感情シンタイプ   作:小沼高希

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7月上旬、喫茶店、守森先生と

高校の教科書を見ながら、僕たちは話を続けていく。どこかでなにもないところからいきなり現れたような──守森先生が言うには「天下り」というらしい──説明がないかとか、曖昧になっている部分がないかとか。

 

守森先生の勤めている古塞出版は直接高校の教科書を作っているわけではないが、作っている会社とのつながりはあるらしい。教科書を作るには多くの人が必要で、時には信頼できる外部の人に見せてアドバイスを貰うこともあるのだとか。

 

そうしていると、コーヒーはすっかり冷めてしまった。まあ今日はそこまで寒いわけじゃないからあまり問題はないんだけれども。

 

「……あ、ごめん詩明せんせ、ちょっと今日に入れていた用事があってさ。そっち行っていい?」

 

スマホの時間表示をちらりと見た納倉が言う。

 

「……いえ、構いませんが。そうですね。申し訳ありません。忙しい時に呼んでしまって」

 

「いいって。あ、これはお代」

 

そう言って納倉は財布から取り出した北里柴三郎を二枚机の上に置く。

 

「いえ、私が呼んだんです。年上の社会人がこういうのは払うべきです」

 

「まあいいって、何なら悠の分にしてもいいからさ」

 

そう言う納倉はいつもと調子がどうにも違う。普通なら自分が食べた分の代金をきっかり一円単位で支払うようなやつなのに。

 

「……一枚だけ、もらっておきます」

 

「……では、それで」

 

二人の間で非言語的な様々な応酬があったらしい後に、守森先生が妥協案を出して納倉がそれを飲んだ。

 

「それじゃ、ウチは映画見に行ってくるんで、お二人はごゆっくり」

 

「後で感想聞かせてね」

 

「もちろん」

 

足早に去っていく納倉に手を降って正面を向くと、守森先生と目があった。

 

「……納倉さんと、仲がいいのね」

 

「そりゃあ三年間も一緒ですから」

 

「あれ、一年生の時は選抜クラスで、二年生の時は……理系選抜、になるんだっけ?」

 

「そうですね。三年も理系選抜になります」

 

「一年ちょっと離れた場所の細かい事、忘れがちだなぁ……」

 

そう言って守森先生は軽く伸びをする。

 

「私達もそろそろお開きにする?」

 

「……それもいいですけど、もう少し話しても僕はいいですよ」

 

予定もないし、守森先生と話すのは楽しいし、僕としては帰る理由もないし。

 

「そう。なら教科書は一旦置いておいて……なにか高校生活で悩みってある?」

 

「……受験、ですね」

 

「まあ、そうだよね」

 

守森先生はそう言って指を絡めたように合わせていた手の指を順番に入れ替えていく。一本一本指が上がって、別の指の間を通るようにして、最終的に不斉な指の合わせ方ができている。

 

「先生は、どこの大学でしたっけ?」

 

「んー、たぶん知らないところだよ?」

 

そう言って先生が言った大学名は確かに知らなかったので僕は何も言えない。

 

「偏差値で言うのはあまりいいことじゃないけど、あまり高いところじゃないかな。きっと、鹿染さんや納倉さんのほうがいいところに行くよ」

 

「けれども、どこに行くかよりも行った先で何をするかのほうが重要じゃないですか?」

 

「理論的には、ね」

 

先生はそう言って、少し間を開ける。

 

「……大学って、もし順当に行けば何年で卒業できるか知ってる?」

 

「四年、ですよね」

 

「そう。四年。たったの四年。場所に慣れて、何ができるかを試して、一回失敗しちゃったら何もできずに終わるような、短い時間」

 

「……先生は、大学が楽しくなかったんですか?」

 

「いえ?」

 

ものすごく意外そうな顔をされてしまった。

 

「あれ、今までの流れってそういうものじゃないんですか?」

 

「いや私のところって理系の大学だったから、教職取るのと並行して片っ端から授業入れまくったんだよ。おかげで地学も生物学も化学(ばけがく)も物理も数学も、あとは教育系の話も一通りやったし色々ソフトとかの使い方も触れたし……」

 

「満喫してましたね」

 

「だから、だよ。私は誰かに評価を貰うことを前提にいろいろなことをやっていた。だからそれを貰えない教員生活はちょっと、ね」

 

「……もっと、色々伝えたほうが良かったでしょうか?」

 

「というと?」

 

「守森先生の授業のここが面白かったとか、ここがわからなかったとか、もっと無駄な話をしてほしいとか、理科準備室でもっと手伝いたかったとか、その、色々と」

 

思ったより僕の中で守森先生の授業は色々と大きなものだったらしく、言葉が口から溢れていって止められない。

 

「……個人としては、欲しかった。それがあったら、私はまだあの高校にいれたかもしれない」

 

「なら」

 

「でも、私は大人で、教員だった。だからそういう言葉がないと動けないなら、私はあそこにいちゃいけなかったんだ」

 

「……そう、ですか」

 

「まあでも今は先生と生徒の関係じゃないからね。自由度は高くなった」

 

「先生が気楽になったようなら、何よりです」

 

「まあもし教員だったらこうやって一緒に食事なんかしたら危ないしね。今どきはこれだけで停職になったりするし、恐ろしい時代だよ」

 

「時代かどうかは知りませんけど、面倒ですね……」

 

「元教え子に今の企画の評価貰って、個人的に奢る分には問題ないはずだけどね。もし何か言われたら連絡してよ。番号は知ってるでしょ?」

 

「ええ、メッセージもらったあれでいいんですよね」

 

「そう。どうせ会議とか打ち合わせじゃなければ仕事中に見るから、そっちが授業中じゃなければ好きに送って」

 

たぶん守森先生は評価がほしいのだろうな。かつてできなかった分だけ、色々と送ってみよう。

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