3
その日はいつもより早く起きた。
正確に言えば前の晩の時点でよく眠れなかったのだけれども、ちゃんと起きることができた。
まさか東京に麻雀をしに来てこんな展開になるなんて思ってもみなかった。
気合を入れようにも人並みの化粧道具くらいしか持っていない。
買いに行って揃えようにも、完全に決意したのが夜だったのでもう無理だ。
私服はとてもデートに使えるものではなかったので、朝からウンウン唸っている。
「組み合わせなんて考えたことないわよ……」
今時の女子高生ならば当たり前なのかもしれない。
けれども、霞にとってはその『当たり前』がよくわからない。
唯一持っている私服も、胸が隠れるように少し大きめのサイズを選んでいる。
少なくとも、この服でデートに行きたいとは思わない。
「(私、楽しみにしているのかしら)」
ドキッと胸がなる。
相手は関係なく、これが霞にとっての初めてのデート。
今は須賀京太郎という存在のことが恋愛的な意味で好きなわけではないけれど、高まる胸の鼓動が抑えられなかった。
「(でも、これで男慣れできるわよね?)」
あまり京太郎を信頼しすぎるほどの関係にはなっていないが、悪い人ではないはずだ。
嫌な言い方をすれば、身元が割れている。
変なことをすれば清澄高校に迷惑がかかる以上、彼が何かをすることはないだろう。
そんな黒い考えが一瞬浮かんでしまう。
しかし、やはり霞は一人の女の子としてデートするのが楽しみなのだ。
――ずっと夢見ていた、一人の女の子としてのデート。
「何やってるんですか、霞ちゃん」
「初美ちゃん」
「一人百面相ですよー」
気づけばすぐ近くにまで初美が寄ってきていることにすら気づかなかった。
「ずいぶん気合を入れていますねー」
「そうね。
あんまりみっともない格好で行けないわ」
「その割には制服ですかー?」
「うっ、だってこの服くらいしかデートに使えそうなものがなかったんだもの」
健全なデート、であるから制服デートでも問題あるまい。
もちろん、永水女子の制服であり巫女服ではない。
今日はオカルトも何もない普通の女子高生になりたい、などと思っていることはバラしたくない。
白とピンクのセーラー服。
いつもより気合を入れて髪を梳いて、軽く化粧を施したそれは霞本人でも満足のいく出来だった。
「本当に行くんですかー?」
「い、いいじゃない。
ちょっとくらい」
初美にジト目で見られる。
石戸霞。高校三年生にして男の子と出かけるのは初めてだ。
ノリで言ってしまった『お礼』は、大人のお姉さんとしては今更断れない。
「お礼として一回デートするだけ、だから」
「それならいいんですけどー」
初美の目が厳しいものになる。
「わかってますよねー?」
「……うん」
初美はそれだけ言って、厳しい視線をやめた。
いつもの霞をからかう表情に変わる。
「お金を渡されちゃったりしないでくださいよー」
「そんなことないわよっ!?」
「いやー、今の霞ちゃんならありますよー。
大人びた化粧に制服姿、清楚系の黒髪ロング。
下手をしたら声をかけられちゃうかも」
「それは……嫌ね……」
妙に生々しい内容が嫌だった。
東京では『援助交際』なるものが流行っていると聞く。
女子校で仕入れた知識ながら、清楚系の黒髪ロングは狙われやすいらしい。
むしろ女子側が声をかけられるのを望んで清楚系にしているとも聞く。
男に縁のない霞には怖い話だ。
「大丈夫よっ!
お姉さんらしくリードしてくるだけだから!」
「この上なく心配ですねー」
「じゃあ、行ってきます」
初美に手を振りながらホテルを後にする。
霞がいなくなった後、初美は呆然といなくなった場所を見つめていた。
「本当に、わかってますか?」
その問いに答えるものは誰もいない。
……
…
待ち合わせ場所に着いたのは一時間前。
早く着きすぎるにも程がある。
ベンチにタオルを敷いて、その上から座る。
「(一時間)」
さて、困ったものだ。
昨日の夜から時間が長く感じて仕方ないのに、こんな場所で一時間も待てるだろうか。
キョロキョロと周りを見回してみると、他にも何人か待ち合わせをしている人がいる。
そこそこ有名な待ち合わせ場所を選んでくれたようだ。
こうやってドキドキしながら誰かを待つのは初めての経験。
恋愛感情ではないはずだけれども、異性との付き合いというだけでこんなにも変わるものか。
「ま、まぁお姉さんだから」
早く来すぎたことに自分で言い訳をする。
まだかまだかと時計を見てみても、進んでいるのは1分か2分。
ため息を一つ吐いて、周りの様子をもう一度確認。
「(みんな落ち着いてる……)」
同じような人たちが多いが、霞のように落ち着きがない人は少ないのではないか。
もちろん、霞が見ている視点なので本当にそうかは限らない。
やはりみんな異性とのデートなんて慣れっこなのが普通なのかもしれない。
「(私が早めに経験しておくのは悪いことじゃないわよね。
お姉さんだし)」
頭の中に浮かんだ初美に向かって言う。
そうだ、これは正当な理由があるデートだ。
決して浮ついた気持ちではない。
「ねぇ、ねぇ」
「?」
「お姉さん一人?」
「わ、私かしら?」
金髪が見えたので一瞬見間違えたが、声も顔も全く違う人に話しかけられていた。
これはいわゆるナンパではないか。
「お姉さん綺麗だし、よかったらナンパしよっかなって」
「ちょ、直球ですね」
「そういうもんじゃん?」
なるほど。都会の若い人は進んでいる。
しかしこれは同時にチャンスなのかもしれない、と感じた。
――霞は大人びているように見えて、様々なものに憧れている。
それは幼い頃から自分を締め付けていた環境に依存する。
厳しいお勤め、修行。
姫様の代わりとなるための心構え。
お家のために人生を捧げる覚悟。
ありとあらゆるものに縛られてきた。
それ故に、単純な少女漫画のようなシチュエーションに憧れているのだ。
いざとなれば護身術を使おう。などと物騒な考えも持っている。
この状況、このナンパ男に無理矢理されそうになったところで須賀さんが助けに来てくれる。
そんなことがあったらいいのに。
「ちょい待って。
その人、俺の予約があるんだよね」
――!?
霞の心臓が破裂しそうなほどに鼓動する。
待ち焦がれた男の子の声。
思わず時間を確認するが、まだ集合時間より30分ほど早い。
本当に漫画のようなシチュエーションに胸の高まりが抑えきれない。
でも、喧嘩になるようなら……。
「マジかー。
さすがにこんな美人はお手つきだよなー」
しかし男はサラッとどこかに行ってしまった。
漫画ならばここは無理矢理にしようとして、須賀さんに助けてもらうような場面なのに。
「やけにあっさり引いたわね」
「そりゃこれだけ人の多いところで危ない真似は出来ませんよ」
――なるほど、確かにそうだ。
先ほどまで高まった熱が急激に冷めていく。
助けてくれたというだけで十分なのに、上下する感情の前に自分自身に呆れてしまう。
「それでも、須賀さんも危ないでしょう」
「そりゃこっちのセリフですよ。
俺が危ない分にはいいんです」
「えっ」
サラッと言ってのけるセリフは、少し反則なのではないか。
……
…
「今日は来てくれてありがとうございます」
「ううん。
私が言い出したことだから」
どことなくぎこちない形になってしまう。
あれだけ脳裏に浮かべていた京太郎が目の前にいると緊張してしまうようだ。
「いやァ、正直もうちょっと早く来てたんですけど……」
「えっ?」
「その、石戸さんだって自信がなくて……」
京太郎が都合が悪そうに頭を掻く。
「どういうこと?」
「その、巫女服のイメージが強すぎたんで。
制服で来るとは思いませんでした」
「ああ、なるほど」
霞自信、巫女服のイメージが強いのは自覚している。
京太郎の前で永水女子の制服を見せたことがないし、そう思われるのも仕方ない。
「(そういえば……)」
京太郎は制服ではない、私服でここに来ている。
前日までの雰囲気と違って、より気合を入れたような格好だ。
シャツはよくありそうなものだが、ジーンズには気合を入れていそう。
もし声をかけられていなかったら、霞も見分けがつかなかったかもしれない。
「でも、助けてくれたわよね?」
「俺、人の顔を覚えることに自信あるんですよ。
石戸さんがあんな風にされているの、絶対に嫌だったんです」
ドキッと心臓が鳴ったのを感じた。
一挙一動で動揺させるのは卑怯じゃないか。
「須賀さんって」
「?」
「もしかして、たらし?」
「へっ?」
「ふふっ、女性経験が多そうね」
急に態度を変え、お姉さんぶる霞。
もちろん本気で言っているわけではない。
ここまで(本人が意図していないところとはいえ)リードされっぱなしなので、年上の余裕を見せ付けたいのだ。
「そうかな?
これくらい普通じゃないですか?」
「そ、そう?」
「霞さん的にはダメっすか?」
しかし知識も実践もない霞に反撃など出来るわけがない。
真顔でクエスションマークを出されてしまえば、たじたじと引き下がる。
「じょ、冗談よ」
「良かったー。
俺、初っ端から石戸さんにそう思われたらどうしようかと……」
先ほどまでの様子からは嘘のように少年っぽさを前面に出す京太郎。
そのギャップに少しの母性本能を覚える。
「もう、しっかりして。
エスコートしてくれるんでしょう?」
「はいっ!」
そんなギャップを意識しながらも、年上の振る舞いをすることでなんとか自分を抑える。
大したことがない普通の会話でもこれだ。
やっぱり霞は男慣れしていないようだ。
……
…
「石戸さんってどこか行きたいところあります?」
「そうねぇ」
「一応計画は練ってきているんですけど、行きたいところがあるなら優先しますよ」
「それはありがたいわ。
普段が鹿児島だから、東京には憧れているの」
「あー、わかります!
長野も田舎だから東京ってなんか怖いイメージありますよね!」
京太郎はさり気ない会話にも肯定して、決して否定しない。
そこまで親しくない人には当然とも言えるが、女の子扱いを受けている霞は少しずつ調子を上げていく。
「東京スカイツリー。東京タワーみたいな名所とか。
六本木ヒルズとか、代々木公園とか……。
国立美術館なんてのも定番ですよ」
「須賀さんって、女の子と出かけるのに慣れているのかしら?」
「慣れてるっちゃ慣れてるのかなァ。
図書館ばっかり付き合わされているけど」
他の女の子の匂いに、ほんの少しだけ不機嫌になった。
自分から他の女の話題を出しておいてこれだ。
「でも、こうしてちゃんとデートするのは石戸さんが初めてですよ」
……そのあとにフォローされるとテンションの乱高下が忙しい。
意識していなかったはずなのに、一擧一足に意識してしまう。
「あの、東京に来たら行きたい場所があったの」
「よしっ! そこに行きましょう!」
「やっぱりデートの定番といえば『美術館』よね!」
美術館なら大人っぽいだろう、という霞の考え。
「すごい!
石戸さんって絵画とか詳しいんですか!?」
「ま、まぁ」
「すごいですね!
俺、全然わかんないですけど、石戸さんと行ってみたいです!」
純粋な京太郎の眼差し。
まるで子供のようにキラキラと霞を尊敬している。
霞が汗をたらりと流す。
ずっと修行ばかりしてきた霞に、絵画なんてわかるはずもないのであった。
……
…
「うーん、やっぱり美術ってわかんないや」
「須賀さんは絵を描いたりはしないの?」
「俺、外で遊んでばっかでそういうことはしないっすねー。
石戸さんはどうです?」
「私は……平均的な女の子レベル、かしら?」
「あっ、女の子ってそういうの得意なイメージありますよね!」
そんなに大したものは描けないが、褒めてもらえて少し誇らしい。
実際に美術館に入った時にはどうなるかと思ったが、意外なことにスムーズに進んでいた。
美術について詳しく聞かれるのかと思いきや、飾られた芸術を話のタネに観光するだけ。
肩を張っていた分拍子抜けというか、かなり助かっている。
何より、楽しい。
「そ、そんなに期待されても困るわよ」
「デフォルメされたキャラの絵とか描きます?」
「それくらいなら……」
「なんかかわいいですね!」
「!」
『かわいい』
男性から言われることはなかったが、そのような言葉は聞き慣れていた。
しかし今のは容姿を褒められた訳でもなく、霞がたまにやることを褒められた感覚。
それも、絵を描く。ちょっとしたキャラ絵を描く行為をかわいいと言われたのが、とても嬉しかった。
「石戸さん?」
「……なんでもないわ」
ちょっとうつむいて、体勢を整える。
少し褒められたくらいで動揺しすぎではないか。
「俺、美術館って全くわからなかったけど、石戸さんと来たら楽しいです」
京太郎がボソッと言ったその言葉。
それは霞にとっても同じ感情。
本当は高尚な美術なんてわからない。
ただ、隣にいる彼といることが楽しい。
それに、自分でも地雷を踏んだとわかっている美術館でこれだけ楽しませてくれるのが嬉しい。
――これが、普通の女子高生の楽しみ
「須賀さん、ありがとう」
「?」
「私もとっても楽しいわ」
今日初めて、霞は心からの笑顔を向けた。
安易に心を許さないような警戒も何もなく、本当に心の底からの笑顔。
それはきっと、永水女子の誰にも見せたことがない表情。
「最近、ちょっと疲れててね」
「そうなんですか?
愚痴なら聞きますよ」
ふと、声を漏らしてしまう。
彼はそれに反応し、ちゃんと返してくれる。
「じゃあファミレスにでも行きますか!」
彼のその一言で移動することになった。
少し、吐き出したいものもあった。
……
…
「やっぱりファミレスは学生には手ごろですよね」
「そう、かしら?
私はあまり来たことがないの」
「あれ、そうなんですか」
「うん。
……その話になるんだけれど、ね」
この話を出来るのは、京太郎がそこまで親しくない仲で、かつ他人というには近い『友達』だったからだ。
恋人や親友には出来ない。
初美や巴には絶対に出来ない。
今日だからこそ出来る、微妙な距離感。
「その、私たちは守らなければいけない人がいるの。
その人のために、命さえ投げ出す必要がある」
「い、命?」
いきなり出てきた物騒な話に引いているのかもしれないが、もう止まらない。
「そのために毎日修行。
青春も全部その人のために費やす。
私、今は永水女子にいるんだけれども、それまでは別のところにいたの。
その人が……、私を必要としたから転校した。
それまでの友達とも、会えなくなって」
今まで目を背けていた闇が見えてきた。
目を背けなければ耐えられなかった。
彼女はまだ高校三年生なのだ。
「みんなのまとめ役、なんて言っておいてこのザマよ。
まだまだ精神が未熟な証拠ね……」
これ以上はまずい、と判断して話を切る。
唐突すぎただろうか、引かれてしまっただろうか。
考えれば考えるほど憂鬱になる。
あんなに楽しいデートだったのに、自分が漏らしてしまっただけでこの空気。
京太郎はあんなに盛り上げてくれたのに、霞にはできない。
ああ、泣いてしまいたい。
「そんなこと、ないです」
京太郎はまっすぐ霞を見据えた。
視線が交差する。お互いに目を離さない。
「俺、石戸さんのこと詳しくないんで、何も言えないです。
でも、今の石戸さんが痛々しくて見ていられない。
一つだけ、いいですか」
京太郎が息を吸い込み、軽く吐き出す。
「石戸さんは頑張っているじゃないですか。
もっと自分のために生きてもいんじゃないですか」
霞の胸に楔が刺さった。
京太郎の言っていることはとても無責任。
神代本家と霞の関係を知らないから言える言葉。
だからこそ、京太郎の本心。何も飾らずに、ただ霞に伝えたい言葉。
「自分の、幸せ」
――それは許されてもいいのだろうか。