そうして家に戻り、塾がないことに感謝しながら僕はワイシャツとズボンを脱いでベッドに潜り込んで目を閉じようとして守森先生の話を思い出した。
学校終わりました
少し経っても反応がない。忙しいのかな。まあ、社会人だからな。というか教師も社会人だろ。どうやら僕の脳は学校の中を社会と認識していない。あの時の先生もちゃんと働いていたんだよな。
そういえば守森先生は授業中にわからないところがあるとすぐにスマホを取り出して調べていたが、昭和生まれの先生には不真面目だと不評だったりしたらしい。辞めてしまった理由にはそういうのもあるのかな、と思う。
教員側の待遇とか、あまり考えたことがなかった。いつも皆さん忙しそうにしていて、SNSのトピックで教員の待遇が改善してきたなんて話を見た気もするがそもそも改善しなくちゃいけないほど酷かったということだろう。
ごめん、見落としてた
微睡みに落ちようかというタイミングでスマホが鳴った。
ちょっと心配しましたよ
こう書いて送ってしまってから、少しやってしまったかなと思う。
気にしなくても大丈夫ですけど
これでいいかな。人とのやり取りは苦手だ。どこで相手を傷つけてしまうかわからないし、別に気にしなくていいような文章を引きずって数日悩むこともあったりするし。そういう意味では納倉との関係は気が楽だ。
それで話なんだけど、高校の理科って物足りないと思う?
今の授業は守森先生のと比べるとどうしても……
私のやり方はあまり長続きするようなものじゃなかったけどね。
例えば、高校の教科書の隙間を埋めるような本があったら嬉しい?
どういうことですか?
大学の教科書ってほどじゃないけど、高校の課程ではごまかされていたりするようなものをまとめた本を作ってみようかなって
面白そうですね
そういう話を聞くなら、やっぱり今受験生の人に聞くのがいいと思って
僕の通う高校の進学率はほぼ100%だ。今どきの大学進学率が六割を超えているとはいえ、進学校と言ってもいいだろう。なおこの数字は少し前にあった受験ガイダンスかなんかで聞いた。
だから、高校での生活とか受験で引っかかるところとか、教科書の問題点とか、そういうのを聞きたい
納倉にもその話、しますか?
うーん
納倉さんは物理と化学で受験するんじゃなかったっけ
物理だと高校と大学でかなり違いが出るし、多少微積分とか使うっていうのを説明してもいいけど、むしろ化学や生物のほうがやりやすいかな
なるほど
僕向けにこういう話をしていると言われてちょっと喜んだのは内緒。いや、だって納倉は親友だけど、ライバルと言うには色々と差が大きいし。化学はまだ互いの得意や苦手が入り混じっているから同じぐらいの数のミスで安定しているけれども、高校一年生の頃に僕は物理基礎で一度も納倉に勝てなかった。
物理で微積分、か。あまりイメージがわかない。生物だとロジスティック曲線とかのあたりで出てくるんだっけ?前にWikipediaを見た時に $dt$ とか出てきて怯えて逃げた記憶がある。今ならちょっとはわかるのかな。
面白そうですね。ぜひ協力させてください
やった
でも、まだ構想段階だからね
もし上手くいかなかったらごめんなさい
構いませんよ
僕も受験があるので、どこまで協力できるかはわかりませんが
他人に頼られるというのはいいものだ。
わかった。話を色々聞かせてほしいな。
受験生とちゃんと話したこと、ないから
ところで、納倉から話があったんでした
納倉さんから?
古塞出版の本に興味があって、物理の本とかの話を聞きたいそうです
じゃあ、出版業界に興味があるっていうのは納倉さんのほうだったの?
いえ、生成された文面にあっただけなのでたぶんそう深い意味はないかと
そう
なら、納倉さんと直接話したほうがいいかな
連絡先、わかる?
ちょっと待ってくださいね
僕は別のアプリを開く。こっちは電話番号でできるSMSじゃなくてもっと流行っている方。そもそも僕は納倉の電話番号を知らないのだ。というか僕の電話帳に入っているのは両親と学校と塾とぐらいのものである。あ、後で守森先生の番号を入れておこう。
許可は一瞬で取れて、番号が送られてきた。そのままコピーして、守森先生にメッセージとして送る。
ありがとうね
いつでも話してくれていいですからね
わかった
お時間取らせてしまい、申し訳ありませんでした
いえいえ
そう送ってから、ちょっとなにか付け足したほうがいいかなと悩む。そうしないと延々とメッセージのやり取りが続いてしまうし。
いい本ができることを楽しみにしています
まずは企画をまとめて上司に通さなくちゃいけないから……
本ができるのってそんなに手間がかかるんですか?
本を作るというよりは、出版社というシステムの中では、かな。悪いことではないんだけれども、やっぱり融通がきかないと思ってしまうことはあるよ
例えば前に出そうとした本の話なんだけどさ
守森先生がメッセージを連続で送ってくる。僕がこの会話をやめたのは、親に夕食ができたと呼ばれたときだった。