感情シンタイプ   作:小沼高希

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2月下旬、守森先生の家、二人で

「ちょっと待ってね!ゆっくりだらだらしたいからこれ終わらせちゃう!」

 

守森先生の指が今までないほどに早くキーボードを叩いている。ガシャガシャという音が止まらない。

 

「見ていいですか?」

 

「半径一メートル以内に入ったら手が出るかもしれないぐらいには理不尽なストレスと怒りと衝動性があってそれぶつけてるからやめて」

 

「はい」

 

かなり怒気の詰まった声だったので離れておこう。

 

試験は明後日と明明後日。できることが全部できたと断言するつもりはないけれども、今日と明日はそこまで気合を入れないつもりだ。体力勝負である以上、あまり疲れすぎていてもいけない。

 

とはいえ今のうちに単語帳を見ておこう。もうすっかり全体のページがくたびれて、よくわからない汚れがついている。三年生に入ってからずっと使っていて、ほぼ毎日開いていたからそうもなるか。

 

「よっしあともう少し!」

 

先生の声がする。イライラしているのか、膝が揺れている。僕のために、先生に負荷をかけてしまうのを申し訳なく思うところはある。けれどもそれを先生に言った所で気にするなとしか返されない気がする。今なら多分黙れって言われるかもな。

 

キーボードを叩く音に少しづつ間隔が交じる。多分書いた文章を見直して、どうやって結末に持っていくのかを考えているのだろう。今書いているのは書評らしい。本の紹介文みたいなもの。

 

そういえば以前聞いたのだが、こういった書評を中心に掲載している新聞があるという。いや僕だって新聞に書評欄があることぐらいは知っているけれども、もっと多い。というかほとんどが本の紹介みたいなものだとか。さすがに日刊ではなく週刊だけど。

 

「おぉわったぁ!」

 

ひときわ強いキーを叩く音が響いて、先生が声を出す。

 

「お疲れ様です」

 

「まあ実際は後で推敲しなくちゃいけないんだけど、これで君とゆとりを持ってくっつける」

 

そう言って先生は席を立ち、ためらいもなく自然に手を伸ばして僕を抱きしめる。あまりにスムーズな動きだったので身構えることもできなかった。先生に見惚れていたとか、くっつけるって言葉に変な意味を見出してしまったとか、そういうのではない、はず。

 

「ちょっとまだ興奮が残っているからごめん、正気になるまでこうさせて」

 

僕にかかる体重。ええと先生には重力がかかっていて、足が先生を支える力と僕が先生を押す力で釣り合っているのかな。でも先生は僕にもたれかかるようにしているし、水平方向の力の釣り合いってどこから来ているんだろう。

 

「……どうしたの?」

 

「いえ、ちょっと物理の問題を考えていて」

 

「鹿染さんが?」

 

「ええ」

 

「私から教わったのが最後になるのかな」

 

「そうですね、物理基礎だけじゃなくてちょっと物理も入っていましたが」

 

「それで考えていた『物理』ってどっちの意味?科目としての?それとも分野としての?」

 

「分野です。教科としては物理基礎だと思います」

 

「物理基礎は教科じゃない……っていうのは関係ないか」

 

「どういう意味ですか?」

 

「教科は理科、科目は物理とか生物とか化学とか、単元は更にその下」

 

なるほど、児童と生徒と学生の違いみたいなものか。守森先生は先生だったのでそこらへんの言葉には少しきびしいというか面倒くさい。

 

「で、具体的には?」

 

先生の言葉にさっき何考えていたんだったかなと思いだそうとする。腕の力が結構強い。

 

「そうでした、僕が先生を押す水平方向の力って何で釣り合っているのかって」

 

「摩擦力。だから私が君の方に力をかけるとずるずるとすべっていく」

 

そう言って実際に先生の接地点が僕から通さがっていく。ちょっと辛いので先生の腋に手を入れて持ち上げるようにしてなんとか姿勢を維持する。

 

「辛いのはわかるけど、私じゃなくちゃいけない?」

 

先生がちゃんと立って、僕と目を合わせて言う。

 

「……嫌でしたか?」

 

「んー、どこまで正直に言うかな……。人間関係のためには許容されるべき嘘もある、っていうのには同意する?」

 

「同意しますが嘘をついていますって本人の前で言っては台無しな気もします」

 

「たしかにそうだ」

 

そう言って、先生はまた僕に体重を少しかける。

 

「……横になります?」

 

そう言ってしまう自分にどれぐらい下心みたいなものがあるかは正直わからない。

 

「いや、今はこうさせて。君が辛いのも、キツい時期なのも、誰かに頼らないと耐えられないっていうのもわかっている。それでも、私も、程度の違いがあるとは言え、辛いってことは認めてよ」

 

「……わかってます。むしろ僕より先生のほうが仕事なんですし」

 

「いや生涯年収とか考えれば君のほうが金銭的なとか仕事とかそういう方面で考えたら重大な問題なので……」

 

そう言われて、あくまで受験が終わりではなく始まりですら無いことを思い出す。あまり直視したくないんだけどな。

 

「ああ、でも来てほしくなかったとは思わないよ。鹿染さんの熱が欲しかった。私を肯定してほしかった。……私はさ、あまり良くない大人かな」

 

「そういうふうに肯定を求めるのはいいことだとは言えませんが、それはそれとして僕は先生を肯定しますよ。お疲れ様です」

 

そう言って、僕は先生を抱きしめ返した。

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