黒い床、高い天井。ライトに照らされて浮かび上がるような岩と、遠くに見える骨格標本。涼しい空気は、上着がないとちょっと肌寒いぐらいだ。
静かなことは僕にとっては悪いことではないけど、久しぶりに来た博物館は心配になってくるほど空いていた。太陽系の誕生を足早に抜け、月ができて海ができて、っと、ここからゆっくりと見ていこう。地学は高校ではやらないので。
古生代のコーナーから回っていく。これは海外の博物館のもののレプリカ。あれは少し離れた国内のやつ。こっちは本物かな。
のんびりと僕が解説文を読みながら歩いていると、順路の先に人影があった。高校生男子として平均的な身長の僕より少し背が低い、スーツの人物。シルエットからすると女性。ということはパンツスーツってやつか。あれ、今日は休日だよな。それなのにスーツとは仕事だろうか。博物館で働いている人かもしれない。
変に思われないよう気をつけながら、展示品である潰されたシダ植物の化石の方を向くついでに隣の人を見る。三十は超えていないだろう若い横顔が、シルル紀に陸に上がってきた植物を真剣に見ている。なんとなく、この人には見覚えがある。視線が泳いでそのお姉さんの方に向くと、その人も僕の方を見た。
「……えーと、どうも」
すこし気まずそうに彼女が会釈をする。やっぱり、僕はこの人を知っている。誰だっけ。このぐらいの年齢の人の知り合いなんて高校か塾の先生ぐらいしかいないけど。
「あ、
守森
「私を知ってるってことは……あ、
鹿染
「……お久しぶりです。二年ぶりですか?」
僕が二年生になる時には、守森先生はいなくなっていた。退職したという話は聞いていたけど、その後については知らなかったのでこういう形で再会するとは正直思っていなかった。
「一年ちょっとだね。元気?」
最後の授業のときとあまり変わらない、軽い口調。
「受験生ですからね、試験勉強で忙しいですよ」
「そう。今日は息抜きに?」
「そんなところです。先生は?」
僕がそう言うと、守森先生は一瞬戸惑ったようだった。
「ああ、私か。ごめんなさい、最近そう呼ばれていないから」
少しだけ、知らない先生を見れた。いやそれなりに月日が経っているから性格が変わるなんてこともあるだろう。守森先生は学校では「正しい」教員として振る舞おうとしていて、そのせいで時々無理をしていたんじゃないかと考察していた友人の話を思い出す。
「……守森さん、って呼んだほうが、いいでしょうか?」
「構わないよ。呼びにくいでしょ?」
実際、守森先生を先生以外の呼び方で呼ぶのはちょっと引っかかる。
「あと、私がここに来ているのは仕事の一環……でいいのかな」
そう言って先生は自分の上着のポケットを叩き、目当てのものがないらしいことを確認したのか手提げ鞄の中を漁る。この化学構造式と矢印の描かれた鞄、僕が一年生の頃から使っていなかったっけ。今なら何が書かれているかはだいたいわかる。コバルトを中心とした錯体がどうやって作られるかの流れだ。
「あ、これ名刺。自己紹介がわりにどうぞ」
両手で差し出される木製の名刺入れの上の小さな紙。守森先生の名前と電話番号とメールアドレス、そして「
「ありがとうございます……出版社、ですか?」
「そう。高校を辞めて、今はここで本を作っている。今度出す本の作者であるここの研究員の人とこの後会う約束をしてて、その時間まで見学しているわけ」
「……そういうのも、あるんですね」
僕がこういうふうに仕事をするとしたら、大学に行って、そしてそのまま卒業するとして、五年後。
「先生はここらへん、詳しいんですか?」
「鹿染さんと比べるとどうだろう。あ、理系クラスになった?」
「はい、選択は生物です」
「好きだったものね」
「もっと好きになったのは先生のおかげですけれどもね」
僕は昔から図鑑とかを見ているような物静かな子供で、友達も少ないまま高校に入ってきてしまった。理科は苦手じゃなかったけれども、先生の授業を受けて好きになった。
「……そう言ってもらえたなら、私の教員生活も無駄じゃなかったよ」
嬉しさと寂しさが混じったような、辛い大人の声がする。
「そういうこと言うのは、先生らしくないですよ」
「私はもう教員じゃないからね。ただ、今でもちゃんと学び続けているからそう遅れは取らないはずだけど」
先生は少し元気を取り戻して、ゆっくりと順路を逆走する。
「たとえば、今はこの分類は誤りとされているんだ」
そう言って伸ばされる指はバージェス頁岩からやってきたピカイアの展示の方を向いていた。
「
そう言って少し早口に話し始める先生は、とても楽しそうだった。