感情シンタイプ   作:小沼高希

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2月中旬、教室、納倉と

「悠が遅刻とは珍しいな」

 

なんかハードカバーの本を読んでいた納倉が言う。

 

「かなり眠かったから」

 

「ま、しっかり寝るのはいいことだ」

 

ちなみにもう授業は事実上無い。期末試験もない。ただただ学校に来て特に何か重要なことをやるわけでもない時間がただただ過ぎていくだけだ。

 

「あと一週間だけど、準備は?」

 

「ウチがこんなのんびりと本を読んでいるってことからわからないかね」

 

そう言ってニヤリと笑う納倉。

 

「なるほど、あまり良くないか」

 

「一通りの勘みたいなものはいい水準になったんだがな、基礎力の欠如がどうしても」

 

「なら単語帳とか読めよ」

 

「英語よりもウチは数学の方が点取りやすいと考えてね、数学系の本を読んでいる」

 

そう言って納倉が見せる背表紙には解析学の文字。

 

「内容は?」

 

「まあ微積分みたいなもんだよ。だいたい」

 

「だいたい?」

 

「もう少し細かく定義からやる。実際の所高校数学の証明って怪しいところがあるんだよ」

 

「へぇ」

 

「あまり興味ないのか?」

 

「いや厳密な証明が僕に必要になることはあまりないかなって……」

 

統計とかをやるのは知っているが、そういうのは基本的にコンピュータを使うものだろうし。もちろん基礎は触ったほうがいいとはわかっているが、深く掘り下げすぎるといくらでも深掘りできる事も知っている。

 

「まあいいか。ウチがやろうとしている物理だって、結構本職の数学やってる人から見ればいい加減らしいし」

 

「そうなの?」

 

「んー、なら例を出すか」

 

納倉は財布から五円玉を取り出し、ポケットの中から抜いたらしい糸を器用に通す。

 

「そういう糸って、あまり抜かないほうがいいのでは」

 

「どうせあと数えるほどしか着ないんだ」

 

「そりゃそうだけどさ」

 

まあでも納倉と制服を着てこういう話を教室ですることがなくなると、どこで会話するんだろうな。いや大学か。大学にも教室ぐらいあるだろ。

 

「単振り子を考える。振り子の周期を決める要素は?」

 

揺れる五円玉を僕に見せながら納倉が言う。ふと目で追いかけてしまう。

 

「紐の長さ、だけ」

 

小学校でやった。糸の長さを変えて、重りの重さを変えて、振り幅を変えて。大きな振り幅だとちょっと遅くなるみたいなことを言っていた人もいたけど、結局その測定はおかしいってなったんだったかな。

 

「確かに計算でもそういう結果は出せる。ただ一つ、条件付きだがな」

 

「条件?」

 

「$\sin \theta = \theta$ とみなせるほど $\theta$ が小さい場合」

 

歯と舌の間をすり抜ける風の音がする。くるりと回る五円玉。

 

「ええと、微分したら確かに原点付近では傾きが1だから、二つはだいたい同じ……でいいのかな」

 

「そ。何回か微分していって、その値を使ってマクローリン展開というのをすると無限次の多項式の形にできるんだが、その時の項は奇数項だけだ。エックス引く六分のエックス三乗足す百二十分のエックス五乗引く五千四十分のエックス七乗……」

 

柔らかい言葉の羅列に意識がふわりとしてくる。なんかこれ大丈夫なんだろうか。

 

「階乗……?」

 

6、120、5040。最初の二つはともかく5040という数字は7!以外ではあまり出てこない。

 

「そ、微分するたんびに指数が減るからそうなる。まあそれはいい。実際のところ、力の分解とか座標系の設定とか面倒なことがあるんだが省略するか。高校レベルでは最初の一次の項だけを気にする」

 

「うん……」

 

「なんで $\theta$ が大きくなるに連れて計算が狂ってくるのさ。振り子が大きく振れるほど、下向きに引っ張る力が近似していたよりも弱くなる。その分だけ、ゆっくり振れるわけだ」

 

納倉が特に手を動かしているようには見えないけど、少しづつ揺れが大きくなって行っている気がする。こういう事が起こるんだな。

 

「うん……」

 

「いや起きろ」

 

僕の耳元で納倉にパチリと指を鳴らされて思わず背筋を伸ばしてしまう。今までのなんか重いというか暗い雰囲気が身体から抜けた。

 

「……え、あれ、なにこれ。催眠術?」

 

「いや理論上はトランス状態になる可能性はあると思っていたが本当にウチの話聞いてなかったんだな……」

 

そこらへんの知識は一応生物やってる身だしありますとも。単調なリズムとか聞かされると脳の処理がおかしくなるやつ。最近はこれをうまく起こせれば没入型VRの体感精度を上げられるとかいう話があったな。

 

「いや納倉の話を単調だと思っていたわけじゃなくて」

 

「大丈夫だよ、ウチは意図的にそういう話し方をした。まあまさか本当に危なくなるとは思っていなかったが」

 

「……そんなに危なく見えた?」

 

「寝不足なんだろ、寝ろ」

 

「うん……」

 

「いや駄目だなこれ。動け。歩け。駅一つとは言わないが、ちょっと意識して階段とかで動かないとまずいぞ」

 

「うん……」

 

「大丈夫かな……」

 

実はちょっとわざとぼんやりしているところはあります。慌てる納倉を見るのは実は少し楽しい。まああまりいい趣味ではないってことはわかっているので、もう少し楽しんだら交感神経を優位にしましょう。

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