注文していた飲み物と軽食が来る。軽食……だよな?量が多くないか?
「鹿染さんは、どこか難しい分野があったりしますか?」
守森先生の質問に、僕は少し最近の模試の内容を思い出す。
「そうですね、有機化学の特徴とかを覚えるのは辛いです」
「あれ、悠はそういう暗記系得意じゃなかったっけ?」
「限度ってものがあるから」
納倉の言葉に僕は溜息を吐く。
「まあ、ああいうのはできるだけ実際の知識と結びつけるのがいいとはいえ、結びつけすぎるとそれはそれで覚えることが増えますしね」
「そうなんですよ……。暗記より先に行こうとしても参考書とかがありませんし」
「そこらへんをカバーできる、大学の教科書としてではなくて高校の延長線上にあるような発展的な理科の本があるといいと思いませんか?」
「思いますけど……」
ちょっと早口の守森先生のテンションにおいていかれてしまう僕。
「詩明せんせ、実際それって売れるんですか?」
「まあ私が扱うような他の本よりは……」
「それで値段が5桁行ったら結局誰も買いませんよね?」
「うぅ……」
守森先生が潰れてしまった。なんてことをしやがる納倉。
「それでも……それでもきっと需要はあるんです……」
「ウチは買うけど……そもそも高校レベルの理科をしっかり理解できているのって高校三年生だけじゃないんですか?」
「……一応予備校の先生も」
机から顔を上げた守森先生が言う。
「学校の先生は?」
「まずいない。そんな受験生並みに勉強し続ける余裕がない。学校の教員は教えるのがメインの仕事じゃないから……」
僕の質問に答えてまた顔を伏せそうになる守森先生。あっ駄目だ。無理矢理にでも方針を変えよう。
「例えば、本にどんな内容を書こうと思っているんですか?」
「そうだね、例えばだけど……化学がいいか。エーテルの特徴は?」
「ええと……」
「光を伝えるための媒質で、その中を進む物体は進行方向に縮む、だったっけ?」
「ちょっと待って納倉、なにそれ」
「いやエーテルだけど……」
「納倉さん、それは古い物理のやつ。ええと鹿染さんに簡潔に説明するね。光が波なのはいい?」
「はい。波長が長いと赤っぽくて、短いと青っぽいんですよね」
「そう。で、昔……と言っても20世紀まで、波を伝えるなにかがあると思われていた。例えばコップを揺らすと起こる波はコーヒーが伝えるし、私の声は気体の振動が伝えるように」
そう言いながら守森先生はマグカップを持って、小さく一口飲んで美味しそうに息を吐く。なんとなく目を離せない。
「実際はその後の実験でなくても良いってなったんだけど、それをやるには高校物理の最後の原子物理をやらなきゃいけない。なのでこの話は一旦ここでおしまい」
「で、化学のエーテルなら……炭素の鎖の間に酸素が入ったもの、でしたっけ」
「正解」
先生はそう言って、紙ナプキンにアンケート用のボールペンで構造図を書く。
$$\require{mhchem}\ce{R\bond{-}O\bond{-}R'}$$
「$\ce{R}$ ってやった?」
「いいえ」
「なんか炭素が繋がったやつ、だと思っていればいいよ。$\ce{R'}$ ってあるのは別に酸素にくっついている二つが一緒の炭素数である必要はないから、ぐらいの意味ね。では、炭素数が同じアルコールと比べると融点は高め?低め?」
「ええと、低め」
「どうして?」
「水素結合ができないから」
「水素結合ができるのはどうして?」
「……わからないです」
「納倉さん、ここってやったっけ?」
「さあ、ウチもちゃんとはわからないです」
「そう。まあどうせ覚えていたほうがいいことだから話しちゃうか。電気陰性度、言える?」
「フッ素が4.0、酸素が3.4、塩素が3.2、窒素が3.0、炭素が2.6、水素が2.2でしたっけ」
「覚えてるんだ……怖わ……」
守森先生が怯えている。隣を見ると納倉も引いていた。なんだよ別にいいだろ、教科書の最初の方にあったから何度も読んでいるのもあって覚えちゃったんだよ。
「で、電気陰性度の定義は?」
「電子をどれだけ強く引き寄せるか、でしたっけ」
「概ねそう。つまり、電気陰性度の差が大きいほど電子の引っ張りあいが偏る」
「ああ、そういう事」
納倉が何かを理解したように言う。
「どういうこと?」
「まあ、ここらへんは物理っぽいから納倉さんのほうが理解しやすいかもね。炭素と酸素、あるいは水素と酸素では、どちらのほうが電子が強く酸素側に引き寄せられる?」
「ああ、電気陰性度の差が大きいほうが強く偏って……」
「結果として、水素が強く正に帯電するから負に帯電している酸素と強い結合を作る」
「納倉さん、いい?」
答えを言った納倉に、守森先生が口調を強くして言う。
「……はい」
「わかってても、他人の理解を途中で止めるような方法で発言しない」
「……ごめんなさい」
「謝るのは私じゃなくて鹿染さんのほうね」
「……ごめんなさい」
「いやそんな謝らなくてもいいって」
納倉がこうやって素直に他人に頭を下げるのは珍しい。やっぱり守森先生が強いからかな。
「で、まあこういうことをずっとやる本を書きたいわけ。面白いと思う?」
「……実際に詩明せんせがやる分には、とても」
「きっと人気出ますよ!」
僕の言葉は、けっこう本心寄りだった。