「そういえば」
先生はすっと目線を上げる。目が合って、思わず視線を僕は左下にそらしてしまう。
「悠さんは、私のことをまだ先生って呼ぶよね」
一応僕だって、呼ばれ方が変わったのには気がつく。その慣れない響きに、違和感とむず痒さと、その他いろいろなものを混ぜたような感情が上がってくる。嫌じゃないんだけど、居心地が悪い、みたいな。うまく言葉にできない。
「納倉だって呼んでますよ」
「……先生の家に遊びに来る生徒は、ちょっとまずいんだけどな」
そう少し困ったような声で言う守森先生。
「……守森、さん、と呼んで欲しいんですか?」
自分の負の感情がおもったより先走ってしまって、語気が荒くなる。
「……違うよ。ただ、呼び方は関係を決めちゃうことがあるから」
「どういうことです?」
「私はただ、鹿染さんより少し長く生きていて、専門的なことについて色々と調べ方とか事前準備とかをしているだけで、本質的には鹿染さんとそう変わらないわけ」
「そうですかね……?」
「だから、あまり先生なんて呼んで欲しくないところはあるんだ」
「なら、なんて呼んだらいいですか?」
「別に。あなた、とかでもいいよ」
「……あなたは、それでいいんですか?」
「やっぱり駄目。先生呼びでいいよ。お願い」
いきなり早口になる守森先生。そんなに慣れなかったのだろうか。
「そんなに、関係を変えたいんですか?」
「というと?」
「僕は先生を尊敬していますし、色々なことを先生から学びました。だから、僕は学生で、先生は教師で、って関係は嫌なんですか?」
「……私を先生って呼んでくれる人の前ではさ、最低限の教員としての倫理を持っておきたくてさ」
「どんなものです?」
「……生徒に頼らないこと。大人であること。少なくとも、見かけだけでも」
「僕を子供扱いしている、というわけではないですよね」
「いや、その通り。私は鹿染さんを格下に見ているところがある。私が先生って呼ばれている限りは、そこに一線が引ける」
「……そういうことを正直に言うのは、見せかけだけでも大人であるっていうのに矛盾しません?」
「嘘を吐く教員よりも、そこそこ誠実なクズでいたほうがマシだから」
そこまで守森先生は教師という職が嫌だったのだろうか。そうなると、僕から見て楽しそうに話していた授業は見せかけだったり強がりだったりしたのだろうか。
「守森先生は、僕みたいな生徒が嫌いでしたか?」
「……どう、だろうね。今は嫌いじゃないよ。でも当時は、そういうことをちゃんと考えられるほどの余裕はなかったし。マシになったとはいえ、今でも怪しいところはある」
「何もかもが嫌になっていた、みたいなことでしょうか」
「そうだね。あと一年あそこで働いていたら、完全に壊れていたと思う」
たしかにこうやって見ると、先生は僕とか納倉とかと同じような人に見える。
「ならもう今日は守森さんって呼びますから、立ち直ってくださいよ」
自分の中では違和感がある。職員室にいじけて帰った先生を呼び戻したという話は聞くが、そういうことをやっている気分だ。けれども眼の前にいるのは困ってしまった人だし、それを助けないのは友人としては問題があるだろう。
「いいの?鹿染くん」
くんをつけて呼ばれるのは他の先生とかからは普通にあるが、守森先生……いや、守森さんの声で聞くとどきりとしてしまう。
「いいですよ、間違えるかもしれませんが」
「まあ、名前を呼ばなければいい話ではあるけど」
そう言って先生は椅子から立ちあがる。
「それって、どういう」
「どうせ二人しかいないんだから、声をかけたら相手は自分以外でしょ?」
「確かにそう、ですけど」
「……さっき、支えた時の熱がまだ手に残っている」
座っている僕の顔の横に、守森さんの手が当てられる。
「今度は鹿染くんが支えてよ」
そう言って、守森さんは腕の力を抜いて、僕に身体を近づけてくる。
「……いいですよ」
腕を伸ばす。さっき守森さんを持ち上げた時は手を脇の下に入れたけど、こんどは首に回すように。なんとなく、こっちのほうが守森さんを支えられる気がする。
「……あったかいね」
守森さんの声が耳元で聞こえる。
「守森、さん。もしかして着てるのってワンピース一枚ですか?」
「いや下着はつけてるけど」
「そういう意味ではなくて」
「……面倒だから。服を選ぶとか、そういうことで色々考えたくない」
「……わかります。僕も今日着てきた服は棚から適当に選んだものですから」
「選べているよね」
守森さんが僕の脇の下から手を回してぎゅっと力を込める。
「……はい」
「ねえ、鹿染くん」
「はい」
「今度、私の服を選んでよ」
「僕はそういうの、得意ではないんですが」
「ファッションセンスとか、そういうのじゃなくてさ。機能性とか、サイズとか、そういうのでいいから」
「……それでよければ、いいですよ」
先生の背中は思った以上に小さくて、温かい。人間の熱は、やっぱり好きだ。こういう形で頼られることは今までなかったけど、たぶんとてもこの感覚は悪くないものなのだろう。