感情シンタイプ   作:小沼高希

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7月中旬、移動教室、一人で

生物の授業をぼんやりと聞きながら教科書を読んでいく。引っかかるところ、わからないところ、覚えるのが難しいところ。

 

こういうのを纏めておいたら守森先生が喜ぶだろうな、と思っての行動だ。案外、僕にとって守森先生の存在は大きいらしい。自分がこういう形で他人のために動くのは意外だった。いや、例えば家族のためとかなら食器洗ったり洗濯したり掃除したりとか、そういうのはある。けれどもそれは実際のところ衣食住の保証と学費の引き換えみたいな部分がある。

 

一方で守森先生に対する僕の感情みたいなものはもう少し損得勘定を無視したものだ。

 

「……好きなのかな」

 

僕は思春期の少年なので、何度も軽率に恋をして一瞬で忘れるなんてことを繰り返してきた。少なくとも僕は恋というものをそういうものだと考えている。他の人については知らない。納倉とかどうなんだろうな。あまり他人に興味なさそうだけれども。

 

もちろん、守森先生に対しての恋みたいな感情が無いと言えば嘘になるけど、半ば無意識に避けることはできているしそっち方面の好意が実ることがないということはよくわかっている。今どきは誰とも付き合わないで歳を重ねるなんてことは珍しくない。

 

思考がぼんやりとしてしまうので、意識を切り替えることにしよう。今は植物の環境応答の話。植物が成長に合わせてどういうふうにホルモンを出していって、それに応じて何が起こっていくか。例えば光があれば陰になる部分にオーキシンという植物ホルモンが集まって、そこが成長する。すると先端は曲がるように伸びるので、結果として光に向かって植物は伸びていくのだ。

 

で、実際のところはどうなのだろう。教科書には簡潔に「オーキシンは植物の成長を促す」ぐらいしか書かれていないが、それは与えられた知識にすぎない。実験もあるが、オーキシンがそもそもどのような物質なのかの説明もないのだ。

 

いや、わかってはいますとも。例えばどうやってオーキシンを作るか、あるいは抽出するかなんかを知っていたとして今どきどこまで役に立つかはわからない。それよりも概念として化学物質が環境と組み合わさって様々な成長を引き起こすとかのほうが重要だとは思う。

 

……とはいえ、気になってしまったものは仕方がない。先生があまり変な視線を向けていないのを確認してスマホの電源を入れる。こういうのは隠れてやると怪しまれるのだ。堂々と調べ物をしていますとでもいうかのようにちらりと見れば授業をやっている先生もわざわざ注意なんてしない。

 

教科書でやらない理由は簡単だよ、研究が途上だから

 

ここまで当然のことみたいに書いているのにですか?

 

参考書を確認。1880年にダーウィンが最初にこういう実験をして、1910年にボイセンとイェンセンという人が化学物質ではないかと推測し、1928年にウェントという人が寒天に染み込む物質というところまでは特定したらしい。それ以降は書いていない。

 

あ、空白が入っていて紛らわしいけどボイセン イェンセンは一人の名前ね。フルネームだとピーター・ボイセン=イェンセン。デンマークの人

 

まずオーキシンという物質がインドール-3-酢酸だとわかって、そこからその物質がどうやって遺伝子を発現させるのかがかなり時間がかかってるんだよ

 

ああそうか、植物の成長が起こっているということは細胞分裂が起こっているということで、そのためにはS期に入らなくちゃいけないのか。こういう時に過去に学んだはずのことがすっと出てこないともどかしい。

 

鹿染さんは論文とか読める?

 

無理です

 

そういう物があるのは知っている。たまに見るが、大抵はそもそも前提の用語だったり表記方法が意味不明なのでお手上げになっている。

 

読めると一気に情報を探す力がつくからおすすめだよ

 

まあ守森先生がそう言うならちょっと後で調べてみるか。というか守森先生は読めるんだから聞けばいいのか。

 

オーキシンが成長を起こすまでにはかなり複雑な過程を経ているんだけど、多くの植物では一本道じゃないんだ

 

どういう意味ですか?

 

一遺伝子一酵素説はわかる?

 

文字通りですよね

 

けれども実際はそうじゃない。一か所の塩基配列から複数の遺伝子が作られることがあるし、結果としてできた酵素が複数の場所で働くこともある

 

生物は無茶苦茶に複雑で、だから抽象的なことしか言えない場合もある

 

なるほど……

 

最初からそう書いてくれればいいのに、と僕は少し教科書に対して不満を持つ。それと同時に、自分がちょっとまだ人類がわかっていないことの先端に触れられたような気がした。

 

最近まで高校の勉強というのはどこまで行っても人類が知っていることばっかりで、泳いでも水面に出れないみたいな感じがしていたのだ。少しだけ、息ができた気がした。いやこれむしろまだ誰も知らないことのほうが水なのかもしれないけれども。

 

なんて言えばいいんだろう。僕はまだ、ここらへんの感覚を言葉にできていない気がする。

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