期限付きの偽婚約者ですがなぜか国王陛下(代理)に懐かれてます。 作:咲吉
夜中の大雨が嘘のように、今朝はとても良い天気だった。道路には水たまりやぬかるみはあるものの、この分なら昼を過ぎた頃には十分乾くだろう。青々とした木々が穏やかな風で葉を揺らす。溜め込んでいた雫を振り落とし地面を濡らした。
そんな朗らかな陽射しを遮った部屋でルナリア・ヴィッセはワナワナと怒りで震えていた。手にもつ書類には無くなったお金と同じ額が記載されている。ある商会から届いた請求の明細書だ。
「……どうするのよ、これ」
ルナリアはその請求書を破りそうな勢いでくしゃりと力強く握りしめた。皺がよっても構わない。すでにもう支払い済みのものではある。大事な書類なので無くしたり破いたりするのはいけないが、この怒りをどこにぶつけようか。
ルナリアは深い瑠璃色の瞳を隠すように目を閉じた。
ゆっくりと深呼吸を3回繰り返す。「よし」と意気込むと身体を翻し、扉開けてリビングに向かった。
この家の執事であるマシュウは太陽が入り込む窓を開けた。春といえどまだ風は少し冷たい。しかし主人であるラフロイ・ヴィッセ伯爵は心地よさそうに目を細めるとコーヒーの湯気が離散したにも関わらず「もう少し開けてくれ」と頼んだ。
「パパン、これはどういうことっ?!」
そんな
「おはよう、ルナリア。今朝は早いね」
キャラメル色の髪を後ろに撫でつけたラフロイはリビングに飛び込んできた愛娘に眦を下げた。手に待つ書類をテーブルに置く。ルナリアはにこりと笑みを浮かべて父に挨拶した。
「おはようパパン。それより聞きたいことがあるの。私の記憶が正しければ、半年ほど前にも同じようなことがあったような気がするのだけど?(どういうことかしら。説明求む!!)」
ルナリアはテーブルの上に一枚の書類を置き、父の前にスッと差し出した。その書類はつい先日、馬車が横転した際に発生した領道の修繕費だ。
しめて、銀貨140枚。
日本円にして140万円の支払いである。
「同じようなこととは?」
「……貯金箱からちょろまかたわよね?」
「お嬢様!」
「マシュウは黙って!」
ルナリアは祖父のような存在であるマシュウを制した。きっと言葉使いやらなんやらと口うるさくいうのだ。だが今はそれどころじゃない。ルナリアに睨まれたマシュウは渋々口を閉じ、彼らの成り行きを見守ることにした。
「……あはは。そう、だったかな?」
「だったかな?じゃないわ。あれはフランの入学金よ!」
どういう神経してんのよ、パパン!
ルナリアは激おこである。
表情はなんとか取り繕っているが心は燃えていた。さすがに笑えない。まさか父が子どもの入学金に手を出すなんて信じられなかった。
「そ、それは、先日話した通り」
「ええ。ただ、フランの入学金から補填するなんて聞いてないわ」
確かに聞いた。「ちょっとだけ生活費からお金を貸してほしい」、「すぐに返すから」と言われた。
その日は夜も遅く、寝ていたところ父に起こされた。寝ぼけた頭で「わかった」と言った記憶はある。
ルナリアは家計を管理している。半年ほど前は父が無言で家計のお金を使っていたのでそれを考えると一歩前進したかもしれない。だが、先ほど、ちまちまと溜めていた学費用の貯金箱の中身が消えていたことに気づいた。
どういうことだ、とルナリアは記憶を遡り、そういえば先日「お金を貸してほしい」と言われたことを思い出した。その勢いのまま父の執務室に失敬して、マシュウが整理している書類の入った引き出しをひっくり返してそれらしいものを見つけた。
案の定、父はそろりと目を逸らした。マシュウは「旦那様?」と半目である。これはルナリアがフランのために少ない生活費をやりくりしてちまちま貯めたお金だった。その努力をマシュウは知っている。
当然父もそれは十分に理解していたが、どうしてもまとまったお金が欲しかった。
「国に支援金の申請をしたところでまず即金は無理なんだ。あれだけ削れてしまえば、交通にも影響が出る。仕方ないんだよ」
わかってくれ、と父は宥めた。ルナリアは頭ではわかってはいるものの理解はしたくない。
ことの始まりをまとめると。
領地内の公道で事故が起きた。馬車が横転したことで道が削れた。このまま放置しておくと交通に支障が出る。
二次災害で怪我人が出ることを考えるとさっさと修繕をする方がいい。そのためにもまとまったお金が欲しかった。
「じゃあフランは?フランの入学金はどうするの?明日の食事は?また川で魚釣りするの?」
18歳の女性にしては荒れた手をぎゅっと握りしめる。同じ年の女性なら、爪を綺麗に整えて色を塗り、つるつるすべすべした手をしているだろう。間違ってもルナリアのようにささくれや水仕事でカサカサにはなっていない。
ドレスだって簡素なものだ。よく言えばシンプル、悪く言えば質素。フリルやレースなど何もなく、汚れが目立たない暗い色やくすんだ地味な色ばかり。前世ではベーシックカラーやアースカラーといってオフィシャルな色も人気があったが、今世では貴族の、それも年若い令嬢があまり好んで選ぶ色ではない。
簡単に言えば節約。ただの貧乏。母がかつて着ていたドレスをルナリアが着ていた。18歳という年頃の女性なら洋服や装飾品はいくつあっても足りないと嘆く女性の方が多い。こと貴族たちは同じ服を何度も着ることも少ない。だが、ルナリアは自身の洋服代よりも他にお金をかけるべきところがあった。それが弟フランの学費だ。
「フランだってヴィッセ領の大切な領民よ。領主の子どもだけど、蔑ろにしていいわけじゃないわ」
ラフロイは奥歯にものが詰まったようにもごもごと何かを言い訳を探していた。娘の言うことは最もである。自分が手を出してはいけないところで手を付けたのも悪かった。しかし、二次災害が起きる方が子どもたちを困窮させてしまう。背に腹は変えられなかった、といえば聞こえはいいが、自分の子を蔑ろにしたと思われても仕方がない。
「マシュウやマーサも本当なら出て行かれてもおかしくないの。彼らに十分なお給料を支払えない時点で雇用主失格なのよ」
通常、貴族の家にはそれなりにメイドを含めた従事者がいる。それがステータスであり、貴族の在り方だった。
しかし、ヴィッセ伯爵家にはたった2人のみ。マシュウとマーサ。彼らは夫婦で、ラフロイの父、つまりルナリアの祖父の代から仕えてくれており、家族枠のようなものだった。
「ルナリアお嬢様。私は良いのです。この領地を気に入っておりますし、たしかにお給金は少ないかもしれませんが、この年になるとそれほどお金は必要ではありません。住む家があり、食べ物にも困らず、こうしてお仕えできることが何よりの幸せでございます」
「食べものは困るわよ」
「私もマーサもそれほど量を必要としませんので十分ですよ」
マシュウはいつもピシッとしている姿勢を若干丸めてルナリアと視線を合わせた。母親譲りの目元が悔しそうに揺らぐ。その瞳にはありありと自分たちの不甲斐なさに腹を立てていた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。ラフロイ様はこう見えてちゃんと考えておられます」
「も、もちろん」
「いくら、入学金と授業料を合わせて金貨1枚と銀化50枚かかると言えど大丈夫でございます」
「…え?」
「そうですよね、旦那様」
マシュウの圧にラフロイがぐぅと唸った。
きっと「あれ?そんなにもお金かかる?」と不思議に思ったのだろう。
なぜなら、兄マルクスと上の弟ロイズの入学時の準備は今は亡き母ルチアがしてくれていた。
さらに言い訳をすればラフロイは当時王都にいたのできちんと金額を知らない。それに加え、マルクスもロイズも2年度以降の授業料は通常の半分程しか払っていない。優秀な成績をおさめ、家の経済状況を申請すればある基準に則って学費が免除される仕組みである。フランはきっと兄2人より要領もいいので同じように頑張ってくれるはずではあるが、そもそも入学できなければ元も子もない。