ダフネ・グリーングラスはかつてないほどの多幸感に包まれていた。今ならば、何回でもパトロナスを召喚できるという確信がダフネにはあった。
「本当に生き残れたのね、私たち。まるで夢みたい……」
うっとりと呟くダフネはアクロマンチュラの死体処理をハリーやルナに任せて警戒任務を放棄していた。高揚感と達成感に浸る彼女に、魔法生物を殺害したことに対する罪悪感はない。
集団での行動は、個人個人の罪の意識を希薄化させるにはもってこいだ。デスイーターたちが新入りを歓迎するとき、彼らは一人の哀れで無力なマグルを取り囲み、全員でクルシオにかけ、全員でアバダケタブラを当てる。そうすることで罪を共有すると同時に、団結を深める。
それと同じことを、ダフネは今経験していた。防衛のための自衛ではなく、目的意識を持った探索による過程での戦闘、そして結果としての殺害。はじめて経験するモンスターの死は、思っていたよりもダフネの中の罪悪感を刺激しなかった。
(もっと動揺すると思っていたけれど。こんなものなのね……)
人は、自分を周囲より優れた人間であると思いたがるものだ。この時ダフネは、自分はそこらのグリフィンドール生よりよほど優秀で勇敢で、そして理性的だという自信を深めていた。
足元の覚束無い森の中ではあったが、ダフネはしっかりと地に足をつけてプロテゴを展開し、ハーマイオニー・グレンジャーの指示に従ってステューピファイやロコモータを使い援護することができた。
この成果はハーマイオニーの指示に従ったからであって、ダフネ自身の判断ではない。しかし、ダフネは達成感と高揚感を味わっていた。
アクロマンチュラは学校を卒業した一人前の魔法使いでも遭遇すれば死ぬこともある魔法界最悪の魔法生物、もとい闇の生物兵器である。それを相手に生き残れたダフネはまるで自分が強くなったかのような錯覚を味わっていた。
「指示を聞いてくれたお陰よ。森ははじめてなのに、ダフネもコリンも本当によく頑張ってるわ。ハリー達がアクロマンチュラを解体し終わるまで、警戒を続けましょう」
「そうね。……ああ、早く先へ進みたいわ。何だか楽しくなってきちゃった。貴女もそう思わない?」
「ええと、そうね。私は……アクロマンチュラの援軍が来ないか心配ね。できれば遭遇したくはないわ」
(不味いわね。ダフネもコリンも夢見心地で浮かれてしまっているわ……)
ハーマイオニーは周囲を労いながらも、いっそ不自然なほどにこにこと笑いかけてくるダフネに相槌をうちながら不穏なものを感じていた。
ダフネは殺戮行為に楽しみを覚え始めていた。
人間のなかには、ある集団に属しているとき、その集団の色に染まるよう行動する人間がいる。ハーマイオニーから見てダフネはその傾向が強いように見えた。よくも悪くも自主性に乏しく、流されやすい。純粋で素直なのだ。
ハーマイオニーは自分達が、闇の魔術に対して肯定的な風潮に染まることを危惧していた。
ハーマイオニーの脳裏には、昔読んだ小説が思い浮かぶ。今の自分達の状況は小説のそれに近い。
親元を離れ、頼れる大人は自分達の仕事で手一杯だ。自分達の身は自分達で守るしかない。こういうとき、自分の頼みとする理性と知性はあまり役に立たない。
先ほどのアクロマンチュラとの戦闘においても、ハーマイオニーが機能することができたのは真っ先に先陣に立ってアクロマンチュラを引き付けたハリーと、アクロマンチュラにコンジュレーションをばら蒔いて牽制し続けたロンあってのことだ。
知性と理性は絶対ではない。
急を要する現場では、過ぎた理想は怪我のもとだ。ハリーが二匹目のアクラマンチュラを即殺していなければ何人死んでいたかわからない。
ハーマイオニーは、ハリーの状況をこの時肌で理解した。頭で分析して理解していた『正しい』選択肢など選ぼうとして選べる状況ではなかったという事実を理解した。
ハリーが遭遇してきた脅威、バジリスクや日記のトム・リドル、そしてデスイーターの群れやヴォルデモートは正しさが求められる環境ではない。
間違いであれ正解であれ即座に決断し即座に行動する。それが求められる理不尽な環境が、闇の魔法生物や闇の魔法使い達なのだ。
そもそもアクロマンチュラは、腕利きの魔法生物ハンターや駆除専門家、あるいは闇祓いが集団で討伐することを想定している。闇の魔術なしで一匹駆除できただけでも信じられない快挙なのだ。ダフネやコリンが浮かれるのも無理はなく、二人がハリーにより好意を持つのもある意味では仕方のないことだ。
恐ろしいのは、緊急事態における一時しのぎでしかなかったはずの闇の魔術にハリーはもう染まりきっていることだ。ハリーを信奉するコリンやダフネまで闇の魔術に染まってしまうのではないかとハーマイオニーは恐れた。
八人のうち、コリンやダフネとハリーで三人。さらにもう一人、たとえばアズラエルが流されてしまえばこの集団は瓦解する。自衛と正義、友の敵討ちのため闇の魔術に頼らず強くなるという本来の趣旨が失われてしまう。
(少なくとも、今闇の魔術カルトに染まるのは危険よ。魔法省から目を付けられているのに……)
心中に増大する不安感を拭い去るように、ハーマイオニーはポイントミー(方角を示せ)で現在の位置からハグリッドの小屋までの方角を指し示した。来た道を帰ればまだ帰還は可能だ。
(……今日は一旦帰るべきと、ハリーに言ってみよう。……今のまま進むのは良くない気がするわ……)
そう考え、ハーマイオニーは決然と声をかけた。
***
ハリーは自分は偽善者なのではないか、と思った。
ルーピン先生と守れもしない約束をした挙げ句、今回堂々とそれを反古にした。反古にした上で、ハリーはそのことを気に病んでいない自分自身が信じられなかった。
(……アバダケタブラを使ったこと自体は問題はない。……それよりも、事前にもっと皆に声をかけておくべきだったかもしれない。成功するという確信みたいなものはあったけど)
ハリーはアクロマンチュラを殺害し、アバダケタブラを使用したことそのものより、周囲から引かれたことに衝撃を受ける自分自身を冷静に見下していた。
(……バカめ。皆から好かれようなんて考えるな。そんなことより、皆をどうやって安全に返すかを考えろ。転入生の領域を目指して先を進むべきか、それとも戻るべきか……)
ハリーは考え事をしながらも杖を動かし続けた。コリン達が焼却したアクロマンチュラはほとんど原型が残っていなかったものの、足や外郭はそれなりの魔法薬の素材として使うことができる。ハリーはスコジュファイやコンジュレーションによってなるべく状態を整えたあと、解体した部位を包んだ布を魔法のバッグに収納した。
空間を拡張したバッグの中に入れてしまえさえすれば、部位の大きさは無視することができた。
「えーと。ここで皆に報告がありまーす」
ルナは間延びした声を出して全員を集めた。ルナの手には、瓶に収納された液体がある。
「何だそれ?」
ロンが興味津々で尋ねると、ルナは珍しく咳払いをして言った。
「アクロマンチュラの毒液。ハリーが倒したやつは状態が良かったからめちゃくちゃとれたよ。……二リットル。倒したのハリーだし、これはハリーが管理するってことでいい?」
アクロマンチュラの頬袋にある毒液は、アバダケタブラによって倒されたことで破裂することなく回収することができたらしい。ザビニは信じられない目で毒液を見て、次にアズラエルに問いかけた。
「聞き間違いか?おいアズラエル、アクロマンチュラの毒ってクソ貴重じゃなかったか?」
「……ええ……今の相場だと、末端価格でもリッターで二百ガリオンは下りません」
「コリンが倒した方の毒液も回収した。……まぁこっちは二十ミリリットルくらいだけど」
「に……?」
あまりの事態にロンは絶句した。ハーマイオニーも桁の大きさに驚いている。
「今回僕らはグラプリー・ブランク先生の依頼で、森の生態調査という名目でここに来ている。だから収集した素材は先生に献上する」
ハリーは粛々と言った。ロンとコリンはそんなぁ!と声をあげた。
「素材は、ね」
ハリーは意味深にウインクした。
「さすがハリー、それでこそ親友だ」
ハリーとロンは固い握手をかわした。
「高潔だと思っていたけれど、所詮はウィーズリーだったのね……」
ダフネはロンを憐れむような目で見ていた。お嬢様であるダフネは、金銭の価値というものを心の底では理解していないのだ。
「いや言うなよ。半リットルでも百だぞ。とんでもなくやベェ額だって。ニンバス何本分だ?」
「そもそも、薬代とかもろもろの経費はハリー持ちですからね。そのアクロマンチュラを倒したのもハリーですからハリーに従いましょう」
アズラエルはハリーを立てた。ハリーとしては、アクロマンチュラの毒液を売るよりも手元に保管しておきたいところだった。入手機会が少なく滅多に出回らないが、本当に貴重な魔法薬の原料となるのだ。それを売るなんてとんでもないことだった。
「……さて、この先に進むかどうかだけど。コリン、ロン、ザビニ。君達は何か怪しいものを見つけられたかい?アクロマンチュラを見かけたりはしなかった?」
「蜘蛛はこの先にはいませんでした。はぐれの番だったんでしょうか?」
「アクロマンチュラの生態によると、夫婦が群れから離れるときは新しいコロニーを形成する時だね……」
ハリーは手を顎に当てて考える。
(……でも、本当にそれだけか?……たとえば、転入生の居所を守るための番人だったのでは……?)
以前この近くまで来たときはハグリッドの誘導やルーピン先生の助けもあり、ハリー達はアクロマンチュラに遭遇はしなかった。この段階までアクロマンチュラが来ているということは、コロニーに何らかの異常が起きている可能性が高いのだ。
「あー、じゃあたぶんハグリッドが居ないせいだね」
「どうしてそう言えるの、ルナ?アクロマンチュラの生態にハグリッドは関係ないわよね?」
ルナははっきりとハグリッドの不在を理由に挙げたが、ハーマイオニーはすかさず突っ込みをいれた。ルナはうーんとね、と一呼吸おいて言った。
「落ち着いて聞いてほしいんだけど、大丈夫?皆ビックリしない?」
「えらく勿体振るね……」
「言ってくれルナ。必要だろ」
ロンは身震いしながら先を急かした。アクロマンチュラの姿を想像して気持ちが悪くなったのかもしれなかったが、嫌なことはさっさと済ませておきたかったのかもしれないとハリーは思った。
「この森にはもともとアクロマンチュラのコロニーがあったらしいんだ。だけど、ある時ハグリッドの飼ってたアラゴグってアクロマンチュラがこの森にやって来たの」
「……飼ってた……?聞き間違いではなくて?」
「秘密の部屋の時のことを思い出してくれ、ダフネ。ハグリッドはバジリスクは飼育していなかったけど、アクロマンチュラを飼育していたんだ」
そう説明するハリーはさして動揺していなかった。
「……」
フリーズするダフネの顔を、ハリーは不覚にもかわいいと思ってしまった。ハリーにとってはダフネはどんな時も魅力的ではあるのだが。
「じゃあそのアラゴグが在来のアクロマンチュラと交配して、コロニーを形成したんだね?」
「うん。ハグリッドが番を引き合わせたんだって」
「引き合わせたぁ!?交配させたって言うんですかぁ!?な、なにを考えて……!」
「たぶん何も考えてないと思うよ。アラゴグに家族を作ってほしかったんじゃないかなぁ」
アズラエルは瞬時に鬼の形相になる。が、ルナは他人事だと思っているのかのほほんとしていた。
「……それで……その事が今の事態とどう関係があるの?」
コリンは話についていくのに必死だったが、ルナとハリーに助けを求めるように言った。
「……まさかとは思うけど。アラゴグはハグリッドに遠慮してコロニーを制限していたんじゃないか?」
ハリーは自分の憶測を語った。
「そうだよ。アラゴグは群れのリーダーだから、今までは遠慮してたんだろうねー。でも、ハグリッドが居ないから群れの若いのをまとめられなかったんじゃないかなぁ」
ルナは善悪には欠片も興味がなさそうに言った。ルナの興味はアクロマンチュラの生態に向いていた。
「アクロマンチュラではたま~にあることだってハグリッドが言ってたんだけどね。隣のコロニーから若い番を連れてきたとき、大抵はコロニーの長に服従するんだけど、コロニーの長が弱ったりすると反発して飛び出したり、下克上したりするんだって。今なにが起きてるのか気になるよね~」
「えっ……えっと、うん……」
コリンはヤバいものを見る目でルナを見ていた。心なしか、ロンはハリーが闇の魔術を使ったときよりも信じられないものを見る目でルナを見ていた。
「……そうだね。このことはプランク先生に報告しておこうか。先生の推測も聞けるかもしれない」
「うひゃー、楽しみぃ」
満面の笑みでそう語るルナは紛れもなく魔法生物学者であり、その道の天才だった。ハリー達常人は、一刻も早いハグリッドの帰還を望むのだった。森がアクロマンチュラに支配されるまえに。
***
「……なにはともあれ、あの二匹がはぐれ者ならこの先でアクロマンチュラと遭遇する可能性は少ない。……僕は先に進もうと思う」
「けれど、子供を産んでいる可能性は……?子供と遭遇するかもしれないわ」
「あのメスはまだ子供を産んではいなかったよ。妊娠線もなかったし、成人したてのバカップルだった」
ルナはあっさりと断言した。
「よし、ルナを信じよう。聖域まであともう少しだ。皆、隊列を崩さず行こう。……パトロナスを召喚できる人は、パトロナスでの警戒も忘れずにね」
ハリーは一言付け加えた。ハリーはパトロナスは使えないが、この試みは効果があった。パトロナスは声を遠くの仲間に届けやすく、索敵にも使えて何かと便利だったからだ。
ハリー達は再び聖域にたどり着くことができた。富貴のルーンと、その下に隠されていた節制のルーンを木の根本に当てたとき、ハリー達を待ち構える古木はざっくりと入り口を開き、ハリーたちを遺跡へと招き入れた。
***
一歩足を踏み入れたとき、衝撃がダフネを襲った。
「きゃあ!?」
ダフネはハーマイオニーと手を繋いで聖域に足を踏み入れていた。何があるかわからないからと、ハリーは聖域に入る前にダフネたちにプロテゴ ホリビリス(すべての守り)をかけていた。
それでも防げない『何か』があった。それだけを認識してダフネの意識は刈り取られた。そして気がついたとき、ダフネは呆然と佇むハーマイオニー・グレンジャーの姿を見た。
「ハーマイオニー、ここは何処なの?皆は?ハリーは無事なのかしら!?」
「ダフネ!起きていたの!?今までどこに……?」
「今までどこにいたのかも分からないわ。……ねぇ、あれは何?」
ダフネはハーマイオニーの前に、整った顔立ちの魔法使いがいたことに気付いた。その男の顔をよく見ると、ダフネは男が誰なのか思い出すことができた。男はギルデロイ・ロックハート。かつてホグワーツに入り込んだ詐欺師だった。
ギルデロイ・ロックハートはまだ幼いハーマイオニー・グレンジャーににこにこと笑いかけていた。
『私の授業は、どうやら皆さんにはあまり受け入れて貰えていないようですね。悲しいことです……』
『そんなことありません!私、先生のことをとっても尊敬しています!先生の本を何度も読み返しました!!』
『ありがとう、ミス グレンジャー。君はとてもチャーミングな生徒ですね……』
そう言って、ロックハートは歯の浮くような台詞で幼いハーマイオニーを褒め称えた。
ダフネは隣にいたハーマイオニーの体温が上がったのを感じた。
「……ここは……ここは、私の……いいえ、たぶん人の願望が具現化している世界よ。……さっきクィレル教授もいたわ」
「そ、そうなの。早くこんなところからは抜け出さなくてはいけないわね。こんな場所を作るなんて、なんて悪趣味な……」
ダフネはハーマイオニーの機嫌を損ねまいと言ったが、瞬間、ダフネの顔は凍りついた。
「え、ええ……」
ハーマイオニーの困惑したような声が響く。
『プリンセス。純血の貴女がこのサバトに参加してくださってとても嬉しいです』
『純血主義者として当然のことよ。言われるまでもないわ』
『ああ、そんな貴女も美しい!』
歯の浮くようなお世辞を言われ、それにまんざらでもないような笑みを返している黒髪の魔女がいた。
(あれは誰)
ダフネは瞬時に、それが誰なのかを理解した。
(あの醜悪な魔女は。あれは……)
見え透いたお世辞を言われ、純血であるというだけの家柄を誇示し、そしてそれを楽しんでいたその少女は、三年生の時の自分自身だ。
「い、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!み、見ないで、見ないでぇっ!!!」
それに気がついたとき、ダフネはあらん限りの声をあげて絶叫した。
上げて上げて上げて。
気持ちよくなってから落とす。