***
「……君に対して何と言えばよいかわからない。君には返しきれないほどの借りが出来てしまったな、我が友よ……」
「私と君との間に今更そんなものが必要だったとは驚きだな、ルシウス」
セブルス・スネイプはルシウスの私室で、憔悴しきった顔の館の主と久方ぶりの会話を楽しもうとルシウスの私室を訪ねたとき、予想外の言葉によって迎えられた。
友、という言葉に、セブルスの中の何かが疼く。その疼きはセブルスの氷のようなオクルメンシーを突破することはなかったが、セブルスの内部に鈍い痛みを与えていた。
久方ぶりの主の帰還とあってハウスエルフが本気を出したのか、主が不在だった筈の部屋は塵一つないほど整い、空気も澄んでいた。一見すると質素な部屋にも見えるが、壁に掛けてあったタペストリーや、名工の手で造られた花瓶一つとっても、資産扱いできる代物だった。
セブルスの給与では手が届かないだろう。
しかし、マルフォイ家の当主は自らの在るべき場所に戻ったにも関わらず、その場に相応しくない程に萎れて見えた。
かつてマグルの王族に求婚するも受け入れられなかったという歴史から反マグル思想に転じた一族。誇り高きマルフォイ家の末裔は、望み通りに反マグル活動によって英国魔法界の頂に登り詰めようとしていたというのに。
(……何という痛ましい姿だ。あのルシウスの姿だというのか。この覇気もない男が……)
セブルスの心に、ルシウスに対する同情心と、そして、そんなものはルシウス・マルフォイに対しては相応しくないという強い感情が湧き上がってきた。
セブルスにとってのルシウスは、真の友であった。セブルスの認識はセブルスが死ぬまで変わることはない。
旧友と別れスリザリン寮に入ったセブルスを監督生として何かと気に掛け、セブルスの資質である闇の魔術に関する知識を肯定してくれた。
ルシウスが、セブルスを最もよく見てくれたのだ。エイブリーやマルシベール達もセブルスにとって大切な友人ではあったが、生涯変わることのない友といえばルシウスをおいて他になかった。
そんなルシウスは、アズカバンから解放されてまだ半日と経過しないうちに、同じく解放されたデスイーター達の面前で、闇の帝王に杖を奪われた。
献上したのではない。奪われたのであった。それは政治的には大きな意味を持っていた。
ルシウスの杖とは先祖代々受け継いできた杖であり、マルフォイ家の家督を継いだものが所有すべき財産であった。
……それを奪われたということは、ルシウスは当主としてマルフォイ家を守る力がなかったという証明に他ならなかった。
デスイーターたちの目から見ても、闇の帝王はドラコの功績を認めてもルシウスのかつての裏切りや、神秘部の戦いで成人してもいないハリー達と互角の戦いを演じた挙句騎士団に敗北して捕まったを許してはいない、ということであった。
ルシウスの地位は、果てしなく低い。
ルシウスは憔悴の色を隠しきれないながらも、セブルスに対しては感謝の念を述べた。他者に対してストレートな謝意を述べるなど、およそ高慢で、格式高い純血名家の当主としては相応しくない振る舞いであった。セブルスは友から認められ評価されることは嬉しかったが、落ちぶれた友の姿を認めたくはなかった。
「礼の言葉は君の妻に掛けてやればいい。私がドラコに課せられた任務を知ることができたのは、君の妻からの知らせによるものだ。それがなければ、私はドラコを助けることはできなかっただろうな」
「ナルシッサか……妻にもいらぬ心配をかけた。……しかし帝王はまさか、ナルシッサにまで出陣をお命じになられるとはな。何という失態だ。これでも妻には一生苦労をかけぬと、義父の前で誓ったのだがな……」
ルシウスは己の不幸とマルフォイ家の失墜を嘆き、我が身の無力を自嘲していた。
ナルシッサ・マルフォイ。旧姓ナルシッサ・ブラックもまた、然るべき教育を受けた純血の魔女である。しかし、これまでデスイーターとしての活動に加担したことはなかった。
帝王はルシウスに対する嫌がらせか、魔法省に対する襲撃の際にはそのナルシッサに対しても同行を命じたのだ。
当然ながら、闇陣営の中で戦場に立つ以上は狙われる危険は常にある。殺し合いをしている以上弱兵から減らすのは定石で、ナルシッサを見た敵は率先してナルシッサを狙う可能性すらある。
それは闇の帝王からルシウスに、そしてマルフォイ家に対して行われた前代未聞の嫌がらせであった。
デスイーターは闇の帝王の手であり足である。ゆえに、その身命に至るまで闇の帝王に使われることをよしとしなくてはならない。
しかし、その忠誠の見返りとして、デスイーター側は妻子や一族(の中でも純血主義を近う者たち)の、最低限の安全を保証される。それを期待していたし、ルシウスも己が収監されるまではそれを信じていた。それが、一つの一族を率いる当主が闇の帝王に服従を誓うことに対する最大の見返りなのだ。
ベラトリクスなどは常々、『自分に息子や娘がいればその全てを主君に捧げる』と公言している。戦争の武将としては見上げた根性であった。しかしながら、ルシウスにその精神性を持つことはできない。家長として妻子を護ってきたという男の安っぽいプライドは粉々に打ち砕かれ、今のルシウスにあるのは、妻の機転と息子の奮闘によって辛うじて命を繋いでいるだけという有様だった。
友の有様が見るに堪えなかったセブルスは、強引にでも話題を変えることを選んだ。
「……帝王には帝王のお考えがある。君の奥方には闇の印がないのだから、忌々しいサペレ・アウデに焼かれる可能性は低いのだ。そう悲観するな」
セブルスが呟いた単語にルシウスは怪訝な目を向けた。
「会議の場で皆が話しているのを聞いたが……何なのだ、それは?」
(……ドラコはルシウスにあの魔法のことを伝えていなかったのか……いや。伝える間がなかったのだろう)
ホグワーツの学生が今のルシウスのように自らの無知を晒せば、セブルスは叱責と嘲笑と減点を加えて説明しただろう。しかし、ルシウスが相手の時だけは、セブルスは丁寧であった。
「忌々しいポッターが開発したという悪霊の炎の亜種だ。我々デスイーターだけを焼き殺すという特性を持っている。この魔法が、帝王はこの魔法が魔法省の精兵に漏れていて、我らデスイーターを殺傷していることを憂慮している。……帝王はわざわざ言及はされなかったが、2名のデスイーターが任務から戻っていない」
セブルスが一言一句を丁寧に話していくごとに、やつれていたルシウスの顔から血の気が引いていった。
「はっ……馬鹿な。たかが青二才が開発した魔法如きにやられただと……?」
ルシウスは冗談であって欲しいと願いながらセブルスの瞳を見るが、続くセブルスの返しに言葉を失った。
「そのごときによって、アレクト・カローは人間の身体を喪った。……対抗するには、その火力を凌ぐほどの悪霊の火や悪魔の護りによって身を護るしかあるまい」
「まさかとは思うが、セブルス。あの噂が本当ならば……
「どの噂だ?」
セブルスは怪訝な目でルシウスを注意深く観察した。ルシウスは自分の審美眼というものに絶対の自信を持っているのだが、その分だけ自説を曲げにくいという欠点を持っていた。
経験上、わざわざ『噂』などと伝聞形式でルシウスが話をする時は十中八九がルシウス発案の意見だった。あくまでも噂という体で都合のいいことを吹聴するので、セブルスはルシウスの話す『噂』は聞き流すのが常であった。
「ポッターは闇の帝王の後継ー」
「残念だが、私は根拠のない妄言に付き合う気はない」
セブルスは闇の魔術に対しては並々ならぬ情熱、愛と言い換えてもよいかもしれないほどの執着を持つ男である。だからこそ、ハリー・ポッターが……自身が最も嫌悪し勝ちたがった男の息子が、
「ポッターごときが偉大なる帝王様の後継者だと。君ともあろうものが何という世迷言を!闇の魔術の神秘はこの世のあらゆる理に迫るものなのだぞ。いいか、あのポッターは……」
その後、セブルスは口調を荒げることなくホグワーツでのハリーの事細かな失敗をルシウスに語って聞かせた。その話しぶりは、ハリーがこの世の誰よりも優れた魔法使いではなく、ホグワーツにいる欠点の多い一学生に過ぎないことを雄弁に語っていた。
「う、うむ。君の言うとおりだな、セブルス。私もどうやらアズカバンにやられて参っていたらしい……」
(……変わらんな、この男は)
ルシウスは驚きつつも、心の中に安心感を感じていた。この七年、ルシウスはセブルスと会う度にハリーに対する愚痴と付き合ってきたのだ。
丸々五分は続いたハリーに対するあらゆる語彙を駆使した罵倒のあと、セブルスはやっと満足したようであった。よほど鬱憤を溜め込んでいたことが察せられた。
「……そうだろう。ましてや帝王様は、この世で最も偉大な魔法使いなのだ。あの御方の領域にはポッターごときが一生を費やしたところで辿り着けるものか」
(……帝王様に心からの忠誠を誓っているのは……ベラトリクスだけではなかった……な。帝王様がセブルスを評価するのも無理はないか)
ルシウスは内心でセブルスが帝王から気に入られるのも無理はないと考えた。
セブルスの役割は、光陣営に潜り込んだ諜報員である。そして、ハリーに対しては帝王がいずれとどめを刺すまでの間、ハリーを監視するという役を負わせられているというのがデスイーター達の見解だった。
もしもセブルスが光陣営ならば、ハリーに対して有益な情報を得られなかったということを吹聴するはずがなかった。そんな事をすればセブルスは己の無能を吹聴しているようなもので、帝王の機嫌を損ねルシウスと同じ立場に立たされかねない愚行なのだ。セブルスが光側なら、そんな事を言うはずがなく、闇側にとっては無能にも見える言動である。
しかし、闇の帝王やルシウスのようにセブルス・スネイプを深く知る人間ほど、セブルスの言動を聞いてこう思う。
……こいつは嘘を言っていない。
コイツを受け入れられる陣営は、世界広しといえど闇陣営しかない。
そう確信できるのであった。
セブルスは友人を作りやすい人間ではない。自分の意見こそ最重要で、それ以外のほとんどを愚弄して憚らない類のクズである、というのがルシウスの評価だった。ルシウス自信、だからこそ話していて疲れない。本音を取り繕う必要のない相手というものはいいものなのだ。
それはそれとして、セブルスの性根と性格がひん曲がっているのは知っていた。
ルシウスは、セブルスの、自分やヴォルデモートに対する敬意……『己を高く評価する人間』に対しての敬意は本物であるとルシウスは思っていた。
自分を除いて他の誰が、セブルス・スネイプと同僚になりたいと思うだろう。
デスイーター以上の天職がセブルスにあるだろうか?いや、ない。
ベラトリクスはアズカバンに行かなかったという理由でセブルスのことも敵視しているが、セブルス・スネイプという男を高く評価できるのは、ヴォルデモート卿をおいて他にいないだろう。少なくともルシウスはそう思っていた。ルシウスでさえ、勉強していなかった生徒がテスト前でだけ頼るクラスメートのような感覚で都合のよい時だけセブルスのことを利用しているという感覚はあったからだ。
セブルスはポッターに対する憎悪を剥き出しにしていた。
今のルシウスは見るに堪えぬほど弱りきっていた。今のルシウスに、己の技量で未知の脅威を退けるだけの力はなかった。ルシウスは己の頼りない杖を見た。
「……うむ……」
今のルシウスの手にあるのは、かつてルシウスが愛用していた杖であった。実際に使うのは20年ぶりだ。
ルシウスが愛用していたマルフォイ家の家宝の杖は、今は闇の帝王の手にあり、ルシウスのもとにはなかった。
ただでさえアズカバンに収監され魔法から離れてなまった腕で、制御の難しい悪霊の火など出せはしない。出したところで自滅するのがオチであった。
「……どうかな、セブルス。今のドラコに、それが使い熟せると思うかね?」
しかしルシウスの口から出たのは、息子を案じる言葉であった。
(……見事だ。見事だ、ルシウス)
セブルスはこの時、柄にもなくルシウスに対して感銘を受けていた。
それも当然であった。ルシウスがドラコを案じる言葉を言ったということは、ルシウスにとってドラコの命がそれだけ重いという事実に他ならない。それは愛の証明であった。
ルシウスの言葉は、セブルスにとっては幾千幾万ものガリオン金貨にも勝る報奨に等しかった。
スリザリン寮の監督者として保護者と接する機会が多かったセブルスは、仮初ですら子を案じる言葉すらかけない親をダース単位で見てきた。スリザリン寮で育ち、純血主義的価値観を形成しながら育ったセブルスから見て、ルシウスは満点の親であった。
この時セブルスの脳裏に、ルシウスの悪事によって命を喪った犠牲者のことなど存在しない。
身勝手で軽薄で、そして真摯な愛に対する感動であった。セブルスの感じる愛は、どこか常人の感じるそれとはズレていた。
「ドラコに悪霊の火や悪魔の護りを使いこなすのは将来的にはともかく、今は現実的ではない。手柄を立てて以来、魔法の訓練を放棄していたようだからな」
「……そうか……君の見立てでも難しいか、セブルス」
ルシウスは瞑目し、らしくない弱音を吐いた。
「……私はナルシッサは勿論、ドラコにも要らぬ苦労をかけた。あれは本来ならばまだ学んでおくべき時だ。卒業後は当主としての経営術も学ばせねばならんし、ダームストラングにでも留学させ、1年……いや、2年は然るべき教育を受けさせるべきなのだが……」
そこまで言ってからルシウスは言い淀んだ。
「ダームストラング?カルカロフは死んだ筈だが」
セブルスの突っ込みに、ルシウスは己の失言を認めた。
「……認めたくはないものだな、己の老いによる記憶の衰えというものは。ホグワーツに通わせたお陰でマルフォイ家は辛うじて命脈を保ったと言えるが……それもこの先の戦いでドラコが命を落とせば意味がない」
「ドラコを前線から下げたいのか、ルシウス」
「……君から閣下に頼んではくれまいか」
彼は腐っても教育機関の理事を務めていた身としては息子の教育には一過言があった。当主権限を行使し強引にでもドラコに就学を命じ、戦線から遠ざけて後継者であるドラコの身の安全を図りたいという本音があった。
セブルスはその頼みに応えたいと思いつつも、ルシウスの頼みは現実的ではないと断じた。
「帝王様はドラコにも襲撃の計画を伝えているのだ。今デスイーターとしての職務を離れたいと申し出れば、あの御方の不興を買うことは避けられんだろう」
「だろうな。ドラコ本人も帝王様を恐れている。素直に帝王様に心酔していればよいものを、全く誰に似たのだか……」
ルシウスの声に苦々しいものが混じった。マルフォイ家を存続させ、デスイーターとして弱者を虐げ、強者の側で権力を行使したいルシウスにとって、息子の死の可能性は割に合わないどころの話ではない。マルフォイ家の存続に関わる事態であった。
「セブルス。友として再三の頼みになり心苦しいが、君の知恵を借りることはできまいか。私はたった今、そのサペレ・アウデとやらの話を聞いた上に実際の魔法を見たわけでもないから対策を立てることすら叶わないしかし、抜け目のない君のことだ。明日の襲撃に際して、有効な策があるのだろう……?」
そしてルシウスは、セブルスに対して頭を下げようとした。セブルスはルシウスのそんな姿を見たくはなかったので、ルシウスの言葉を遮って言った。
「前線に出るときはこれを使え、ルシウス」
「……これは?ポーションのようだが……?」
セブルスが差し出したのは、2つの異なる大きさの小瓶である。
よく中身を観察してみれば、ポーションはそれぞれ種類が違うとルシウスは確信した。少し大きめの小瓶に入った青色の液体は、何もせずとも少し動いている。しかし、もう片方の小瓶はピクリとも動かず、違いを存分に主張していた。
「ルシウスから見て右が火炎耐性薬。左が、ポリジュース薬だ。どちらも1人分しか無い。君も知っての通り、火炎耐性薬は2時間の効果があるが、ポリジュース薬は1時間しか効果はない」
セブルスの差し出した2つの魔法薬は、元々セブルスが自ら試すつもりで常備していたポーションの予備であった。
(……うむ。やはりセブルスと親しくしていた私の目に狂いはなかった。流石は私だ)
ルシウスは内心で自画自賛した。
ダンブルドア殺害の功績によって、セブルスは前線への参加は免じられていた。しかし、デスイーターとしての活動の都合上戦闘は避けられない。セブルスが己の命のためにサペレ・アウデの対策を立てるのは当然のことであった。
「流石はセブルスだ。火炎耐性の魔法薬については意図はわかるが、なぜポリジュース薬なのだ?」
「ルシウス。君はサペレ・アウデとらやがどうやってデスイーターとそうでないものを判別すると考える?」
セブルスの問にルシウスは考え込む素振りをした。
(忠誠心?いやそれはあり得ん。闇の帝王に恐怖しているものは数多いが、本気であの方に心酔し忠誠を誓っているのはベラトリクスと……目の前のセブルスくらいだ……。こういう時は、魔法を開発したという敵の思考になって考えてみるべきだ)
ルシウスは愚かだが、ドラゴの父親なだけはあり変なところで頭は回る。ハリーの視点に立って考えてみれば、自ずと魔法の輪郭は掴めてくる。
(わざわざ貴重な時間を割いてまでデスイーター対策の魔法を開発したのは……墓場で虐めたのが余程癪に障ったと見える。少々恨みを買い過ぎたか)
(……そう確かあの時は。名前は忘れたが、どこかの小僧も犠牲になったのだったな)
ルシウスにとってはファルカス・サダルファスという少年のことなど取るに足らない些事であり、その名前すら覚知らない。
(なるほど、殺しを考慮に入れたとしても友人や、我々以外の人間は殺したくない。)
ルシウスは感覚が麻痺していた。人を脅し権力や魔法で従えることに慣れすぎていて、虐げた人間が本気で噛み付いてくる可能性というものを考慮していなかったのだ。
(ポッターとしては、我々と、それ以外を判別するものは……純血主義思想か?いいや、我々のなかにもポッター家の召使いだった男が紛れている。デスイーターとそうでないものを区別するものがあるとすれば……)
衰えと没落の恐怖に怯えながらも、ルシウスにはまだ正解を導き出せる能力はあった。ここから酒に逃げれば、その能力も容赦なく衰えていくだろうが。
「まさかとは思うが、ダークマークか?それで……ポリ薬でダークマークを消せば、デスイーターという判定を逃れられると言うのか?」
「忌々しいポッターは何度もダークマークを目にしている。ダークマークは帝王から我々へと印された消えぬ証だ。ポッターにとっては、それを証とするのが最も効果的だと思えたのだろう。……実に安直でくだらん発想だ」
セブルスはハリーを貶し認めはしなかった。しかしルシウスの肝は冷えていた。
(う……ううっ……お、恐ろしい……!自らの死が間近にある状況とは……ここまで恐ろしいものなのかっ……)
ルシウスはただでさえいつ闇の帝王から殺されてもおかしくない状況にあるが、それに加えて戦場での死亡率が跳ね上がっているという現状に、かつてないほどの危機感が募っていた。
もしもである。もしもセブルスがこの対策を実践していないのであれば。実際にサペレ・アウデを相手に試したわけではなのならば、この対策は気休めでしか無かった。
そんなルシウスの姿を見て、セブルスは素っ気なく言った。
「確実性に欠ける対策だが、何もしないよりはよほど効果は期待できるだろう」
「魔法具で、ダークマークの刻まれた杖腕を隠すのは?」
「確実ではないな。帝王様の込められた力は、強力だ。しかし、どうしてもやりたいと言うならルシウスの意志を尊重しよう。ポーションを飲んだ状態でも、腕をカバーできる防具の一つや二つはあるだろう?。」
ルシウスは思わず頷いた。
「少々時間をくれるかね、セブルス。この薬の対価として、君の分の防具もハウスエルフに用意させよう。何、マルフォイ家の倉庫には山程の防具があったはずだ」
「……フフ。ダークマークの話をしていると、腕の痛みが濃くなってきた気がするよ。」
「気の所為ではないぞ、ルシウス」
セブルスの顰め面で、ルシウスは杖腕の痛みが幻痛ではなかったと知った。
「……まだ帝王はお怒りなのか。もしや何か、計画に不具合があったというのか……?」
デスイーターあるあるネタの一つが、帝王の怒りや感情の動きに連動して焼印が痛むというものだ。デスイーターの印が、一生逃れられない生贄の烙印のように思えたことは一度や二度ではなかった。
サペレ・アウデに込められた魔力が強い感情に基づいているならば、肉体的な変化を伴わない防御魔法によって隠しても、突破される可能性は大いにあった。
「……ポリジュース薬は精神や魂にまで影響を及ぼすことはないが、少なくとも薬の効果中は肉体は選んだ人間の者になる」
「レベリオなどで暴露される可能性はあるだろう?それに……こちらがレベリオを使えなくなるが」
「乱戦のさなかに、一手余計なレベリオを選択する人間はそう多くはない。敵の罠に関しては適切な魔法具を用いて対応するべきだろう」
「確かにアイテムで代用できるが……ポリジュース薬で変化した肉体では、満足に動くこともままならないと思うが?」
ルシウスの懸念はもっともであった。セブルス自身、サペレ・アウデを直接目にしたわけではないがゆえの苦肉の策なのだ。ポリジュース薬での変異によるデメリットは幾らでもあった。
「体格と性別に差異がなければ動くことはそう苦にはならん。むしろ、若く肉体的に優れた魔法族であれば、本来の自分より機敏に動けることもあるだろう」
ルシウスはそうだな、とセブルスの言葉に頷くと、セブルスの厚意をありがたく頂戴し、友に感謝した。
***
『君にとっては楽なものだろう。君は今までどれだけの人間を殺してきたのだ?』
『最近では目の前で助けられなかった人間だけです』
『助けて!助けてセブルス!!私たちは友達でしょうっ!?』
(友……か)
久方ぶりの親友との会話を終えて、スピナーズ・エンドへと戻り明日の決戦に備えて眠りについたセブルスは、その日の夜に夢を見た。
(……私には……過ぎたものだったな)
その夢は悪夢だった。人を救ったという満足感を、殺したという罪悪感が打ち消す悪夢。
(助けたいだと?ふざけるな。そんな余分な考えがあるから苦しむのだ。そうだろう、ダンブルドア……!)
(他のオーダーの目立ちたがりの愚図共や……!マクゴナガルのような綺麗事だけのおべっか使いには出来もしないことを……!私にしか出来ないことを押し付け。私に黙りあんな無様な姿で逝って……!私に『楽なものだろう』だとっ!?)
今のセブルスは、二十年前のセブルスではない。
ルシウスも含めて、もはやセブルスには、助けてくれる人間はいない。本当に文字通り己一人の力だけで、果たすと誓った使命を果たさねばならない。それは本当の意味での孤独な戦いだった。
耐え難いほどのストレスに見舞われていたセブルスは、この世に居ないダンブルドアに対する怒りで己を保った。誰のせいにもできない己だけの贖罪に挑むには、セブルスの精神はあまりにも強く、そして人としての心は脆すぎた。怒りや憎しみという負の感情を何かにぶつけなければ、セブルスは使命すら忘れてしまいそうだったのである。
***
***
セドリック・ディゴリーは、肩を揺さぶられ即座に意識を取り戻した。
「……ディゴリー。……ディゴリー?わかった?」
「すみません、聞いていませんでした」
セドリックの眼前に、気遣わしげにセドリックの顔を覗き込む女性の姿が見えた。黒のウィッグを被ったオードリーは、睡眠不足でやつれながらもセドリックに対して与えられた任務を復唱した。
「……はぁ。次の対象者は、執行部職員のガエリオ・ジュリスよ。彼はグリフィンドール出身者で、純血主義でも、反純血主義でもない中立派よ。個人的な印象だけど、そこそこ無能なお坊ちゃんだからデスイーターに与している可能性は低いわ」
「なぜですか?デスイーターとしての狙い目は無能な人間から、と以前に仰っていたような……」
「私もちょっと前まではそう思っていたわ。でも、人は考えを変えられる生き物よ。私も視点を変えたわ。敵の立場からすれば、無能は泳がせて生かしておけばいいの。盤面に残り続けて継続的な被害を与えてくる有能は早めに始末しておいたほうが都合がいいでしょう」
オードリーはため息を漏らして、しっかりしなさいというふうにセドリックの肩を叩いた。それは呆れではなくオードリーなりのセドリックに対する気遣いだった。
セドリックは満足に眠ることができなかった。デスイーターとして潜伏していた執行部職員を2名、サペレ・アウデで焼却……殺害したからだ。
殺害したのはキリンガム・カニンガムと、アンジェロ・ヤクスリー。セドリックの脳裏には2人の断末魔が離れず、昨夜は(たった四時間の睡眠時間だというのに!)一睡もできなかった。
このうちキリンガムは執行部でも将来を嘱望されていたエースであり、オードリーの弁を借りるならば『スリザリン出身ではあれど純血主義などとは程遠い、信頼できる魔法使い』であった。
実態は、大して考えずマグル差別に傾倒した挙句にデスイーターになったレイシストであった。
(……人の命は……たとえどんな相手だろうと、重いんだ)
そう。たとえ一切関わりがなく、人として見下げ果てた悪事を重ねた外道な相手であろうと、殺人はセドリックの心を蝕んだ。
任務だった。戦争への参戦は、自ら志願してやったことだった。何よりデスイーターになった以上、大なり小なり殺人や拷問、洗脳に加担した人間であった。
正義感から闇陣営とことを構えることを選んだセドリックは、自らの手を汚す覚悟はあったのだ。
覚悟はしていた。しかしどれだけ『覚悟』した所で、人間を殺したという重みはセドリックの心にじわじわと淀みを与えた。
戦争とは消費行動である。人間の尊厳や魂を傷つけ、損壊することで成り立っている。その役を市民に押しつけないために軍人……オーラーがいて、そのオーラーを指揮するための魔法省があり、今の自分たちがいるのだ。
そう分かっていても、辛いものは辛いのだ。
(……こういう時に適切な言葉をかけてやるのも、私の仕事よね……)
そんなセドリックに向けて、オードリーは同僚として適切と思う言葉を掛けた。
「デスイーターのことを気に病むのはお辞めなさい。彼らはそれをされるだけのことをしてきたのだし……」
「貴方が躊躇わずその手を汚したからこそ、私も今、ここで生きているのよ」
オードリーもセドリックも、書類の上では魔法大臣の補佐を担当する官僚であり、文官に位置する。
しかし実態は、魔法大臣の手であり足であり、時には大臣の盾となって大臣を護るべき護衛だ。リスクはオーラーたちと変わらず、仕事の量と責任はオーラーのそれを上回る。
常に命懸けの環境に身を置いているというプレッシャーの中で同僚に優しく接することができるほど、オードリーにも心の余裕があるわけではない。しかし、自らに代わって手を汚すという任務を与えられ、それを実行してくれたセドリックに対して感謝しないほど薄情ではなかった。
オードリーの言葉はセドリックにはまだ自覚はないが、確実にセドリックの慰めにはなっていた。
オーラー達は基本的には、複数で組み任務に当たる。それは片方が操られたり戦死しても、もう一人が対応することができるという合理的な理由からだ。しかし、それだけが理由ではなかった。
運良く敵を制圧し、そして敵を殺害した時に、その苦痛を共有させ精神の負担を和らげるためでもあった。戦友の存在は、どんな職場のどんな仕事であれ支えになるのだ。これはオードリーやセドリックに対するルーファスなりの配慮であった。
殺人というのは魂に与える不可逆の苦痛であり、傷である。自分一人でその葛藤を受け止めるよりは、共犯関係の仲間がいたほうがよいと、長年仕事をしてきたルーファスも理解はしていたのだ。
「先輩からそう言っていただけるのはありがたいですね」
では僕の仕事を代わっていただけますか……。
喉元から出かけた皮肉を、セドリックはすんでの所で表に出さずにすんだ。その瞬間、セドリックの脳裏に憎い少年の姿が思い浮かんだからだ。
「大丈夫、とは言いませんよ。……こんなこと、慣れるもんじゃない。僕は正直に言えば、慣れたくもありません」
オードリーに向けてセドリックは本音を吐き出すことができた。だからこそ、楽になった。
「でも辞めないのでしょう?」
オードリーは立ち直ったセドリックに対して問い掛けた。セドリックは当然というふうに答えた。
「ええ。ハリーに負けるわけにはいかないんです」
「ハリー?ハリー・ポッター?どうしてそこでポッターが出てくるの?」
奇妙なものを見る目でセドリックを見たオードリーに対して、セドリックは複雑そうに言った。
「……ハリーは僕にとっては2年後輩にあたります。彼は代表選手として競い合うに相応しいライバルでしたし、今思うとあの時が一番楽しかった」
「よくそんなことが言えるわね。ドラゴンに焼かれて死ぬところだったのに?ポッターを殺したかったの?」
オードリーはセドリックをまじまじと凝視した。セドリックは呆けたような顔でオードリーに返事をした。
「その発想はなかったんかいっ!」
びし、とオードリーの軽い張り手がセドリックの頬を叩いた。オードリーも自覚はないが、睡眠不足でテンションがおかしくなっていた。オードリーはセドリックを凝視した。
(ほんと……人は見かけによらないって言うけど……)
ハンサムな黒髪に、疲労をにじませる隈と心労が見える表情でありながらも、官僚としてスーツとネクタイを身に付けたセドリックは、一見するとマグルのSPにも見え、オードリーにとっては可愛い後輩系の犬であった。
そんなセドリックにも、やはり常人の感覚とはズレたところはあった。あったのだとオードリーは改めて思った。ちなみにオードリーは、自らの持つ身内の利益と保身を優先するスリザリン的感覚が大多数の人間にとっての本音だと信じて疑っていなかった。
(男の感覚ってやつなのかしら。でもパーシーは絶対そんなことないって言うわよね……)
(やっぱり魔法族はどこかネジが飛んでないと務まらないんだけど。そう言えばセドリックは優等生だったわね……)
しかし、どれだけ外面を整えても魔法族は魔法族なのだとオードリーは己の認識を改めた。が、さらに魔法族の中でもセドリックは希少種に見えた。生きるか死ぬかという時にエゴを剥き出しにできる男はあまりいなかった。
(よく考えたらディゴリーは人から陰湿な悪意を受けた経験ってそんなにないだろうし。世間からズレることもあるわよね……)
オードリーはセドリックとは短い付き合いではあるが、他者の悪意に鈍感な反面、自己を高めるストイックさを感じていた。だからこそ、セドリックは物凄くプライドの高い男だったのだろう、とオードリーは結論づけた。
セドリックは、何を思ったのかハリーに対する対抗心を語りだしたのである。
「……トライウィザードトーナメントや、神秘部の戦いで、僕は現場にいました。そして現場にいながらも無力でした。もう少し、もう少し力を貸してあげられていたら、何か出来たかもしれないのに。……あのとき、その負担は全てハリーに行ったんです」
思い上がるなよディゴリー、と喉元から出かけた言葉をオードリーは飲み込んだ。
「それはどうかしら?貴方は持てる限りの全力を尽くして生き残った。それは誇れる戦果だと私は思うわよ?気負い過ぎないほうがいいわ」
「……覆してみせますよ、今度こそは。そのために僕は腕を磨いてきたんですから」
セドリックは俄然やる気を出したようだった。先ほどまでのデスイーターの命の重さに思い悩んでいた様子はないが、『戦場ではやる気を出し過ぎて突出し過ぎたオーラーが敵のアバダケダブラに当たって即落ちする』という話をステファンから聞いていたオードリーは気が気ではない。
だってセドリックが死んだら、最悪の場合はオードリーが死ぬ。まだ都合のいい想定をしたとしても、サペレ・アウデでデスイーターを焼かねばならなくなるではないか。
(セドリックは真人間と言うよりは、かなり極端な頭魔法族かぁ……や、そういう子のほうが私的には有難いんだけど……)
オードリーは内心でセドリックを残念なイケメンという評価に修整した。
魔法族には組織に対する忠誠心が薄く、団体行動は苦手な人間が多い。基本的に、魔法で出来ることの範囲が広く、魔法に即時性のあるものが多いから、下準備や裏方というものを軽んじる人間が多いのだ。
それは個人の力で何とかなる範囲ならば大いに結構なのだが、所詮は人間の感覚でしかないとオードリーは思っていた。何事にも限界はあるのだ。そう思って割り切ったほうが精神的には楽だろう、と考えながら、戦友のため、セドリックを諭した。
だいじな時にスタンドプレーに走りかねない危うさをセドリックから感じたからであった。それはなんだかんだ言って自分の命が大事なオードリーにとっては困るのだ。
「人一人の力で出来ることなんて知れてるわよ。貴方が責任を感じることはないわ。だからこそ、魔法省のように組織の力で、皆の力で困難に対抗していくことが必要なのではないかしら?」
「ほら、トレローニの言葉を借りるなら。その時の貴方には覆しようのない運命ってものがあったのよ、きっと」
オードリーは自分にとって都合のよい言葉を口に出した。運命というものがあったほうが、都合の悪いことがあったときに思い悩む時間のロスを減らすことはできるし、心理的に受け入れやすいと思ったからだ。
「まるで運命ってものがあるかのように言いますね」
「あるわ。籠の中の鳥なら嫌っていうほど見てきたから」
実際、オードリーは『運命』の存在を知っていた。屈するにせよ抗うにせよ、それだけで己の人生が決定づけられてしまう二択があるとすれば、それは運命に他ならなかった。そしてほとんどの人は、抗うこともできず流され屈するしかないのだ。
「……嫌な話なんだけどね。学生時代の先輩は、卒業したら結婚することが決まっていたのよ。その子は薬剤師になりたがっていて、実際なれるだけの腕はあったし、ポーション・マスターの資格も取った。でも、親同士が決めた婚約者の方針で、卒業してすぐに結婚せざるを得なかった」
「……それは……スリザリン寮の先輩の話ですか?ハリーもその先輩と同じだと言うんですか?」
セドリックの中でのハリーの評価はとても高いようで、セドリックはオードリーに食って掛かった。
「そうよ。はっきり言えば、自分の力ではどうしょうもないことなんて世間には幾らでもある。そこに個人の努力や才能が意味をなさない事柄もね。いちいち思い悩んで、自分までそれに囚われていたら沼にハマるわよ」
幸か不幸か、セドリックは、その言葉にますます士気が上がったようであった。
「ハリー・ポッターに何かかあるのは確かでしょうけど、それとこれとは別だと思って、貴方は自分の身(と私の命)を守ることを考えなさいな。落ち着いていないと、いざという時にパフォーマンスを発揮できないわ」
「……ですが……」
少々意固地になりながらオードリーと議論しそうだったセドリックは、ピクリ、とドアの方向に身体を向け直した。
「!」
オードリーもセドリックから視線を離してドアに目を向けると、コンコン、とドアをノックする音が響いた。
「ガエリオ・ジュリスです。出頭するよう辞令を受け参りました」
(感知魔法。セドリックは書類仕事だとそこまで役に立たないけど、こういう所では頼りになるわね……)
爽やかな、しかしどこか甘ったるい雰囲気の声がドアから響く。オードリーが営業スタイルを張り付けながら「どうぞ」と入室を促そうとしたとき、脳の隅々まで響き渡る警告音が鳴り響いた。
『総員警戒態勢……!!総員警戒態勢……ッ!!闇陣営の襲撃あり!繰り返す!!闇陣営の襲撃あり!!魔法省職員は警戒マニュアルに従い持ち場につき、迎撃態勢に入れ!繰り返す……!』
「うそ、もう……!?」
魔法のスピーカー越しに鳴り響くのは、ルーファス・スクリンジャー魔法大臣の声だった。
「クソッ!!なんでよりによって今日なんだっ!!婚約指輪を用意していたのにっ!!」
ドア越しに怒号が響いた。オードリーがアロホモラでドアを開くと、セドリックに負けず劣らず背が高く、肩幅も広い男性……ガエリオが地団駄を踏んで悔しがっていた。
「ガエリオ、緊急事態よ、今すぐ持ち場に……」
「ああわかってる!」
ガエリオと面識があったオードリーはフランクに話しかけ、ガエリオも苛立ちながら答える。
が。
「サペレ・アウデ(思い知れ)」
セドリックの杖から放たれた獄炎が、ガエリオ・ジュリスの肉体をつつみ込んだ。
「ぬぁうっ!??なっ……!!!?」
「エクスペリアームス(武装解除)。アクシオ。ステューピファイ」
セドリックはまるで作業のように反応できないガエリオに支給されたウィーズリー・ウィザード・ウィーズ製のプロテゴマントを剥ぐと、部屋までガエリオを引き込み、胸に向けて失神魔法を叩き込んだ。
(はやっ……)
その間僅かコンマ1秒。オードリーが瞬きする間にも、扉はアロホモラによって閉じられていた。
「ちょっと!やるならやるって言いなさいよ!もぉ~……ビックリしたじゃない」
愚痴を零しながらも、オードリーの手も正確に動いていた。記憶処理の専門家であるオードリーならば、失神中どころか起きている相手の記憶を書き換えることは容易い。無言呪文であっても記憶処理に抜かりはなく、ガエリオはいきなり杖を向けられたことすら意識になかった。
「正直に言うと僕には先輩のほうが恐ろしく思えますよ。無言でそこまで完璧に記憶を消去されるんですから」
セドリックとしては自分に対してドン引きしているオードリーのほうが恐ろしかった。熟練者の手つきはいつも滑らかなのだが、オードリーのそれも熟練者だった。他人の記憶を改ざんすることに手慣れすぎているというのは傍から見れば恐ろしいことこの上ない。
(もしかして僕の記憶も知らないうちに抜かれていないかな。大丈夫かな?)
セドリックの心に一瞬不安がよぎるが、それはないと思い直した。これでもムーディの訓練を受けて、1日の終わりには記憶のチェックをしているのだ。エラーがあればノイズが走るが、今のところセドリックにその兆候はない。
(何にせよ、こいつ(この人)が敵でなくて良かった……!!)
この瞬間、オードリーとセドリックの思考は一致していたとか、いなかったとか。
「私は重要なメモリには手を加えてないわ。単にアクセスできないようにロックをかけただけ。セドリック、ガエリオを立たせて」
「ええ。リベナイト(蘇生せよ)」
セドリックはガエリオにマントを着せ、ドアを開けて立たせると、すぐさまガエリオを蘇生させた。
「くっ……俺は執行部に向かう!悪いが用件があるなら後にしてくれ!!」
「はい!生き残りましょう、ガエリオ主査!……エレベータは使わないほうがいいですよ、きっと混乱してパニック状態です」
セドリックは先ほどまでの出来事が何もなかったかのようにガエリオに激励の言葉をかけ、高速移動術の『敏速』を発動して階段へと向かおうとしたが、オードリーに止められた。
「セドリック!ガエリオ!通常階段もダメよ!きっと局員で溢れてる!私を背負って非常用階段に行きなさい!アンタの速度にはついていけないから!」
「り、了解です!」
「お、面白い絵面だな……」
セドリックは背中にオードリーの重みを感じながら移動することになった。ガエリオはシュールな光景に眉をひくつかせながらも、パニックを起こしている魔法省職員の波をかき分けて非常用階段へと向かった。
「テレポートできりゃぁ一発なんだがな……」
「防犯の都合上それは不可能です、ガエリオ主査」
律儀に返すセドリックに対して、言ってみただけさ、とガエリオは返した。
「にしてもセドリック……お前さん大したもんだな。人一人背負ってるくせに俺と速度が変わらんとは……重さを感じないのか?」
セドリックは背後に殺気を感じながら慎重に言葉を選んだ。女性に対して重いという言葉は禁句であろう。
「レヴィオーサ(浮遊せよ)で重さを感じませんから……」
「よーし、生き残ったらガエリオの奢りで乾杯ね!」
「勤続年数も階級もオードリーのほうが上なのにか!?見た目によらずえげつないな!」
「女性に対する口の利きかたがなってない無礼者には当然の対応よね?マクギリスならもっと紳士的に対応してくれたわよ」
非常用階段でガエリオは上に、セドリックとオードリーは下に降りようとした。魔法省局員の中でも、彼らは正しく公のために奉仕する公務員のあり方を体現していたと言えよう。
その瞬間、魔法省中に、ヴォルデモートの低く、こちらを嘲るような声が響き渡った。魔法省に降伏を促す声は、どこまでも冷たく、そして抗いがたい誘惑を含んでいた。
どくん、と心臓が高鳴った。それは高揚感ではなく、冷たい恐怖心をセドリック達に与えてきた。抗った先に待っているのは、確実な死という確信がセドリックにはあった。
セドリックは階段を降りようとしたとき、常にはない重圧を感じていた。背負ったオードリーが、まるで極寒の雪山に取り残された遭難者のように震え、セドリックに恐怖を訴えてくるのだ。
この先に進めば何か自分の想像を超えた事態に遭遇してしまうという確信と、かつてないほどの生命の危機を全身の細胞が訴えていた。死という実感が自分の喉元に迫っているという恐怖があった。
(……それでも……!前に進むんだ……!自分で決めたことなんだから……!)
セドリックはその重さに気付いていてなお前に進んだ。人はそれを正義と呼ぶだろう。ハッフルパフ出身者に恥じない忠誠心、グリフィンドール生にも劣らぬ勇気と称えるだろう。しかしこのときセドリックの心中にあったのは、恐怖心だけであった。まるで自分が、まだホグワーツに通う前の幼い子供のように感じていた。
『臆するな!魔法省の誇るオーラー達よ!お前たちこそがこの世界を守る盾であり、邪悪なカスどもを屠る矛であるっ!!レイシストどもに一片の慈悲も示すことはないっ!!』
戦闘員を鼓舞するルーファスの声が魔法省中に響いていた。ルーファスがあらゆる語彙を尽くして純血主義を罵倒していた。その声を聞いたとき、オードリーは掠れるような声でパーシー、と呟いた。
(やっぱり2人は……そうか、そうなるとこれはちょっと不味いかなぁ)
セドリックは一瞬、背負っているのをバレたらパーシーに何を言われるだろうと考えた。フレッドもそうだったが、ウィーズリー家は友達にすると気安いが、一度拗ねるととても面倒くさいのである。とはいえ、この状況下でオードリーを降ろすという選択肢もセドリックにはなかった。
一瞬恐怖を忘れることが出来たセドリックとは異なり、オードリーは少し声を震わせながらも、努めて冷静に言った。
「……どうやら大臣は……自分にヘイトを集めるという策に出たようね」
「……この場合の対応はどうすべきですか、オードリー?」
「変わらず直進よ!対応マニュアルに従い、大臣の待つ執務室まで!」
「わかりました。大丈夫ですよ、大臣もパーシーも……ついでにステファンも、僕が助けます。絶対に死なせません」
「……今度こそ、運命に抗ってみせますよ」
(うわ……うわ~……)
オードリーはこの瞬間、世間がハリー・ポッターやシリウス・ブラックらを英雄と持て囃していた意味を知った。恐怖に抗うという偉業を成した者を、人は英雄と呼ぶのだ。
「ええ。……一人ではなく、集団の力で。魔法省の総力でね」
それでも、自分の信じた魔法省というシステムの価値をオードリーは信じていた。セドリックを宥める意味でも、自分を鼓舞するためにも、オードリーは減らず口を返す。
進む先が天国か地獄か。それを決めるのは今、まさにこの瞬間であった。セドリックたちは恐怖への進撃を決めた。
魔法省の威信と英国魔法界の未来を賭けた戦いは、今、最終局面を迎えようとしていた。
君は、生き延びることができるか。