうち女も慣れていくのだろうが、いかんせん霞には経験値がない。
「きょ、京太郎さんもこういうことしたいんですか?」
「霞さん!?」
したくない男などいない。
それをわかっていて、霞は京太郎を問い詰める。
「したい、ですけど……。
今はダメです」
「……」
じっと京太郎を見据える。
京太郎もその点に関してだけは譲れないようで、しっかり見返してくる。
「……ごめんなさい。
私が勝手に掃除しようとしたのに」
「そんなことないです。
俺の配慮が足りなさすぎました」
結局、霞は京太郎に甘えたかっただけなのだ。
問い詰めても、喧嘩しても、困らせてもいい。
霞にはそんな相手がいなかった。
それを受け止めてくれる京太郎に甘えているだけである。
「じゃ、じゃあ、私は夕飯の準備をしてきます」
「あっ、はい」
霞自身がそれに気づいて立ち去ろうとする。
京太郎にしても純情シャイボーイには程があるが、状況が状況であることが彼を躊躇させている。
――人様の娘を誑かせて家出させて速攻で手を出しました。
そんな体目当ての行動を取れない京太郎だからこそ、霞も好きになったのだろう。
「夕食の準備と言っても、は、裸エプロンはしませんからね!」
「!?」
――なお、先ほどの本はそういう本だ。
須賀京太郎。家庭的で露出の少ない女性に憧れる男の子である。
……
…
そうして霞は何気ない日常を過ごした。
修行にもいかず、学校にもいかない日々。
霞にとってそんなほんわかとした日常は初めてだった。
朝起きて京太郎の母親とともに朝食を作り、京太郎にお弁当を持たせて見送る。
洗濯などの家事を手伝い、カピバラと戯れる。
お昼には京太郎の母親と一緒にお昼寝をした。
今までに一度もしたこともない経験に包まれていく。
「(幸せ……)」
何事もなく日常を過ごせることがどれだけ幸せか悟った。
帰ってきた京太郎と少しデートをすることもあった。
京太郎を迎えに清澄高校まで出向くこともあった。
それらを一般的な高校生の恋愛関係というかはともかく、霞は幸せだった。
――それらが一時的な回避にしかならいことは、霞本人が悟っている。
「(迷惑をかけると言っても、このままじゃいけない)」
ここまで何も手を出してきていないことが奇跡だと感じる。
霧島神宮が意外と『石戸霞』に価値を見出していないというのであれば、こんなに楽なことはない。
だが、そんな簡単な話ではないはずだ。
責任を問われているであろう両親のことを考えると胸が痛んだ。
それに、六女仙のこともある。
「霞さん?」
「はい」
「何か考え事してた?」
「……ええ」
公園での散歩デート中、気遣ってくれる京太郎。
鹿児島でのように『大丈夫』とは言わず、素直に返答する。
「おそらくは、何かが起きる、と思います」
「何か?」
「ええ」
いかに霧島神宮といえど人攫いのような真似は出来ないと思いたい。
だが、人間を天倪に仕立て上げるような集団だ。
何をしてきても不思議ではない。
「安心してください、霞さん!」
「?」
「両親と色々と相談しているんです。
きっと何とかなりますよ」
「そう、かしら」
気を遣ってくれているのはわかるが、さすがに不安は晴れない。
京太郎と須賀家も何かを考えているようだが、果たして……。
「霞ちゃん」
――聞き慣れた声が霞の耳を刺激する。
いずれは来るとわかっていた。
思った以上に待ってくれた方だ。
「あれ、確か……」
「薄墨初美と申します」
「永水の……」
「……」
京太郎が霞の一歩前に出る。
あまり警戒していないように見えるのは、相手の見た目が小さな子供に見えるからだろうか。
しかし今の霞からすれば、その小さな体はまるで巨人のように大きく見える。
「初美、ちゃん」
「久しぶり、というほど離れていたわけじゃないですねー」
「ええ、そうね」
初美の目に暗い炎が宿っている。
いつも霞を弄って遊ぶ活発な初美ではない。
『悪石の巫女』としての薄墨初美がそこにいる。
「霞さん」
「京太郎さん、少し待って」
「……はい」
「いい心がけですー」
手を引いて帰ろうとする京太郎を制して前に出る。
このまま逃げ続けるだけではいけないと気づいている。
「まさか、こんなことになるなんて思いませんでしたよー」
「そうね。
私もそう思うわ」
「単刀直入に言いますよー。
今ならまだ間に合います。帰りましょう」
「お断りします」
断言。
初美が辛うじて優しく言ったその言葉を一刀両断。
「……どうなるか、わかっているんですか」
「知らないわ」
「霞ちゃんにしてはワガママですね」
「そうね。
私、ワガママになっちゃった」
会話をしているようでしていない。
初美が少しずつ言葉に怒りを込めているのに対して、霞はあまりにも無防備だ。
「……あなたの両親が、どうなるかわかっているんですか?」
「……知らないわ」
ほんの少しの躊躇。
ズキリと胸が傷んだが、それを吐き捨てた。
「――ッ!
あなたはっ、自分が何を言っているのかわかっているんですか!」
ついに初美が堪えられなくなって激情する。
日が落ちて夜になろうとする公園に初美の声が響き渡る。
「自分を育ててくれた両親に対して、なんてことを!」
「……」
躊躇は、ない。
迷いはとうに、捨てている。
「それは私と私の両親の問題でしょう」
「!!」
信じられない、といったように目を見開く初美。
「最初に裏切ったのは、あなたたちなんだから」
霞もまた、瞳に暗い炎を宿す。
そうだ、何も話し合うこともできずに一方的に押し付けてきたのは本家のせいだ。
霞には霞なりの考えが、希望があった。
それを擦り合わせることができれば、あるいは天倪という宿命を受け入れることはできた。
「『姫様の代わりに死ね』と、言われました」
「それは私たちだって同じです!」
「同じ?」
「そうです。
六女仙が姫様を支えていく。
ずっと前からそうだったじゃないですか」
初美の炎が増していく。
それに対して霞は自分の心が急激に冷めていくのを感じた。
「それは、誰が決めたの」
「今まで私たちと、姫様と一緒にいたのはなんだったんですか!」
「……楽しかったわよ」
「それなら何で!」
「――ッ!」
その言葉が霞の逆鱗に触れる。
『それならなんで』――こちらの台詞だと。
「それならなんで!
私を裏切ったの!!」
「!?」
「少しだけ時間が欲しかっただけなのに、話し合うことも出来なかった!
先に裏切ったのはあなたじゃない!」
「私が裏切った!?
私たちから離れていったのは霞ちゃんです!」
「あのことがなければ!」
――密告さえされていなければ!
「もう少し時間はあったかもしれないのに!
全部初美ちゃんのせいよ!」
「ふざけないでください!」
「ふざけてなんかいないわ!
何もなかった、何も出来なかった、誰も味方がいなかった――!!」
響く、慟哭
「私の気持ちはあなたにはわからない!」
「わかるわけないですよ!
自分だけ逃げようとする霞ちゃんの気持ちなんて!」
「逃げ、る?」
「使命を課されているのは私たちだって同じです!
婚約者がいるのだって私たちだって同じです!
何で、何で霞ちゃんだけ!」
その言葉に対し、霞が自嘲めいた笑みを浮かべる。
「だから、裏切ったの?」
「!?」
「嫉妬して、裏切った?」
「――なっ!!」
「……帰って」
静かに告げた。
もうこれ以上話すことはないと突き放した。
「もう、終わりね」
「……そうですね。
こんなわからずやなんて思いませんでしたよ」
「それはお互い様」
初美とこのように言い争いをしたのは初めてだ。
いつも、弄られても楽しく返していた。
お互い、楽しかった。
今、致命的な亀裂が入ってしまったのを感じた。
「日本にいる限り、あなたに幸せは訪れない」
「!」
その言葉に反応して今まで沈黙を保っていた京太郎が霞の前に出る。
「どういうことだ」
「あら、いたんですか。
自分の彼女があれだけ黒いところを見せられて幻滅しましたか?」
「そんなことで幻滅なんてしない」
キッパリと言い切る京太郎。
それは幸運にも、ここ数日間で霞と何度か軽い言い争い―当人たちにしてみれば、だ。横から見れば仲積むまじく見える―をしていたからだろう。
理不尽な怒りに耐えることもまた、恋人関係の一つ。
それより、この言葉に動揺していたのは霞だった。
「人を天倪に仕立て上げるような本家が諦めるわけないじゃないですか」
「!」
「――しきたりを破れば、どんなことが起きるかわかりません。
すぐに連れ戻されますよー。
あなたたちには何もできない」
「……そっか」
言うだけ言ってせいせいした、とばかりに身を翻す初美。
「逃げ切れるものなら逃げてみてください」
「ああ、やってやるさ」
自信満々に言い放つ京太郎に対して、自嘲めいた笑みで答える初美。
「……」
最後に初美は京太郎をじっと見つめた。
その時の初美が何を思ったのか、京太郎たちには誰もわからない。
それはほんの少しの時間で、初美は逃げるように去っていった。
――初美が見えなくなった瞬間、霞が手に持っていたカバンを落とした。
「私、私……っ!!」
「霞さん!?」
全身を震わせ、怯えるように竦む霞。
震えてしゃがみ込んでしまった霞に必死に声をかける。
「わた、し」
「どうしたんですか!?」
「京太郎、さん」
霞の声は震えて弱々しくなっていく。
「私、初美ちゃんになんてことを――っ!!」
それは、後悔。
先ほどまで憎んですらいて、暗い言い争いをしていた相手。
しかし初美は紛れもなく霞の親友なのだ。
小さな頃から一緒にいた。
大人しかった霞に対して活発だった初美。
何事も率先してくれていたおかげで助かった。
辛いお役目もまた、初美や他の六女仙がいた。
――例え裏切られたと思っていても、初美ならばと耐えられた。
しかし今の霞は、初美に罵声を浴びせ、両親すら切り捨てた。
自分のしたことに恐怖し、自分の醜い部分を露出させた。
そんな醜い自分が耐えられず、あまつさえそれを京太郎の前で見せてしまった。
「私、なんて醜くて、汚いの!」
「そんなことないです!」
「いや!」
京太郎の気遣いも跳ね除ける。
今の霞は混乱状態の極みにあった。
「霞さん!」
「いや、来ないで……。
私、京太郎さんの隣にいる資格なんてない」
「……そんな資格、いりませんよ」
ヒステリックに喚く霞の手を無理やり引いてその場から動く。
「とにかくここを移動しましょう。
危ないですから」
「……」
「霞さん」
「……」
京太郎の呼びかけには答えないが、手を引かれるがままに移動する。
抵抗する気力もないのだ。
……
…
「今迎えを呼びましたから」
「……」
「ああ、俺が話しているだけなんで聞いていてくれればいいですよ」
「……」
「そんな気にすることないって。
いや、俺が言えることじゃないですけど、喧嘩したらそんなもんじゃないですか」
むしろ手より口が出た方がマシ、と言いかけてやめる京太郎。
「俺だって友達と大喧嘩したことありますし。
ははっ、霞さんが家に来た時に親父にぶん殴られたり怒鳴られたりも最近じゃん」
「……」
「大丈夫です。
俺が保証します」
「……何が、わかるの」
「?」
「京太郎さんに、何がわかるの」
言ってはいけないと思いつつも当たり散らしてしまう。
今まで感情の発散をしたことがなかったが故に、止まることはない。
それをしてしまえば京太郎に嫌われるかもしれないとわかっていても止まらなかった。
「私と初美ちゃんの関係、わからないじゃない」
「……そう、ですね」
「わからないじゃない。
何も、知らないじゃない」
「霞さんの言う通りです。
――だからもっと、、もっと話をしましょう」
顔を上げる霞に、京太郎は笑いかけた。
なぜそこまでしてくれるのか、霞にはわからなかった。