「元気そうで、何よりだ」
登校してきた僕の背中を納倉はぺしぺしと叩く。
「まあね」
心が落ち着いている。澄みきったような気分だ。
「なんだっけ、『しきょうめいすい』みたいなやつ」
「……明鏡止水」
タブレット端末の画面を見て言う納倉。
「それだ」
おおありがとうインターネット。人類の叡智が全くもって無駄なことに使われている。
「本当に邪念がなくなっているのか?」
「もちろんですとも、お疑いで?」
「そうか。詩明せんせから抱きしめる相手がいなくて寂しいって話が来てたが」
「……はい」
「ちゃんと心が曇ったようで何よりだ」
僕の心の内を見透かしたような納倉の声。いやその思春期の高校生男子にそういうのは良くないんじゃないかな。納倉ならわかるだろそれぐらい。わかってたからやってきているんだろうな。
「で、どれぐらい体調が崩れてたんだ?」
「かなり。金曜は実質ほぼ一日中寝てたよ」
「血色も良くなってるし、休養は効果あったみたいだね」
そう言って納倉は確認するように僕に顔を近づける。
「みたい。……本当にありがとう」
「いいって。いつも世話になってるお礼みたいなもんだよ」
「そう?」
「……というと?」
「いや、僕のほうが納倉に世話になりっぱなしなような気がして……」
僕と納倉は対等な関係、というほどなのだろうか。正直頼りすぎている気がする。
「そういう面倒なこと考えていると、また壊れるぞ」
「ほらそういうところ」
「これはウチも無意識にやってるやつだしなぁ。あと悠もなんだかんだでいいやつだぞ」
「んー、まあ納倉が言うならいいか」
ここらへんはまあ、あまりやると自己矛盾に陥ってしまうので程々にしよう。
「で、改めて問題を整理しようか?」
「嫌だなぁ……」
「あ、言っておくけどウチはその嫌だってちゃんと言えるところ、気に入ってるから」
「どうして?」
「悠が面倒だって言う時、たいていちゃんとやるから。意思表明は大事だけど、ちゃんと責任感はあるし」
「それでいいの?」
「こういうところを褒めておくとまた変に力入れてぶっ壊れるのをもう少し早くウチを含めた第三者が気がつけるようになる」
守森先生とか、か。というか先生のほうはどうなんだろう。あの人もあの人で結構色々溜め込んでいそうだ。そもそも高校の先生を辞めたのもそういうところがあったわけだし。
「……で、問題ね。僕について、受験について、あとは」
「詩明せんせでいいかな。ウチとの関係も入れておく?」
「入れた方がいい?」
「ウチは今の関係でいいと思ってる」
「じゃあ、抜いておく」
「で、悠の精神とかについてはウチができることにも限界があるし、適度に息抜きをすること。できれば詩明せんせと会う時が息抜きになるようになればいいんだがなぁ」
「なってない?」
「……悠が詩明せんせの話をする時、言ってないことがあることぐらいはわかるからな」
「……はい」
どれぐらい無意識なのかは正直自分でもわからないけど、多分僕の中にある先生に対しての負の感情を隠そうとしていたんだろうな。いやだって関係がうまく行っていない部分があるとか言いたくないじゃん。今は落ち着いてそこらへんを共有しないとどうしようもないことぐらいは理解できるようになったけど。
「受験については、まあ、うん。ウチから言えることはないな」
「はい」
「詩明せんせの話は、ちゃんと電話か何かかけてあげな。心配していたから」
「……ありがとう」
「いいっていいって、だからさ、悠もあまり隠さずウチに詩明せんせの話聞かせてよ」
「あれ、もしかしてそれがメイン?」
「メインとは言わないが、少なくない割合だってことは認めるぜ?」
「正直な納倉は好きだよ」
「照れるなぁ」
なお僕も納倉もけっこう邪悪な表情を向けあっている。
「……さて、真面目に勉強に戻るか」
「それがいい。あ、あとこれは一応授業の進捗」
そう言って納倉はファイルから取り出したA4の紙を渡す。
「……納倉ってノート取るっけ?」
「基本は取らないぞ」
一応僕は取るが、それでもメモみたいなやつだ。昔はノートが綺麗じゃないと成績が下るとかあったらしいので恐ろしい。
「つまり、これは僕のために?」
「暇つぶしみたいなもんだ」
とは言え教科書との関連を示して、配られたプリントの模範解答を複数用意するのは気合い入りすぎだろ。
「……この数学の問題の別解ってどういうやり方?」
「ああ、ベクトルの問題なんだが幾何に落とし込むとそっちのほうがシンプルになる。たまたまだが相似二つ重ねたことになってるし」
「うーん」
納倉はこういう部分のセンスはいいのだ。おかげで誘導があってもそれがどういう意図で行われていたかを読むのが難しい。引き換え僕は比較的パターンを覚えてどうにかするタイプ。
「どうやったらこういうの思いつくの?」
「……経験あるのみ?」
「疑問形で言うなよ」
「いやウチだってうまく言語化できるほどやってるわけじゃないし」
「証明は書けてるよね」
「いや、それは方針を決めてから書いているから」
「ああ、方針決定自体がフィーリングなのか」
僕はそう言って残りの紙を確認する。幸い午後の英語の授業の宿題のやつがあるのでこれは写してしまおう。こういう不正は、ちょっと楽しいな。