「……まんぞく」
正面から先生は僕の顔を見る。先生の手が僕の顔の両隣にあって、先生の膝が僕の腰を挟むような感じ。いつもの身長差による視線の傾きがなくなって、少しだけ先生を見上げないと目を合わせられないようになる。
「……楽しかったんですか?」
「とても」
「……人前ではしませんからね」
「私にも嫉妬とか独占欲はあるよ。しない」
つまりは守森先生と二人きりの時はこういうことされてもおかしくないのか。いや別に拒んだりはしないけど。
「そろそろ帰る時間じゃない?」
「……たしかに、そうですね」
先生の二の腕と太ももの間から見える時計は確かに今から帰って少し家事をしたら晩ごはんになりそうな時間だった。
「あー、ごめん」
「何がですか?」
「この姿勢、ちょっとつらい」
「先生は体幹ないんですか?」
「最後に動いたの、大学の体育の授業かもしれない……」
「大学でもあるんですか?」
「教員免許取るのに必要だし必修だったし……」
「そういうものなんですね」
なんで必要なのかはよくわからないが、確かに高校を卒業して大学で体育をやらないと体力が落ちるとかあるのだろう。
「ぐえっ」
そんな事を考えていると、先生のほぼ全体重が僕の胸にかかった。柔らかいものが当たっている気がするけれどもそういうのを気にする余裕がすぐに無くなるぐらい重い。僕も先生をちゃんと長時間支えられるぐらいの体力つけないとな。何のために?一瞬答えが浮かんだ気がしたがこの狭い空間ではそういう事ができないだろとできるだけ速やかに脳の中から発想を追い出す。
「……いつでも帰っていいからね」
そう言う先生は、さっきまでとは違って壁側にいた。つまり僕がこの高いベッドから降りる時に邪魔にならない場所に。
「……もう少しいます」
「……いいよ」
先生がまた腕を広げてくれる。その中に包まれる。なんでこういう事されるだけで、僕は落ち着けるんだろう。
「汗の匂い、しない?」
「あまりしませんけど」
「ならいいか」
確かに少し湿っている。乾燥しているし、寒いとは言えないまでも涼しいはずなのに。
「そんなに、楽しかったんですか?」
「……嫌われても仕方がないとは思ってる」
「そう言って、逃げるんですか?」
僕は別にいい。でも、一応釘は刺しておかないと。
「……許してください」
「ごめんなさい、でいいですよ」
「ごめんなさい、疲れてました。君の声を聞いて止められませんでした。もじもじしてる鹿染さんが可愛くて……」
そうやって先生は言葉を並べる。まあ、怒らなくてもいいか。今回はこれでよかったし、これから悪い方向にはあまり向かないんじゃないかな。多分。おそらく。確証はない。まあ被害を受ける可能性のある人が僕だけであるうちはいいか。
「……先生だから、こういう事させてあげるんですからね」
大丈夫かな。声上ずったりしてないかな。下手に緊張していることがバレていたりしないかな。
先生は返事をせず、僕を強く抱きしめるだけ。ちょっと頭が痛い。物理的に締め付けられているせい。
「……離してください」
そう言うと、腕が緩んだ。
「遅くならないうちに帰りますね。先生の方は大丈夫です?」
「……ちょっと寝て、晩ごはんなんか食べる」
「わかりました」
そう言って、お昼を抜かしていたことに気がつく。午前中にここに来て、先生の腕の中で寝て、起きたら夕方。おそらく高校生が送れる贅沢な休日の使い方ランキングを作ったら上位に来るだろう。勉強しろや。
「お腹空いてそうですし、冷凍ごはんでも温めておきますか?」
「いいんですか?」
先生が目を開けてはしごに足をかける僕に言う。
「いいですよ、確か梅干しありましたよね」
「種抜いて混ぜご飯っぽくしてほしいな……」
「贅沢ですね、いいですけど」
電車の時刻表が頭の中に入ってしまっている。先生の部屋の扉を出てからちょっと小走りで走って息切れしたら速度を落とした時の所要時間も知っている。僕にとってこの場所は、もうすでにかなり慣れ親しんだ場所になっている。
何度も開けた冷凍庫を開けて、ラップに包まれた小さめのお米を取り出す。温めている間にクッキングシートの上で冷蔵庫から出した梅干しを軽く刻む。まな板出すまでもないし、洗い物は抑えたいので。ペティナイフ一本なら、さくっとゆすいでスポンジで拭えばいいだろう。
熱めのご飯を冷ましながら、具とうまい具合に混ぜる。食べた時にあまり偏りが出ないようにするのは難しい。もう少し細かく刻んでも良かったな。
「はい」
できたものを先生がベッドの縁から伸ばす手に渡す。指が長いんだよな。僕のほうが手は大きいけど、先生のほうが細い分長く見える。実際手首の部分をちょっとずらせばほとんど同じ長さになる程度だし。
「たべる……」
見えない場所から弱々しい先生の声が聞こえる。僕の方はどうしよう。帰りにちょっと買い食いしてもいいけど、晩ごはんも近いので微妙なところだ。
「失礼します」
「いってらっしゃーい」
送り出されるような声を聞いて、僕は扉の鍵を閉じた。