「悠。ここ、どうしたのさ」
そう言って納倉は自分のワイシャツの襟元に伸ばした親指を向ける。
「……あ、いや、なんとなく。特に意味はないよ」
「閉じているのは珍しいと思ってな」
「寒いからね」
「ま、もういくつ寝るとってやつだしな」
もう一年が終わってしまう。まあ受験生に年末休みとかいうものはないのだが。最後の一夜漬けとまでは行かないけれども、直前にやった内容はやっぱり脳や手が覚えていたりするのだ。なので共通テストを解きまくりましょう。
「ところで、昨日は詩明せんせとお楽しみだったそうで?」
「……守森先生『が』ね」
「……ふうん。ウチが聞いていた話とはちょいと違うな」
納倉の声が低くなる。
「何を聞いたのか聞いていい?」
「……一応そのシャツの下、傷とかはないんだよな」
「そのはず。確認する?」
「いやいい」
僕は第一ボタンを外そうと伸ばしていた手を引っ込める。なんだい。何もないから別に見せたって構わないけど。
「嫌だって思うか?」
「何が?」
「詩明せんせにそういうことされるの」
「……嫌じゃないって言ったら嘘になるけどさ、嫌だっていうのとされてもいいっていうのは独立じゃない?」
「相関はあるだろ」
「同値じゃないよ」
こういう理系ワードを説明なく使えるというのは便利だ。こういう関係を問う問題はたまに出てくる。微妙な条件を見落として同じだってみなすと一点だけ白抜きの丸をグラフの途中に置かなくちゃいけないとかあるからね。
「一応、力関係の不均衡はあるんだからそれはちゃんと意識しておけよ」
「先生が年上だってこと?」
「年齢、収入、社会的地位、あるいは知識とかも。ああでも関係性無くそうって切り出されたらどっちも苦しみそうだな……」
納倉の言葉で少し考えてしまう。もし先生が僕のことをどうでもよくなって、鍵を返してって言われたら僕はちゃんと返せるだろうか。借り物だとは言われていないから返す義務はないとか、そう言う話ではなくて。
返した後にすごく苦しくなりそうな気がする。苦しくなるのが速かったら、鍵を返せないかもしれない。先生の務めている古塞出版は確か転勤とかないはずだけど、ある日以降先生があの部屋にいないってことはあり得なくはないんだよな。
ちょっとだけ、先生が僕以外の人とうまくできるわけがないと思ってしまっている。それが傲慢なことも自覚している。けれども好きにできる年下をやってくれて、守森先生の変な話に付き合えるのは僕ぐらいのものじゃないか?納倉は……入るかもしれないな。けどあまり好きにはできなさそう。納倉のほうが好きにする側か。
「許せねぇなぁ納倉」
「なんかウチが理不尽に恨まれている気配がするんだが?」
納倉から見れば少し話を振ったらしばらく僕が黙り込んで口を開いたらいきなり許されないとなればまあ、その気配は正しいな。
「いやごめん、変なこと考えてた」
「はいはい。で、実際の所どれぐらい嫌なのさ」
「……全体で見ればされたいんだよ。多分。けど、それってもう少しいい方法があるんじゃないかとか、一言言ってくれればもう少し心にも余裕ができるのにとか考えてしまって」
「恋だの愛だのにはそう言う要素は少なからずあるが、まあ面倒だなぁ」
「だよね。こういう話に毎度つきあわせてごめん」
「いいよいいよ、ウチだって恋に苦しむ同級生を肴に呑むのはいいものだ」
「まだ酒飲める年齢じゃないだろ」
今時の若者は高い遵法精神を持っているのだ。成人を機に酒と煙草を断つなんていうのは、少なくとも僕の周りでは見ない。もちろんニュースとか見れば色々あるけど、それはいつの時代だって同じだし。
「ものの喩えだよ。あと二年」
「……そう言えば、守森先生はあまりお酒飲まないのかな」
空き缶を部屋で見たことがない。確かに台所にお酒はあるが、ワインとか料理酒とか味醂とか、料理用のものだ。それを舐めるぐらいなら僕も何回かしたことがある。アルコール分はいらないと思うというのが正直なところ。
「たまに呑むって聞いたぞ」
「知らないんだけど」
僕が知らなくて納倉が知っている先生の情報があるという事実、結構胸にくるな。いや別に納倉は納倉で守森先生の良き友人というか悪友ぶってるらしいし、僕ににとっての納倉と似たような関係なんだとは思うがそれはそれとして、ね。なんか納倉に嫉妬してばかりだな。これが嫉妬なのか。
「仕事での付き合いとか、その程度らしい」
「……守森先生とお酒飲む日が来たりするのかな」
「そんときはウチも呼んで」
「……いいよ」
ま、納倉ならいいか。確かにそういう点で先生が僕だけを見てくれないみたいなことは仕方がないとはいえ辛いけど、納倉とこういう話ができるのはそのおかげなわけだし。難しいものだな。
ちなみに一番上のボタンを閉じていた理由ですが、冬風が当たるとゾクリとするからです。多分これは寒さのせいです。先生の歯が滑る感覚とか唾液の気化熱を思い出してしまうとか、そういうのではないはずです。きっと。