『フジワラサイ』と名乗る人物と行洋が初めて会ったのは、電話を受けた次の日のことだった。行洋の本音としては、後日と言わず電話を貰ったその日のうちでも良かったのだが、流石に個室を予約するには急過ぎるため、次の日、都心のホテル・コンラッド東京に入っているカフェレストランで会おうということになった。
会うためだけにホテルで個室を取るには堅苦しい。
だがこの店ならカフェとしての気軽さを持ちつつ、周りを気にせずゆっくり出来る個室が用意されている。
午後二時の約束時間より若干早めに行洋は待ち合わせ場所へ着いてしまうも、相手はそんな行洋より先に来ていた。
カフェレストランのスタッフに予約を伝えると、壁で仕切られた奥の個室へ通される。カフェレストランが入っていたのはホテル受付エントランスがある20階と同じ階で、高層ホテルの景観を活かし東京湾を一望できる壁一面ガラス張りの部屋だった。
ガラス越しに青空が広がる個室に、デザインされたホワイトテーブルが中央に配置され、椅子が配置されている。
そして行洋が部屋に入ってくると、窓辺で外を見下ろしていたその人物はゆるりと振り返り、穏やかに微笑んだ。
(これがsaiか……)
柔らかな物腰だ。ゆったりと動く動作に合わせて、肩をゆうに越える長い黒髪がサラサラと揺れ動く。
僅かに笑みをたたえた切れ長の双眸に整った容姿。年齢は若い。三十は行っていないだろうと一見して推察出来た。
しかし、それだけの整った容姿にきっちりとしたスーツを着込んでも、隙がなく近寄りがたい印象を相手に抱かせないのは、所作が落ち着いて優雅だからだろう。ただ単に動きに無駄がなく上品なだけではない。
近い表現を探すとするなら、まとう雰囲気が優しいのだ。それだけで見る者に親しみを抱かせる。
昨日、電話をしながら行洋が感じた、電話口から聞こえてくるsaiの声の優しい響きはこれだったのかと納得できたような気がした。
ネットの闇に潜み、当時プロ棋士として5冠だった行洋と互角以上の碁を打ったsaiがどんな人物なのか、想像し考えたことは数え切れないほどある。
そして同じ数だけプロにならずともあれほど苛烈な碁を打つ人物がいるものなのかと考えさせられた。
ネットで直接対局しなければ一生考えもしなかっただろう。
「初めまして、塔矢先生」
歩み寄り、挨拶と同時に手を差し伸べてきたsaiに、行洋は一拍遅れて握手をする。
「私の方こそ。会ってみたいとは思っていたが、まさか本当にネットのsaiに直接会える日がくるとは夢のようだ」
ぐっとsaiの手を握り、行洋も挨拶を返すと一枚の名刺が差し出され、
「どうぞ」
「本名だったのか」
受け取りながら、名刺に印字された名前を読んでから意外そうに行洋は呟いた。
ネット碁でアカウント名に行洋は本名を使ったが、対戦した多くの者たちは本名とは違う名前を使用していた。
だから、行洋はsaiという名前もネット碁だけの名前であり、電話で名乗った『フジワラサイ』という名前も、こうして直接会うための仮初の名前だろうと考えていた。
そんな行洋の考えを見透かしたように、
「偽名と思われましたか?」
佐為に指摘されて、行洋は苦笑をこぼす。
「いや、本名にしては今時珍しい名前だと思ってね。気を悪くしたならすまない。これで佐為(さい)と読むのか」
「お気になさらないでください。よく言われるのでもう慣れました。ヒカルにも初めて会った頃、変な名前と面と向って言われています」
クスクスと微笑みながら、気分を害すことなく佐為は行洋に椅子を勧めた。
すると見計らったようにスタッフが部屋に入ってきて、持ってきたメニュー表をそれぞれに開き見せたが、お互いにホットコーヒーをオーダーするだけだった。
「昨日も言ったが、佐為、もう一度私との対局を受けてもらえないだろうか?3年前に私と対局して以来、君はネットから姿を消したが、私はずっと再び君と対局する日のことを心に期していた」
病院でヒカルと話しているときに緒方に乱入されて話が流れてしまってから、saiとの対局を申し出る機会がなく、空座する相手と碁盤を挟みsaiの一手を待ち続けた。
直接対面でなく、またネット碁でもいい。自分の打つ一手にsaiが応えてくれさえすれば方法は何でも構わないと。
そのsaiが目の前にいる好機を逃すわけにはいかないと、行洋は再戦を訴える。
「私が塔矢先生と対局したのは一度ではありません。これまでに二度、私たちは対局しています」
伏せがちに瞳を細め、佐為は正直に答えた。初めて佐為が行洋と対局したのは、ヒカルを通して幽玄の間で打った一局だ。
対面して打っていたのに幽霊だった佐為の姿が見えない行洋には知る由もないだろう。
だが、確かに石を置く場所を指示し対局したのは佐為である。
予想外の佐為の言葉に、行洋は驚き目を見開く。
「二度?いつ私は君と対局を?」
知らない間に自分は佐為と打っていたのかと記憶を手繰り寄せるが、それらしき心当たりはない。
なにより佐為ほどの優れた容姿の人物と対局していれば、対局内容を別にしても記憶の片隅に残っているだろう。まさかネット碁で気づかないうちにsaiと対局していたとは考えにくい。
「一度目は幽玄の間で、私は十五目のハンデを自らに課し対局に挑んだ。対局結果はとても見られたものではありませんでしたが」
佐為の言う幽玄の間で十五目のハンデを背負い打ったという対局に、行洋は確かに心当たりがあった。
しかし、ありえないと行洋は浮かんだ心当たりをすぐに否定する。
「馬鹿な……私と打ったのは進藤君だ……」
新初段の対局で、行洋がプロ試験に合格したヒカルを逆指名する形で実現した対局。
新初段は対局ルールが逆ハンデの対局で、後手の白が五目のハンデを背負うが、ヒカルは自ら白以上の十五目のハンデを自らに課し、行洋との対局に臨んできた。
なぜヒカルが当時四冠だった行洋相手に、そんな不可解な打ち方をしたのか理由は分らないが、あの場には対局者の行洋とヒカル、そして係りと関係者しかいなかった。
対局したという藤原佐為の姿はどこにもなかった。
「けれど、塔矢先生は私とネット碁で対局したとき、ヒカルの姿が思い浮かんだ。ヒカルを通し打っていた私を」
そう言うと、言葉を失ってしまった行洋の姿に、佐為は無理もないと思う。
佐為が話していることは荒唐無稽で大よそ説明のつかないものだ。
しかも全てを行洋に話すつもりは佐為にはなかった。
千年前に入水自殺を図った藤原佐為が、幽霊として千年の間、この世に留まり続けヒカルと出会い、自身が現世にとどまっていた理由を悟り成仏したなどと。
ましてや、本来輪廻転生する上で現代に生きる藤原佐為に、幽霊だった藤原佐為が成仏することで一つに戻ったなど、そう簡単に話せる内容ではないし、常人に理解できるとはじめから全く考えていない。
もしこの話を全て受け入れることが出来るとするなら、やはり幽霊だった藤原佐為をその身に宿したヒカルだけだろう。
(ヒカルだけが私を認め受け入れてくれる。幽霊という存在であった藤原佐為を知るヒカルだけが……)
例えヒカル以外の誰かに話したとして、その人物がどんな言葉を重ねて話を信じていると言ったところで、底辺の部分で本当に信じているのか誰にも分らないのだ。
それは目の前に座る行洋相手であったとしても。
「……新初段の時、進藤君は君から指示を受けて私と打っていたと?だが、どうやって?」
喉の奥から搾り出したような声で行洋は問いかける。
「ネットのsaiはあの場にいましたよ。誰も気付かず見えなかっただけで、ヒカルの隣から塔矢先生と対峙していた。あの対局はヒカルにとっても大事な対局だったのに、私は貴方と対局することに焦って無理を通してしまった。ヒカルには本当に悪いことをしてしまいました」
「信じられない」
咄嗟の呟きに、
「ネットのsaiの正体は矛盾している。その矛盾はヒカルの棋士生命を脅かす。だからsaiは正体不明のままでなければならない。saiは何も語らない。saiは決して表に出ず、棋譜だけを残していくだけの存在」
「だが、ネットのsaiは君なのだろう?それなのに進藤君の棋士生命を何故saiが脅かすのだね?」
「私がこれまでの人生で、一度も碁を打ったことがないからです」
「碁石を持ったことがないのか?石に触れたことも?ネット碁だけであれだけ強くなったと?」
佐為が言った意味をそう解釈したらしい行洋に、佐為は小さく苦笑を浮かべ、
「そういう意味ではありません。私の言葉が足りませんでした。碁を打ったことがないというのは、私は誰かと対局したことが一度もないという意味です。私にはこれまで生きてきた中で誰かと対局した<事実・過去>がない。けれど、私は間違いなくネットのsai。その矛盾がヒカルの棋士生命を脅かしかねない」
「何を……」
今度こそ行洋は言葉を失い、何も言えなくなった。
初めに行洋も知らなかったヒカルとの新初段の対局が、実は佐為自身が打ったものだと告白したばかりだというのに、次は一度も誰かと対局したことがないと、辻褄が矛盾したことを佐為は真面目な顔で言うのだ。
佐為に話を茶化している様子は全く見受けられない。
目の前に座る佐為がネットのsaiであることは疑ってはいない。こうして佐為が会うことを持ちかけてきたのも、ヒカルを守る為だと前置きされている。
だからこそ、余計に行洋は佐為の話に理解に苦しんだ。
「しかし、私が一度も誰かと対局したことがないとしても、私は今すぐ塔矢先生と対局したとして負けるつもりは一切ありません。5年前、碁石に触れたのも数える程度だったヒカルが他人と初めて打った対局で、塔矢アキラを負かしたのが紛れも無い事実であるように」
「小学生だったアキラに進藤君が勝っていることは私も聞いている。だが、進藤君は初めて誰かと対局したのがアキラだったと?あの頃のアキラに初対局で二度も勝ったと君は言うのか?」
「塔矢アキラが最初ヒカルを追っていた本当の理由がお分かりいただけましたか?」
「……佐為、君が私を馬鹿にしているとは決して思わない。だが、誰かと一度も対局したことがなかった進藤君が、すでにプロ以上の実力を持っていたアキラに勝つというのは、現実的にありえない。それは君がネットのsai本人であるなら、尚更分かっているはずだ」
行洋は断言する。
囲碁はシンプルなルールのゲームだが、シンプルだからこそビギナーズラックなどという偶然がないゲームである。
無限の中から最善の一手を捜し求める。その中で初心者がプロに勝つという奇跡はゼロに近い確率で起こらないのだ。
佐為とて初心者がプロ以上の実力者に勝つなんてことが、普通ならありえないことだと分かっているだろう。プロ棋士相手に言えば、侮辱しているととられても決しておかしくないことを佐為は面と向かって言っているのだ。
行洋の断言は正しい。
「そう。ありえない。普通ならば決してありえない。けれど、全ては否定出来ない事実。そんな矛盾の上に成り立つのがネットのsaiなのです」
静かに佐為が言い終えると、二人はしばらくの間何も話さず、口を閉ざした。
佐為はこれまで一度も碁を打ったことがない――ネットのsaiの正体は『藤原佐為』である
幽玄の間には関係者以外誰もいなかった――saiはヒカルの隣にいて打つ場所を指示していた
初心者がプロ以上の実力者に勝つというありえない状況――現実に起こりえた事実
『矛盾の上に成り立つsai』
どれだけ沈黙した時間が流れたのか。
混乱している行洋に佐為は最初にオーダーしたきりで、少しぬるくなってしまったコーヒーを一口含むとただじっと行洋の言葉を待ち続けた。
「聞いてもいいだろうか」
「何でしょう」
「何故、今日私と会って話す気になったのか聞かせてほしい。君はずっとネットに隠れ続けてきたにも関わらず。今日、君と会話した内容について私は誰かに話すつもりは全くない。だから正直に答えてほしい」
ネットのsaiの正体についてはこれ以上言葉を重ねても混乱するだけで意味がないと悟ったのだろう。話の矛先を変えてきた。
佐為に嘘を言うつもりは、さらさらない。
わざわざ直接会ってまで嘘を言って何になるというのだろう。それなら初めから会わないほうがいい。
だが、どんなに佐為に嘘を言うつもりがなく、真実しか話さないとしても、全ては話せない。
「……塔矢先生だけが、ネットのsaiとヒカルの繋がりを知っているからです。そこにネットのsaiと同じ名前の私が現れれば、塔矢先生は私と連絡を取ろうとして、自らヒカルと接触しようと動かれるかもしれない。他者が塔矢先生に揺さぶりをかけてくるやもしれない。もしくは、それ以外の予想外の何かが起こるかもしれない。私はそれを危惧しました」
そこで話を区切ると、佐為は口調を幾分事務的なものに変え、
「私が経営している会社は、今度行われる北斗杯のスポンサーに新規参入することになっています。いずれ遠からず私の名前はネットのsaiを知る者たちにも知れ渡ることでしょう」
「北斗杯のスポンサーに?」
「はい。偶然にも北斗杯を開催している北斗通信社と私の会社は仕事上の取引がありまして、棋院側にも波風立てることなく話は通りました。私はヒカルの前から一度消えなければならなかった。何も言い残さず、突然消えてしまった。そして今再び、ヒカルに会おうとしている」
「もしや、進藤君が以前、不戦敗を重ねた時期があったのは、君が消えたからなのか?」
ヒカルが正式にプロになり、一ヶ月ほどたった頃から突然手合に出なくなり一時はそのままプロを辞めるのではと囁かれていた時期があったことを、行洋は人の噂伝いに聞いていた。
何の理由があるにせよ、プロ棋士が手合を理由もなしに休むのは言語道断である。
もちろんヒカルにも手合に出ないだけの訳がきっとあったのだろうと思う。
プロ棋士になるために、それに見合うだけの血の滲む努力を積み重ねてきたのだろうから、生半可な理由でプロ棋士を辞めようとはしないはずだ。
けれど、もし身近にあり過ぎた人が突然自分の前から消えれば、自分を導いてくれた人が何も言わず忽然といなくなってしまえば、ヒカルは激しく混乱したことだろう。
その結果として、ヒカルは手合を長期に渡って休んだのかもしれないと行洋は思いつくままに尋ねる。
だが、佐為は行洋の問いには一切答えなかった。
その代わり、なんとも言いがたい苦笑をこぼし、顔を俯かせ、
「他の者なら適当にはぐらかせばいいですが、saiとヒカルの繋がりを知っている塔矢先生相手では不可能です。それを考慮に入れれば、私がヒカルにもう一度会うためには、塔矢先生、ヒカルより先にまず貴方に会う必要がありました」
「それで、私に口止めを?進藤君に会うためだけに」
「ヒカルがsaiに繋がっているということ、これを誰にも話さないと約束してください。そして他者に私たちの関係を感づかれるような素振り、行動をしないと。それが私と再び対局する条件です」
顔を上げ行洋に向き合った佐為が毅然と言う。
「藤原君、私は君と進藤君の間柄について誰にも口外するつもりはない。それは以前、入院していたとき進藤君にも言ってある。だが、これまでの君の話に私はいささか、いや、とても混乱している。君が全てを話すつもりがないのは、話をしながら伝わってきたが、理解には遠く及ばない」
無理やり聞き出すつもりは行洋にはない。あくまで佐為自らの意思で答えてほしいだけなのだ。
単刀直入に切り出す。
「私はネットのsaiの正体が知りたい」
そのために、今日こうしてこの場所に行洋は足を運んだのだ。
行洋のまっすぐな視線に、ずっと視線を受け止めていた佐為がゆっくりと瞼を閉ざす。
「……ネットのsaiは誰なのか?本当はsaiの正体を求める誰しもが、もうとっくに、知らずその答えに辿り着いているのです。ただ、そうと気づけないだけで」
伏せた佐為の長い睫毛が切なげに震える。
その様子を一瞬も見逃すまいと見つめていた行洋の脳裏に、去年の北斗杯で言っていた楊海の言葉が不意に過ぎる。
多くの棋士を魅了しながら一切の素性がしれない正体不明の棋士。誰しもが求めるsaiの正体と強さの秘密。『saiが本当に秀策の亡霊だったら』と楊海は冗談めかして言い、行洋はすぐに否定した。
だが、その北斗杯でsaiの正体を唯一知っているヒカルは本因坊秀策に固執していた。
「君は、誰だ?」
すでに『藤原佐為』と名乗っている若者に、行洋は無意識に問う。
伏せていた瞼をゆるりと開き、佐為はフイと顔をガラス向こうの景観に向けると、小さく微笑を浮かべた。
その様が、急に佐為が人ではないモノに見え、行洋は知らずじわりと汗が滲み始めている手のひらを握り締めた。
人が踏み込んではいけない領域。
決して知ってはいけない世界。
そこに踏み入ろうとしてしまった後悔。
存在するかもしれないその世界を知る歓び。
そのどちらであっても、共通するのは知ってしまえば後に戻れないということだけ。
知りたいと欲する気持ちと、知らない方がいいと警戒する気持ち。相反する感情が行洋の胸の中に激しく渦巻く。
そんな行洋を一瞥することなく、薄く整った唇は、遥か遠くに向けるようにしてその名を紡ぐ。
「今は遠く江戸の頃、私は本因坊秀策と呼ばれていました」