カップリングはないです。(自分的には……)
すでに完結している小説なので、毎週日曜朝9時に更新タイマーセットしてあります。
カタカタとキーボードを打つ規則的な音と、資料の紙を捲る音だけが室内に響いていた。
部屋のサイドに設置された棚には、大量の書類を納めたファイルが一つのズレもなく整頓されており、部屋主の几帳面さを物語っている。
高層ビルの上階に位置するこの部屋の窓からは、青空が広がり、眼下にはビル郡が立ち並ぶ景色が広がる。
「相変わらず仕事が速いな、佐為。内容も文句無しだ。次のシステムプロジェクトはこれで行こうか」
応接用のソファに座り、佐為から渡された書類に目を通していた戸刈が顔を上げる。
打ち合わせとは名ばかりの、佐為が作った計画案の最終チェックだ。戸刈が勤める会社の北斗通信社システムは、情報システム設計、設置が主な仕事内容である。
その上で、コンサルティング業界で急激に業績を上げている佐為の会社と契約し、次のプロジェクトを進めようとしていた。
佐為が作った計画書に戸刈はざっと目を通しただけだったが、途中に気になる点や不足している項目、文章の落ち度は見当たらない。
あとはこれを会社に持ち帰り、最終判断を社長に判断してもらうだけだが、恐らくGOのサインが出るだろう。
「それは良かった。今回かなり強引なプロジェクトですので、少し骨をおりましたよ。しかも仕事に取り掛かる期間がほとんどありませんでしたし」
ようやくパソコンのディスプレイから顔をあげ、キーボードを打つのを止めた佐為が、戸刈の方を向く。
戸刈と佐為は歳こそ多少離れているものの、実益と無駄、損得の考え方が非常に良く似ていた。その所為か、仕事のパートナーとして付き合いもそれなりに長くなり、今では変に取り繕ったりせず、本音でやりとり出来る間柄にまでなっている。
だから打ち合わせ中であっても、書類確認をただじっと待つのは無駄と考え、佐為は別の仕事をこなし、戸刈もそれについて嗜めたりせず好きにさせていた。
要は仕事さえちゃんとして、出る場所ではしっかり体のいい外面を取り繕っていれば、問題は何も起きないのだ。
特に佐為の容姿は日本人の中でも浮いている。皺一つないストレートのスーツを違和感なく着こなし、癖の無い日本人らしいまっすぐな黒髪は胸まで届いた。普通、男が長髪と聞くと、大多数は自信過剰なナルシストを想像するだろう。しかしこの藤原佐為という人物は、見るものにそういったマイナスの印象を与えることはなかった。
決して弱々しい女顔をしているわけではない。顔のパーツひとつひとつの均整が取れているのだ。そして容姿に加えて、隙の無い上品な所作が好印象を見る者に与える。
佐為が大学院を卒業するとき、数多の企業から引く手数多だったというが、欲しがった企業の気持ちが戸刈は分るような気がした。
もっとも、佐為は企業への誘いを誰かの下で仕事はしたくないと全て蹴って、卒業後は自ら会社を立ち上げ、今ではコンサルティング業界の筆頭株にまでのし上っている。
「期間があまり取れなかったのは謝る。こちらとしても今月中にどうしても進めておきたかったから正直助かった」
えらく素直に謝る戸刈に、
「何かあるのですか?後の仕事が詰まっているとか?」
「いや、そういうわけじゃない。来月にウチがスポンサーをしている碁のイベントが控えているんだ。わたしが全体の責任者となっているから、イベント開催期間前後は運営にしばられて動けなくなる。だからどうしても私が動けるうちにこのプロジェクトを進めておきたかった」
「北斗通信社システムが囲碁に手を出すとは、また酔狂ですね。社長の趣味ですか?」
「対局をうちでネット配信する宣伝広告なだけだ。初めは一回きりのイベントのつもりだったんだが、日中韓の若手プロ棋士だけに出場枠を絞ったせいか、意外なほど好評で注目された。それを受けて今年もイベントを開催することになったんだ」
戸刈の説明になるほどと佐為は納得する。
通信システムが本業の北斗通信社ならネット配信は十八番だ。
日本においてあまり人気があると言いがたい囲碁でも、日本だけでなく中国・韓国のプロ棋士を招いてのイベントとなれば、対局内容のネット配信に世界中からそれなりのアクセスが望めるだろう。
「なら、ちょうど良かったじゃないですか」
長い髪を耳にかけながら、佐為はクスリと笑む。
「年中デスクに張り付いて仕事をしている戸刈さんには、外のイベントは良い気分転換になるんじゃないですか?この機会にリフレッシュするといいですよ。仕事疲れとストレスは頭皮に悪いらしいそうですよ」
「その言葉、そのままお前に返してやる。佐為、お前こそいい歳した若い男が仕事ばかりでどうする?仕事ばかりじゃなく、たまには女を連れて遊んだらどうだ?せっかくの面(ツラ)が宝の持ち腐れだ」
「私が戸刈さんくらいの年齢になりましたら考えますね」
やんわりと意趣返しの応手を、戸刈と佐為は繰り返した。お互い一歩も譲らす、佐為は笑顔を貼り付けたまま、そして戸刈は無表情にメガネの位置を正す。
すでに慣れたやりとりだったので、戸刈も単なる雑話の延長と気分を害すことなく、さっさと話題を変えるべく、
「佐為、テレビつけるぞ」
佐為に断りを入ながら返事を待たず、応接デスクの隣に置かれたテレビの電源を入れる。
「お好きにどうぞ。ですが、今の時間ですと昼ドラしかどの局もしてませんが?」
「さっき言っただろう。ウチが囲碁のイベントをすると。その日本代表として出場する有力候補の対局がNHKでテレビ中継されているはずだ」
「まだ出場すると確定してないのに、チェックされるんですか?」
「実力的にはほぼ確定らしいんだが、調子を落としたままウチのイベントに出場して、盛り上がりに欠けたら困る」
「それなら気が済むまで見て行ってください」
いきなり戸刈がテレビをつけると言うから何事かと思えば、それも仕事の範疇だったかと佐為はひとりごちて、仕事の資料を取りに椅子から腰を上げた。
出場する可能性が高い若手棋士の調子を見るのはいいが、打っている対局を見て戸刈がその棋士の調子の良し悪しが判別つくとは思えない。
よほど去年のイベントとやらが上手く行って、今年は去年以上の注目度アップを目指して棋士にチェックを入れているのか。
飽和している日本国内を飛び出し、世界へ着手するために何かイベントを主催して会社の知名度を上げるには、確かにいい企画だろう。
そう思いながら佐為は棚から目的のファイルを取り出し、視界の端に戸刈の姿を映しながら、ファイルを捲った。
テレビのチャンネルが切り替わり、画面に碁盤が映し出される。
その碁盤に黒石と白石が描く緻密で精巧な模様を見て、佐為の心臓が跳ねた。
これまで佐為の人生の中で囲碁というものに一度の接点もないのに、視線が画面から外せない。
そして次にテレビ画面が碁盤から、対局している人物に切り替わったとき
(私はこの子供をよく知っている?)
幾分明るい前髪をした十五、六の少年。会った事も無い少年に、奇妙な既視感を覚え、佐為は思わず口元に手をやった。
こんな少年は知らないと思う理性と、よく知っていると訴える本能がせめぎ合う。
(誰?……この子は誰?知らない子供。ちがう、私が思い出せないだけだ。私はこの子を知っている……)
『進藤二段黒、15の29』
という対局読み上げ手の声に、大盤解説者が少し驚いたように唸る。
『これは黒が目いっぱい伸びてきましたね』
解説用大盤の上に、少年が打った同じ位置に、黒の石を新たに打つ。
黒が大きく中央に伸びるオオゲイマの打ち方。
(オオゲイマ?そうだ、これはオオゲイマだ。でも何故そんなことが私は分った?囲碁なんて、したこともないのに)
囲碁のルールはもちろん、石すら触ったことがないのに、佐為にはテレビの中で打たれた一手がオオゲイマと呼ばれる手であることが分ってしまった。
それだけではない。盤上の黒と白のどちらが勝っているのかすら、一目見ただけで分ってしまった。形成は中盤にあって黒が優勢だ。
佐為の手から持っていたファイルが力なくスルリと床に落ちた。
バサッ、という音に戸刈が、どうかしたのかと振り返る。
「佐為?どうした?ファイル落としてるぞ」
と、声をかけるも、佐為は微動だにせずテレビを目を見開き見つめたままで
(この打ち方は自分が教えたんだ。まだプロを目指し院生だった頃の彼に、毎日何局も、何局も指導碁を自分は打っていた)
テレビに映し出され、真剣な表情で盤上をじっと見つめる前髪が幾分明るい少年。
一度と会ったことがなく、一言の会話を交わしたこともない。
なのに、いつも一緒にいて、笑って、喧嘩して、毎日二人で碁を打っていた。
「ヒカル……」
ぽつりと佐為が呟く。
「この棋士のこと、知っているのか?」
戸刈が片眉をピクリとさせた。
戸刈は去年の北斗杯での出場選手として知っていたため、テレビに映された棋士が進藤ヒカルであることを知っていた。
しかし、佐為はテレビに『進藤』の名字は出ても下の名前は表示されていないのに、名前を言い当てた。
流行りのテレビゲームどころか囲碁という日本古来のゲームに佐為が興味を持っている素振りは全くなかった。
しかし、それ以上の追求を重ねることが戸刈には出来なかった。
佐為と戸刈はそれなりに長い付き合いだが、間違いなく初めてだった。
佐為が涙を流すところを戸刈が目にするのは。
(思い出した……ヒカル……)
千年の記憶が次々と佐為の中に溢れていく。