あの忌まわしい夜から数週間が経った。
結果としてカネキは死なずに済んだ。
あのあと鉄骨が落下したことに気付いた人が救急車を呼んでくれたため、一命を取り留めたのである。
だが、カネキは腎臓の損傷が激しく、移植手術を受ける必要があった。そして移植された腎臓は、なんとリゼのものである。
幸い、術後も体調に異常はなく晴れて退院することになった。
病院のエントランスにはカネキと医者以外には僅かな患者や看護師しかいなかった。
「それでは、嘉納先生いままでお世話になりました」
数週間の入院が必要だったが、それも今日で終わりだ。カネキは最後にお世話になった医者に挨拶をしている。
「うん、お大事にね」
嘉納という医者は人が好さそうな笑みで、それに答える。そこで別れるはずだったのだが、何故かカネキは嘉納の顔をジィィッと見ていた。
「…? どうしたんだい、カネキくん」
「……いや」
カネキの奇妙な態度に嘉納は首を傾げる。
「あのォ……ちょっと、聞きたいことがあるんですよねェ」
「なんだい? 私にわかることなら答えよう」
「リゼ…神代利世さんのことなんですけど、彼女、何かありませんでしたか…?」
カネキが静かな威圧感を放ちながら、質問をすると嘉納は少し訝しげな顔をした。
「いや…彼女には何も変なところはなかったと思う」
「……本当ですか? 移植した腎臓にも?」
「……ああ、なかったよ」
「彼女の検査…とかはしたんですよねェ?」
「もちろん、そして問題ないと判断したから君に移植したんだ」
嘉納は自分のしたことに間違いはないと信じているからなのか、カネキの態度に動じている様子はなかった。
「最後に…しつこいようですがね。もう一度聞きます……」
「……」
「医者として貴方の名誉に誓ってくれますね! 嘉納先生ッ!」
カネキは嘘は許さないという風に言葉を叩き付けた!
随分と不躾な態度だが、嘉納はなんということはないという風に小さく笑った。
「いいだろう、誓おうじゃないか」
嘉納は堂々と言い切り、その態度には全く動揺の色が見られない。
そこでカネキは嘉納に対して頭を下げた。
「…ありがとうございます。失礼なことをしました」
「なに、気にすることじゃない。あんな事故があった後だ。精神的な疲れもあるだろうから、無理はしないようにね」
嘉納は穏やかな声音でそう言うと、仕事に向かうためにその場を離れた。
カネキは病院を出て帰宅するために歩き出す。
(嘉納先生に精神的動揺は無いように思えた……)
カネキは歩きながら、さっきまでのことを考える。
(あれだけ威圧的な態度で質問したというのに…つまり、リゼさんが喰種だということには気付かなかったのか)
嘉納がリゼのことを喰種だと知っていながら腎臓を移植したのではないか。
さっきまではそう思っていたが嘉納の態度は嘘をついているとは思えないほど堂々としたものだった。
カネキは顔を見ただけで嘘がわかったりはしないが、ひとまず信じることにした。
トゥルルルル。
そのとき、カネキの携帯がメールを受信した。それはヒデからのものだった。
「退院祝いにビッグガール、しかもヒデのおごり…か」
ヒデがビッグガールでおごってくれる。魅力的な誘いだった。
普段ならば、よほどのことがなければ断ることはない。
しかし、カネキは断りのメールを送信した。
+
それから暫くしてカネキはスーパーに行き、いくらかの食料品を買って家に帰った。
家は一人暮らしなため、それほど広い部屋ではないがきちんと整頓されている。本棚には高槻作品や様々な分厚い本があり読書家であることがわかる。
だが同じ棚にジョジョの奇妙な冒険が置かれているのは、すさまじく違和感があった。
「さっそく試してみるか」
まず、カネキは家にあった食べ物とスーパーで買ってきたものをすべてテーブルに並べた。その量は相当なもので一人で食べきることは余程の大食いでなければ不可能だろう。
「まずは…これ」
その中から適当にパンを取るとカネキは少しちぎって口に含んだ。
「マズい…」
今度は牛乳を飲む。
「これも不味い」
リンゴを齧る。
「マズいな」
ポテチを食べる。
「これもか」
納豆。
「ダメだ」
米。
「マズッ」
サクランボ。
「レロレロレロレロレロレロレロレロ…やっぱマズイ」
ブドウ、イカスミスパゲティ、ヤシの実の果汁、ドネル・ケバブ、ベビーフード、モッツァレラチーズとトマトのサラダ、プリン、ピッツァ、チョコレート、ヒラメのムース、ローストビーフサンド、イタリアン・コーヒー、ごま蜜団子……。
「マンずうう~いっ」
思いつく限りの食べ物を食べるが、その全てが吐き気を催す不味さであった。
カネキはため息を吐く。
「病院食が不味かった時点で怪しいとは思っていたけど、まさか何もかもとは……」
それはカネキにとって、とてもショックな事実だった。
「ジョジョに出てきた料理が食べられないなんて……あ、それにハンバーグも食べられないじゃないか…OH! MY! GOD!」
辛い、あまりにも辛すぎる事実。カネキはその事実を受け止めたくなかった。
意外と余裕があるようにも見えるが、それは気のせいだろう。
「コールタールみたいにまっ黒でドロドロで同じ量の砂糖を入れて飲む…そんなイタリアン・コーヒーが好きだったのにィーッ!」
カネキが叫ぶと、隣の部屋から『うるせーッ』という怒鳴り声が聞こえてきた。どうやら近所迷惑になってしまったらしい。
だが今のカネキにそれを気にする余裕などない。
テーブルにある料理は片づけて空腹を紛らわすために外に出た。
「もう夜か…結構長いこと味見をしてたんだな」
外はもうすでに暗い。しかし、家の中に籠っていてもなにもすることはない。
特に目的があるわけではないが夜道を適当に歩く。
(僕がこうなってしまった原因は……やっぱり、移植された腎臓だよなァ)
カネキは歩きながら自分が食べ物を食べられなくなってしまった原因を考え始めた。
病院で食べ物が食べられなかったとき、最初は不思議なだけだった。しかし、リゼの腎臓を移植されたということを聞いたときカネキは何となく気づいてしまった。
(ジョジョの奇妙な冒険では吸血鬼のエキスを体に注入されると、注入された者も吸血鬼になるという話がある…僕の場合は喰種の腎臓だけど、おそらく同じことが起こったんだ)
つまり喰種であるリゼの腎臓によって自分は喰種になってしまった、というのが、カネキの考えであった。
(入院中に喰種のことを少し調べたけど、“ヒトの食べ物は食べられず、ヒトからしか栄養を摂取できない”とあった…もし僕が喰種になってしまったとすれば……)
そんなことを正直に人に言えば喰種捜査官に捕まるかもしれない。
おそらく、良くて喰種収容所で一生を過ごすか、悪ければ殺されるか実験動物だろう。
いずれにせよ、いい結末は想像できない。楽観的に考えることはできなかった。
「だからといって、喰種として生きていくというのはなァ……ん?」
カネキは何か揉めている二人を見つけて足を止める。高校生くらいの少女にサラリーマンらしき男が絡んでいるようだ。
「遊んでくれよぉ」
「ちょっと…はなしてっ…」
場所は人気のない暗い路地で、見るからに男は酔っており腕をつかまれた少女は困っているようだった。
そのうえ、少女のことをカネキは見知っていた。
(あの子、あんていくのバイトの子じゃあないか…確か“霧島トーカ”って名前だ)
女性が男に襲われている。これを見捨てることは紳士としてあるまじき行為である。
脳裏に浮かぶのは、ジョジョの奇妙な冒険の主人公であるジョナサン・ジョースターがいじめられていたエリナを助ける場面。
カネキは空腹だったことも忘れトーカを助けるために走りだした。
「やめろォ!! 彼女を離してやるんだ!」
カネキは男に全力でタックルをした!
すると、男は猛牛の突進を受けたかのように、ドッガアアアーン!!と、ぶっ飛んだッ!
錐揉みしながら舞う男!
「がッ…!」
男は勢いよく地面に突っ込み、そのまま動かなくなった。
隣にいるトーカは呆けている。ついでにカネキも呆けていた。
「……え?」
カネキは自分でやったことにも関わらず呆然としていた。
確かに全力でタックルしたが、これほど派手に男がぶっ飛ぶとは夢にも思わなかったのだ。
「えーと…ありがと」
トーカが話しかけてきたおかげで、カネキは我に返る。
「ああ、いや気にしないで」
カネキはそう言いながら男の方に向かった。生死の確認のためだ。トーカを助けるためとはいえ殺してしまっては後味が悪すぎる。
男を観察すると、しっかりと呼吸をしており気絶しているだけのようだった。カネキが安堵したとき背後のトーカが口を開いた。
「そいつ…喰うの?」
「……なに? 喰う…だって?」
あまりにも自然にトーカから喰うという単語が出たことでカネキは耳を疑った。
しかしトーカは何食わぬ顔で話を続ける。
「え、いや、アンタ喰種でしょ…? 喰うためにこのおっさん、仕留めたんじゃないの?」
「まて…なぜ、僕が喰種だと思った…?」
「そりゃ匂いだけど…つーか、アンタどっかで……アレ?」
そこで言葉を切ると、トーカはカネキの顔を確認し、そして気づく。
「アンタ…何で喰われてないの?」
「……!」
「えっ…だってリゼに………? でも、その眼…」
カネキは若干混乱しながらも、状況を理解し始めた。
(彼女はリゼさんを知っている…そしてヒトを喰うことを当然とし、さらに“匂い”という発言! 彼女も喰種と考えて間違いはないッ!)
トーカが喰種だったということには確かに驚いた。しかしカネキにとって一番重要なことは他にある。
彼女はなにがなんだかわからないという顔をしているが、そんなことには構わずカネキは口を開いた。
「まさか、君が喰種だったとはね……」
「…ッ」
トーカは奇妙な威圧感を感じ息をのんだ。気のせいかドドドドドという音が聞こえる気がする。
トーカはカネキを得体のしれない相手と判断し警戒を強めた。その際に紅く染まった瞳は彼女が喰種だということを如実に表している。
カネキは腕を前に突き出し、待ったをかけた。
「オイオイオイオイ…野良猫みたいに警戒するんじゃあない」
「…アンタみたいなの警戒するなって方が無理があるんだよ」
「そりゃあ、君からしてみれば『人間だったはずの男が喰種になってて驚きッ』ってかんじだろうけどさァ。ここはひとまず僕の質問に答えてくれないか?」
「……そんなん質問しだいだろ」
「たいしたことじゃあない…聞きたいことは色々あるけど重要なのは、たった一つだけさ……」
カネキは一呼吸置いてから眼光を鋭くした。
「君は敵かな?」
もし敵ならば容赦せん――と言わんばかりの威圧にトーカは冷や汗を流す。もしも戦ったとしても負ける気はしないが何かヤバいと喰種の本能が告げていた。
「…喰種であることがバレたからには殺す……でもそれはアンタがただの人間だったらだ」
「とりあえずは敵じゃあない…ということか」
カネキから威圧感がフッと消える。どうやら戦うという展開は避けられたようだ。
「次は私が質問する……アンタ人間だったはずだろ。何があったんだよ?」
「……少し話が長くなりそうだから場所を移そう…いいかな」
もう夜も遅い。路地で長話はする気になれなかった。
トーカは警戒心からか少しだけ迷う様子を見せたが、
「…わかった」
と了承した。
+
「……つまり、リゼの臓器を移植されたから喰種になった、ってこと? 信じらんないんだけど…」
「僕だって信じたくないけどそうとしか考えられない…それより僕は喰種があんていくに集まっていたってことに驚いたよ」
カネキとトーカは適当な公園に場所を移し情報交換をしていた。夜の公園に人はいない。
二人がベンチに腰かけて話をしている様子は意外と穏やかなものだった。
「ところで、喰種って人間以外食べられないのかな? 身近にあった食べ物は全部食べてみたんだけど、ぜんぜん食べられるものがないんだ」
「ああ、基本は人肉しか食べられないから。でもコーヒーなら飲める。だから喰種が喫茶店やってんだよ」
「ん? おかしいな、コーヒー飲めなかったけどなァー」
「…砂糖とか入れたんじゃないの?」
「あ、入れた…砂糖たっぷりのイタリアン・コーヒーさ」
「それじゃ無理に決まってんじゃん」
「マジィ!?」
コーヒーに砂糖を入れられないことでガクッとうなだれるカネキ。トーカは呆れたような顔をした。
「…ずいぶん呑気だな」
「え、いやいやいや僕のショックはなかなか大きいよ。呑気じゃあないって」
「呑気だろ、そんなどうでもいいことでショック受けるなんて」
カネキはそうかなァという感じで首を傾げている。トーカはため息を吐くとベンチから立ち上がった。
「とりあえず、今度あんていくに来いよ。店長が面倒見てくれると思う」
「ああ、そうするよ。今日はありがとう」
「別にたいしたことじゃないし……じゃあな」
そういうとトーカは公園から出ていき、それに続くようにカネキも家に帰ることにした。
今日は少し疲れたから家に帰ったらゆっくりしよう。
「んじゃ、帰ってジョジョでも読むかな」
カネキにとってのゆっくりはジョジョを読むこと。
どんなときでも彼は相変わらずのジョジョラーである。