「ほれほれ、ファング。散歩の時間だ」
「グルルルルル……!!」
「ファングが怯えているね。大丈夫なの、ハグリッド?」
「ファングはいつもこんな感じじゃ。怖がるのは健康な証拠じゃな。ほれ、もう元気じゃろう、ファング?」
ファングはとても臆病な犬だが、臆病なだけではない。ハグリッドの散歩という言葉に反応して尻尾を振りながら森を進む様には、どこか慣れたような雰囲気があった。
「森にはアクロマンチュラやケンタウロスの一族が張った罠もある。怯えるのは当然と言えるでしょう。動物虐待のような気もしますが」
マクギリスはそう言ったものの、ファングを連れ出すことに異論はないようだった。禁じられた森の危険度を考えて、犬の安全より自分達の身の安全を優先した結果である。
恐怖でガタガタと震えながらファングが先行する。ファングの優れた嗅覚は、森の中で不意に魔法生物と遭遇する可能性を減らしてくれる。ハリーはマクギリスに後ろを任せてハグリッドの後ろに続いた。ハリーのローブに刻まれた警戒のルーンに反応はなく、禁じられた森に一定の秩序がもたらされていることがわかる。ハリーには物思いにふける余裕すらあった。
(どうしてルーピン先生は、この罰則を僕たちに与えたんだろう……)
聖域、つまり伝説の古代魔法に関するなにかと、伝説の聖石が祀られた場所。そこを訪れて禁じられた森の中を探索できる機会を、なぜルーピン先生がハリーたちに与えるのか、ハリーには分からなかった。
(……もしかして、僕たちが聖域を探索すると思ったのかな……?)
ハリーの中で思い付く可能性は、ルーピン先生がハリーたちを信用せず、ハリーたちが聖域に押し入ると思ったから、だった。ハリーやマクギリスが名誉欲から森に入り、目の届かないところで死ぬ前に先手を打って聖域を見せる、ということなのだろうか。
聖域までの道のりは通常の森の道ではなく、魔法によって草木で覆われ、そうとは分からなくなっていた。聖域までのルートを知るハグリッドがその巨体と杖で草木をかぎ分けてくれるお陰でハリーたちは苦もなく進めていたものの、そうでなければどうしようもなかっただろう。
考え事をしていたせいで、小枝に足を取られかけた。倒れそうになったハリーを、マクギリスが魔法で浮かせる。
「レヴィオーソ(浮け)!気を付けたまえ、ハリー。森での油断は死を招く」
「ありがとうございます、マクギリス先輩」
ハリーは少し恥ずかしい思いをしながらマクギリスに礼を言い、再びハグリッドの後を歩いた。道中には、鋭利な鉤爪で引っ掻いたような後が木々に残されていた。
「これは……何かの目印ですか?」
「まさかアクロマンチュラの生息地!?」
焦り出すマクギリスに対して、ハグリッドは朗らかに笑った。
「落ち着け。こいつは熊の縄張りを示すもんだ」
「なんだ、そうですか……」
ほっと胸を撫で下ろしたマクギリスに対して、ハリーは頭に疑問符を浮かべた。
「熊?それはおかしいよハグリッド。イギリスに熊はいない筈だ。……それとも、禁じられた森にはいたの?」
「ああ。わしが森番になるずっとずっと前にはな。この森にも熊がおった。生存競争に負けてもうおらんようになったがの。熊は自分の縄張りにこういう印をつけることはあるんじゃ」
ハグリッドは杖で二回その鉤爪の跡を叩いた。すると、鉤爪の跡が剥がれ、中から青白い光と共にハリーの額の傷と同じ形のルーン(完全のルーンが浮かび上がった。青白い光は、ハグリッドの手に持っていたハンカチに刻まれた。
「お、おお……!!」
「何と、そんな仕掛けが……!」
驚いて目を見張るハリーとマクギリスに、ハグリッドはにっこりと笑って言った。
「これが聖域への鍵じゃ。よーく覚えとくんじゃぞ。鍵は一度使ったら鍵になるルーンも変わるんじゃ」
「……ルーン文字を習わなかったことを、これほど後悔したことはありません」
そう言うマクギリスに、ハグリッドはパンパンと慰めるように肩を叩いた。
「なーに、わしも習っとらん。習う前に退学になったからな!!ルーン文字を使うことなんてそうそうねえから、そう気を落とすな、マクギリス!さぁ進むぞ!」
ハリーはハグリッドの先導に従って進みながらも、これから待ち受ける聖域の神秘を想像して胸を踊らせていた。
(ルーン文字!やっぱり、どんな知識でも活かすことはできるんだな……!)
ルーン文字は、ホグワーツにおいて必修の知識ではない。ハリーにとっては便利ではあるが、杖一本で思いどおりにことを進める現代の魔法使いにとってはマイナーな分野なのだ。しかし、それは逆に言えば、どれだけ優秀な魔法使いでもその科目を選択しなかったために知らないこともあり得る知識ということだ。
古代の人たちがなぜルーン文字をセキュリティに選んだのかを想像しながら、ハリーはわくわくする気持ちを抑えられなかった。賢者の石を守るために、石の守りを突破したときのことをハリーは思い出した。
(どんな罠が……いや、どんなものが待ち受けているんだろう)
ハリーは友達と来れないことを残念に思いながら、逸る気持ちを抑えてハグリッドの後に続いた。その足取りは軽く、ハリーの目は期待で輝いていた。
***
森の中を進んでいくと、一際大きなオークの木が見えてきた。ハグリッドですら比較にならないほどの巨木は、重ねた年月の分だけその太さを増し、陽光を浴びるべく上へと伸び、別れた枝は蛇のように絡み合っていた。
「さて、ここだ。よーく見とくんだぞ」
「ハグリッド先生。もしやこれが……?」
マクギリスの言葉に意味深な笑みを浮かべて、ハグリッドはルーンが刻まれたハンカチを取り出すと、オークの幹にハンカチをそっと当てた。
「……!!」
その瞬間、ハリーは呼吸も忘れていた。ハンカチに刻まれたルーンが青く輝き、オークの幹を引き裂いていく。ハリーはふわりと体が浮かび上がるような感覚に陥った。
「うぉっ!?」
「レヴィオーソ!」
急な浮遊感覚にマクギリスが耐えきれずに体勢を崩しそうになる。ハリーはレヴィオーソでマクギリスを浮かせると、マクギリスの姿勢は安定した。
「……見事だよハリー。ここでは先輩風を吹かすつもりだったのだが、その必要は無さそうだ」
「いえ、マクギリス先輩が居られるだけで心強いです」
ハリーとマクギリスがそんなやり取りをしているうちに、ハリーたちを襲った浮遊感は途切れた。ぐるぐると回り続ける視界が安定したときには、ハリーとマクギリス、ハグリッドとファングは大理石で覆われた荘厳な雰囲気のある部屋のなかにいた。
「よーし。ここが聖域の中だ。ハリー、マクギリス。お前さんたち、こっから先に進む勇気はあるか?」
「愚問ですね。我々がグリフィンドール以上の勇敢さを持つということをここで証明してみせましょう。そうだな、ハリー?」
「行きます。でも、ちょっと待ってください。……パピリオ エクジ(蝶よ出ろ)」
ハリーは身体にくっついていた木の枝を手に取り、枝に向けて杖を向けた。ハリーの杖から青色の光が灯り、コンジュレーションによって枝は青い羽根を持つ蝶へと変化していく。
「なるほど偵察か。良い判断だ、ハリー。ファングの鼻があるとはいえ気を付けるに越したことあるまい」
「デザインについてはご容赦ください。戻ってくればよし、戻らなければ、何かの罠や魔法によって消滅したということです。少し待ってくれますか?」
「おお……ハリーは随分と慎重じゃのう」
ハグリッドは微笑んでいる。ハグリッドにとって問題ない罠であったとしても、ハリーやマクギリスにとって安全かどうかは全く別の話だからだ。
ハリーが魔法で生み出した蝶は、一年祭の時とはくらべのもにならないほど早く、そして音をたてずに遠くまで飛べる。一分と立たずに、蝶はハリーのもとまで帰ってきた。
「……トラップはなさそうです」
ハリーがそう言うと、マクギリスも慎重に言った。
「まだ分からない。こういった建築物では落とし穴や、人体にだけ発動する類いの魔法が多いのだ。私も直接経験するのはこれが最初だがね」
「最後にならないよう、気をつけて進みましょう。ファング、力を貸してくれるかい?」
ファングはハリーのお願いに対してどうしたものかと目を泳がせていた。ハリーやマクギリスがどれだけ頼もうと、一歩も動きそうにない。
(ああ、やっぱり僕は犬は嫌いだ。マージ叔母さんやパンジーを思い出す。犬ってやつは半端に賢いから、主人の言うこと以外聞きやしない……!)
結局、主人であるハグリッドが、頑張れ、頑張ったら骨付き肉をやるぞ、と言ってようやくファングはやる気を出して前に進み始めた。
ファングの鼻は、結論から言うとよく仕事をしてくれた。聖域を進むハリーたちは、大理石のしっかりとした感触を確かめながらこつこつと音を響かせて前に進む。その過程でハリーたち以外の人間、つまり魔法使いがなにかを仕掛けていれば、ファングは躊躇なく吠えてハリーたちに行く先に何かがあると警告してくれた。
ハリーが聖域で最初に遭遇したのは、奇妙な物体だった。子供の落書きのような、不自然な顔が張り付いた何か。顔のようなものが張り付いているのに不揃いで、目が飛び出ていて、苦悶の表情を浮かべているように見える何かたちが、ハリーたちの行く手を阻むように漂っている。ゴーストのように聖域内を漂うそれらは、ゴーストの数倍は不快で陰鬱とした魔力を漂わせている。
ハリーはそれらを確認すると杖を手に取った。とにかく見ていて不愉快極まりない物体な上に、なにやら不審な魔力の気配を感じるのだ。物体からこちらを攻撃する気配はないが、石化魔法で停止させるなり、インセンディオで焼き払うなりして無力化しておきたかった。
「待ちたまえ、ハリー」
が、マクギリスは手を添えてハリーの杖を下げさせた。
「あれに魔法での攻撃をするのはよくない。あれは……私の推測が正しければ、攻撃系統の魔法をきっかけに発動する罠だ。……間違っても攻撃してはならないと確信を持って言える。あれは、実体化した絵画なのだ」
ハグリッドはほうほうと興味深そうにマクギリスの話を聞いた。ハリーはマクギリスが、あれの正体を知っているのかと尋ねた。
「そういう種類の罠があるとはロンから聞いたことはあります……けど、絵画ですか?」
ハリーは意外な魔法に驚いた。マクギリスによると、マグルの芸術作品にインスピレーションを感じた魔法族の絵師が、自分でそのレプリカを作って魔法をかけるということはままあるのだという。
「絵画の知名度や技法、描かれた時代や背景。そういったものに魔法族と共通する価値を見出だした奇特な人間が、マグルのことを理解するためにマグルの絵を模倣する。……だがね。魔法族の絵は……動くのだ」
ハリーに言って聞かせるマクギリスの声はだんだんと陰鬱になっていった。
「君はこの絵の元になった作品を知っているかい?知らない?そうか。それも無理はない。マグル学の六年生で習う知識だからな。これはピカソというマグルの絵師が書いた絵画なのだよ。ゲルニカ……と、言うらしい」
「おー、戦争の被害にあった都市を描いたっちゅう、あの……うーむ、本物のほうが迫力があるのう。下手くそすぎて分からんかったわい」
ハリーは知らなかったものの、ハグリッドはさすがにピカソのことを知っていた。ハグリッドは、魔法使いの絵師が書いたゲルニカを酷評した。
「動く絵というのはマグルの価値観でいえば、不粋らしいですね。私に言わせれば動かない絵というものはあまり興味をそそられないのですが」
「いんや、本物に比べたら細部が下手くそじゃ。動くとかそれ以前の問題だな」
ゲルニカの元絵を知っているハグリッドとマクギリスが議論しそうになったので、ハリーはあわてて声を張り上げた。
「絵画?僕の目には、頭のおかしな子供が作った駄作に見えますけど。そんなに攻撃するのがいけないんですか?」
ハリーには絵心や、芸術を理解する高尚な心はない。ピカソがゲルニカに込めた思いなど、ハリーの知ったことではなかった。
「うむ。『戦争』をモチーフにした絵画なのだ。下手に刺激すれば、『戦争』を再現して襲いかかってくるかもしれない。そんな事態は避けたい」
「どうすればいいのか、心当たりがあるんですか??」
「あの扉の横に、巨大な額縁が見えるだろう。絵画をあそこにあてはめていけばよいのだ」
ハリーはプロテゴを周囲に展開しながら、ゲルニカの劣化した模造品たちの先を見ようとした。不快な絵はハリーたちの周囲を漂い道を塞いでいて、奥に見える扉は固く閉ざされている。扉の横には、大きく広がったなにもない額縁が壁一面に堂々と広がっていた。
「私はゲルニカの絵を記憶している。少し難しいが、パズルのように一つ一つの怪物たちを当てはめていくのだ。間違っても破壊などしてはならないし、攻撃してもいけないぞ、ハリー!どんな災いが降りかかるか分かったものではない」
「分かりました。お願いします、マクギリス先輩」
ハリーはマクギリスの指示に従った。マクギリスはぶつぶつと己の記憶を取り出し、記憶と照らし合わせてパズルを完成させるという荒業を用いた。
「メモリエイト ゲルニカ(ゲルニカの記憶よ 浮かび上がれ!)!」
五年生を超え、六年生になった生徒は、呪文学やDADAでオブリビエイト(忘却)やその反対呪文となるメモリエイト(記憶)など、記憶に関する魔法も学んでいく。マクギリスはどうやら真面目に授業を受けていたようで、ゲルニカという元絵を再現するべく、己の記憶を掬い上げることに成功した。
「私は確かにゲルニカの絵を見た……見たということは、脳はそれを確かに記憶しているのだ。自分の認識でそれを引き出せないならば、記憶そのものを確認するのが最も手っ取り早い」
「ここまでくれば、あとは呪文を使わずに手で怪物たちを額縁に押し込めばいい。魔法で刺激さえしなければ、絵は攻撃しないはずだ」
ハリーはマクギリスの言葉に従って、手で怪物たちを額縁につれていった。怪物たちは絵であるにも関わらず、質量まで再現したらしく、ハリーの力では持ち上げられないものも中にはあった。マクギリスでもどうしようもない、馬の成り損ないのような怪物を運ぶとき、ハグリッドが手助けをしてくれた。質量だけでハリーを吹き飛ばしかねなかった馬の怪物も、ハグリッドにとっては大した脅威ではないようで、ハグリッドは怪物のタックルを笑って受けながら、杖すら使わずにひょいひょいと怪物たちをつまみ上げている。
「お見事です、ハグリッド先生」
「俺が先生と言われるのは慣れんな!」
ハグリッドの手でゲルニカの元絵が再現されたとき、ハリーが抱いた感想は、やはり悪趣味で不快な落書きだった。いつの間にか、閉じていた扉は開放され、ハリーたちを次の部屋へと導いていた。
「じゃあ行こうか。ふふ、次はどんな試練が待ち構えているのだろうね?」
そして意気揚々と次の部屋へとたどり着いたハリーたちは、そこでまた閉じた青い扉に遭遇した。扉の横には古代ルーン文字で数行記されている。ハリーは一部の文字がかすれていて判別できないことに苛立ったが、文脈から内容を理解した。
内容を理解したハリーは、お宝を前にしてお預けをくらった気分になった。今のハリーにとって、絶望的内容がそこにあったからだ。
「ふむ……なんと読むのかな、ハリー」
「『あなたが正しき心と、……幸福……?を持っていて、迷いがないならば、この扉の前でそれを示せ』『完全なパトロナスを』だそうです」
「……ふむ。君はパトロナスの訓練をしていたのだったね、ハリー」
「ええ。ですが僕はパトロナスが使えません」
ハリーは悔しさを滲ませながらそう言った。パズルを突破した後の高揚感は消え失せていた。
「そう落ち込むことはねぇぞハリー。パトロナスはわしも使えん!」
「無論、私もだ。……しかし、ここまで来て挑まずにいられようか」
マクギリスは深く深呼吸すると、青い扉の前に立ち、深く深呼吸して杖を振り上げ、おろす。
「エクスペクト パトローナム(パトロナス召喚)!!」
ハリーとハグリッドは、おお、と息を飲んだ。マクギリスの杖から、銀色に輝く霧が立ち込めた。ハリーの邪悪な靄とは異なる、パトロナスの輝きがあった。
マクギリスの杖から飛び出した霞に反応して、青い扉も銀色に輝く。ハリーはいける、と思った。しかし、徐々にマクギリスの杖かの魔力は弱まっていく。
「むぅ……!!」
「エクスペクト パトローナム(パトロナス召喚)!!」
ハグリッドが自分もと杖を振り上げてマクギリスを援護する。ハグリッドの杖からも、銀色の霧が輝いた。
それから数分、青い扉は光り輝いていた。しかし、扉は開かない。
(実体じゃないからか……!)
マクギリスが魔力を使い果たし、ハグリッドが息切れすると、青い扉は輝きを失い、どうやっても開かなかった。この日、ハリーとマクギリスは与えられたチャンスをものにできなかった。マクギリスはもう一度挑戦したものの実体化させることができず、そしてハリーは、己の闇を知られることを恐れ、挑戦すらできなかったのである。
ルーピン先生「真面目にパトロナスを覚えてもらうために」
ダンブルドア校長「うむ」
ルーピン先生「報酬で釣ります」
ダンブルドア校長「……えっ……まぁ、うん」