Encounter-佐為の目覚め-   作:鈴木_

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合宿が始まった当初こそ嵐の予感がしたヒカルだったが、ネットのsaiについては途中までで流れてしまった行洋との対局を検討しただけで、あとは一切話題に出さず二つに分かれて黙々と対局とそれについての検討を交互にこなす前回とおなじようなごく普通の合宿内容だった。

 

ヒカルにとって意外だったのが、sai目的で北斗杯団長になったのだろう緒方が、saiのことをおくびにも出さず指導に徹してくれたことだ。

特に緒方と対局検討するどころか会話すらしたこともなかった社は、初めこそ間近に見るタイトルホルダーにおっかなびっくりという気後れしている部分があったが、すぐに持ち前の度胸で緒方に食らいつくようになった。

 

まだ低段者の社は、滅多にトップ棋士と碁を打つ機会はないのだ。ここで得られるものは貪欲に吸収するに限る。

そうなるとヒカルも次第にsaiのことは忘れ、囲碁しか見えなくなる。

持ち時間一時間で打った緒方とヒカルの対局に、アキラと社も加わり検討する。

 

「ここは、こっちをオサエるのが先だろう?」

 

緒方の指摘に、一応ヒカルも同意しつつ表情は不満げだ。

 

「その前に俺は、先生の打ったこっちがどうにも、気に食わない!」

 

鼻息荒く、口をへの字にしてヒカルは緒方の打った一手を指差す。

 

「これか?気に食わない?どこが?」

 

「このキリ、なんか嫌な感じがする。面倒になりそうな。この一手が後で響いてくる気がする。だから先に咎めた」

 

「多少の損は覚悟の上で勝負勘を優先したか。しかし、自分で打っておいて言うのも何だが、確かに後味悪いというかどうも気持ち悪い一手だった」

 

ふむ、と緒方は顎を撫でてヒカルの指摘に唸る。

 

「でしょ?気持ち悪いなら打たないでよ」

 

「悪いからこそだ。お前はどうも好き嫌いで打つきらいがあるな。しっかり食っとけ」

 

「ヤダ」

 

頬を膨らませプイと顔を背けたヒカルに、緒方は去年の北斗杯合宿で作って、そのまま置いてあったハリセンをすかさずヒカルの頭上に落とす。

すると、スパンっと小気味良い音が部屋に響く。

 

傍で聞いていたアキラと社が、さっきから目の前で交わされているヒカルと緒方の言葉のやり取りに面食らう。

緒方が社に指導するときは、具体的で分かりやすいよう説明しながら手筋を指摘してきたが、ヒカル相手になると途端に表現が抽象的になるのだ。

それなりに付き合いの長いアキラも、こんな緒方は初めてだった。

直感的な感覚だけでモノを言っている。勝負師の感覚だけで会話している。

 

「塔矢、緒方先生と進藤って、いつもこんな風に検討しとんのか?」

 

小声で社がアキラに囁く。

感覚だけの会話もそうだが、同門のアキラならいざ知らず、目上の棋士である緒方にもヒカルは臆面もなく平気でタメ口をきいている。社自身も決して言葉使いや態度が良いという自覚はないが、ヒカルほどではない。

 

「いや、二人が検討しているところを見るのはボクも初めてだが」

 

ヒカルに緒方が合わせているのだろうとアキラは初め思った。

緒方は低段者の頃から子供囲碁大会の係りや指導員になることが多かったから、教え方はもちろん子供にも分かりやすいよう説明は丁寧で上手く、周囲にも定評がある。

指導する相手に合わせて、その人物にもっとも良い指導スタイルに緒方が変えているのだろうと。

しかし、

 

(逆なのか?)

 

もしかしたらこれが本来の緒方なのかもしれないとも同時に思う。

元々、緒方は倉田と同じかそれ以上に勝負勘というか勘が鋭い棋士なのだ。だから感覚で物を言うヒカルと波長が合ったのかもしれない。

 

 

 

 

夕食後に少し休憩を入れ、寝るまでにもう一局打とうという話の流れになり、夕食にヒカルの持参した美津子手作り弁当を皆で食べた後、

 

「たばこ、ですか?」

 

季節的に日が落ちればまだ肌寒い庭でタバコの煙を吹かしている緒方にアキラが後から声をかけた。

 

「子供のいる前で吸うわけにはいかないだろう?」

 

だからわざわざ庭で吸っているのに、そっちから近づいてくるのは不可抗力だと言わんばかりに緒方はニヤリと笑む。

 

「意外でした。無理やり北斗杯団長になったわりには、進藤にsaiのことを聞かないのですね」

 

「なったからには最低限の責任と役割くらいは果たすさ」

 

つまりは合宿の間、saiのことに緒方は触れる気はないのだ。だが、反対に無理やり団長になったことは否定しないあたり、アキラは緒方がどんな手で倉田を説得したのか知りたいような知りたくないような気がした。

しかし、だからこそ緒方がどれだけ強くsaiとの対局を望んでいるのか伺い知れるというものだろう。

 

つい先日ネットで打たれたtoya-koyoとsaiの再戦。

3年の時を経て、再び二人が対局したのだ。

今回も前もって行洋からsaiと対局することをアキラは聞かされていなかったが、この対局が偶然でないことくらい簡単に分かる。

どういう風に連絡を取り合ったのかは知らないが、二人は前もって対局の約束を交わし、ネット碁で再戦したのだ。

 

朝から用事があると言って行洋は出かけており、どこかインターネットが出来るところ、恐らく客のプライベートを厳守しパソコン設定などのサービスまでしてくれるホテル辺りへ行ったのだろう。

けれど、二人の対局は対局途中で強制的に中断された。二人の対局を観戦しようとアクセスが集中し過ぎてサーバーが落ちたのだ。

海外で活躍することが多くなった行洋は、韓国や中国での知名度をさらに上げている。

 

その行洋がネットで半ば伝説化しかけていたsaiと対局していると分かれば、海外の多くの人々がアクセスしようとしたことだろう。

人気が衰えている日本で、碁のゲームにそこまで耐久性のあるサーバーを会社が用意していなかったのも理解できる。

だが、非公式な二人の対局が一つのサーバーを現実に落としたのだ。

 

ヒカルはアキラに何も言ってこないが、玄関に出迎えたときから余所余所しい態度を見ていればすぐに分かる。

ヒカルだけは二人の対局を前もって知っていた。

ただ一つ、3年前のsaiと、今回現れたsaiに違いがあるとすれば、ヒカルがsaiではないかもしれないということにアキラは悩んだ。

 

ありえないことだが、saiの正体はヒカルの中にいるもう一人のヒカルではないのかと考えていたのに、ここに至っていきなり『藤原佐為』という人物が現れた。しかも棋院で見たヒカルとその人物はかなり親しそうな間柄である。

 

「それに、saiなら探さなくてもあっちから現れてくれたじゃないか。どうせ塔矢先生は今回も偶然を押し通したんだろう?」

 

わざわざ聞かなくても分かると、長年の付き合いで師の性格を熟知している緒方はそう当たりをつける。

それに対してアキラが頷くと、緒方は機嫌を良くしたようだった。

 

「あの人が本当にsaiだと思いますか?」

 

「俺はまだ直接会ったことは一度もないが、進藤のヤツ、棋院で『藤原佐為』とかいう長髪の男に抱きついて、人目も気にしないで泣きじゃくったらしいな。本当にアイツはまだまだガキだな」

 

どこで聞いたのか、言ってから緒方は肩をクツクツ震わせ笑った。

しかしそんなことをアキラが聞きたいわけではない。

ゆったりとして柔らかな物腰、まとう優しい雰囲気。老獪で研ぎ澄まされた碁を打つネットのsaiと、似通っているところはどこにも見受けられなかった。

強いて言えば、ヒカルが藤原佐為という人物を想う気持ちだけは伝わってきた。

 

「意外といえば……」

 

「緒方さん?」

 

急に何かを話し始めた緒方に、俯きがちだったアキラが反応するように顔をあげる。

 

「何か、進藤は前に打ったときの方が強かったような……」

 

「前に進藤と打ったことがあるんですか?」

 

初耳だった。

公式手合いや囲碁のイベントで緒方がヒカルと打ったことはまだない。だとすればプライベートで打ったことになる。

 

「二年前くらいにゼミが一緒になって夜中に一局打ったことがあったんだが、あの時の方が……」

 

「二年前の方が強い?」

 

行洋の碁会所でヒカルとはアキラは何度も打っている。二年前のヒカルが今のヒカルより強いなんてことは決してない。

けれど、それはないと否定しようとしてアキラは寸前で留まった。

ヒカルの中に潜む圧倒的な強さを持ったもう一人のヒカル。そのことが頭を過ぎったからである。

 

「緒方さん!その対局を」

 

教えて欲しいと言おうとして、先に緒方に首を横に振られてしまう。

 

「まぁ、俺も酒が入っていてまともじゃなかったから何とも言えんか。アキラ君もそろそろ部屋に戻ろう。風邪を引いて北斗杯本番で体調を崩したでは言い訳にもならん」

 

それだけ言うと、吸っていたタバコを携帯灰皿に押し付け、緒方は部屋に戻ってしまった。

 

 

 

 

北斗杯大会前日、日本入りする中国、韓国の選手団と共に関係者を招いたレセプションが行われる。

 

「佐為!」

 

打ち合わせ等があり先にホテル会場入りし、エントランスで指示を出していた佐為を見つけるや、ヒカルが笑顔で駆け寄ってくる。

 

「ヒカル、おはようございます。昨日はちゃんと寝れましたか?いよいよですね」

 

「ちゃんと寝たさ。いい加減子供扱いすんなよ」

 

傍目に聞いていると、ヒカルと保護者かそれに近い誰かかと勘違いしそうな会話だが、ヒカルは全く気にしていない様子で、佐為に話しかけ続ける。

佐為も気するどころか、少し緩んでいたヒカルのネクタイを締めなおしている。

それを見ていた囲碁関係者たちは、ヒカルと佐為が友人であるということを前もって聞いていたのか、ヒカルの言葉使いが多少なってなくても聞き流すことにした。

 

「ヒカルもスーツがだいぶ似合うようになってきましたね。新初段の免状授与式では、まだスーツに着られているような違和感がありましたけれど」

 

「スーツ着て仕事することも増えたしなー。でもやっぱ堅苦しいっていうか息苦しい。特にこのネクタイ」

 

佐為が締め直したばかりのネクタイに、ヒカルは顔を窮屈そうに顰めた。そんなヒカルを微笑ましそうに見やりながら、佐為は周囲を見渡し、

 

「それもすぐに慣れますよ」

 

頬を膨らませ不満を口にするヒカルを、佐為は壁際に来るよう手招きする。これから行われるレセプションの準備で、会場設営と進行確認に皆忙しなく動いているのだ。

それなのにフロアの真ん中で喋っていては彼らの邪魔になってしまう。

壁に背もたれ、行きかう人を眺めながら

 

「残念だったよな」

 

「仕方ないですよ。でも次は少し考えないといけなくなりましたね」

 

かなり主要な単語をはしょった会話だったが、二人の間では過不足なく通じる。

二人は先日の行洋と佐為の対局を言っているのだ。すでにヒカルと佐為は電話で話したとはいえ、どうにも悔いの残る対局になってしまった。

 

滅多に対局できないのに、まさかサーバーがダウンしてしまうとは佐為も納得がいかなかったが、だからと言って不満をぶつける先は無く、どうしようもない。

また日時を改めて最初から行洋と対局する日を待たなくてはならなくなったが、それが何時になるか全く予測がつかなかった。

 

それに素性を隠している佐為はいいとして対局後、日本を離れたという行洋は海外で周囲から質問攻めに合ってはいないだろうかと、そっちの方で不安になる。

行洋が間違ってもsaiの正体について口を滑らせる心配はしてない。が、過度の質問攻めにあい疲労が溜まらなければいいけれど、と佐為はそれを心配しているのだ。

疲労が蓄積して行洋がまた心筋梗塞で倒れたりしては、後悔してもしきれない。

 

「塔矢先生、去年、北斗杯を見に来てたらしいんだ。今年も来るか分からないんだけど、もし来てたら挨拶とか言って少しくらい話せるんじゃないか?」

 

ぱっと表情を明るくさせ、ヒカルが隣の佐為を見上げる。

 

「対局終わったらすぐ会場出て行ったらしいから、俺は直接会ってないんだけど、今回は佐為だっているし、きっと先生来ると思う」

 

「会えても、まさかヒカルの時みたいに知り合いだったと思わせる素振りは一切できませんよ?少し挨拶する程度ですね」

 

「いいじゃん、会えるだけでも。あれから一回も連絡取れてないんだろ?」

 

「そうですね」

 

肝心の話が出来ないとしても、一目なり会えればヒカルの言う通りお互いの様子は分かるだろう。

 

「あ、高永夏だ」

 

いきなりヒカルは眉間に皺を寄せて、エントランスの入り口を睨む。

 

「ヒカル?」

 

そこには会場入りしてきたらしい韓国選手団の姿を見つけ、どうしたのかと佐為は首を捻った。

よく見れば、韓国選手団の中でも、ヒカルが名前を口にした高永夏を睨みつけている。これから対戦する相手にしては、ヒカルの目の仇のごとき敵対心は普通ではない。

 

「アイツ、去年お前のこと、『本因坊秀策が現代に蘇っても自分の敵じゃない』って言ったんだ。あんな奴に佐為が負けるわけないのに」

 

「おやおや」

 

一人で怒り始めたヒカルに、佐為は苦笑する。記憶が戻ってから今日までの間に、行洋とヒカルの棋譜をはじめ、日本の公式手合いだけでなく、海外の棋譜まで取り寄せられるものは全てに佐為は目を通した。

その中に韓国の若手ナンバーワンである高永夏の棋譜も含まれていた。

実力は噂通りというべきか、塔矢アキラと同等かそれより少し上。けれど自分にはまだまだ及ばないと佐為は思う。

 

しかし、『現代に蘇った秀策など敵ではない』と言ったらしい高永夏に、佐為は瞳を細める。高永夏がどういうつもりで秀策の名を出したか知らないが、例え秀策以外の別の棋士の名であったとしても、過去の棋士の名前を出して貶める行為は、決していい気持ちにはならない。

 

「去年は負けたけど、今年は絶対負けるもんか」

 

「ヒカルは強くなりましたものね」

 

「そりゃあ、お前が消えて二年間、ただ毎日ダラダラ過ごしてたわけじゃないんだぜ。塔矢とも碁会所で打つようになったし、高段者との手合だってこなすようになったんだから」

 

佐為の言った意味をヒカルは自身の棋力のことだと受け取る。

 

(私はそういう意味で言ったんではないんですが)

 

再会してからというもの、佐為とヒカルは時間が取れれば二人で打つようになった。

ヒカルは二年前とは比較にならないほど強くなっている。

それは棋力だけではなく精神面でもそうだ。

ずっと佐為はヒカルの後にいて見守ってきた。なのに急に佐為がいなくなったことで、ヒカルは一人で戦う心構えが変わった。

 

本当の意味で、独りで戦う覚悟が出来たのだ。

その覚悟がヒカルの成長をより高めていると思うと、佐為は嬉しいような、でも同じくらい寂しいような複雑な気持ちになりながら、

 

「ええ、本当に成長していると思います。ただそれでも、私から見れば、まだ甘い部分がありますが」

 

「お前も高永夏の次くらいにけちょんけちょんにしてやる……」

 

負けず嫌いにヒカルが言い返すも、佐為はクスリと肩を竦めるだけだった。

 

「佐為、知ってると思うけど、今年の日本選手団団長、倉田さんから緒方先生に代わっただろ?」

 

視線は韓国選手団に向けたまま、急に話を変えてきたヒカルに、佐為も視線を準備をすすめる周囲に向けながら、無抑揚に答える。

 

「みたいですね」

 

「それって北斗杯のスポンサーにお前の名前を見つけたから緒方先生、急に団長やる気になったんだと思う。そうじゃなかったら面倒くさがってそうだし。でも、塔矢の家で合宿してたときもそうだけど、前みたいにsaiと打たせろって全然言って来ないんだ。お前のクッキー届いたときだって、俺のことすげー睨んでおきながらさ」

 

「緒方は私に対して強引な真似は出来ませんよ。日本選手団の団長なら尚更ね」

 

「なんで?」

 

意外そうにヒカルは佐為の方を振り返る。

すると、佐為は少しだけ顔を斜めに傾け、意地悪そうに口角を斜めに上げた。

 

「だって私、スポンサーですから。この不況時、貴重なスポンサーの機嫌を損ねるわけにはいかないでしょう?もちろんアキラもそれが分かっているから、北斗杯予選が終わって私たちが再会したとき、何も言わなかったんですよ」

 

「……もしかして、合宿のとき佐為がクッキー差し入れたのって、俺に余計なこと聞くなっていう釘刺し?」

 

ふと思いつくままヒカルは尋ねた。

スポンサーの機嫌を損ねるな、というのならヒカルもよく分かる。

ただスポンサー関係者や贔屓客に対して媚びるとまでは行かなくても、機嫌を取るということがヒカルはひどく苦手で、それも仕事と分かっていても鬱陶しく感じてしまうのだ。

 

だがスポンサーがいて初めて、大会や棋戦が開催されて、棋士に賞金が出る。それを考えれば、決してスポンサーである佐為が機嫌を損ねかねない下手な真似は、段位に関係なくプロ棋士なら出来ないだろう。

 

「おや?ヒカルもそういうことが分かるような年頃になったんですねぇ」

 

「てっきりお前は、俺を谷に突き落としたいのかと思ってた……」

 

いくらなんでも合宿に合わせて佐為の名前で差し入れをするのは、イタズラが過ぎると思っていたのだ。

 

「それならそうって、先言えよな。卑怯くせぇ」

 

ヒカルが頬を膨らませ文句を言う。

アキラに佐為のことを聞かれた場合のシュミレーションまで、ヒカルは何度も頭の中で繰り返し、合宿中はもちろん、今日までずっと気が気でなかったというのに。

せっかくの苦労が無駄になってしまった。

 

「大人は卑怯なくらいがちょうどいいんです」

 

サラリと佐為は受け流してしまう。

その無邪気な笑みに、ヒカルも毒気を抜かれたようにくすくす笑い始める。

しかし、そんな楽しい瞬間に割り込むように、

 

「進藤!何遊んでいる!」

 

突然名前を呼ばれ、ヒカルと隣にいた佐為がパッと振り返った。

 

「緒方先生っ」

 

「もう全員集まってるぞ。受付を済ませるからさっさと来い」

 

「あ、うんっ」

 

いつもの見慣れた白のスーツを着込み、歩み寄ってくる緒方に、ヒカルは慌てて向かおうとするが、チラリと佐為の方を振り返った。

けれど、すでにそこにはヒカルが見慣れた友人の佐為ではなく、仕事用の顔になった藤原佐為が立っている

 

「すいません。私がヒカルを引きとめたのです。お詫びします」

 

謝罪する佐為に、緒方も姿勢を正す。

 

(こいつが例の藤原佐為か)

 

人伝えに聞いた容姿そのままの人物。切りそろえられた黒く長い髪。整った容姿。優雅な仕草と振る舞い、柔らかな物腰。

たしかにおおよそ囲碁とは無関係そうな印象だと緒方は佐為を一見して感じた。

 

「今度、日本選手団の団長になりました緒方と申します。あなたは?」

 

すでに相手が誰かわかっていつつ、緒方は素知らぬふりで挨拶する。

 

「申し遅れました。今回の大会からスポンサーとして参加することになりました会社責任者の藤原佐為と申します。どうぞよろしくお願いします」

 

自然な受け答えで挨拶を返す佐為と緒方が握手をする。

傍目には和やかに挨拶を交わしているように見えるだろうが、二人の間に挟まれるように立っていたヒカルは、ブリザードの中に立たされたような寒気を覚えた。

 

佐為は当然だが、もう片方の緒方が佐為の名前に反応しないわけがないのだ。それなのに、周囲の人目もあってかそんな素振りを一切みせず、ごく普通に挨拶を交わしている。

緒方が佐為に下手な手出しが出来ないとわかってても、冷や冷やものだ。

 

「また後で、ヒカル」

 

軽く手を振ってきた佐為に、ヒカルも手を振り返した。

レセプションが始まり各選手団の挨拶が壇上で行われる中、主催スポンサーからの挨拶もある。司会進行役が北斗通信社システムの戸刈の挨拶の後、今年から新規参入することになったスポンサーを、簡単な紹介と共に壇上に招く。

けれど、佐為が一歩壇上に上がろうとした瞬間から会場は水を打ったように静まりかえった。

 

普通ならマイク前に人が立ってから私語を慎むものだが、司会に名前を呼ばれたとたん、会場の雰囲気が一瞬で変わる。

その変化に気づいても理由まで分からなかった者たちは、単に新しいスポンサーの挨拶だから皆が注目しているのかと首を捻るだけで。

 

「ご紹介に預かりました、藤原佐為と申します」

 

薄い笑みをたたえての一言。

会場に集まっている各国の棋士たちから注目を集めても、涼しい顔で佐為は挨拶を続ける。

つい先日打たれた行洋とネットのsaiの対局。

対局はサーバーダウンで強制中断したが、そのsaiと同じ名前のスポンサー責任者。

北斗杯スポンサーへの新規参入時期といい、行洋とsaiの再戦といい、saiと同じ名前を持つ者が現れるにはタイミングがあまりに良すぎた。

 

 


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