行洋引退の理由がアマかもしれないsaiにネット碁で負けたからかもしれないと、引退して数年たった今でも噂されていることをアキラ自身気づいていたが、それについて表立ってとやかく言ったことはない。
なにしろ当の行洋自身が何も語らないのだから、息子と言えどアキラに何が言えるというのだろう。
だが、確かにアキラの目から見ても、行洋の棋風はsaiとの対局を機に変った。そして、プロだった頃より強くなった。
その行洋との対局を最後にネットから消えていたsaiが、再び3年ぶりに現れたのだ。行洋とsaiとの対局を知る者であれば、決して関心を寄せない者はいないだろう。
そしてsaiがネットに再び現れたのは、海外にいることが多くなった行洋が、珍しく日本に帰っていた時だった。
それを偶然と片付けるか、そうでないかは、受け取る人物の気持ち如何だ。
その中で、アキラの兄弟子である緒方はsaiの出現を偶然と片付けなかった。
行洋とsaiの対局にひどく心揺さぶられ、自身もsaiと対局したいと緒方が願っていることはアキラも知っていた。
そして一時はsaiの正体に一つの心の区切りをつけた筈のアキラでさえ、saiが再び現れたのは驚き以外の何物でもなかった。
本当に偶然だったのか、それとも何か別の意図があったのか。
迷ったまま緒方の勢いに引きずられるようにして、saiの棋譜を緒方と共に行洋に見せたのだが、行洋の反応は至って淡白なものだった。
緒方の言葉使いこそ礼儀を弁えているものの、胸の中で燻る感情を隠すことなくぶつけるような言及にも、ただ静かに受け答えするだけで。
いくら行洋でも多少なり動揺するはずだと踏んでいた緒方の思惑は見事に外れてしまい、行洋の表情からは終始何も読み取れなかった。
だが、アキラにとって予想外だったのは、行洋ではなくヒカルの動揺振りだった。
「大丈夫か、進藤。もうすぐ対局時間だぞ」
棋院のベンチに腰をかけ、じっと思案しているヒカルにアキラは声をかける。
「え?あ、そう、だな……。わり、ちょっとぼーっとしてた」
心配そうに気遣うアキラに、ヒカルは何でもないと返すが、どうみても普通ではない。平静を失っている。
この調子で北斗杯予選にのぞんだところで、予選落ちしてもおかしくないだろう。
ネットにsaiが再び現れて以来、ずっとこの調子のヒカルに、流石のアキラもsaiについて尋ねるのは憚られた。
ヒカルの反応は、恐らくsaiが現れるはずがないのに現れたことに対しての動揺だろうとアキラは推測した。
ネットのsaiの正体を唯一知っているだろうヒカルがそう考えるほど、再びsaiが現れたという事実は異常なのだ。
しかし、今だけはsaiのことに構っている暇などない。とくに予選免除で北斗杯に出場出来るアキラと違い、予選から勝ち上がっていかねばならないヒカルは尚更に。
アキラが隣にいるそばから、ヒカルはため息をついてまた考えこみはじめた。
(まったく、saiが少し現れただけでこの腑抜けようは……)
他人事のようにアキラは苛立ちながら、ヒカルとは別の意味でため息をこぼす。
いくらsaiが気になったとしても、対局となれば話は別である。
本来、北斗杯予選に出る必要の無いアキラが、今日、朝から棋院に来る必要は全く無かったのだ。
午後の対局が終わり、出場者が全員決まるまでにやってきて、スポンサーに一言二言挨拶をするだけで済んだ。
それをわざわざ朝から棋院に足を運んだのは、ヒカルの様子がどうにも心配で気が気でなく、念のためと様子を見にくれば、案の定だ。
意を決して、ヒカルの襟元とぐっと握り、強引に顔を上向かせると
「しっかりしろ!進藤!今はこれからある北斗杯の予選にだけ集中するんだ!負けて北斗杯に出場出来なくなってもいいのか!?」
声を荒げて叫んだ。突然、大声で言われてヒカルはビクリと驚くも、すぐに胸倉を掴むアキラの手を振り解く。
「なっ、何だよ!そんなの分かってるよ!シードのお前が言うなよな!」
「分かっていればいいんだ。だがもし無様な碁を打って予選なんかで落ちてみろ。韓国の高永夏の冷笑する様が簡単に想像できるな」
「むっ!」
ヒカルを鼓舞する為にわざと高永夏の名前をアキラは出したのだが、狙い通り見事に食いついてくれる。今年の北斗杯も韓国の代表として高永夏はほぼ間違いなく出てくるだろう。
去年の大会で、あれだけ騒ぎを起こし、あと少しでヒカルは高永夏に及ばなかったのだ。
その敵愾心を奮い立たせれば、saiの出現にどれだけ動揺していても、ヒカルは北斗杯予選の対局に気を向けないわけがない。
やはりと言うべきか、去年の北斗杯の壇上でヒカルを冷ややかに見下した高永夏の姿でも思い出したのだろう。
ヒカルは口を思いっきりへの字にして、怒りに身を震わせている。
「行って来る!」
「ああ、その意気込みで頑張ってくれ」
扇子をぐっと握り締め、前を睨みつけながら対局場へ向かったヒカルを、アキラは小さく溜息をつきながら軽く手を振って見送る。
(……全く手のかかる。動揺したいのは、saiの正体を知りたいこっちなのに。大体saiと進藤が知り合いなら、saiももう少し時期を考えて現れればいいのに)
ヒカルの後姿が対局場に消えたのを見届けて、振った手でそのまま頭痛のする頭を抑えて、アキラは一人ごちた。
今年の北斗杯予選で、すでに高段者との手合いもこなしているヒカルと社の他に、気になる棋士はいない。
普段の実力で打てれば、まず間違いなく今年の北斗杯出場者も前回同様、アキラ、ヒカル、社の3人になるだろう。ヒカルが気を散らしてポカでもやって負けない限りは。
北斗杯の予選は午前一局、そして午前の勝者がそれぞれ午後に対局して決定する。
もともと北斗杯が18歳以下の棋士を対象とした国際棋戦であるため、出場出来る棋士は関西棋院と合わせても少ない。
そのため予選は一日で終わる。完全勝ち抜きの戦いだ。
今年の予選は、前回の出場者が予選でぶつからないよう組み合わせ表の調整がされている。
去年の予選で、越智が敗者である社と再対局した例外はあるが、それは社が観戦していた周りと越智に再戦を承諾させるだけの対局を見せたからであり、本来は敗者を救済したりはしない。
必要のない早朝からアキラが棋院に足を運び、集中力が散漫なヒカルに発破をかけたお陰か、午前午後とヒカルはなんとか予選を勝ち抜いた。
大きくはないが、小さいミスが所々にあったヒカルの対局は、最後まで安心することが出来ない僅差の勝利だ。
これは実際に対局しているヒカルより、別室で観戦していたアキラの方が、普段のヒカルの碁を知っているだけにやきもきした。
対局場の隣の別室で観戦していたアキラが、ヒカルが甘い一手を打つ度に、額に血管を浮き上がらせ何度口を挟みそうになったかも数え切れない。
ヒカルが甘い一手を打った全てに、アキラは隣の別室ですかさずその一手を咎めるキツイ一手を打ち返した。
もし目の前でヒカルの打ったところを直接見ていたら、口は挟まずとも眉間に浮き出た血管でそれが悪手だと周りに気づかれたことだろう。
「君って奴は……」
なんとか北斗杯の出場を決めることが出来たヒカルを待ち構えていたのは、憤怒の形相で廊下に仁王立ちするアキラだ。
(やっぱ怒ってる、よな)
ヒカル自身、午前午後と打った対局内容が決して良くなかったと分かっているから、アキラに文句を言われても何も反論できないので、兎に角視線を合わせないよう明後日の方角を見上げるだけだ。
「まぁまぁ対局内容はおいといて、とりあえず今年も北斗杯の出場者が決まったんやから、一致団結、今年こそ一位目指してがんばろやないか!」
同じく北斗杯の出場を決めた社が、二人の間に入り、なんとか場をとりなそうと気を使う。北斗杯が始まる前から、出場する仲間同士で仲違いは出来るだけ避けたい。
これから北斗杯のスポンサーに出場者全員で挨拶しなければならないのだ。
それなのに出場者が態度悪くして、大会そのものに悪い印象を持たれたら、せっかく新しくついてくれたというスポンサーが気分を害して下りてしまうかもしれない。
せっかくのスポンサー。
ゲンキンだが、賞金は少しでも高い方が気合いが入る。
「渡辺先生、出場者は決まりましたか?」
廊下の向こうからやってきた人物に、予選の見届け人兼監督をしていた渡辺が振り返る。
「戸刈さん、ええ、今ちょうど決まったところです。出場者は去年と同じで、塔矢くん、進藤くん、社くんの3人です」
「そうですか。分かりました」
廊下に集まっていた三人を示す渡辺に、戸刈は神経質そうにメガネの位置を正しながら頷く。そして戸刈の数歩後ろにいる人物に渡辺は視線を移しながら尋ねた。
去年、これまで全く碁に関係の無かった北斗通信社システムが国際棋戦の打診を日本棋院にしてきたときもそうだが、今年新たにスポンサーになったという会社の関係者も碁とはまったく縁の無さそうな容姿だな、と渡辺は内心思う。
「そちらの方は、新しくスポンサーになられた会社の関係者でしょうか?」
碁に何の興味を持って新規スポンサーに手を上げたのか。
仕事一筋なエリートビジネスマンというなら戸刈の方が似合うだろうが、隣に立つ人物は肩をゆうにこえる長い黒髪といい、若く整った容姿といい、歌舞伎やお茶の世界、伝統文芸や絵画などの芸術方面に似合う、勝負事とは無縁のような容貌に見える。
「ええ、そうです」
渡辺に促されるようにして、戸刈は新しいスポンサーを北斗杯出場を決めた3人に紹介しようとしたが、
「久しぶりですね、ヒカル」
新しいスポンサーになったという相手から、親しみを込めて名前を呼ばれても、ヒカルは無言だった。
「…………」
ひたすら瞬きも忘れてヒカルは見つめていた。
ヒカルの様子をおかしく思ったアキラが
「進藤?知り合いなのか?」
と、声をかけたが、やはり何も反応は無い。
そうなると相手の男を探るしかなくなるのだが、アキラには全く覚えがなかった。
(誰だ、この男)
アキラが不躾にならないよう気をつけながらも、北斗杯の新しいスポンサーになったという相手を見定める。
ヒカルの反応がないのは、反応出来ないでいるからであり、相手の男をヒカルは知っているのだろう。
しかし、久しぶりという相手に喜ぶでも驚くでもなく固まったまま反応が全く無いというのはアキラも判断つきかねた。
「私の名前も呼びたくないくらい、何も言わず突然貴方の前から消えたこと、怒っているのですか?」
ヒカルは顔を俯かせ首をブンブン横に振った。
そのまま顔を俯かせ、両手をぐっと握り締め震わせる。
「じゃあ、お腹が空き過ぎて声も出せないとか?北斗杯出場決定お祝いにこれからヒカルの好きなラーメンでも食べに行きますか?お店のトッピング全部注文してもいいですよ?」
そら惚けたように明るく言う佐為に、さっきより強くヒカルは首を横に振り、込み上げる嗚咽と溢れてくる涙を懸命に堪えた顔を上げた。
ヒカルの隣にいたアキラと社が、突然のヒカルの涙にぎょっとする。まだ未成年とはいえ、他人の前で泣きじゃくれる幼子でもない。
ぐっと唇を噛み締め、今にも大粒の涙を零し泣き出す寸前のヒカルに、佐為はここまでかと観念する。
済まなそうに瞳を細め、両手を広げた。
「ただいま、ヒカル」
その一言が引き金になったようにヒカルが佐為に駆け寄った。
「佐為!」
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この第4話が更新された時(8/10)、自分は少し家を離れている予定のためすぐに修正対応することができません。
家に帰り次第、誤字脱字のご指摘を確認し修正対応したいと思います。