感情シンタイプ   作:小沼高希

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9月下旬、教室、納倉と

「わかる?」

 

「ウチはお手上げ」

 

僕と納倉が睨みつけるのは今日の化学の授業で出た宿題。

 

「計算するとどうにも負の値が出る」

 

納倉はそう言うが、僕はそれ以前の問題だ。

 

「問題が間違っている……と言いたいけど、自分の計算が間違ってる可能性も高いし」

 

「そもそも難しそうだからね」

 

僕は改めて鞄からルーズリーフを取り出して、問題に出てくる値を列挙していく。

 

「単位の換算か……そもそも値も難しいし、有効数字を考えると実験自体が微妙な気がするが」

 

「どういうこと?」

 

「説明したほうが良いか」

 

納倉はポケットからシャープペンシルを取り出して、僕の書き込んでいたルーズリーフの端に伸ばす。

 

「……いい?」

 

そう言ってちょっとバツが悪そうに聞く納倉。

 

「いいよ」

 

僕が許可を出すと、納倉はカリカリと文字を書き始めた。

 

「ここで液体の変化量を計算しているのはいい?」

 

ビュレットというガラス道具を使って液体に還元剤を混ぜていく過程だ。

 

「そうだよね、減っているのは2 mLでいいのかな」

 

「ここが2.0ならまだいいんだがな……」

 

「何が違うんだっけ」

 

正直問題文で触れられていたら最後に桁数を調整するぐらいの認識しかない。

 

「2っていったら1.50から2.49ぐらいまで入るんだよ、これだと誤差が25から20パーセントぐらい。微妙な実験なら変な結果が出てもおかしくはない。2.0なら1.950から2.049ぐらいまでだから、数パーセントにまで抑えられる」

 

「ああ、逆にそこまで測れていないのに無駄に大きな数字を言うことには」

 

「意味がない、というよりある種の嘘になりかねない」

 

「面倒だなぁ」

 

「生物とかのほうがそこらへん気にしないといけないぞ」

 

「えっ」

 

正直生物にはあまり計算が出てこないので意外である。

 

「統計学において誤差の推定はかなり重要な問題だからな、少ないサンプルから使える情報を手に入れるためには計算がいっぱい出てくるから」

 

「嫌だ……」

 

「逃げられるものじゃないぞ、ウチだってここらへんの変な積分と戦わなくちゃいけないんだ……」

 

そう言って納倉が机から取り出すのはなんか見るからに専門っぽい本。統計力学ってなんだよ。統計はわかるよ。力学もあまりやってないけどわかる。何で混ぜるんだ?

 

「例えば気体の比熱は気体定数を使って表されるんだが、その計算の過程で面倒な積分が出てくるんだよ」

 

ええと、これは指数関数っぽいものを $\infty$ から $-\infty$ まで積分してるのね。この山みたいな形は見たことがある。で、これは気体の速度のグラフ……なんとなく見当がついたぞ。

 

「統計力学って、気体の運動とかを統計っぽく扱うってこと?」

 

「さらにその気体の分子の相互作用を力学的に扱う」

 

「絶対面倒なやつだ」

 

「そうなる。で、二乗平均を取ってとかやるときれいな分数が残るわけだ」

 

面倒な途中式の計算に目を滑らせながら、納倉が指差す$\frac{3}{2}$という値を僕は見つめる。

 

「……なんか詐欺っぽいことやってない?」

 

「物理学における近似とはこういうものだ」

 

「あと単原子分子って、ヘリウムとかネオンとかでしょ?そんなものの計算しても実用的ではないのでは?」

 

「安心しろ、二原子分子の場合でも同様の議論ができる」

 

同様の、という言葉のとおりにまた面倒な計算式が並んでまた現れる数字は $\frac{5}{2}$ 。その隣にある高温の時とかいう話は無視しておくのが多分いいのだろう。

 

「まあこういうふうに統計とか計算とかが出てくる分野はあるので、諦めろ」

 

「統計力学よりはマシだと思うことにするよ……」

 

改めて問題に向き合う。実験は二段階に分けられる。一つ目は未知濃度の滴定液を既知濃度の液に垂らすことで滴定液の濃度を求める。二つ目はその解った濃度の滴定液を未知濃度の液に垂らしてそちら側を求める。

 

「どうして二回もやるんだよ!」

 

計算が面倒で思わず声を出してしまう。

 

「詩明せんせにでも聞け」

 

そう言う納倉の手元の式を見ると、おそらく一発で出そうといくつかの式を変形させて組み合わせているところだった。

 

「そうする……」

 

そう言って僕は問題文を撮影して先生に愚痴を送る。

 

「ただの比の式になるはずなんだが、これだけあると間違いやすいからな……」

 

薬品の特性をもとにしてわざと面倒な問題を作っている。今どきは最初から測定機でやる

 

「とのことです」

 

僕は納倉に先生から帰ってきたメッセージを見せる。確かに不安定だから調製の時にいい加減に量っていたな。

 

「……さて、ウチも計算し直すか」

 

「大丈夫そう?」

 

「どうせアホなところをミスしているんだ。……最悪、解説があるだろ」

 

納倉は問題の末尾についている大学名と年数を見る。確かにこれなら問題集を確認すればいいだろう。というかもっと早くからそれをやるべきだったな。

 

ちなみにこの後解けなくて悩んで問題集の方を確認したら薬品の量が一桁ずれていました。宿題なので先生に文句言っても仕方がないしとかなりやるせない感じになりましたが、まあ僕たちは元気です。

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