〈追記〉大変申し訳ないのですが、後の物語に影響がでてくるミスがあったために大幅に改稿しました。大きな変更点はカネキが物語の後半に登場しないという点です。何卒ご了承頂けると幸いです。
その日、カネキはあんていくに向かっていた。
あんていくは表向きはただの喫茶店で人間の客もよく訪れるが、実際は二十区の喰種が集う場所でもある。
喰種となってしまったカネキが一人で生きていくには、あまりにもわからないことが多い。そのため、トーカに勧められ、あんていくを頼ることにしたのだ。
「……そもそも、あんていくに通わなければ喰種に目をつけられることもなかったと考えれば、少し複雑だなァ」
ブツブツと呟きながら歩いているカネキの顔は少々不機嫌そうである。
それもそのはず、彼は楽しみにしていた高槻泉のサイン会に行かずに、あんていくへ向かっているからだ。
最も好きな漫画はジョジョの奇妙な冒険だが、最も好きな小説は高槻泉の作品。それほどに敬愛している作家のサイン会が今日だったのである。
最初は空腹をコーヒーで抑え、サイン会に行こうと思っていたのだが、大学で周囲の人々が美味しそうに見えてきたので断念した。
「サイン会、行きたかった…」
未練たらたらだが、そんなことはお構いなしに腹は減る。
もしうっかりして人を食べてしまってはサイン会どころではない。諦めるしかないのだ。
カネキが、どうしようもないことを考えながら角を曲がるとあんていくの看板が目に入った。
そのまま、あんていくの扉の前まで歩き店内を覗きこむと、そこにはチラホラと客の姿が見える。
(あの中に喰種がいるかもしれないとは考えたこともなかった……警戒心が薄かったというわけか)
トーカはひとまず信用できそうだったが、リゼの件もあるため喰種を無条件で信頼するというわけにもいかない。
しかし頼らないわけにもいかないのが厄介なところだ。
多少の覚悟を決めてカネキは扉を開けた。
「いらっしゃいませ…ってアンタか」
行儀よく挨拶をしたトーカは店内に入ってきたのがカネキだとわかると、途端に素に戻った。
「やぁ、トーカちゃん。さっそくで悪いんだけど店長に会わせてくれる?」
カネキがそう頼むと、トーカは忙しそうにしながら、
「ちょっと手が離せねーんだよ。店長なら奥にいるからアンタ一人で行ってて」
と言って店の奥を指さす。
ぶっきらぼうな態度だが、邪魔をする気にはならないので、カネキは「わかった」とだけ告げて奥へ向かうことにした。
店の奥に入ると、そこには何やら作業をしている店長、芳村の姿があった。
芳村はカネキに気づくと作業を中断した。
「君がカネキくんだね?」
「そういう貴方は芳村さん」
二人は笑みを浮かべながら挨拶を交わす。
「何度か会っていますけど、ちゃんと挨拶するのは初めてですね」
「君とは、お客さんとしてしか接したことがなかったからね」
カネキが客として訪れていた頃の芳村の印象は『風格のある老紳士』だった。
それは今も変わりはしないが、改めて話してみると底知れない力を感じる人だと思った。
「しかし、リゼちゃんの臓器を移植されるなんてね……大変だったろう」
芳村のその言葉にはまぎれもなく、労りの気持ちが込められている。カネキは意外そうな顔をした。
それに気づいた芳村はカネキに問いかける。
「どうしたんだい、カネキくん」
「…いえ、なんでも……」
カネキは二十区の喰種を管理している男が、こんなにも物腰柔らかだとは思っていなかったため少し驚いてしまったのだ。
ある程度、威圧的な態度を取られるのではないかと勘ぐっていた。そんな様子をどう捉えたのか、芳村は穏やかに笑った。
「“喰種”同士助け合う…それが私たちの方針なんだ。遠慮せずに頼ってほしい」
「……僕は元人間だったというのに、いいんですか?」
若干、試すようなカネキの視線に芳村は笑顔で答えた。
「もちろんだとも」
信頼できるかは、まだ分からないが、その言葉に嘘はないように見える。
ひとまず、カネキは今後の相談を始めることにした。
+
「これが人間の肉……ねェ」
カネキは自宅にて、肉の包まれた袋をテーブルに置き、ジッと見つめている。
あんていくでは主に食事の相談をした。そのときに渡されたのがこれである。
もらって帰ってきたはいいものの、カネキは食べれずにいた。
「最悪、ジョジョのタルカスみたいに子どもを生きたまま絞って血を飲むくらいのことはしてるのかと思ってたけど、それよりは全然マシだなァ……」
カネキの恐ろしい想像とは違って一安心というところだが、それでもすぐに食べる気にはなれなかった。
袋から中身を取り出してみると見た目からは人の肉だということはわからない。そもそも人の肉を見る機会もないため当然かもしれないが。
香りは芳ばしく食欲をそそるのだが、やはり躊躇ってしまう。
(でもなァー、トーカちゃんが飢えると理性が飛んでヤバいって言ってたし……背に腹は代えられないか)
周囲の人々を襲うくらいならば喰わなければならない。下手をすれば、長い時間を共に過ごしているヒデが犠牲になるかもしれないのだ。
カネキは恐る恐る肉を掴み口元に持っていく。
「…ハァー、ハァーー……くッ」
荒い呼吸をしながら意を決して口に含む。
そして前歯で少しだけかじり咀嚼した瞬間! カネキに衝撃が走ったッ!
「何だこれはぁぁーーッ」
その圧倒的な快楽はカネキの理性を飛ばしかねないほどだった!
片方の瞳が紅に染まり、喰種としての食欲が湧いてくる。
「ンマイなあああッ!!」
カネキの叫び声が部屋に響き渡り『てめーッまたかァ!』という怒鳴り声が隣の部屋から聞こえてくる。
近所迷惑である。
カネキは今度は一切躊躇いなく、肉にかぶりつく!
みるみるうちに肉はなくなっていき、少しすると全て腹に収まっていた。
「…ッ! ……思わず食べつくしてしまった」
我に返ったカネキはあまりのうまさに驚いていた。今ならば、リゼという喰種が自分を喰おうとした理由が少しだけ理解できた気がする。
(……だが気分はよくないな)
人の肉に夢中になってしまったという事実はカネキの気分を憂鬱にした。しかし、それを乗り越えなければ生きていけないのだ。
+
その夜、とある裏路地で喰種による殺人が行われた。
特別珍しいことではない、喰種は個体差はあれど月に一回程度は食事をしなければ生きていけないのだ。
その喰種は紫のスーツに特徴的なネクタイ、そして金髪の男だった。かなり奇抜な服装だ。
彼の前には三十代と思われる美しい女性が横たわっていた。その女性から片方の手首を切り取るとソレを袋で包み、鞄の中に詰め込んだ。
そして彼は女性の体を喰い始めた。
まずは、残しておいたもう片方の手首をしゃぶり、肉を喰う。多くの血が滴り落ち、それはホラー映画さながらの光景だった。
しかし、ただの人間ならば恐怖するような光景も他の喰種にとっては何ということはない食事風景である。
そしてその食事風景を見て、怒りを滾らせている喰種がいた。
「……アンタ、ここが誰の喰場だかわかってんのか?」
男の背後から怒気を孕んだ声を出すのは、眼鏡をかけた青年。彼もまた喰種である。
いつの間にか後ろにいた青年に男は特に驚きもせず、静かに食事を続けていた。
「わかっているとも…私の喰場だ……もしかして奪いにでも来たのかい?」
淡々とした口調の物腰柔らかな男。
普段ならば良い印象を与えるソレは青年の苛立ちを加速させる材料となった。
「俺の喰場だ! 元々なッ!」
青年は荒々しく言い放つと、男に渾身の蹴りをくらわせようとする。しかし、男も黙ってやられるようなことはない。
「ふん、程度が知れるな」
「ぐッ!? テメーッ!」
青年に合わせて男も蹴りを放ち、相殺したのだ。青年は少なからずショックを受けていた。
スーツは独特だが、雰囲気は平凡なサラリーマンという男に自慢の蹴りを止められるとは微塵も思っていなかったのだ。
男は不敵に微笑んだ。
「君の考えていることを当ててやるよ」
「あぁ?」
「ここはこの間まで“大食い”という喰種の喰場だった…特に人付き合いのいい方ではないからよく知らないが強かったらしいね」
青年は何かを思い出したのか、舌打ちをする。
「……あの糞女が何だってんだ」
「その反応から察するに、君はここを彼女に奪われたんだろう? だが彼女が死んで君は戻ってきた。すると、そこに私がいて狩りをしていたためにムカッ腹が立った…というところか」
心中を見透かされたようで悔しいが、全て男の言う通りだった。
「ケッ、そこまで分かってんならよー。ここ諦めて俺に渡せよ、おっさん」
青年は、かなり挑発的な態度で男に提案した。いや提案と呼べるようなものではない。
だが、男は怒りもせずに穏やかに微笑んだ。
「そうしよう、ここは君の喰場でいいさ」
あまりにもあっさりと言われたため、青年は理解するまでに数秒を要した。自分の発言だが、断られることを前提としたものだったので驚いたのだ。
この男は何を考えているのだ?
「おかしいんじゃねーのか……普通、譲らねーだろ」
喰種にとって喰場とは生命線といっても過言ではないだろう。二十区はあんていくが管理しているため比較的穏やかだが、喰場を巡って争いが起きることは珍しいことではない。
では、青年の蹴りを相殺するほど強いこの男はなぜ戦わないのだろうか?
「仕事はとある会社の会社員で毎日遅くとも夜八時までには帰宅する。タバコは吸えない、喰種だからな。血酒はたしなむ程度。夜十一時には床につき、必ず八時間は睡眠をとるようにしている……寝る前にあたたかい血を飲み二十分ほどのストレッチで体をほぐしてから床につくとほとんど朝まで熟睡さ……赤ん坊のように、疲労やストレスを残さずに朝目をさませるんだ…健康診断でも異常なしと言われたよ」
突然、自分のことを語りだした男。その異様さに青年は冷や汗をかく。
「な…なにを話してるんだ!? アンタ?」
男は右手の人差指を自分の額に向け、さらに話を続けた。
「私は常に『心の平穏』を願って生きてる喰種ということを説明しているのだよ……『勝ち負け』にこだわったり、頭をかかえるような『トラブル』とか、夜もねむれないといった『敵』をつくらない……というのが、わたしの社会に対する姿勢であり、それが自分の幸福だということを知っている……もっとも闘ったとしてもわたしは誰にも負けんがね」
闘って勝てるならば、それでいいはずだ。青年にはわけがわからなかった。考え方が自分とは違いすぎるのだ。
「……だから……どうしたってんだよッ?」
「つまり、君程度ではわたしの睡眠を妨げる『トラブル』にも『敵』にもなりえないというわけさ。もうすぐ十一時だ、今日のところはさっさと帰って床につきたいから失礼するよ」
男はそこまで言うと鞄を持ち、闇夜に溶けるように去って行った。
残されたのは複雑な顔をした青年だけだ。そのとき、近くの建物の屋上から人影が降りてきた。
「ニシキ、運が良かったな」
「トーカ……」
人影の正体はトーカだった。青年の名前はニシキというらしい。
普段は、あんていくの一員であるトーカとまともに話すことはないニシキだが今だけは違った。
「…なあ、アイツは誰なんだ?」
ただそれだけが気になったからだ。不思議な雰囲気の男だったからだ。
トーカは「私もよく知らないけど」と前置きしてから質問に答えた。
「吉田カズオって名前で相当強いらしい。闘いはほとんどしないっていう噂だけど、ヤバそうなのはわかんだろ?」
「……ああ、敵とすら思われてなかった…クソ」
ニシキは途中から完全にカズオの『凄み』に飲まれていた。
いや、そもそも最初から不意打ちで攻撃をしなかった時点で飲まれていたのかもしれない。
悔しさに身を震わすニシキにトーカは声をかけた。
「じゃあ死体の処理よろしく」
「……は?」
「アンタの喰場なんだろ、死体がそのままっていうのはマズイんじゃない?」
そういうとトーカは横たわっている死体を指さす。それはカズオが処理をしないで置いていったものだった。
「じゃあ、私は帰るから」
トーカは屋上に跳躍し、持ち前の素早さで帰ってしまった。
残されたのは額に青筋を立てたニシキだけだ。
「クソったれがーッ!!」
ニシキは自分の獲物でもない死体を片づけなければならなかった。
その屈辱はでかかったとさ。