第一回目の北斗杯が当初の予想を大きく上回り注目され好評だったことから、一度だけでなく毎年開催されることがスポンサーの北斗通信社から日本棋院に提示された。
棋院としては当然断る理由はどこにもなく、喜んで快諾した。
人気が衰えていくばかりの囲碁界にあって、18歳以下に出場資格を限定した北斗杯は、経験不足な若手棋士育成のためにも、また韓国中国に追いつくために若い棋士たちに世界の棋士と触れ合わせて刺激を与える良い機会だからだ。
そしてもう一つ、日本棋院にとって嬉しいことがあった。北斗杯のスポンサーがもう一社増えたのだ。
第一回開催の好評を知ったらしい会社側から、棋院と大元のスポンサーである北斗通信社システムに話が持ちかけられた。
日本棋院側はもちろんだが、北斗通信社としても一つの大会を運営するスポンサーとしての負担を分け合い、より北斗杯を多くの人に知ってもらうための宣伝としてもスポンサーが増えるのは助かる。
それにより日本棋院と二社の間で新しい契約が結ばれ、獲得賞金も増額した。
囲碁のプロ棋士として勝負事を生業としている以上、賞金が多いほうが気合いが入ってしまうのは勝負師としての性だろう。
「対局料いらないし予選だけでもいいから、俺も出たかった……」
棋院の休憩室で、頭を垂れ、大きな溜息をつきながらそう呟いたのは伊角だ。
今日が大手合の対局日だったため棋院にやってきていたのだが、対局後、事務手続きのために事務室に顔を出したとき、北斗杯のことが耳に入ったのだ。
昇段がかかった大手合の対局には勝ったのに、北斗杯を知ってしまった途端、襲いくるこの無常感はなんだろうか。
「俺がもっと早くプロ棋士になってたら……」
去年もそうだったのだが、北斗杯は18歳以下のプロ棋士を対象とした大会であるため、今年で二十歳の伊角には出場資格が無かった。
目に見えて気落ちしている伊角に、同じく大手合で棋院に来ていたヒカルが慰めの言葉をかける。
「まぁまぁ、伊角さん。年齢ばっかりは仕方ないじゃん。もし仮に伊角さんがもっと若いときにプロ棋士になっていたとしても、北斗杯が始まったのはやっぱり伊角さんが19歳になってからなんだから、どっちにしろ出場出来ないよ」
だから気にすることないよ、と笑いながら軽く言うヒカルに、伊角はさらに暗雲を背負った。
ヒカル自身は慰めるつもりで言ったのだろうが、まったく慰めになっていない。
「進藤は今年も選手になって出場する気なんだろ?」
「当然!今度こそ高永夏をぎゃふんって言わせてやるんだ!」
予選もまだ始まっていないのに、ヒカルの中ではすでに北斗杯に選手として出場することが決まっているらしい。
(まぁ当然と言えば当然か。今の18歳以下で進藤と渡り合えるヤツって言ったら、塔矢くらいだもんな)
現在のヒカルは最初の不戦敗がまだ若干尾を引いているものの、高段者対局日の常連になり、棋戦でもリーグ入りを目前にしている注目株だ。
実力で言えば、ヒカルが日本代表として北斗杯に出場してもなんら不思議ではない。
そしてヒカルと唯一渡り合えるアキラはというと去年に引き続き、予選免除で出場選手に決まっていた。去年の大会で唯一、中国韓国に土をつけた功績というものらしい。
そのため日本の棋戦などでの成績がアキラに劣らなくても、去年の大会で一勝も出来てないということでヒカルは今年も予選からの出だしとなった。
去年の北斗杯で高永夏に僅差で負けたことを、未だにヒカルは悔しがっている。
伊角も和谷伝いに去年の北斗杯レセプションで一悶着あったらしいと聞いただけなので何とも言えないが、高永夏が本因坊秀策を貶したことにヒカルは異常に憤慨したらしい。
何故そこまで秀策にこだわるのか理由は知らないが、目の前でヒカルが闘志を燃やす様を見ていると、その一悶着がどんな様子だったのか、伊角はなんとなく分るような気がした。
どんなに囲碁が強く、多少成長したとしても、ヒカルの精神年齢はまだまだ子供だ。
「あれ、二人とも先に対局終っていたのか?」
ひょこりと対局場から出てきた和谷が、伊角とヒカルの姿を見つけ近寄ってくる。
「進藤のその顔は勝ったな。で、伊角さんは……」
対局結果はどうだったのかと当てようとして、一見しただけで分る伊角の落ち込みように、和谷の声のトーンも引きずられるようにして落ちた。
「まさか、負けたの?真柴相手に?」
今日の伊角の対局相手は因縁の真柴だったから、伊角が軽く捻ってくれただろうと真柴嫌いの和谷は勝手に期待していたのだ。
なのに敗者の雰囲気をまとっている。
「勝ったよ」
それだけは断固譲らないとばかりに、伊角は言い切る。
ならば、伊角がそこまで落ち込む原因は何なのかと、
「じゃあなんでそんなに凹んでんの?何か対局でポカやったとか?」
「和谷、違う。年齢制限に引っかかっただけだよ」
伊角の代わりにヒカルが代弁したのだが、その『年齢制限』という単語に伊角はさらなるショックを受けてしまい言葉を無くしてしまった。
どこかで聞いたような単語だなと和谷は思いつつ、
「年齢制限?」
「北斗杯」とヒカル。
「なんだ」
そんなことかと和谷は拍子抜けし呆れた。
「あ~ね。でも去年だって伊角さん年齢アウトなんだから、これから先も出場無理に決まってんだろ」
去年の北斗杯でも大会に出場したいと言っては、越えられない年齢の壁にぶつかり凹んでいたのに、まだ出場したかったのかと和谷は軽く笑う。
「伊角さんの分まで俺が頑張るからさ!そんなに落ち込まないでよ」
とヒカル。
「待て進藤!何で自分だけなんだよ!?俺だって今年は絶対予選通って出場してみせるぞ!ていうか、もう自分は出場出来るつもりかよ!」
聞き捨てならないと和谷が口を挟む。
出場すら出来ない者の隣で、盛大に北斗杯の出場をかけて言い争う二人に、伊角は大きな溜息つくのだが、
「そこ!まだ対局中だぞ!何を大声出している!」
大声過ぎて対局の監督者が廊下に顔を出し、問題児3人に雷を落とした。
怒られた三者それぞれにビクリとして、真っ先に謝ったのは、院生時代のまとめ役気質が抜け切らない伊角だ。
「すいません!」
全くのとばっちりだったが、条件反射的に謝りながら和谷とヒカルの頭を掴み、ぐいっと頭を下げさせた。
「ったく!お前らはぁ~!対局終ったんなら棋院にダラダラいなくていいんだろうが。外出るぞ!」
と、二人を連れて、ツノを生やした監督官から逃げるように棋院を後にする。一年早く先にプロになったのは和谷とヒカルの二人だが、保護者役は伊角のままで、人間関係のポジションは未だに院生の頃と変わらない。
棋院を出てしまえば、3人でゆっくり過ごすところと言えば、お決まりの棋院最寄のマクドナルドだ。
普段、碁石と本しか持たない生活でも、食欲旺盛な育ち盛りは店に入ればがっつり食べる。
「ところで和谷は対局勝ったのかよ?俺と伊角さんはいいとして」
ハンバーガーにかぶりつきながらヒカルは思い出したように尋ねる。
「かっひゃよ(勝ったよ)」
和谷が行儀悪く食べながら答える。対局内容的には師匠の森下から小言の5つや7つ言われそうな内容だったが、とりあえず勝ちは勝ちだ。
「それより……」
口の中のものをゴクンと飲み下し、唇についたソースを舌でペロリと舐めとってから、和谷はおもむろに自分のバッグを漁り始める。
その表情はどこか浮き立っており、瞳もキラキラ輝いていた。
和谷が何を見せるつもりか分らなかったが、ヒカルは頬杖ついてストローでコーラをじゅるじゅる吸い、伊角もポテトを口に運びながらじっと待つと、机の上に和谷は一枚の棋譜を広げ、興奮した様子で口を開く。
「昨日久しぶりにsaiがネットに現れたんだ!これがそのときの棋譜なんだけど一緒見ようと思ってさ!」
もちろん森下の研究会にもこの棋譜を持っていこうと思っているが、やはりネット碁を分る者同士で棋譜の対局について話せるなら尚更いい。
3年前のsai VS toyakoyoをヒカルも見ていた。ならば、saiが再び現れたのなら一緒になって喜び気持ちを共有することができる。
そう思って、和谷は研究会より先に、伊角やヒカルに見せようと棋譜を持ってきたのだ。
「saiって塔矢先生に勝ったsaiか?」
和谷が出した名前に伊角が出された棋譜の方へ僅かに身を乗り出す。saiと行洋の対局を伊角はリアルタイムで観戦しなかったが、中国棋院に碁の勉強に行っていたとき、楊海から二人の対局した棋譜を見て驚愕したものだ。
行洋の見事な打ち回しもだが、中盤も終わりにさしかったあの局面で打ったsaiの一手。あの一手に気付ける者は、日本はもとより韓国中国のトッププロ棋士でさえいないのではと思えた。
あの一局でsaiの名前が中国韓国のプロ棋士の間にも広がり、正体が誰なのかと噂され、伊角も楊海から日本のプロ棋士に心当たりがないか聞かれた。しかし、やはり伊角もsaiの正体に心当たりは無かったので首を横に振ったものだ。
棋力で言えば間違いなくsaiはプロ以上。それもトップ棋士並み。これは棋譜を見た者であれば、全員が肯定するだろう。
だが、多くの者の予想としてsaiはアマというのが最有力説だ。
saiが現れた当初の、対局相手を選ばない打ち方と、丸々一ヶ月、ほぼ毎日のようにネット碁に浸るなんてことは、プロ棋士であれば棋戦などの公式対局日やイベントがあり不可能だ。
しかし、そうなるとアマでも高名な棋士となるのだが、行洋を打ち破る程の実力を有する人物もいない。
強さだけを碁を打つ者の心に鮮明に刻み、saiという名前以外の全てが闇に包まれた正体不明の棋士。それが伊角の知るsaiだ。
「そう!そのsaiだよ!塔矢先生との対局の後、ずっと現れなかったのに、昨日3年ぶりに現れたんだ!」
「どうせニセモノだろ?」
興奮する和谷に、間髪入れず全く信じていないという口調でヒカルが一笑した。
微かではあったがその口調には、押し殺すことが出来なかったニセモノのsaiへの軽蔑が滲み出てしまっていた。
二人に言うわけにはいかないが、佐為は消えてしまいもうどこにもいないのだ。
もし世界のどこかで佐為がまだ現世に留まっていたとしても、佐為の姿を見て、声を聞くことが出来るのはヒカルだけであり、『sai』のアカウントにログインできるのもヒカルだけなのだから。
だから、また有名になったsaiの名前を語るニセモノが現れたのだと、ヒカルは全く疑わなかった。
「俺も初めもしかしてニセモノかもって思ったけど、これは絶対ホンモノだと思う。棋譜見れば分るさ。これは、saiだ」
声を荒げ反論するわけではなく、静かに確信したような物言いの和谷に、ヒカルは渋々ともたれていた椅子から身体を起こし、棋譜を覗き込む。
(佐為のわけがないんだ。だってアイツはもうどこにもいないんだから)
ヒカルの脳裏に佐為と過ごした優しい日々が走馬灯のように思い出される。初めて平八の家の蔵で佐為と出合った日のことや、碁会所で打ったアキラと佐為の対局、アキラを追ってヒカルがプロを目指してからは毎日のように佐為と碁を打った日々。
それらが昨日のことのように鮮明に思い出され、胸が締め付けられるように感じられた。例え佐為のことを話したとしても誰も信じてはくれないだろうし、誰にもその存在を証明することが出来なくなった佐為。ヒカルだけが、確かにこの世界に存在したのだと知ってる佐為。
優しく、子供のように無邪気で、我侭で、そして誰にも負けなかった本因坊秀策。
「………」
「どうよ?これって絶対saiだろ?3年の沈黙を破っていきなり現れたんだぜ?昨日の夜、偶然見つけたときは脂汗出たぜ」
ニセモノと馬鹿にしながら棋譜を見たまま無言になってしまったヒカルに、和谷が自慢げにsaiを見つけた時の様子を語る。
プロになって3年目となるとそれなりに対局数も増え、以前のように頻繁にネット碁をする機会は減ってしまった。
それでもネット碁にアクセスしたときは、必ずと言っていいほどsaiを和谷は探した。もしかしたら、半ばネット伝説化さえしてしまった最強の棋士が、もう一度現れてくれるかもしれないと、限りなく少ない期待を抱きながら。
そうしていざ実際にsaiの名前をログインアカウントの名簿リストの中に見つけたとき、驚きと同時に、現れたsaiがホンモノかどうか和谷は直ぐに怪しんだ。
以前、saiが現れたと喜び勇んで観戦画面を開けば、全くのニセモノだった過去があるからだ。だから今回のsaiも、もしかするとsaiの名前にあやかった目立ちたいだけのニセモノかもしれないと疑心暗鬼で観戦画面をクリックした。
そして現れた対局観戦画面は、現れたsaiがホンモノであることを証明していた。
3年前と比べていくらも衰えていないその見事な打ち回し、対局相手の甘い部分を逃さず鋭く斬り込む一手。盤上の上の石が全てsaiの深いヨミによって導かれ創造されたような、美しい石模様。
すでに対局観戦数は膨大な数に膨れ上がっていた。
現れたsaiがホンモノだと和谷が確信した瞬間、驚きや興奮より歓喜と感謝が勝っていた。
saiが再び現れてくれた。
三年前の行洋との対局を最後に消えてしまったsaiを探し待ち続けていて本当に良かったと、心からsaiというネットの棋士の再来を喜んだのだ。
しかし、行洋とsaiの対局をリアルタイムで観戦していて、行洋でさえ気付かなかった逆転の一手にただ一人気付いたヒカルが、棋譜に視線を落としたまま、震える手で口を押さえた。
「そんな……そんなハズは、だってアイツは……」
「進藤?」
顔色が青ざめ、手だけでなく体まで小刻みに震え始めたことに気付いた伊角が、ヒカルの様子を気遣う。
棋譜を見るまで元気にハンバーガーを頬張っていたのだ。
それが和谷が取り出した棋譜を見たとたん、突然様子がおかしくなった。
椅子からヒカルが立ち上がり、机の上に置かれた棋譜をぐしゃりと握りしめる。
「ごめん!これちょうだい!」
言うや否や、自分のリュックを持って、慌てて店を出て行くヒカルに、和谷も意表を突かれ、引き止める間もなかった。
棋譜のデータは家のパソコンに保存されているから、また印刷すればいいだけだが、
「な、なんだってんだよ……」
俺、何かした?と問う和谷に、
「さぁ?」
と伊角も訳が分らず、首を捻るだけだった。
店を飛び出て、ヒカルが真っ先に向ったのはインターネットが出来る漫画喫茶である。駅前にならきっと漫画喫茶が必ずあるはずだと考えれば、そのヒカルの読み通り、ビルの中に漫画喫茶のテナントが入っていた。
初めての店だったため、受付で会員登録に多少の時間を取られつつ、ヒカルは個室の席へ入る。
パソコンに電源を入れ、立ち上がるのをじっと待ちながら、半ば強奪するように和谷から貰ってきた棋譜をもう一度眺める。
「佐為……」
震える唇で佐為の名をヒカルは呼ぶ。
記憶の中でヒカルに微笑む佐為の姿。
誰も知らない、ヒカルだけしか知らない最高の棋士『藤原佐為』。そして、2年前に何も言わずにヒカルの前から消えてしまった。
だからこそヒカルは、その棋譜の打ち手であるsaiが本物であると信じられず、同時にこのsaiが佐為ではないと否定することができなかった。
(本当にお前なのか?お前はまだ現世のどこかにいるのか?)
棋譜の随所に見られる、胸を締め付けられ息苦しさを覚えるほど懐かしい打ち方。まるで佐為が、自らはまだこの現世にいると棋譜を通してヒカルに訴えているように思えるくらい、至るところに佐為が溢れている。
パソコンのウィンドウが立ち上がり、ヒカルはネットブラウザを開き、久しぶりにネット碁にアクセスした。
ネット碁をするのは佐為が行洋と対局して以来だったが、アクセスIDとパスワードは忘れていない。
久しぶりにsaiのアカウントを入力しログインすると、恐る恐る対局履歴のページを開く。そこには新しいものから順に対局ログが残されている。
ヒカルの心臓が大きく脈打つ。
(佐為っ!)
瞳を見開きディスプレイを見つめるヒカルの目に映ったのは、昨日の対局記録。
3年のブランクを置いて、真新しい対局記録が一つ、ログの一番上に更新されていた。
その新しい対局記録をクリックすると、新規ウィンドウが立ち上がり、その打たれた対局棋譜が映しだされる。
棋譜の内容は和谷から貰った棋譜と全く同じものだった。
ニセモノのsaiではなかった。本物のsaiであるヒカルと佐為しか知らないはずのsaiのアカウントによって打たれた対局だった。