ハリーは長いようでいて短い夏季休暇を終えてシリウスにしばしの別れを告げ、9と4分の3番線からホグワーツ特急に乗り込んでいた。夏季休暇を終えたとたんに夏の熱気は少しだけ陰りを見せ、今日は分厚い雲と季節外れの霧が陽光を遮っていた。
特急の窓からロンが手を振っているのを見て、ハリーも手を振り返す。ロンの隣には、ハーマイオニーの栗色のぼさぼさ頭の姿もあった。
ハリーが急いで特急に乗り込みロンのコンパートメントへと入ると、ロンとハーマイオニーの正面の座席で白髪交じりのくたびれた男性がすやすやと寝息を立てて眠り込んでいた。
(……新しいDADAの先生か、それとも魔法生物飼育学の先生かな?)
ハリーはおそらくは前者ではないだろうか、と何となく思った。くたびれた顔の男性は、マグルの世界にも良くいるつかれた大人の顔をしている。ハリーは魔法生物飼育学の先生が、実に魔法使いらしい非常識さを持った存在だと確信していた。着古しているとはいえマグルと変わらないファッションセンスの持ち主であれば、魔法生物飼育学の担当ではないはずだった。
ハリーは眠りこける男性から視線をはずすと、ロンとハーマイオニーに言った。
「ハロー。二人とももう来てたんだね。……この子がハーマイオニーの飼い猫だね?はじめましてクルックシャンクス。……アスクレピオスも挨拶をして」
『よぉ。俺様はハリーのペットをやっているアスクレピオスだ。お前さんも突然ヒトが増えてストレスだろうが我慢してやってくれ』
ハリーのペットのクスシヘビは冗談めかしてそう言ったが、驚いたようにハリーを見た。
『おいおいハリー。こいつバイリンガルだ。俺様の言葉を理解してやがる!!』
ハーマイオニーの膝には、彼女が飼い始めた猫が載っていた。確かに、ハリーにも、クルックシャンクスはアスクレピオスの言葉に反応して微かに左手をあげ、さらににゃあとないたように見えた。
『本当に!?それは凄い!……やぁクルックシャンクス。きみは本当に運がいいよ。僕の知る限り一番優秀な魔女が君の飼い主なんだ。僕は彼女の友達だけど、これから仲良くして貰えると嬉しいな。……アスクレピオスを食べないでね?』
クルックシャンクスは小さく、にゃあとだけ鳴いた。ハリーはロンとハーマイオニーに視線を戻した。ロンとハーマイオニーは、蛇語を話すハリーについていけずに目を白黒とさせていた。
「ファルカスたちは?」
「……え?あ、そうね。ファルカスたちなら間に合ったみたいよ。ここから見えたもの。……でも、この場所が分かるかしら?」
ハーマイオニーが窓の外を指差した。ハリーは手を振ってみたが、ファルカスはハリーの様子に気付いた素振りもなく、前方の車両へと乗り込んでいく。
「あっこっちに気付いてないな。呼びに行ってくるよ」
ハリーはロンたちとは反対側の席にトランクを置くと、ファルカスを呼ぶためにコンパートメントを移動した。ファルカスを呼ぶ途中で出くわしたコリンをあしらい、一人、誰もいないコンパートメントでザ·クィブラーを呼んでいたルナをコンパートメントに誘ってファルカスを連れてくると、ザビニとアズラエルもコンパートメントに合流していた。アズラエルはチラチラと眠っている大人の男性に視線を向けていたが、ハリーたちが合流すると笑顔でファルカスと握手した。
コンパートメントに合流したハリーたちは、夏休みの間にロンが目撃したエジプトの神秘についての話題で盛り上がった。ロンによると、ピラミッドそのものに古代の強力な魔法がかけられていて、木乃伊やスフィンクスといった神秘や、ピラミッドの隠し部屋に行った時のことを雄弁に語ってくれた。
「ピラミッドの中の壁画がパズルになっててさ。壁画を揃えてパズルを解かないと次の部屋に進めないんだ。皆も行ったら面白かったと思うぜ?」
「マジかよ、大冒険じゃん。お前の兄貴はそれを保護してんの?」
「ああ。ビルは最近配置されたばっかりだって言ってたけどめちゃくちゃ案内が上手くてさ。ジニーなんて最初は怖がってたのに、終わった頃にはもう一回入りたいって夢中になってたくらいだぜ」
「一年生の時の罠を思い出すね」
ハリーは魔法界の罠が悪意だけではなく、時として魔法使いの知恵を試すものであることが嬉しかった。ピラミッドの建設を指示した王も、自分の権威を知らしめたかっただけで無駄に悪意があったわけではないらしい。ただ訪れた魔法使いが自分の偉業を目撃するに足りうる人間であるかどうか、それを確認したかっただけのようだ。
ハーマイオニーはロンが持っていたパズルのスケッチを確認しながら、ピラミッドの試練を攻略することにしたようだった。そんなハーマイオニーにかわって、ハリーたちはロンを質問責めにした。
「木乃伊って……死体……だよね。どうやって止めたの?というか、どうやって動いてるの?もしかして闇の魔術だったりしない?」
「スフィンクス!スフィンクスについて教えて!」
ファルカスもロンの話に興味津々になり、興味がなさそうにクロスワードパズルを解いていたルナは珍しい魔法生物の話を聞きたがった。
「あー、まずファルカスの質問からな。木乃伊はピラミッド自体にかけられた契約魔法で動いてるらしい。もちろん、倫理的にクッソ問題があるから闇の魔術扱いさ。もちろんエジプトでも普通の魔法使いがやったら違法だし、イギリスだってアズカバン行きは確定さ。ディメンターが飛んでくる」
「やっぱり闇の魔術か……じゃあ、ピラミッドの管理者の命令には従うんだね」
「ああ。人を襲ったりはしなくて、ちょっと脅かすだけになってるんだ。凄かったぜ」
「ろくでもねぇなぁ、死体を動かすなんて」
ザビニが嫌悪感を示すと、ロンも同調した。ファルカスはなにも言わなかったが、罰が悪そうにハリーに視線を向けた。ハリーは何食わぬ顔でカボチャジュースをあおった。
「昔の魔法使いがやることだからなぁ……」
「過去と現在とでは価値観が違いますからね。そもそも闇の魔術として指定されてすらいなかったでしょう」
ロンが渋々と言い、アズラエルは当然だという風にロンを支持した。二人とも、木乃伊は倫理的に問題があると理解している。真っ当な倫理観があれば、生きた死体を動かすなんて冒涜的なことを肯定できるわけもないのだ。しかし、時代が違えば価値観も異なるという歴史の原則を無視することはできなかった。何せピラミッドが作られたのは十年前や二十年前ですらないのだ。木乃伊の遺族ももはや生きてはいない。だから、木乃伊の存在も黙殺されているのである。
「……良いことではないけれど、疫病を発生させず、かつ死体を効率良く埋葬する手段として用いていたという記述が『エジプトにおける魔術』のなかにあったわ」
ハーマイオニーは歴史上の事実を口にだした。
「歴史か。確かに昔はそういう魔法もよしとされたのかもしれないけど、今は違う。少しずつ少しずつ変わっていって、その積み重ねで今があるのかもね」
「そうですね。……けれど、ピラミッドの雄大さを僕も見てみたかったですよ」
「今度旅行に行けば良いじゃないか」
ロンはそう言ったが、アズラエルは肩をすくめた。
「次の休みには予定がびっしりと入ってますし、夏季休暇にはワールドカップがありますからねえ。何時行けるようになるか見当もつきません」
「じゃあ再来年……は、OWLがあるんだったな」
「誠に遺憾ながら、旅行している暇はなさそうなんですよねぇ……」
「まぁまぁ、これをあげるから元気出せ。けっこうレアだぞ?」
ロンが肩を落とすアズラエルを励まそうと蛙チョコレートの『変わり者のヴェンデリン』のカードを投げている間、ハリーは木乃伊について考えていた。
(木乃伊の制御は……間違いなく、ファルカスのところで見たインフェリの魔法だろう。……あれはほとんどの魔法が効かないっていう欠点があったはず……)
魔法使いの観光客が歴史を学ぶために、動く木乃伊は今日もピラミッドの中で動き続けるだろう。ホグワーツの中で存在する魂なきゴーストたちのように。
しかし、木乃伊がピラミッドの中から外に出たとしたらどうだろうか、とハリーの中で懸念が大きくなっていった。
「ねぇ、ロン。木乃伊についてなんだけど……」
グリンゴッツは観光資源として木乃伊を使い、ピラミッドを訪れた魔法使いの観光客を驚かせ楽しませているらしい。ハリーはインフェリの知識から、木乃伊もまた制御できない闇の怪物になるのではないかと危惧した。
「危険じゃないの、木乃伊みたいな動く死体をピラミッドに残しておくなんて。管理者の命令は聞くと言っても、何かの手違いで制御できなくなったら大問題だよ?」
ハリーの懸念には根拠があった。
インフェリを操る魔法の厄介なところは、一度魔法をかけたあと、使用者がその場を離れてもインフェリは動き、人間を襲うというところにある。使い手、つまり管理者の制御が出来ない状況で、外部に木乃伊が解き放たれたとしたら人的被害は避けられないだろう。
ハリーが闇の魔術の知識を見せず、懸念だけを言うと、ロンは大丈夫だと肩をすくめた。
「木乃伊はホグワーツのゴーストと同じで、ピラミッドの外には出れない契約になってるらしいから安全面では問題ないぜ」
ハリーの懸念は杞憂だった。どうやら木乃伊はハリーが知っているインフェリよりもさらに高度で複雑な理論によって制御されているらしい。ロンはいい加減に木乃伊の話題から離れたかったようで、別の話題を切り出した。
「……で、ピラミッド観光のあとはエジプトを見て回ったんだけどさ。パーシーのやつ、魔法が使えるからってビルに魔法を教わろうとしてこてんぱんにされてたんだ」
「パーシーさんが?」
ハリーは少なからず驚いた。パーシー·ウィーズリーはホグワーツの主席で、学生の中では最強と言ってもよい腕を持っていたからだ。その腕前は大人とだってそう変わりはしないだろう。
「二人とも瞬間移動しながら戦いまくってて、途中から何をやってるのかまるで分かんなかったけどな」
「やっぱりすげえんだな、グリンゴッツ勤務のエリートはよ」
ザビニがそう言うと、ロンは少し肩をすくめて頷いた。
「あの戦いを見てたら、ちょっと柄にもなく魔法が使いたくなったっていうか。もっと勉強したくなった。いや俺がパーシーみたいに出来るとは思わないけどさ?決闘クラブで頑張れば、もしかしたらちょっとパーシーをびびらせる位にはなれるかもしれないじゃん」
「ロンが……?」
「勉強?」
ハリーたちは、普段ラックスパートに乗り移られてぼうっとしているルナを含めて驚いた目でまじまじとロンを見た。勉強ばかりのハーマイオニーやハリーを揶揄することもあるロンが、自分から勉強したいと言い出すのは珍しいことだった。
「君、ロンの偽物ですね!レベリオ(化けの皮よ剥がれろ)!!」
「ちょっと俺の扱いが酷くねえ!?」
アズラエルはロンに杖を向けたが、何も起こらない。ロンはどうやらエジプトで入れ替わった偽物ではなく本物のようだった。
「ロン、夏休みの間にちゃんと勉強はしたのね?とてもいい傾向よ!」
「それなんだけどやれてない科目があってさぁ……」
ロンは不安そうにハリーたちを見回して、恐る恐る言った。
「……皆、魔法生物飼育学の勉強って大丈夫だったのか?俺はフレッドとジョージのお下がりの教科書があったから良かったけど……」
「僕はシリウスのお古がシリウスの家にあったから……」
「父さんのお古が……」
「いいよなあコネがある奴らは。俺とハーマイオニーは図書館で予習だぜ。……早くも糞教師の香りがするよな、飼育学」
「あー。皆それぞれなんとかなったんだな。なら良かった」
「へえ、ファルカスが言ってたモンスターブックですか。飼育学を受講しなくて良かったと心の底から思います」
魔法生物飼育学は、今年から新任の教師に交代する。ケトルバーン教授が高齢を理由に引退を申し出たからだ。ハリーたちは後任の教授が誰であるのか知らないが、なかなか刺激的な人物であるに違いないという見解で一致していた。
「本当にアズラエルはそういうところちゃっかりしてるね。僕はモンスターブックが教科書を食べるんじゃないかってヒヤヒヤしながらゴミ箱に棄てたんだよ?」
ハリーが恨みがましくアズラエルにジョークを飛ばすと、アズラエルは勝利の笑みを浮かべた。ハリーたちの中では唯一アズラエルだけが、魔法生物飼育学を受講していなかった。
「俺は本を庭に放ったよ。ただでさえ貴重なお古の教科書が食われかねなかったからな。モンスターブックが庭小人たちを食べ尽くしてくれたら庭の掃除も楽が出来るんだけどな」
(……本を愚弄するのは良くないのだけれど……モンスターブックばかりは仕方ないわ。闇のアイテムかと思ったもの……)
ハーマイオニーはモンスターブックについては擁護できなかったものの、教師に愚痴を聞かれるのは不味いと思い咳払いをした。
「皆、ここに先生と思わしき人がいるということを忘れないでほしいわね」
「このおっさんは飼育学の担当じゃあ無さそうだぜ。あんなモンスターブックを買わせるやつには見えねえよ」
「人を外見で判断しないで頂戴、ザビニ」
「へーへー。白髪のおっさんがロックハートでないことを祈るぜ」
「……もう」
ハーマイオニーはボケを続ける男子たちを止めようかどうか迷ったが、すんでのところで思いとどまった。
魔法生物飼育学の教科書として指定されたモンスターブックは、確かに魔法生物たちの飼育方法が記載されているのだろう。魔法省の認可も降りた本として、一般的な書店での取り扱いも許可されている。それは生きた怪物のような本であろうが、大人の魔法使いが杖を振ればどうとでも制御できるからだ。
しかし、夏季休暇中で魔法の使用を禁じられているホグワーツ生に指定する教科書としては落第点だった。不用意に起動させてしまったモンスターブックは蜘蛛と蟹を合わせたように動き回ってはところ構わず噛みつきを繰り返す厄介な代物で、本を止めるためにハーマイオニーは力一杯箒を叩きつけて気絶させた。結局ハーマイオニーですら、そのあともモンスターブックに書かれている内容を読み解くことはできなかったのである。
そのあとも、ハリーやファルカスはモンスターブックネタを擦りながら冗談に興じた。誰が一番うまくモンスターブックを撃退できたかという話で、ペットのドッグフードを食べさせたら大人しくなったと
「その手があったか!!」「いやいやそれは無いでしょ……」
ロンとハリーが涙目になりながら爆笑していたとき、ハリーたちのコンパートメントに人が入ってきた。ハリーは足音だけで誰なのかわかった。
プラチナブロンドの少年と、その少年に付き従うように動く二人の少年だ。ハリーはスリザリンで過ごすうちに、あることに気が付いていた。はじめて三人と会ったとき、ハリーはプラチナブロンドの少年を守るために二人の少年が付き従っているのだと思っていた。事実そういう側面はあっただろう。しかし実際のところ、大柄な二人の少年はあまり勉強が得意ではなかった。プラチナブロンドの少年は、面倒見良く二人の大柄な少年たちに勉強を教えているのだ。
「やぁごきげんようハリー。今日は生憎の天気だが、君は相変わらずのようだね?何時になったらウィーズリーや……いや、ろくでもない家の連中と手を切るんだい?」
ドラコ·マルフォイは夏季休暇の間に少しだけ背を伸ばし、オールバックだった髪型をアズラエルと同じマッシュセンターパートに変えていた。ハリーは何事もなければドラコの髪型を褒めただろう。ドラコが友人たちを愚弄しなければ。
「……あ?」
「……お前」
「やめろ二人とも」
平穏だったコンパートメントは一気に殺気立った。真っ先に反応したのはザビニで、不当に家庭を貶められて貧しい生活を強いられていたファルカスも嫌悪感を隠さずにドラコたちを見た。ハリーは手で二人を制しドラコとはなそうとしたが、その前にがたりと大きな音がした。
「……俺の家のことをああだこうだと揶揄するのは、いい加減にしてくれねえかな。正直、うんざりしてるんだよ」
ロンだ。
(ええ-、どうしよう……)
ロンの斜め前に座っていたルナは、立ち上がったロンを止めるべきか悩んだ挙げ句、手にしていたザ·クィブラーを読むふりをして嵐が過ぎるのを待った。ハーマイオニーはロンを止め損なった。
ロンは耳まで真っ赤になりながらドラコに詰め寄ろうとして、クラブとゴイルに阻まれた。
このやり取りは、ザビニとファルカスにとっては追い風だった。ハリーはロンを援護するために立ち上がろうとする二人をアズラエルと共に止めなければならなかった。ドラコの言動次第では、クラブとゴイル、ファルカスとザビニまで混じった大乱闘に発展しかねない。ハリーは言葉でマルフォイを止めようとした。
「ドラコ。君の言い分は良くわかったよ。でもね、少しは言っていいことと悪いことの区別をつけてくれないかな!?」
相手が反論できないような事実を述べて、それを理由に相手を必要以上に責め立てる。ハリーとロンたちやザビニたちとの仲を割くためにか、あるいはスリザリン的ではないハリーの交遊関係を理由にしてか、とにかくハリーは純血派閥からの受けが悪い。ハリー自身がそれを流せてもハリーの友人がそれを無視できるかは別問題だし、逆も然りだった。ハリーもドラコに対して怒っていた。ロンやザビニにとって、今のドラコはハリーにとってのマージ叔母さんのようなものだ。
「区別と言われてもねえ、ポッター。やっぱり僕にはこいつらと付き合うメリットが見出だせないよ。何せザビニの家は-」
一瞬、ザビニは力強い目でドラコを睨み付けた。ザビニがここまで怒りを見せたことはなかった。
「……いや。どうでもいいな。ウィーズリーの家はろくなものじゃない。新聞によれば、君の父親は宝くじに当選したらしいじゃないか、ウィーズリー。それなのに君は新品の杖もローブも持っていないんだろう?」
ザビニの本気の剣幕に、はじめてドラコは自分の発言の迂闊さに思い至ったようで、ファルカスとロンを交互に見比べると、矛先をロンの実家へと変えた。クラブとゴイルはゲラゲラと嘲るようにロンを笑った。
「そんな連中と付き合うなんてー」
「ロン、静かに」
ロンが怒りのままにドラコたちになにか言おうとする前に、ハーマイオニーはロンを止めた。そんなハーマイオニーを見て、ロンは仰天したような顔をする。ぱくぱくと抗議するようにハーマイオニーを見た。
動いたのはハリーだった。
「ドラコ、ビンセント、グレゴリー。ここには教師が眠っているんだ。揉め事を起こさないでくれ」
「教師だって?こんな……」
ドラコは立ち上がったロンの陰に隠れていびきをかいていた白髪の男性に気がつき、彼がローブではなくカッターシャツにネクタイという夏場のマグル的な服装をしていることや、その衣服が古く、あまり男性が裕福ではなさそうなことに不快げに眉をひそめた。
しかし、ドラコもさすがに教師の眼前で罵倒するほど馬鹿ではなかった。ドラコは小さく舌打ちをして踵を返そうとした。
その時、けたたましい轟音がハリーのコンパートメントに鳴り響いた。
ハリーは突然、全身が金縛りにあったような気がした。一年生のときクィレルと対決したときの恐怖より冷たく、二年生でトム·リドルと対峙したときの怒りとも違う。もっと恐ろしいなにかが、ハリーの全身を包み込んだ。
そのまま、ハリーは意識を手放した。
***
笑っている男性の顔が見える。手には玩具を持っていて、自分に向けて振りながら、楽しませようと懸命に努力していた。
自分を抱き上げながら歌を歌っている女性の顔も見える。ハリーは二人の顔をよく知っていた。
ハリーの全身は、冷たい氷で覆われてしまったかのように動かない。ハリーは痺れるような感覚のまま、二人のカップルが自分の両親であることに気がついた。ハリーが今居るのは、ポッター家の寝室なのだろう。
玄関のチャイムが鳴る。男性が手に持っていた玩具を置いて、シリウスか、と呟いて出迎えに行こうとする。
その手には、杖すら持っていなかった。男性は、安心しきっていた。そしてそれは女性も同様だ。幸福に包まれた時間がこの後も続くことを疑っていない。
(やめろ……やめて……)
ハリーは胸がどうしようもなくざわつくのを感じた。ハリーの全身は氷に覆われたまま動かない。これから起こることがハリーには分かっている。なぜだか分からないが、ハリーには確信があった。
だが。ハリーは動くこともできない。ただ、見ていることしか。
やがて、男性が、ハリーの実の父親のジェームズが絶叫する。ヴォルデモートが来た、時間を稼ぐから逃げろと叫ぶ声。狼狽えるハリーの母親、リリーは動けない。
(僕が居るせいだ)
とハリーは思った。ハリーが居なければ、杖がなくてもジェームズとリリーは逃げられた。瞬間移動すれば逃げられるだけの時間の猶予はあった。
だがジェームズは妻子を守るために、そしてリリーは幼いハリーの命を守るために、ハリーの命に危険が及ぶテレポートを使用できなかった。少なくとも、この時、過去を思い出した13歳のハリーはそう思った。
ハリーの心は、深い悲しみと絶望に覆われていった。
……やがて、ハリーの居る寝室まで分かるほどに、膨大な魔力を秘めた緑色の光がほとばしる。光が消えると同時に、何かが倒れる音。
そして、死が訪れた。
「退くのだ小娘。私は貴様には用はない。用があるのはそこの子供だけだ。差し出せば見逃してやろう」
蛇のような、骸骨のような存在。漆黒のローブに身を包んだ暴力の化身がハリーの命を要求している。
「お願いやめて、どうかハリーだけは……この子だけはどうか…私の命ならいくらでも…」
リリーは何もかもをかなぐり捨ててハリーだけを守ろうとした。だが。
「退くのだ!」
死の化身は、ハリーの命を狙っていた。ハリーは頼むから退いてくれと願った。あるいは、父親の敵である禿頭に、今すぐに死んでくれと。
「やめて!」
リリーは逃げなかった。ハリーとヴォルデモートの前に立ち塞がり。
「アバダケダブラ(息絶えろ)」
……緑色の閃光が、リリーに突き刺さった。
***
「ハリー、ハリー!!、しっかりしろ!大丈夫か、意識はあるか!?俺が誰か分かるか?!」
「……う、あ?ザ、ザビニ?」
ハリーの意識は、父親と母親が死亡した瞬間からホグワーツ特急の中へと舞い戻った。ハリーの目の前には、ブレーズ·ザビニの顔があった。スニーコスコープは音もたてず、ハリーの懐に収まっている。ザビニはハリーが意識を取り戻したことで、ふうと息を吐いた。
「すまないが、そこを退いてくれないかザビニくん」
大人の男性の、落ち着いた声がした。ハリーが見上げると、男性は杖から銀色の光を放出し続けていた。ハリーはその光から微かな暖かみと、それ以上に清浄な光のような魔力を感じた。闇の魔術を使ったときの、どす黒く邪悪な魔力とは、まるで正反対だった。
白髪の男性はしゃがみこんでハリーと目線を合わせた。ハリーが意識して男性と目を合わせると、男性は少しだけ微笑んだ。
「仕方のないことだ」
男性はハリーたちに言い聞かせるように言った。
「あれはディメンター。アズカバンの看守で、人の幸福な記憶を吸収し、最悪の記憶を想起させる。辛い経験をした人間が何の備えもなく遭遇してしまえば、誰であってもそうなる」
「……はい、先生」
ハリーの心に抑えようのない羞恥心が沸き上がってきたが、ハリーは頷いた。意識を喪ったのはハリーだけだ。ルナやハーマイオニーは蒼い顔で身を寄せ合っていて、ザビニも非常に顔色が悪い。ロンですら普段の陽気さをどこかに手放している。ハリーはコンパートメントにドラコたち三人がいないことにすら気がつかないほど疲弊しきっていた。
「ポッターくん。チョコレートだ。これを食べなさい。……皆もだ。甘いものは、ディメンターと遭遇した後にとても有効だ」
「……頂きます。ありがとうございます、先生」
「ルーピンだ。私は車掌に今回の一件を報告しなければならない。……もしも体調が悪くなったならば、私か監督生に報告するように。いいね?」
「はい、ルーピン先生」
ハリーたちは素直に、白髪の男性の言葉に従った。味のしないチョコレートを胃の中に流し込みながら、ハリーはロンたちから、ディメンターがコンパートメントに入り込んでハリーが意識を失い、白髪の男性が「エクスペクトパトローナム(パトロナス召喚)」という魔法でディメンターを追い払ったという一部始終を聞いた。
「そうか、ディメンターか。……僕だけ意識をなくすなんて恥ずかしいな」
ハリーはなぜ意識を失ったのかを友人たちにも明かさなかったし、ザビニたちも無理に聞こうとはしなかった。白髪の男性から貰ったチョコレートを
「気にするなよ。……ディメンターが来たとき、俺たち全員怖くて何にも出来なかったんだから」
ロンのその言葉は慰めにはならなかった。ハリーだけが意識を失ったという事実はすぐに人から人へと広まるだろう。ハリーの三年目は波乱の幕開けとなったのである。
「けれど、どうしてディメンターが入り込んできたのかしら……?」
ハーマイオニーが口にだした疑問に答えられる人間はいなかった。ハリーたちは揺れる特急のなかで、不安な思いを抱えながら身を寄せ合って過ごした。
ルーピン先生というDADAの良心
……なお