「ゆっくり回るのもいいものだね」
そう言って先生は暗闇の中で踊るようにふわりと黒いスカートを舞い上がらせて僕の方に振り返る。博物館の黒い雰囲気に溶け込んでいる気がする。
「……ええ」
眼の前の人物が綺麗なのはまあ僕の目が恋で補正されているだろうからというのはいい。知的な話が楽しいのもまあそういう経歴と仕事だと言えばわかる。
「楽しそうですね」
「楽しいよ、特に君といる時は」
この人と一緒にいることができて、さらに相手が僕と一緒にいることを楽しんでいるというのはとてつもない多幸感をもたらしてくれる。まあ浮かれた高校生をしているわけだ。
「ただ、ここらへんの構成はちょっと難しいよね。気候ごとに分類したいのはわかるんだけど、メインの展示物ありきで作ってる感が否めない」
「そういうところも見るんですか?」
僕にはあまりそういう視点はないので驚いている。
「教員はこういう博物館みたいなところとのつながりも不可欠、って大学でやってさ、最低限の知識はある」
「……なるほど」
「学校と違ってこういうところは試験もないしやったことの評価をそこまでしなくていいってところかな。勝手に見て、勝手に学んで、勝手に感動していく」
「そういうものですか……」
そういう話を交えながら、展示物について色々話していく。最近再分類された植物の話とか、熱帯における生物多様性の測定とか、極地における生態系が地球全体を支えているとか。
「やっぱり何回か来ないとこういう細かいところの展示パネルは読み飛ばしちゃうね」
「ただまあ、どうしても古いものはありますけど」
「予算……」
「ですよね……」
もうとっくに終わったはずの持続可能な開発目標だったかの展示。本当はそういうものの成果とかも出して、言われていたものがどこまで成功したかみたいな話をやるべきなんだろうけどさ。
「本来はあれ発展途上国の開発促進とかがメインだったんだけどなぜか環境問題にすり替わったんだよな……いや先進国だと確かにあまり言えることじゃないけど……」
そういうことをぶつぶつと言う先生。
「こういうのがあまり好きではないんですか?」
「重要な問題だと思うけどね、ここ十数年でエネルギー問題とか環境センシングとかで多くの発展があった以上どうしても古臭くなっちゃう」
「……ええ」
とはいえ今の状況を僕は特に知らないので、黙っておくとしよう。
「まあでも、それでもちゃんと注釈がついているのはいいね」
後ろにある照明で浮き出るように光っている展示パネルの文章の下に、発泡スチロールの板かなにかに貼られた紙がある。後光で読みにくいが、展示にある数字が再計算によって一桁変わったという内容だった。
「……学校の勉強って、こういうものなんでしょうか」
「ん?」
「いえ、博物館みたいに学んだときから更新されないで、それが時代遅れになってもまだそれを正しいと思っている……って、よくある話ですよね」
僕の言葉を聞いて、先生は背筋を伸ばす。
「そうだね。私だってたまにそういうことがある。根本的に間違っていたりすることも」
「だから、学び続けなくちゃいけない……って普通なら続きますよね」
「それができれば苦労はないけど」
「そうなんですよ、僕だって物理は多分これ以降ちゃんとやることはないでしょうし、化学だって大学の分野と関係なかったら疎遠になるはずです」
「……鹿染さんはさ、どういう将来を考えているの?」
いきなり変わった話題に、僕はちょっと頭の中を探る。今の僕にとって進路と言えば大学で、その先を考えろみたいな話は高校の説明会だったかセミナーだったかで聞いたけど正直ピンときていない。
「……まだ、何も。ただ、生物とかは好きなのでそちらの方向に就職できればいいなとは思います」
「私はね、学び続けなくちゃいけないっていう点で今の仕事は悪くないなって思っているんだよ」
「学び続ける、ですか」
「嫌でもインプットとアウトプットが必要だから、何か作り出すのが苦手でも学ぶのが得意ならなんとかなってしまう」
「それは、十分すごいことなのでは?」
「……大学とかでさ、本当に小さな疑問点とか違和感とかを見つけてそれを解決して大きな問題に対して使える方法を生み出していくような天才たちを見てるとどうもね」
「ああ、大学って本当はそういうところですものね」
「今でもそういうことを頑張る学生も教員も少なくないよ。そういう人になれとは言わないし、たぶん鹿染さんには合わない気がするけど、そういう人を知っておくといいよ」
「……はい」
「今日はありがとね、受験のほうも頑張って」
「……もちろんです」
「あと、私の誕生日プレゼントを買って欲しいなーっていうのがあって」
「……いいですよ」
「調べたらここの博物館が出してる紀要に面白そうなやつが乗っててね、オンラインであればよかったんだけど」
「幾らぐらいですか?」
「……万年筆よりは安いはずだよ」
先生はちょっとだけ申し訳無さそうに呟いて、僕の方を見た。そういう目で見られると僕は弱いってこと、守森先生は知っているんだろうか。