「……なんか……吸い込まれそうになるくらいにきれいな鏡だね」
空き教室にあった鏡は、ハリーたち三人どころか、大人が二人いても全身を写し出せそうなほど大きかった。鏡の周囲にはみたこともない彫刻がなされている。
「なんか書いてあるぞ」
ロンが台座に書かれている文字を見つけた。ハリーも文字を読もうとした。左右反転した上で、やたらと読みにくい文字が彫られている。
「鏡文字ね。『……これは、あなたの姿ではなくあなたの心の望みを映す』ですって」
真っ先に鏡文字を解読してのけたハーマイオニーは、視線を上げて鏡を見た。彼女は二、三度瞬きすると吸い込まれるように鏡を見続けていた。ハーマイオニーの隣のロンも、クィディッチを観戦しているときのハリーたちのように、夢中になって鏡を見ていた。そして、ハリーも吸い寄せられるように鏡を見ていた。
ハリーは最初、鏡に映っているのが誰なのか分からなかった。鏡にはロンやハーマイオニーの姿はなく、知らない大人の男女や、髭を生やし、皺だらけの男女がハリーの後ろに立って微笑んでいた。大人の男は癖のある髪の毛で眼鏡をかけていて、ハリーと似ていた。大人の女性はハリーと同じ緑色の瞳だった。彼らは魔法のカメラで生成された写真のように、時折ハリーの後ろでハリーの髪を弄くったり、杖で魔法をかけてそれを直したりしていた。そして、ハリーが見続けているうちに映像はより深く、鮮明なものになっていった。
(父さんと母さん?)
ハリーはシリウスや、いろんな人から自分が父親と似ていて、母親と同じ目を持っていると言われたことを思い出していた。
その鏡の中のハリーは、ダーズリー家で育ったわけではなかった。額に稲妻のような傷がない。魔法使いの父親と母親に魔法を教えてもらったり、ザビニたちとクィディッチをして子供の頃を過ごしていた。
クィディッチの相手は色々な子供がいた。ロンであったり、双子であったりした。その中にはドラコもいて、ハリーはブラッジャーを恐れることなく、何も考えずに自由に空を飛ぶことができていた。そして飛び疲れて家に帰れば、そこには両親がいた。ハリーがスリザリンの緑のローブを着て家に帰ると、両親はハリーを笑顔で出迎えてくれた。
ハリーは自分が、ロンやハーマイオニーたちと一緒に空き教室にいるということを忘れていた。
「ハリー、ハリー!!」
「しっかりしろ!」
ハリーは気づくと、ロンに頬をこづかれていた。ハリーはいつの間にか、鏡に直に手をつけて鏡の中を覗こうとするかのように鏡を見ていた。
「……あれ……ねぇハーマイオニー。これって……」
「魔法でできた幻よ」
ハーマイオニーは頬を赤く染めていた。
「鏡の中では、私はテストで一番の成績を取っていたわ」
「俺は……クィディッチのキャプテンで、監督生だった」
ロンが言った。彼は耳を赤くしていた。
「僕は、多分だけど、両親がいたよ」
ハリーが言うと、二人は黙りこくった。
「もうここには来ないようにしましょう。これを見続けるのはきっと、体によくないわ」
ハーマイオニーがそう言うと、ロンもこの時ばかりはハーマイオニーに同意した。
「うちの親父が言ってたんだ。どこに脳みそがあるかもわからないものを信用しちゃいけないって。もしかしたら、闇の魔術がかけられてるかもしれない」
ロンとハーマイオニーは、もう鏡を見たいとは思わないようだった。しかしハリーは、その鏡の中の人々が、まるで生きているかのように動いている光景が目に焼き付いて離れなかった。
***
その日から、ハリーは取り憑かれたように、毎晩一人で空き教室に行き、両親の幻を追い続けた。頭の中では、そこには魂はないという警鐘が鳴り響いていた。
しかしそんなものは、鏡の中に広がっている光景とは比べ物にならなかった。
「……そこまでにしておきなさい」
鏡の中の世界に取り憑かれたハリーを止めたのは、アルバス・ダンブルドアだった。白髪の老人は、深い悲しみを宿した瞳でハリーを見ていた。
「校長先生。すみません、僕は……僕は、校則を破りました。これを見るために」
ハリーは校長に謝罪し、罰を受けようとした。しかし、校長先生はハリーを責めなかった。
「この鏡は、見た人間の望みをそのまま見せてくれる」
ダンブルドアはそう言った。
「深い失敗をして、失意のうちにある魔法使いや魔女は、誰もがこれに取り憑かれる。たとえば大人であったとしても、この魔力に抗うことはできない。どうして君を責めることができるだろうか」
ダンブルドアは、ハリーの校内の探索を責めなかった。それよりも、ダンブルドアが次に言った言葉の方がハリーを打ちのめした。
「……必要がなくても、壊すべきだと分かっていても、どうしても壊せない道具というものはある。これは、この場所に置くべきではなかった。私の失敗だ。鏡は別の場所に移すとしよう」
「そんな!あそこには父さんがいたんです!!母さんも!」
ハリーは相手が校長先生であることも忘れて叫んだ。ハリーはあの世界を見続けたかった。できることなら、あの場所に行きたかった。
「……ハリー。ここに見えるものは、どれだけ精巧でも、どれだけ素晴らしくても、偽物なのだ」
ハリーはダンブルドアに恨みすら抱きながら、はい、とダンブルドアの言葉に承諾した。ハリーは深い沈黙のあと、ダンブルドアの目を見てこう言った。
「鏡の中では、両親は僕がスリザリンで良かったって喜んでくれるんです」
「シリウスもハグリッドも、僕がスリザリンで良かったって褒めてくれました。両親も褒めてくれたんでしょうか?」
ハリーはダンブルドアに、自分の悩みを打ち明けた。ダンブルドアは、ハリーを悲しそうな、そして、ハリー自身は気付くことはなかったが、冷徹な目で見ていた。
「君の父上とシリウスは、双子のように仲が良かった。そのシリウスがそう言ったのなら、それは父上がそう言っているのと同じことだ」
ハリーは少しだけ、胸が晴れる気がした。ハリーはダンブルドアに依存しそうになった。ダンブルドアは、望めばハリーに答えをくれた。
「いろんな人が、僕をグリフィンドール生みたいだって言います。でも、僕はスリザリン生だし、スリザリン生で良かったって思ってるんです。だけど、スリザリン生らしくないって……」
「私は、君がスリザリン生らしくないとは思わないよ、ハリー」
ダンブルドアは確信を持ってそう言った。
「創設者のサラザール・スリザリンは、教える生徒に断固たる意志や、機知に富む才能、そして……必要ならば規則を破るという傾向を求めた。実はこれは、ゴドリック・グリフィンドールと同じなのだ。君は、グリフィンドール生らしいのではない。君は誰よりも、スリザリンが求めた才能を持っている」
その言葉を聞いて、ハリーは喜んだ。
「そして、君ならば、その才能によらず、自分の意志で選択をしてくれると私は信じている」
「自分の意志で選択……ですか?」
ハリーは、言葉の意味が分からずにダンブルドアに問いかけた。ダンブルドアは、こくりと頷いた。
ダンブルドアはハリーを信じた。そして、ハリーを自分から遠ざけようとした。
「人は時として間違う。私も、かつてシリウスの件で間違えた。シリウスは、元気にしているかね?」
「えっと……はい。いつも僕に手紙をくれます」
ハリーはダンブルドアがシリウスのことを知っているのが不思議だった。シリウスは、ダンブルドアとの関係についてはハリーに話していなかった。
「……ハリー。私は君にひとつ、謝らなくてはならないことがある。……シリウスについてのことだ」
「シリウス?先生が、どうしてですか?」
ダンブルドアが語った言葉は、ハリーを打ちのめした。
「君の両親が殺されたとき。私はシリウスを裏切り者だと疑い、彼の弁護をしなかった。彼が君を保護し、ゴッドファーザーとしての役割を果たそうとしたとき。私はマグルの慣習に従って、君をマグルの親戚の家に預けた。シリウスは君といてあげられなかったことで、自分をずっと責めているが、悪いのは彼ではないのだ。私が君と、シリウスの幸せを奪ったようなものだ」
***
ハリーはふらふらと自室に戻り、自分の机を見た。そこには、アルバス・ダンブルドアのカードがあった。ハリーはインセンディオを唱えた。
カードの中のダンブルドアが、苦しんでいる様子が見えた。しかしダンブルドアは苦しんではいても、ハリーを責めることなく、悲しそうな顔でハリーを見ていた。
(お前のせいだ)
ハリーは腹が立って、怒りのままもう一度インセンディオを唱えて、カードごとダンブルドアを燃やそうとした。
『やめとけ』
そんなハリーを止める声がした。
『ハリーらしくねえ』
クスシヘビのアスクレピオスは、つぶらな瞳でじっとハリーを見ていた。ハリーはこの愛らしい蛇の前で、ダドリーのようなことをするわけにはいかないと思った。
『そうだね。そうだよね』
ハリーは杖を下ろした。愛すべき蛇にお礼を言って。
ダンブルドアのカードは燃え尽きることはなかった。魔法のカードには防火処理が施されていた。ハリーは自分への戒めとして、カードをそのまま自分の宝物として保管した。胸の中には、ダンブルドアへの怒りと、自分のふるまいへの深い悲しみがあった。
***
クリスマス休暇を終えたザビニたちが帰ってきた。ハリーは本物の友達との再会を喜び、普段通りの一日を過ごした。鏡の中の世界のことを、ハリーは忘れなければいけなかった。ハリーは今ここで、ここにある友達や自分のために、前に進まなくてはならないのだと思った。