感情シンタイプ   作:小沼高希

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7月下旬、電車、一人で

けっこうよれよれになってしまった単語帳を今日もめくる。これで四周目ぐらいかな。たまに忘れている単語が現れる。distinct。あーなんかあった。思い出せない。destructは破壊とかだし、えーと。わからないので答えを見てしまう。明確な、か。ああそういえばあったな。

 

平日は演習、隙間時間は暗記とか知識問題の確認、こういうことをすると寝ている間に夢でも問題が出てくる。嫌だ。計算しても計算しても答えが合わないのは悪夢に違いない。

 

まあそういうわけで、今日は息抜きの旅である。電車に乗って揺られて、目指すは守森先生の家。うん。なんでこういうことになってしまったんだ?

 

ゆっくり思い返しながら先生からのメッセージを見返す。確かに住所はある。マンションの一室だ。ちゃんと家を出る前通る道も、曲がる場所も、目印になる建物も確認済みだ。

 

「……緊張、しすぎかな」

 

手を触ると湿っている。そもそも誰かの家に遊びに行くなんてことはあまりなかった。小学校の頃から友達が少なかったし、ああでも納倉の家は行ったことあるな。ということは「友達」というくくりなら二人目か。

 

一応親には友達の家に遊びに行くと言ってある。納倉には守森先生の家に行くと伝えておいた。これでもし万が一何かあってもまず親が納倉の方に連絡して、そこから守森先生に連絡がつくだろう。問題は親が納倉のことを知っているかどうかだけど。まあ多分なんとかなるだろ。

 

そろそろ、僕も成人になるのだ。だからと言ってなんだという話ではある。よくわからない理由で成人しても煙草もお酒も被選挙権もダメということになっているので、結局できることと言えば勝手に怪しい契約をしたりとか、あとは結婚とか。そういえば誕生日になればできるんだよな、結婚。する相手がいないけど。まだ同性婚についての法改正議論は進んでいる最中だし。

 

正直、政治とかほとんど見ていない。大抵はSNSでちらっと見たりとかの程度。新聞とかは信頼性が落ちて久しいとされているし、テレビも同様。かと言ってネットメディアはどれを信頼したらいいのかわからない。どうしようもないのだ。

 

僕にゆっくりと加速度がかかる。駅に着くとのアナウンス。ここの次の駅で降りて、10分歩かないぐらいで先生の家だ。

 

先生のことは……友達、でいいんだよな。少なくとも今は。受験勉強の息抜きに友達の家に行って遊ぶだけ。大丈夫。ちょっと年上の女性ってだけ。先輩みたいなものです。だから今日は、なにも変なことをしているわけではありません。

 

「いや無理だって……」

 

小さく言葉を零してしまう。好きな人というか、好意を持っている相手の家に行くのは怖い。他人の恋の話を聞くことはあまりないし、そういう話も読まないけど、噂ぐらいは聞きますよ、ええ。けれども高揚感よりも何か変なことをしてしまうのではないかという漠然とした不安感のほうが強い。

 

車輪がレールの間を通るたびにガタンゴトンと僕が揺れる。何だろう、これ。もしかして今まで僕が恋だとか思っていたのはただのちょっとした好意だったりとかするのだろうか。もしそうだとしたら、僕の初恋の人が守森先生になるのだけれども。まあ、それはそれでいいかと思っている自分がいる。

 

こういう時、頼れる人が僕にはあまりいない。納倉にこういう話は……なんとなく、したくない。もっと抽象的なものならいいけど。いや、別に納倉を信頼していないわけじゃないよ?けれども、こう、違う気がするんだよ。まだここらへんはうまく自分でも言葉にできない。

 

結局は、この感情は自分の中でどうにかしないといけないものだ。もちろん守森先生にも話せない。話せたら楽しい……でいいのかな、もっとこう、ワクワクするとかに近いものがあるのだろうけれども、それを上手くは言えない。

 

ああもう、自分の心とか感情とかが全然整理できていない。落ち着こう。思わず立ち上がってしまって、また座るのも難しくて、目的の駅に着くまで残り数分を立って過ごすしかなくなってしまう。やっぱり、いつもと調子が違っているな。深呼吸しなきゃ。

 

焦りとか、緊張とか、たぶん模試前に近いあの嫌な感情がやってくる。本番が始まれば問題に集中して忘れられるんだけど。きっと本番の試験でもこういう風になるんだろうな。慣れないといけないのはわかる。慣れる日が来るのかはわからない。

 

落ち着け、どうせ守森先生との会話は楽しいんだ。あ、ゲームって何やるのかな。守森先生があまりそういうのをしている話を聞いたことがない。実験装置を触る時はとても集中しているけど、そうじゃない時はけっこうミスしてそうだったし。

 

車内放送が僕が降りるべき駅であることを伝えてくれる。踵を上げて、下げて、足を少しだけ温めておく。別に時間に余裕はあるから急がなくていいのだけれども。

 

扉が開く。この駅で降りるのは初めてだけど、案内板を見ればどっちに行けばいいのかはちゃんとわかる。さて、落ち着いて歩き出そう。

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