『私』が大河内と出会った事件の顛末は、『私』の姉の形見を巡る失敗談だった。
縦書き推奨。
大河内という少女と、喫茶『寄り怪』の出会いは以下のようになる。
私は、自殺した姉の葬儀参列者の芳名帳に、見覚えのない名前を認めた。「大河内 冴」。まるで明朝体のような固い筆跡の、女性名だった。姉の友人にそんな名前はなかったように思えたが、何せ駆け落ちして家を飛び出したきりだったので確認のしようがない。香典返しを郵送するのは簡単だが、その名前に打ち払い難い興味を惹かれた私は、芳名帳の住所を直接訪ねることにした。
東京都品川区、大崎某所。私の実家からさほど離れていないそのマンションに、しかし目当ての女はいなかった。代わりに出迎えてくれた彼女の母親が、用がある人はそこに案内するように冴から言われてるんです、と香典返しと交換に渡してくれた住所のメモを頼りに、一軒の喫茶店にたどり着いた。看板の「寄り怪」という奇妙な店名は、どうも「よりみち」と読ませるらしい。「径」と書き間違えたのかと訝しみつつすりガラスが嵌め殺しになったドアを開けると、乾ききった木製のドアがぎいと呻いた。ドアが起こした風が、これまた奇妙な張り紙をぺらりと揺らした……『探偵おります』。
仄暗い店内を見回す。実にシュールな内装である。カウンター席では丸椅子、照明と卓上のサイフォンが全て平行に並び、磨き上げられたそれらのひとつひとつがひよこ電球を反射して目もくらむばかりに輝いている。衝立で仕切られたボックス席では、そのひとつひとつにぼんやり灯ったランプを、革のソファがいっそう赤みを増しながら照り返している。そして一番何よりも超現実的なのが、扉だった。カウンター内やカウンター下を含む前後左右の壁、天井に至るまで、大小も意匠もさまざまな扉、扉、また扉……扉が客ででもあるかのように店中にひしめき合っている。店主がいらっしゃいませと声をかけてくれたおかげでやっとここに来た用を思い出すことができた。
「後つかえてんだけど」と不満を隠しもしない声をかけられたのはその時だ。
「ああ、すみません」とすかさず横に避けると、すたすたとすり抜けていくその少女の横目とかすかに目が合って、私の記憶はやっと蘇った。そうだ、こいつは。パサパサのぼさぼさでツヤのない黒髪、前髪からときどき覗く眉毛はゲジゲジで、野暮ったい黒ぶち眼鏡をかけた目にはクマができ、深いドブの水面のような虚ろな瞳。葬儀のときに着ていたセーラー服までそのままだ。制服姿のくせに仕事関係の列に並んできたのがあまりにも場違いだったのをやっと思い出した。少女の後ろ姿は遠ざかって、奥のボックス席に入ると「用があるんだろ」と細い手指で手招く。机を挟んで向かい合って座る二人。
「さてまずは、この度は……」とお辞儀する大河内に、私はつられて頭を下げる。前髪の下から上目遣いに見てくる、そのどろりとした真っ暗な瞳がどうしても観察されているようで落ち着かなかった。
「大河内さんは、姉のどういう仕事相手だったのでしょう?見たところ、学生のようですが」
私が会釈しつつも訝しむと、大河内は居住まいを正して名刺を机の上に差し出してくる。味気も素っ気もない真っ白な名刺に書かれているのは『探偵 大河内冴』という肩書と名前、そしてこの店の住所、そして携帯電話のものと思しき電話番号だ。
「ああ、じゃあ入り口の張り紙にあった『探偵』というのが」デザインセンスもへったくれもあったもんじゃない、と内心困惑しつつ目の前の少女に視線を戻すと、彼女のドブのような瞳と目が合った。
「私はあんたの姉の浮気調査をやってた。いろいろ言いたいのはわかるけど、訳あってどうでもいい他人の不可解な困りごとを聞いてあわよくば解決しているわけ。で、お前の姉もそのひとつだった」
風貌に似合わずお喋りな彼女の口から流れ出す情報の洪水を、しかし私はなんとか飲み込もうと努めた。……ひとつを除いて。
「なるほど?では事情には深く踏み込まないことにしておくとしても、事件については詳しく聴く権利がありそうですね。それと、『どうでもいい』とは聞き捨てなりません。訂正をお願いしても?」
「ん?ああ、お前の姉の事件がどうでもいいって意味じゃない。どうでもよくはなくなった、のほうが近いな。ゆっくり聴いていけよ、茶と茶菓子ぐらいはおごるからさ。うまいぜこの店。時系列順に話そうか。まず、さっきお前の姉の浮気調査をしていたって言ったけど、正確にはお前の姉の彼氏――Aとでも呼ぼうか、守秘義務ってもんがある――の浮気調査なんだ。彼氏が浮気してるんじゃないかと疑っていた。本当にAを愛していたみたいでね。依頼に来た時もどうでもいい馴れ初めをそりゃもう長々と――おっと失礼――で、そのときに見せられたのがこの赤い鈴だ」
「……なぜ赤いんです?」
大河内は運ばれてきたスコーンをさくりと切り出し、クロテッドクリームを塗りたくって口に運んだ。うんうまい、と頷いてコーヒーで流し込むと、こう返した。
「さあね。付き合い始めてから二人で暮らすようになった今までの二人の愛の証とか言ってたしそのイメージから連想したんだろう。で、Aが急に単身赴任で離れて暮らすことになった。たいそう悲しんでいたけど、引き止められなかったそうだ。しばらくは何の問題もなかったが、Aと連絡がつかなくなったというんだな。そこで依頼というわけだ。結論から言ってAは浮気をしてて、それも何股もかけてたよ。で、Aは実はお前の姉とは別口で依頼に来てたんだ。俺の浮気がばれないように工作しろってね。こうして私の元に相反する依頼が舞い込んだわけだけど私はお前の姉の肩を持った。メチャクチャ泣いてたよ」
「……そうなると、あなたが姉の自殺の遠因ということになりませんか?」
「冗談じゃない。どう考えても自殺の原因はAのほうだろ。というか口を挟むんじゃあないよ。で、だ。お姉さんこりゃしばらく泣き止まないなと思ったら、急にケロリとしてね。ありがとうございました、でも私やっぱり彼のことを愛してます、一緒にいたいんですって代金置いて帰っちまってね。その時の目がどうも危ない感じがしたんで、翌日家に行ってみたら案の定首吊ってた。それが『この前』。ここまでいい?話繋がってる?」
「……ええ、まあ、ええ……」
「お前、ちゃんと最後まで聴けよ?中座とかするなよな?」
「……あなたは。あなたは、あなたは今『危ない感じがした』と言いましたが……止めようとは思わなかったのですか?」
「思ったよ。だが所詮依頼人と探偵の関係だ。それなのにお前、死ぬなよって言われたほうはめちゃくちゃ複雑なの知らんだろ。知らん人種だろさては」
「知りたくもないですよ!」
「だろうな。どこまで話したっけ?そうだ、Aにそのことを伝えたらめちゃくちゃ喜んでてね。なんでも面倒くさくてしょうがない女だったから死んでくれてスッキリした、とさ。何が一緒にいたいだよバカバカしい、とも言ってたね。やっぱりいったん休む?なんか頼むか?いい?そうかい。じゃあ続けるが、お前の姉がどうでもよくはなくなったのはこのあたりからなんだ。Aはさ、相変わらずあっちこっちで女をとっかえひっかえしてた。その浮気相手の一人の家である日Aが寛いでいるとどこからか、りん、り、りぃん、と鈴の音がしたそうなんだ。どうもAはあの赤い鈴を全員に渡していたようなんだな。だからまあ当然といや当然だと思いかけて、でも考えてみるとその女にくれてやった鈴はその女の携帯に結わえてあって、ふと見ると目の前の机の上にその携帯が置いてある。鳴りようがなかったんだ。じゃあAが持っているものかっていうと、こっちも携帯に結わえてポケットにしまってあるからそれも違う。どちらも、鳴りようがない。気のせいだと思おうとしたそうなんだ」
「……風鈴か何かじゃなかったんですか?」
「話を急ぐんじゃあないよ。とにかくAはな、そのときは気のせいだと思おうとしたそうなんだ。鈴の音は続けて聞こえたそうなんだ。玄関から、足音みたいに。そしてAがいるリビングの扉の前で止まった。まあ意を決して扉を開いてもこの赤い鈴が転がっていただけだったそうなんだが。で、さすがにAも不気味に思って別の女の家に行こうとした。でも連絡を取ると女は『早く来て、変な鈴の音がする』と言ったそうだ、どの女もだ。どうすりゃいいこれじゃ鈴の音から逃げられないってことで追い詰められて私のところへ戻ってきてこの一連の話をしたわけ」
「……それで、大河内さんはなんてお返事を?」
「そう、そこで私も困っちまった。とはいえ依頼は依頼だ。原因について心当たりはないか私はわかったうえで聞いたけど、多過ぎてわからないとのたまうんだよな。ゴキブリは1匹見たら30匹とかいうけど私が確認できた浮気の範囲っていうのは氷山の一角だったのかもしれないな。話がそれた。じゃあ心当たりのうち最近死んだり行方不明になった人は?と聞いたところでやっとお前の姉のことが思い浮かんだらしい。となれば彼女の家に行ってみようということで、あいつを半ば無理やりお前の姉の家まで連れて行った。うーん。いや、歯切れが悪くなったな。誰だって失敗談話すときは話しづらいだろ?ちゃんと話すからそうイラつくなよ。Aがさ、家の扉の前で立ち止まったんだよな。『入りたくない』って。もちろんそういう訳にはいかない、これは調査なんだから、ってAの背中を押して家に入った。まあお蔭様で片付いた部屋だった。で、リビングについたときだったよ。Aが膝ついて座り込んだと思うと何かを探すんだよ。『鈴の音がする』って。『止めてくれ』って。顔見るとあいつ真っ青でさ。耳を掻きむしりながら鈴を探すんだよ。ばりばりーって。文字通り血がにじむほど掻きむしった。そのうえ叫ぶんだよ、うるせえって。耳掻きむしりながら何度も叫んで、そのうち悲鳴を挙げながら家から駆けだしていっちまったのさ」
「……それだけだと失敗談というわけでもなさそうだが、Aは見つかったんですか?」
「なんとかね。閉鎖病棟に入ったよ。どういう隙があったのか食器で耳を貫いて自殺しちまったのさ。探偵、依頼達成ならず、というわけ。商売あがったりだ、全く!とはいえ道具に情念がこもる、という証明はできた。この事件は私にとって、どうでもいいものではなくなったのさ」
りん。大河内のポケットから机に投げ出された鈴が笑う。艶めいたその赤が臓物のように見えて目を逸らした。