Encounter-佐為の目覚め-   作:鈴木_

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10 大会前夜

 

レセプションが終了し、出場する棋士たちは明日の対局に備えて早めにホテル内のそれぞれの部屋に戻る。

組み分けも何の因果か、去年と同じ対戦日程になった。

初日に日本対中国、二日目に韓国対中国、最終日の三日目に日本対韓国。出場選手たちが持ち時間3時間の一日がかりで一局を打つのだ。

選手たちが先に部屋に戻り明日に備えて休息している間も、戸刈は対局会場に残り明日から行われる対局の最終確認と打ち合わせを行い、ようやくそれも終えて部屋に戻ろうとして

 

「戸刈さん」

 

名前を呼ばれて振り返った。

すでに時間もあと5分もせずに日付が変わる。

そんな夜も更けた時間にホテルのロビーに人の姿はほとんどなく、誰が自分を呼んだのか探す必要は無かった。

 

対局しないとは言え、団長として選手をまとめる立場にある人物が、こんな時間までスーツ姿のまま立っているべきではない。早めに就寝して明日に備えておくべきだ。

同時に、なぜ目の前の人物がこんな時間までスーツ姿のまま己を待っていたのか、その理由も直感的に分かってしまった。

相手に何かを言われるより先に、

 

「緒方先生、藤原への取次ぎはお断りしたはずですが?」

 

「分かってます。ですが、それを承知でどうかお願いします」

 

深々と緒方に頭を下げられ、戸刈はどうしたものかと躊躇う。佐為には自分に来たものは止めておくと言ったが、タイトルホルダーに面と向かって頭まで下げられては、さすがに無下に断るわけにもいかなくなる。

 

「頭を上げてください、緒方先生」

 

「いえ、戸刈さんからよいお返事を頂くまでは上げるわけにはいきません」

 

断固と頭を上げようとしない緒方に、戸刈は目を細め、

 

「……今大会は前回と明らかに空気が違っている。皆さんが何を気にかけているのか、私には皆目検討もつきませんが、原因は間違いなく藤原でしょう。なぜ、棋士の方々は、いや日本だけでなく中国や韓国のプロ棋士の方々まで、藤原をあそこまで気にされるのですか?」

 

問われてようやく緒方は頭を上げた。

 

「かの人物が、誰もが探し求めるネットのsaiかもしれないからです」

 

「ネットのsaiとは何ですか?」

 

「正体不明のインターネットの棋士の名前です。ですが、プロ以上の実力者で、韓国中国のプロ棋士さえsaiには負けてしまっています。そして当時5冠だった塔矢先生も真剣勝負でsaiに負けました」

 

「そのネットのsaiという棋士が、緒方先生は藤原とおっしゃられるのですか?そのネットのsaiと名前が同じなだけの藤原が、プロ棋士を負かすだけの碁の実力を隠し持っていると?」

 

「そうです」

 

「ありえません」

 

即答で戸刈は緒方の仮説を否定した。

 

「私と藤原は仕事面だけでなくプライベートの付き合いもそれなりに長いですが、藤原が碁を打ち、プロ以上の実力を持っているなどとても信じられない。彼は非常に仕事人間だ。ネットというからにはその正体不明の棋士の名前が、偶然藤原と同じ名前だったということも十分考えられます。人違いでしょう」

 

「それを自分で確かめたいのです。お願いします」

 

緒方に再度深々と頭を下げられ、戸刈は降参したようにため息をついた。

このまま戸刈がいくら突っ撥ねようとしても、緒方は引かないだろうと判断したのである。

けれど、緒方の頼みを受け入れる前に、どうしても確認しておかなくてはならないことがある。

 

「重ねて申します。私は藤原が碁を打つところはもちろん、碁に興味を持っているような素振りすらこれまで一度たりも見たことがありません。もし仮に私の知らないところで碁を嗜んでいたとして、タイトルを保持するプロ棋士の方々がそこまで気にかけるほど、藤原に碁を学ぶだけの十分な時間があったとは決して考えられない。それでも藤原と話をしたいと言われますか?」

 

「それでもです」

 

毅然と頷いた緒方に、戸刈は短く『ここで少しお待ちください』とだけ伝え、ロビーを出て行ってしまう。

その後姿が見えなくなって、ようやく緒方は息を深く吐いた。

まだ勝負の土俵に立ったわけではない。しかし立とうとするだけでも、かなりの精神疲労と労力が要ったことは間違いない。

電話でアポを取り付けようとすれば、秘書らしき女性から遠まわしに断られ、同じスポンサーである戸刈を介して取次ぎを頼めど、すんなり話は通らない。

 

直接会って話しをしようとするだけで、これほど緒方の手を煩わせるのだ。

『藤原佐為』という人物は緒方が考えていたより遥かに、碁の気配が一切なかった。

噂通りの仕事一筋、浮いた女の噂一つすら聞こえない完璧な仕事人間。

 

ただ一つ、ヒカルを除いて。

そのヒカルにしても、つい最近になって二人が親しくしている姿を見けるようになったというのだ。

しかし、これぐらい碁の世界と関わりが無ければ、囲碁を嗜む者たちが誰も『藤原佐為』という人物を知らなかったのも納得出来た。

戸刈にここで待つよう指示されてから20分経っただろうか。

 

「失礼致します。緒方先生でしょうか?」

 

後からホテルスタッフと思われる若い女性から声をかけられ振り返る。

 

「ええ」

 

「藤原様より先生を部屋へご案内するよう頼まれて参りました。部屋にご案内いたします。どうぞ」

 

こちらへ、と部屋へ案内してくれるスタッフの後に緒方が続く。

そして案内された部屋の前につくと、ノックをする前に扉が開き、戸刈が出てくる。

 

「どうぞ、中へ」

 

「ありがとうございます」

 

ようやく佐為本人と話が出来ると、軽く会釈して緒方が部屋に入るが、戸刈はルームキーを鍵穴に挿し扉をロックしてしまう。戸刈も同席するのだ。

本当は、佐為と二人だけで話がしたかったのだが、取り次いでもらえただけこの場合はましだろう。

それに戸刈はこれからする話を聞いていたとして、それを誰かに話すようなタイプには見えない。

となれば、佐為がわざと保険として部屋に残るよう戸刈に頼んだのかもしれないとまで思考を巡らせる。

 

(合宿のときの差し入れといい、食えんやつだ)

 

人は見かけによらないというが、藤原佐為という人物は間違いなくこの類だろう。見てくれが際立っている分、始末に負えない。

窓際に立ち、外を眺めていた佐為がすぅと振り返り緒方に視線を向ける。

 

スーツのジャケットを脱ぎ、ネクタイを外した白シャツにスーツパンツというスタイルだった。

さすがにスポンサー責任者が泊まる部屋ともなれば、急な打ち合わせを自室で行うことも想定しているのか、それなりに広い部屋に応接用の椅子とテーブルまで置かれてあった。

佐為が応接用の椅子を示しながら

 

「どうぞお掛けになってください」

 

「いえ、このままで結構です。それより、こんな時間に部屋におしかけてしまい申し訳ありませんでした」

 

謝罪する緒方に構わず、佐為は緒方が何をそこまで話しがしたいのか分かっていながら、建前上、用件を尋ねた。

 

「私と話がしたいと戸刈さんから聞きました。明日からようやく大会本番が始まります。話は出来るだけ手短にお願いします。」

 

「では、尋ねますが、貴方がネットのsaiなのですか?」

 

言葉使いこそ丁寧だったが、佐為を見やる視線は、佐為の一挙一動を見逃すまいと見張っている目そのものだった。

 

「……レセプション会場でも何人かの方から聞かれました。私がネットのsaiなのかと。そのどなたにも私はイイエと返しましたが、緒方先生も私をそのsaiと勘違いされてらっしゃるようですね。たまたま名前が同じだっただけでしょう」

 

「本当に勘違いだと仰られますか?」

 

「いくら聞かれたところで、本当も嘘もないですから」

 

ふふふ、と微笑む佐為に不自然さはどこにも見当たらない。その一分の隙の無さが完璧過ぎるように緒方の目には映る。

 

「最近になってまたネットに現れはじめましたが、初めてsaiがネットに現れたのは5年近く前の夏でした。突然インターネット碁にsai、アルファベットでエスエーアイという名前のプレーヤーが現れた。その年の夏、一ヶ月の間だけ頻繁にネット碁に現れ、日本の棋士だけでなく海外の棋士ともたくさん打ち、saiは一度も負けなかった」

 

「所詮はネット碁でしょう?アマの棋士が趣味で打つ場です。そこでどんなに勝ったところで何だというのです?」

 

「saiが勝ったのはアマだけじゃなかった。素性を隠してネット碁を打っていたプロ棋士相手にも勝ち続けました」

 

「そのsaiというプレイヤーをアマと侮って負けたのでは?」

 

「かもしれません。だが、その夏を境にsaiは忽然と消え、再び現れたのは3年前。当時日本で5冠のタイトルホルダーだった塔矢行洋先生と、公式手合と同じ持ち時間3時間の真剣勝負で、ネット碁で対局しました」

 

「………」

 

「勝敗は、塔矢先生の投了でsaiが勝ちました。対局内容も名局と言って差し支えない。現役トッププロの棋士に真剣勝負で勝ってなお、saiを単なるアマの棋士と貴方は言われるのか?」

 

「例えネットのsaiという棋士がどれほど強いとしても、私には何の関わりもない。そして緒方先生がどんなに私とネットのsaiをどんなに同一人物にしたいとしても、それは全て徒労でしかない。私は皆さんが探されているsaiではないのですから」

 

あくまで自分はsaiではないと否定し続ける佐為に、緒方は苛立ちを覚え、声が無意識に荒げたものになってしまう。

 

「では何故、進藤はあそこまで貴方を慕うのです?進藤はsaiに繋がっている。本人は認めないが、塔矢先生にネット碁の対局を取りつけたのは間違いなく進藤だ。そもそもこの日本で『佐為』という名前自体そう滅多に見かける名前じゃない!」

 

言ってから、緒方はピクリと反応した。

それまでずっと冷静さを失わず緒方の話を聞いていた佐為から、一切の感情が消え、瞳に剣呑さが宿ったからだ。レセプション会場で見た柔らかな物腰と穏やかな雰囲気とかけ離れた一面。

 

「私とヒカルがどうして親しいのか?どうやって、何時知り合ったのか?」

 

それなりに勝負の場を経験している緒方を、視線一つで黙らせるだけの、底冷えする冷たい顔が現れる。

なまじ佐為の顔の造りが整っているだけに、表情から感情が消えると無機質な冷たさしか残らない。

 

「それを緒方先生に言わなければならない云われがどこにあるのですか?ヒカルと私が親しくするのに、緒方先生の納得と許可が必要なのですか?それとも緒方先生には私とヒカルの思い出の中に、土足で踏み込む権利があるとでも?」

 

「ッ!」

 

佐為の言葉が、緒方を冷酷に突き放す。

しかし、そこで怯まず、口調を丁寧なものから普段の口語に変えた。

 

「では言葉を変える。対局を申し込みに来た」

 

佐為は無表情で緒方に向かい合う。

 

「俺と打て」

 

「私は碁は打ちません」

 

「だがネットのsaiは、お前だ。どんなに否定しようともな。何故塔矢先生はよくて俺とは打たない!塔矢先生と俺の何が違う!?」

 

「もう一度言います。私はsaiではありません。碁は、打たない」

 

声を荒げる緒方とは正反対に、佐為は無表情に、無抑揚に、感情の欠片すら篭めずに言い捨て緒方を拒絶する。

 

「緒方先生が気にしていらっしゃる塔矢先生とネットのsaiとの対局。それは3年前のいつ行われたのですか?」

 

「それは……五月一日です」

 

「双方の持ち時間三時間なら対局があったのは朝からずっと、何時間もですよね?だとしたら打ち終わるのに夕方までかかったのではないですか?」

 

「そうです」

 

「でしたら、私はその条件には当てはまりません」

 

「何だと!」

 

思わず緒方は叫んだ。

 

「私はその日、大学の学会で経済学の論文発表を行っていました。もちろん論文を発表するのは、囲碁の公式手合ほど長い時間がかかるものではありませんが、朝から夕方までずっと会場にいたのでそれを証言してくれる方は少なくないでしょう」

 

感情の一切を省き、淡々と事実だけを述べていくだけの声のトーン。

佐為が緒方を誤魔化すため嘘を言っているとも考えにくい。

もし本当に緒方が確認を取ろうとすれば、簡単にボロが出るような嘘をついても何の意味もないのだから。

 

「それと5年前の夏にネットのsaiが現れたということですが、その時期、私はアメリカに留学中でサマーバケーションをあちらの友人と昼夜を問わず毎日楽しんでいました。日にちの詳細までは覚えていませんが、家の棚を探せば日付付きの写真が出てくるでしょう。こちらも頻繁に現れたというネットのsaiに条件に重なりません」

 

そこまで一気に言い終えてから、佐為は一息入れ、瞳を閉ざした。

そして瞳を閉ざしたまま、ゆっくりと穏やかな声で

 

「私は緒方先生がお探しになっているネットのsaiではありません」

 

再び佐為が瞳を開く仕草が、緒方にはビデオをコマ送りにしているように、酷くスローに見える。これだけ完全なアリバイを出されても、緒方にはとても信じられなかった。

これほどにネットのsaiと符合する人物はいないのに、藤原佐為はsaiではない。

捕まえたと思ったsaiが、指の間から音も無くすり抜けていく。

 

「saiじゃ、ないのか……」

 

「残念ですが」

 

呆然と呟いた緒方に、佐為は首を横に振った。

 

「……分かりました。時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。」

 

それだけを喉の奥からようやく絞り出すように言うと、緒方は一礼し部屋から出て行く。

 

「自分のところに来たのは止めると言ってたじゃないですか」

 

扉が閉まる音がしてから、緒方とのやりとりを、壁に背もたれずっと無言で静観していた戸刈に、佐為は恨めしそうな目を向ける。

佐為と緒方の話を戸刈は壁にもたれながら、静観していたのである。

 

「出来るだけ、と言っただろう。緒方先生に頭を下げられては、北斗通信社システム(ウチ)としても断りきれん」

 

それに必ず止めると言った覚えもないと、戸刈は佐為の文句を軽く突っ撥ね、緒方が断った椅子に腰をかけた。

 

「佐為、お前、碁を打つのか?」

 

「戸刈さんまで。私は碁など打ちませんよ。知っているでしょう?私にそんな暇はありません。そんな時間があれば仕事してます」

 

何を馬鹿なことを、と呆れ口調で言いながら、佐為は長い前髪を左耳にかけながら、リネンの効いた皺一つないベッドに腰をかけた。

すると、その様子をじっと見ていた戸刈が、顎を撫で、

 

「そうか、打つのか」

 

フム、と一人納得した様子で頷きながら言う戸刈の口調は、佐為が碁を打つものと断定した言い方で、佐為は顔をムッとさせた。

 

「ちょっと待ってください。打たないと言っているのに、どうして私が打つことになっているんですか?」

 

「お前は嘘をつくと、澄ました顔で髪を左耳にかける癖がある」

 

「…………」

 

戸刈の指摘に佐為は無言になる。

意識したことは一度もない。果たして、これまでずっとそうだったのだろうか?と思い返したところで、意識していないのだから当然思い出せない。

しかし、ついさっき碁を打つかと問われて誤魔化そうとしたとき、戸刈の言うように髪を左耳にかける仕草をしていた覚えがある。

仮に戸刈がカマをかけて当てずっぽうで言っているとしても、つい黙ってしまい否定できなかった。もしこれを緒方に伝えられでもすればどうなるのか。

 

「……、戸刈さん」

 

「分ってる。他言をするつもりはない」

 

良かったのか、悪かったのか、佐為も判断しかねたが、とりあえずこれで最悪の事態は免れたと受け取るしかなかった。

 

「それで、どれくらい強いんだ?」

 

認めてしまった直後で下手に誤魔化しても意味がない。

問われた佐為は、斜め上を見上げ少し思案し、

 

「タイトルの二つ、三つ取れるくらい、でしょうか」

 

真顔で言ってのけた佐為の返事が、決して日本の囲碁棋士が弱いと馬鹿にしての表現でないことを、戸刈は理解している。

佐為は自身の力を誇示するために、そんなつまらない虚栄をはる性格ではない。

囲碁のプロ棋士に詳しいと言いがたい上、全く碁を打たない戸刈に、自身の碁の強さについて簡単に分りやすく説明しようと考えて、結果、佐為の表現がそんな言い回しになってしまっただけだ。

 

どんなに日本の棋士が韓国中国に劣ろうとも、その日本でプロになるためには幼い頃からプロ棋士に師事し、休みなく毎日碁を打ち続けて、一握りの者たちだけがようやくプロ棋士になることが出来る。

その中でもタイトルホルダーになれるのは、十人にも満たないごく少数、タイトルを重複保持する者がいれば、人数はさらに減る。

自らの碁の実力をタイトル二つ三つ取れる程度と評価したが、佐為の自己評価は限りなく厳しいだろう。

勝負事ならなおさらに。

 

それを他人に言うならば、もっと謙遜した物言いを選ぶ。

となれば、最低でも二つ三つ、調子が良ければそれ以上のタイトル数を現実に取ることの出来る碁の実力を佐為は持っているということになる。

現在『碁聖』と『十段』のタイトルを持つ緒方が、通りで無理を押し通してまで佐為と対局したいと熱望するのか。碁には一切興味はなかったが、戸刈は何となく分ったような気がした。

 

(それにさっき5冠の棋士にもsaiは勝ったと言ってたな)

 

寝る間も惜しんで仕事をしていたくせにいつの間にそんな実力を?と戸刈は冷めた頭の隅で思う。タイトルに絡むほどのトップ棋士なら、勝負師として自分より強い者、同等以上の力を持つ相手と勝負したいと願うのは当然だ。

そして海外のプロ棋士たちも、緒方同様にsaiを求めているのだ。

それが今回の北斗杯で、棋士たちが藤原佐為に注目する原因になっている。

カタンと音を立て、戸刈が椅子から立ち上がる

 

「お前が碁を打とうが打つまいが、俺は関知しない。だが、これだけは言っておく。北斗杯の大会運営に支障をきたすようなことだけはするなよ」

 

「承知してます」

 

「ならいい」

 

それだけ確認すると、後は用無しと戸刈は部屋から出ていってしまうのだが、緒方を相手にするより戸刈の方がよっぽど疲れを覚えて、佐為はそのままベッドに突っ伏した。

 

(ごめんなさい。あなたがどんなにsaiを求めても、私は認めることはできない)

 

緒方がどれだけネットのsaiを求め探し、そして対局を望んでいるのか、佐為はその気持ちが痛いほど分かる。

緒方の気持ちは佐為が幽霊としてヒカルと共にいた頃の、いつ叶うとも知れない行洋との対局を願っていた気持ちと何も変わらない。

その気持ちが痛いほど分かっていながら、応えてやることの出来ないもどかしさ。

 

佐為とて決して緒方と打ちたくないわけではないかった。打てるものなら心行くまで対局したい。

ネット碁ならば、とも思うが、ネット碁でいつ打つかという対局日時を決める問題が出てくる。

行洋の時のように、ヒカルを橋渡し役として出すわけは行かないのだ。

自身をネットのsaiと認めれば、そこまでの高い棋力をどうやって得たのか、多くの者たちに詮索される。そして佐為と親しいヒカルにも詮索の範囲は広がる。

 

ネットのsaiは、今でこそ佐為である。

けれど、3年前まではヒカルだった。

佐為が騒がれる分についてはどうにでも出来るが、プロ棋士として生きていくヒカルもとなればそうはいかない。

 

ただ、佐為も一生saiの正体を隠すつもりはなかった。

これから佐為がsaiとしてネット碁を打ち続ければ、いつかsaiの対局とヒカルの公式対局が重なり、sai≠ヒカルという構図が定着するだろう。

周囲にもそれとなく囲碁を匂わせ、浸透させていけばいい。全てはそこからだ。

緒方だけでなく他の棋士たちと対局するにしても、

 

(saiと認めるには早すぎる。saiはまだしばらくネットの中だけの存在でなければならない)

 

ヒカルをsaiが押し潰してしまわないように。

 


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