感情シンタイプ   作:小沼高希

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9月中旬、守森先生の家、二人で

「うーん」

 

今日は先生の手伝いというか、ある種の勉強というか、まあ説明が難しいことをしている。

 

「その原稿を修正するとしたらどうする?っていうのが、一つの問題なわけ」

 

「ところでこれ、僕が読んでいいものですか?」

 

「厳密には危ないかな。秘密保持契約自体は口頭でも成り立つはずだけど鹿染さんがそれを守るとは限らない。責任能力があるとしても私のほうが悪いことになるし……」

 

「ええとつまり、ここで読んだ事を内緒にすればいいってことですよね」

 

「そうだね」

 

先生がそう言うのを確認して、また視線をさっきプリンターから吐き出されて温もりの残る原稿を見る。横書きで並ぶのはある種の酵素についての説明。今度出版されるそういう分野の専門書の一章だそうだ。

 

「一応私が仕事としてすでにコメント入れているけど、鹿染さんならどういうところを気にかけるのか興味があって」

 

先生は少し高い目線から言う。僕が折りたたみ式の椅子に座っていて、先生がもう少し座面の高いやわらか椅子に座っているので座高の高さで多少相殺されたとしても先生を見る時はちょっと上目遣いになってしまう。首動かせばいいんだけど面倒でね。

 

「……こういうのって、誤字脱字とか、あとは文章が繋がっているかどうかを確認するんですよね」

 

「他にも色々あるけどね。用語がちゃんと正しく用いられているか。その意見がちゃんと先行研究に基づいているか。出典とされている文献と内容が一致しているか。もちろん私はこの分野の専門家じゃないから限界はあるけど、ある程度は確かめてる」

 

「文献って、ものによってはオンラインでは読めませんよね」

 

「なので大学図書館で探したり、あるいはそういうのを見ることのできる研究機関の人から横流ししてもらったりしている」

 

「著作権……」

 

「グレーゾーンだね。変なルートでアップロードされているやつはあまり見ないようにしているけど、それだって結局出版社にお金が入らないのは変わらないし」

 

「作者じゃないんですね」

 

僕がそう言うと、先生はため息を吐いた。なにかしちゃったかな。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

 

「ん、まあね。普通はそうだったってことを忘れていた」

 

「普通?」

 

「例えば鹿染さんがなにか文章を書いて、それが本に収録されたら出版社は印税を払うことが一般的なの」

 

「原稿料ってやつですよね」

 

「微妙に違うけど、おおざっぱに報酬という点では同じ。原稿料はその書いた事自体への報酬。印税はその本が売れたことへの報酬」

 

「ならもし本がいっぱい売れたら、印税がいっぱいもらえる、ということでいいですか?」

 

「概ねその通り。で、一般的な学術論文の場合は原稿料がかかる」

 

「……え、お金を払って論文を雑誌に載せるんですか?」

 

「そう思うよね?そうなんだよ。もちろん例外はあるけど」

 

「ええと、つまり時間かけて論文を書いて、それでお金を払って公開するんですよね。で、さらに物によっては論文の閲覧にお金がかかる……」

 

「その通り」

 

「何でですか?」

 

「無茶苦茶に難しい質問をしてくるね……」

 

守森先生は軽く頭を抱えた。

 

「綺麗な答えとしては、科学者同士の助け合いかな」

 

「そういうものがあるんですか」

 

「ある。基本的にそういう学術情報の共有は無償だったり、あるいは寄付的に行うことがある。ここらへんはちゃんとやると民俗学とかのジャンルになるからあまり扱ってない」

 

「……確かに、無料で使えるように開発されたソフトとかも多いらしいですね」

 

「そこらへんもあって、できるだけ無料で読めるようにって考えもあるんだけどそうすると出版社がどうやってご飯食べるのかって問題にもなるしね」

 

「となると、作者から取るしかないと」

 

「そうだね。今だと一万ドル超えるとかもあるんじゃないか」

 

「……ドルですよね、円じゃなくて」

 

「ドルだよ。だからそれだけの意味があるというものじゃないといけないって考えることもできる」

 

「ああ、そうやって品質を確保している……」

 

「邪悪な方法だと思うけどね」

 

そう言って先生は声に嫌悪感をにじませた。

 

「とはいえ、それで回ってる部分はあるし」

 

「無償の貢献、ってやつですか」

 

「そう。基本的に人間関係でそういうやり取りはかなり重要な役割を果たしているから」

 

そう言って先生は僕の方に視線を向けた。

 

「……なんですか?」

 

「いや、だから物理的なものを贈るっていうのは意味があることなんだよって」

 

「自分に言い聞かせてません?」

 

「否定はしない」

 

「正直な先生は好きですけど、ちょっと複雑な気分になりますね」

 

「私だって限界があるし、やりたくないこともいっぱいあるからね」

 

「わかっています」

 

とはいえ守森先生が歳上なのを圧力として使って、ということもしてこないし僕と先生の関係は比較的健全なものな気がする。もし誕生日になったら、この関係も誰かに恥じるものじゃなくなるのかな。わざわざ誰かに言いたいものじゃないけれども。

 

とはいえ、納倉にはちょっと色々自慢じゃないけど話したい。これがのろけかな。

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