ざわめきはなかった。鞭打ちの回数も、いつしか淡々と数えられるようになっていた。掛け声とともに水音混じりの打擲音だけが校庭に響いている。
「きゅーじゅご、きゅーじゅろっく、きゅーじゅなっな……」
背中はどこもずたずたで、足下に広がった血溜まりが膝を濡らしている。出血性ショックが起こらないのは姫騎士の再生力のおかげであろう。
「きゅーじゅはっち、きゅーじゅきゅぅ……」
肩と脇はもはや剥き出しとなり、留め具の壊れた下着の肩紐が斜めに落ちかけている。残された上着の布地が身体の僅かな凹凸に辛うじて引っかかっているといえ、いかにもあられもなかったが、邪な気持ちなど湧きようはずがない。流血と黄昏に赤々と染められた白い乙女の静謐な佇まいに、少女らは圧倒されていたのである。平時なら多少怪しいが同性というのも一応ある。
「……百」
担任が鞭を置き、作法どおりの礼をする。生徒たちも、思わずつられて礼をした。神妙な心地が続いていた。
「これにて特別入学試験生綱ギロチン、終了とする」
ザマ先は芽亜の腕がギロチンから外されたのを確認すると、縄を手刀で断ち切った。刃が落ちて空を切る。
「以上で本日の授業はおしまいザマス。補助教員はお片付けを」
勿体ぶった前置きに比べ、終わり方はあっさりとしたものである。黒衣たちが動き出して、ギロチンや滑車台をえっほえっほと担いで行った。
夕子に駆け寄ろうする生徒たちをザマ先が手で制止すると、やや乱暴な手つきで縄の切れ端を夕子の口から取り除く。それから背後に回って手枷をほどきながら耳元に口を寄せ、他の生徒に聞かれぬくらいの微かな声で、白鷺莉々愛は語りかけた。
「よくやりました真理谷夕子」
「ぼ……私の、名前を」
名前をちゃんと呼んでもらえて嬉しいが、喉の調子がよくなくて、調節前の声色が出かかった。
「わたしの知る限り一年生で生綱ギロチンを成し遂げた者はあなたで二人目」
「それは、どういう」
「一人目はあなたのよく知るあの方よ」
莉々愛は夕子が振り向く前に、そう言ったきり立ち去った。
呆然と見送ると、微かな香りと温もりが、ふわりと肩にかけられた。制服の上着であった。
「ありが、いつぅっ……!」
滑らかな生地とはいえ、触れると傷に沁みてしまい、思わぬ痛みにびくんとなった。
「ご、ごめんなさい。格好つけたわ。本当にごめんなさい」
半裸同然なのを気遣ってくれたのであろう。インナー姿ですまなそうにしている。
「い、いえ、こちらこそ汚してしまって。大丈夫です。びっくりしただけですから」
ついお互い謝り合う。間が空いた。目と目が合う。思わず二人で笑い出した。
「八剣霧子。一年筆頭――級長のようなものね、その筆頭を務めているわ。敬語はいらないわよ。最初の態度が素なのでしょう?」
「真理谷夕子よ。今日からお世話になるわ、八剣さん」
「キリコと、呼び捨てでかまわないわ。こちらもあなたをユウコと呼んでも?」
夕子の笑顔が僅かな間、何ともいえない顔になった。
「……できれば、ユウ、と、そう呼んで頂けると助かるわ。そちらで呼ばれ慣れているの」
「よろしく、ユウ。でも、夕子という名前であえてそう略すとなると……ゆうさん、ゆうちゃん、ゆうくん。失礼でしょうけれど、なんだか少し男の子みたいというか、中性的な感じがするわね」
「そう、かしら。ありふれたあだ名だとは思うけれど」
「私がそう感じてしまうのは女子校病とでもいうのかしら。ここの
「いえ。気になさらないで」
なんとなくでそうならば直感が優れている人なのであろう。
「さ、歩ける? 回復していないなら手を貸すわ。保健室に――」
手を差し出し、言いかけたところで後ろから声がした。
「あ、あの!」
振り向くと、クラスメイトとなる予定の少女がいた。ずらりといた。声の主は矢見野芽亜ではない。彼女は集団の後ろのほうでぽつねんとしている。
「ユウコさっ、い、いえっ、ユウさん!」
「生綱ギロチン、素敵でした!」
「鞭を耐え忍ぶあまりに神々しいお姿に、わたくし、感っ動いたしましたぁ!」
「ああ! こうしてご尊顔を拝しますと顔
「とりあえず手始めにお姉様とお呼びしてもよろしくて?」
「ところでお咥えになったおロープはどちらに?」
「先ほどザマ先が持って行きやがりましたの。ポッケに入れるの見ましたわ」
「キリコお姉様の制服のお洗濯はわたくしにお任せを。それこそ新品のようにクリーニングいたしますの……うへへツインレア」
「ちょっと! ドン引きされるようなことをここで仰らないで下さる? 特に最後はガチヤバでしてよ」
「そうですの。推し活はこっそりとが原則ですの」
夕子の笑顔が引きつった。同い年の女子集団を生まれて初めて前にして、これが女子校のノリかと圧倒される。
霧子は予想していたとはいえクラスメイトの騒々しさに嘆息すると、鋭い声で一喝することにした。筆頭としての責務である。
「やかましい! 鬱陶しいわよ貴女
叫びながら人差し指と中指を、クンッと上に突き出した。
「あがっ」「おごっ」「へぶし」「ですの!?」
それぞれが腰に下げた鞘から一斉に剣が抜けて飛び出すと、その勢いで柄頭や鍔が、それぞれの顎や頬に衝突した。西洋のロングソードの柄はハンマーのように用いられることもある部位である。当然であるが殴られると滅茶苦茶痛い。顎や歯が砕けぬよう加減してあるとはいえ、閉口せざるを得なくなる。
「話し込んだ私が言っても説得力がないけれど、今のユウは怪我人よ。保健室に連れて行くから、自己紹介や群がるのは後日になさい。それから、矢見野さん」
「ひゃいん!」
集団の中で一人だけ修正の一撃から免れてまごつく芽亜が、気を付けの姿勢になる。
「私の横入りで話す機会を奪ってしまってごめんなさい。今は治療が優先だから、少しの間、貴女のパートナーを借りるわね」
一拍遅れてこくこくと頷いた。
「同伴なんてキリコお姉様だけずるいですの。ぶうぶうぶべらっ!?」
なおも恨み言を吐く生徒にはもう一撃喰らわせた。
保健室に着いた二人を出迎えたのは学校医ではなく、
「先生方はちょうど出払っておっての。面談も兼ねてわしが治療することにした。というわけで八剣一年生、お主はもう帰って良いぞ」
なんとなく邪魔者扱いされた気がして、霧子はすこしむっとした。
「ですが」
「鞭傷の治療ならわしだってちょっとしたものじゃ。生綱ブームの頃は阿呆でゲイのマゾ殿様に散々手を患わされたからの。だいいちお主は戦闘特化じゃろ? こういう場合はできる者に任せるものじゃ。それともあれかの? 手当てにかこつけて同級生の柔肌をじっくりねっとり鑑賞したいと、そういう魂胆じゃな? おおぅ、八剣一年生はなかなかどうしてエロじゃのう」
「し、失礼します!」
霧子は顔を赤らめて退室した。そして戻って来た。
「……演習で負傷したクラスメイトの病室を教えて下さい」
「見舞いかの」
タブレットで呼び出したリストから、叡子が病室番号をメモして渡す。
「筆頭として熱心なのはわかるがもすこし肩の力を抜いたっていいんじゃよ」
「いえ、問題ありません。ご忠告ありがとう存じます」
「私にも付き添ってくれてありがとうキリコさん」
礼をして今度こそ去って行った。
「パシリに任せぬとは今期の筆頭は真面目じゃのう。今の二年生とは大違いじゃ」
叡子が誰にともなく言いながら部屋を施錠すると、彼女に生えた三本の尻尾のうち一本が、光の粒子となって霧散した。
「結界を張った。防音と探知じゃな。人払いも済ませてある。つまりわしとお主、密室に二人きり、ナニを言ったりやったりしても、邪魔の入らぬシチュエーションというわけじゃ。さあどうしてくれようブヘヘヘヘ」
半開きの手の指をせわしなく動かしながらにじり寄る。俗にいうわきわきポーズである。つい半眼を向けたが、あらためて真面目な顔をして挨拶する。
「お久しぶりです。叡子学長」
「むぅ、ノリが悪いのう真面目ちゃんめ。まあよい。久しぶりじゃなユウ坊。おっと、ここはわしも糞真面目に、真理谷
「どちらも止してください。僕……いえ、私は今、真理谷夕子をしているんです」
少年はそう言った。
真理谷夕子は男である。生まれつき男性であるにもかかわらず、姫騎士の力に目覚めた少年である。本名は真理谷夕太郎といい、夕子というのは姉の名前である。姉が四月、弟が三月生まれの同学年であり、この姫騎士学園には姉の夕子になりすまして入学した。
入学したのは彼の母親の命令であり、姉になりすますのは戸籍や性別を誤魔化すのにちょうど良いと、その母が判断したのである。真理谷夕太郎という少年は山奥の実家で今も療養生活を続けている。そういうことに表向きはなっている。
なお彼の姉、本物の真理谷夕子はというと、二年前に失踪して現在も行方不明である。叡子の持つ情報網に引っかからないということは、おそらくどこかの組織に匿まわれているのだろう。それが他国か、あるいは日本政府かもわからない。基本的に姫騎士の所在は国際姫騎士連盟によって管理されている。匿まって届け出せずにいることが連盟に対する背信であるのは間違いないが、かくいう叡子も彼女の片割れである夕太郎を手元に置いて育てるために、その存在を隠している。男性姫騎士である分、背信の度合いでいうなら叡子のほうが強いといえる。そもそも夕子の失踪のことからして、夕太郎の入学に使えるかもしれないと、あえて知らんぷりして連盟に報告せずにいるのである。
「大人になるってかなしいことじゃの。もう昔みたいにエコお姉ちゃんと呼んではくれんのか?」
「そう呼んだことは一度しかないでしょうに」
「じゃったな。お主の姉がブチ切れるから
背乗りの片棒担ぎを始めとして、真理谷夕太郎の生い立ち、失踪した夕子の思惑、何より世界初かつ唯一の男性姫騎士であることなど、叡子にとって頭痛の種はいくつもあるが、
「なにはともあれ治療じゃな」
ひとまずは夕子の服を脱がしにかかった。無論治療のためである。やましいことはなにもない。
傷口の洗浄などの処置を済ませると、もう一つ尻尾を消して、
「しかし災難じゃったの。入学早々生綱とはリリアも酷なことをする……いやになったか?」
「いえ、貴重な体験をさせてもらいました」
いきなりギロチンを持ち出されて面食らったが、自分はここに
「ありがたいことです。ただ、巻き込んだ矢見野さんには怖い思いをさせてしまいました。それから教官の先生にも手間をかけさせて。負担だったでしょうに」
拷問はする側も精神的に疲弊するといわれている。
「マゾい性善説にもほどがあるじゃろ。たしかに根は悪いやつではないが、見下げ果てたやつではあるぞ」
生徒思いも、心を鬼にしてというのも本当ではあるだろう。殴る側の手も痛いとはよくいわれる言葉である。しかしその仕事が好きでなければ、意識的にせよ無意識的にせよどこかでサディスティックな悦びを感じていなければ、続けられないのというのも事実である。それが鬼教官の資質である。
「ところでその先生のことですが」
「リリアじゃ。
「白鷺先生は私の母をご存じのようでした」
「リリアはお主の母の夕凪とは姉妹の契りを結んだ間柄じゃった。同級生で一年寮の同室でもある」
「同級生? それにしては……」
姫騎士は老けるのが遅くなることを踏まえても随分と若々しい。同い年の母はもう五十近いというのに、彼女は二十代の若さで老化が止まっているように見える。
「あやつもあやつで特殊というか、わしらの同類、メトセラに至った姫騎士じゃからの」
「すごい先生なんですね」
「そのすごい先生がお主に対してあたりが強いのは、まああれじゃな、スネ○プ先生みたいなもんじゃの」
「はい?」
「今時の十代はハ○ー・ポッ○ーの小説読んでおらんのか。ジェネレーションギャップじゃのう」
「小説はあまり。漫画ならド○ゴンボールやダ○大やTO○GHとか、読んだ経験はありますが」
修行ばかりで娯楽に耽る機会はほとんどなかった。漫画にしても病院で友達から借りたり父の蔵書であったりで、あまり詳しいとはいえない。通して読んだのもその三作品くらいである。
「見ようによっては令和らしいラインナップじゃの。一年寮の談話室に色々あるから、興味があるなら覗いてみるといい」
一年寮の談話室にはゲームだとか書籍だとか、先輩方が代々残しておいたものが色々とあるらしい。
余談であるが一年筆頭にはおすすめの雑誌を毎号自腹で仕入れて談話室に置いておくという伝統があり、霧子の場合は嶺鈴やみんなに週刊少年ジャ○プがいいといわれたが、よくわからないので購買で買ったジャ○プSQを置いた。意外と好評であった。
取り留めのない会話をしつつ、手当てが終わった。
「あえて完治はさせんでおいた。細胞を鍛えるための自己治癒じゃが、お主くらいの神威なら明日の朝には元通りじゃろう。風呂やシャワーもその時じゃな」
包帯を巻かれた背中に張り手する。
「あ゛い゛だっ……って、何するんですか!」
「格好良く巻けたのでついの。ビシっとできたらバシってやりたくならんかの?」
「知りませんよそんなの。傷が潰れて滲むでしょうに」
「この激痛療法、実をいうとそれなり以上の姫騎士には有効じゃぞ。防衛反応で神威が高まるからの。再生がピンポイントで早まるんじゃ」
気合いと根性で致命傷を食いしばる現象に似たそれを、不意打ちの痛みによって起こすという。わからなくもない。
「手当てありがとうございました」
「どういたまして。動けるようになったなら早速、女の子テストといこうかの。女性らしい振る舞いとか化粧とか考え方とかを一から十までの。見た目がそうで母親にも仕込まれてはいるじゃろうが最終テストは必要じゃ。そもそも学生時代のお主の母はわりかしずぼらで、リリアに甲斐甲斐しゅう世話をされておったくらいじゃからの。武術の師としてはともかく、女の子教育の先生としてはあんまり信用ならん。わしがこの目で見ないことにはの」
「この場でこれからですか。随分と長丁場になりそうですが」
「そうじゃ。今この場でならカウンセリングの名目で誤魔化せる。わざわざ学長室なんかに連れて行って長々と時間をかけては、他の者に怪しまれかねん。この学校でお主の正体を知るのはわしの他に学校医が一人だけで、二人しかおらんのじゃ」
「その先生は信用できるんですか」
「わしの能力で制約をかけてあるから問題ない。じゃがもし、もしもじゃが、他の者にやむを得ず雄バレしたとする。そうなっても同じように制約をかけることはできる。一応できるが、あまり人数を増やしてはほしくないの。能力のリソースを食うからの」
「わかりました。肝に銘じます」
「では始めるとするかの」
叡子は宣言すると、どこからか衣装を数着取り出した。
「な、なんですかその恐ろしく短いスカートは」
「ナニってそりゃ、テスト用のコスプレじゃよ。姫学制服は少々清楚すぎる。様々な状況を想定してジェンダーな羞恥心を試すには、それなりに際どくなくてはいかんじゃろ?」
「それはそうな……いやセーラー服はともかくビキニアーマーはおかしいでしょうが」
「いいからいいから、エコを信じて~。おっと肝心の言葉を忘れておったの――姫騎士学園、入学おめでとう」
「そんなにじり寄られながら言われても。ちょっ、待っ、やだっ、そこ違う」
保健室に夕子の悲鳴がこだまする。結界の防音機能に阻まれて外には一切漏れなかった。
「ほい女の子テスト第一問。とりあえず生理周期教えてくれるかの。ふひっ」
初っ端からひどい。用意してあった答えを言うと、
「はい不正解~。正解の反応はブチ切れる、でした。お主、デリカシーがないのう」
こんなようなやり取りが夜になっても続いた。
寮に行くころにはひどく憔悴して、姫騎士の力を喪失していないか神威開放を試したほどであった。九十九里叡子は昔から際どい接し方をしてくる。母や姉には普通なのに、自分にだけ、それも二人きりになると殊更にそうである。思えばかつての姉もそうであった。もしかすると自分は弄られやすい気配を発しているのかもしれない。ならば気を引き締めようと決意した。叡子相手ならともかく、自分を男と知らずにいる他の女性に組んず解れつされるのは、不可抗力にしても不誠実に過ぎる。そもそも女学校に女装して通うこと自体不誠実の極みであるが、しかし己に言い訳できる程度には、節度を保っていたかった。
芽亜はあの人にどう声をかければよかったのだろうと後悔ばかりが頭に浮かび、上の空で寮への道を歩いていた。一応、芽亜は立場上ではとばっちりを受けた被害者である。あの人がそんな芽亜を助けてくれたのはたしかであるが、ザマ先の気紛れとはいえ、芽亜がそうなる原因を作ったのも彼女である。救い主でありながら間接的な加害者でもある。いざ前にしたとき、不意にそんな考えが脳裏を過ぎり、お礼を言おうとして言えなくなった。
何彼につけ即座にありがとうと返せなかったり素直にお礼を言うのをためらいがちであったりする人間は、こうした貸借対照的な道徳観に咄嗟の行動を支配されるものである。軽はずみにありがとうを使わないし使えない。ある意味では自分と他者の関係に潔癖であるといえるものの、回りからみればそういった人間は気むずかしい、愛想がない、人に礼も言えない無礼な人間であると断定せざるを得ない。互いに好かれ合うことを前提とした現代日本の価値基準でいえば、それは社会不適合者であり、嫌われ者の条件を一部満たしていることになる。矢見野芽亜も現代社会に数多いるそういった人種の一人であり、そういった人種の大半と同様、己がそうであると自覚していた。ようはあのとき声をかけ損ね、お礼を言いそびれた負い目をくよくよと引きずっていたのである。嫌なやつだと判断されて嫌われてしまったのかもと自分で自分を追い詰めて、再会するのが怖くなった。
寮の自室に戻って急ぎのシャワーで身体を洗うと、髪を乾かすのもそこそこに、早速部屋の掃除を始める。いつあの人がこの部屋に来るかわからない。大急ぎの掃除である。それを気遣いととるか姑息さととるかは、芽亜の心持ちとしては後者であった。
部屋を終えると浴室、トイレ、キッチンと可能な限り綺麗にする。入り口に立って部屋を見る。まだ生活感が結構ある。自分のものを自分用の棚になるべく収め、共有スペースをすっきりさせた。ベッドメイクもやっておく。これでいいかと思ったが、窓枠などの細かいところに埃があるのが気になった。それに勉強用の事務机なんかは代々使われてきたものなので、ビックリ○ンシールなどが貼られていてこざっぱりしているとは言いがたい。剥がすとなると時間がかかる。こうして掃除している姿を見られたくないので諦めた。
芽亜はベッドに座って待つことにした。勉強机に向かうのはわざとらしいと思ったのである。
二十分ほど待つ。来なかった。一時間経つ。ノックはない。芽亜は寝転がった。ノックが聞こえたら起き上がればいい。天井をぼんやり見て、あのときの夕子の優しい目を思い浮かべながら、第一声はどうしようと自問し続けた。時間が経つ。夕食を知らせるベルが鳴る。非常ベルのような喧しい音であるが、夢現つでそれを聞く。芽亜はいつしか寝入っていた。
はっとして目を覚ます。薄暗い。掛け布団の上で丸まっていたが、身体に毛布がかけてあって寒気はない。キッチンに明かりがついている。白い後ろ姿がそこにあった。
「ごめんなさい、起こしちゃったわね。電気つけるけれど、大丈夫?」
「は、はいっ、だいじょぶ」
部屋が明るくなる。白魚のような手には辞書のように大きくごっつい本がある。キッチンの明かりで読んでいたのであろうハリー・○ッターの一巻であった。芽亜は夕子の顔を直視できず、目線を落ち着きなく動かした。
「あ、あのっ、そその本、すすきっ、好きなんですか。わ、わたしもっ!」
吃りながら自分はなにを素っ頓狂なことを言い出すのだろうと芽亜は思いつつも、話の種を見つけたことに喜んだ。その本のシリーズは母が直撃世代で全巻持っていたので、インドア派女子の嗜みとして読破している。
「この本? 学長に頂いたのよ。好きになるのはこれからね」
叡子学長は頻繁に、いらなくなった本やゲーム、作りそびれたプラモデルなんかを小遣い代わりと称して学生に押し付けてくる。芽亜も以前、プラモ入門用にと
ともかく、勇み足であったらしい。得意分野となると調子に乗って失敗する。自分はいつもこうだと顔が火照った。
「矢見野さんは詳しいの? ならお話を聞かせてちょうだい。けれどその前に、私はあなたに謝らなければいけないわ」
夕子は芽亜の真正面に立ち、深々とお辞儀をした。
「――ごめんなさい。私の試験にあなたを巻き込んでしまった。ギロチンで切られそうになるなんて、生きた心地がしなかったでしょうに。私のせいで怖い思いをあなたにさせた。謝って済むことではないでしょう。けれど、本当にごめんなさい」
「そんな、メアのほうこそあやま……ううん。あ、あのとき! お礼も言わなくてごめんなさい!」
やっと言えたと、芽亜の心が軽くなる。
「いいえ、あなたは悪くない。悪いのは私だけで、そちらが謝る必要なんてないの。矢見野さんは巻き込まれただけ。純然たる被害者よ。私もクラスのみんなも、それはちゃんとわかっている。だから、謝らせて」
悪くないと言ってくれた。嫌われていないのがわかった。芽亜の負い目が消え去って、彼女の顔がはっきり見えた。やっぱりすごいきれいな人だと芽亜は感じた。あと白い。
しかしこちらのお礼を受け入れてはくれなかったと、冷静になった芽亜の思考が打算根性で飛躍する。芽亜という少女のためではなく試験であるから責め苦に耐えた。ギロチンにかけられた生徒が芽亜ではなく、他の誰かであってもこの人は同じように献身した。この人は誰にでも優しくて、芽亜が特別なのではないのである。
「言葉だけではけじめにはならないわね。矢見野さん、私に償う機会をちょうだい。なんでもするわ」
今なんでもって、と内心で反応しながら、思わず身を乗り出しかけた。
「誰かを暗殺して欲しいとかはさすがにちょっと聞けないけれど、私にできることなら何だって言ってちょうだい」
芽亜の頭が目まぐるしく回転する。暗殺という物騒な単語を最初に出されたのは、どうせ
手に入れる見込みがあるから欲しくなる。結ばれる見込みがあるから恋をする。物欲や恋愛で働く心理作用である。注文済みの品物のレビューサイトを覗いたり、気になる人との甘酸っぱいやり取りを反芻したりで、その対象の美点とその対象を手に入れられる確かさとを結びつけて考える。いいものが手に入る、手に入るのはいいものだ、という期待の循環である。
負い目を解消された反動で芽亜はちょっとした躁状態にあった。真理谷夕子を初めて目にしたそのときから、芽亜は彼女と仲良しになりたいと思い、しかし諦めていた。ある意味一目惚れに近かったろうが、芽亜は身の丈を知っている。他人行儀なお友達にはなれても、彼女にとって唯一の存在となることは望むべくもない。まさしく高嶺の花であった。
ところがその高嶺の花が手に触れるところへ降りてきた。なんでもするという命令権である。無論不埒な真似はできないが、仲を深めるきっかけには確実になる。思いがけず生じた期待はいやがうえにも高まった。すぐそばの彼女の姿がますます白くきれいに見え、この人と並んで歩くいつかの自分の姿すら、同じ輝きを帯びているように思われた。
のぼせた頭が口を衝く。
「ならあの! 真理谷夕子さん!」
まるで告白のようである。当たり前であるが芽亜には経験がない。けれどもあの母や祖母がやれたことを、己がやれないはずもない。
「お姉様になって下さい! 私の!」
「はい? ええと、それはどういった意味のお願いなのかしら」
「お姉様はすごくすごいお姉様だから、お姉様がいいんです!」
支離滅裂であった。この言葉の意味を理解するには姫学の常識に染まる必要がある。入学初日の夕子にはまだ早かった様子である。
「……姉妹の契り、ということかしら?」
「はい! そのお姉様!」
通じてくれた。が、夕子は眉を下げて何やら考え込んでしまう。これはいけない。芽亜は畳み掛けた。
「お姉様はお姉様お姉様してるから色んなお姉様になると思う……けど、でも、だからこそ! メア、お姉様のファーストシスターになりたい!」
「新たな単語……だと……」
夕子が戦慄する。芽亜の初めて見る表情である。どことなく美男子を思わせる凛々しさがあって、お姉様は王子様もやれるみたいと、芽亜は誇らしくなった。
念を押す。
「メアをお姉様の最初の妹にして下さい!」
所詮セカンド以降は有象無象と、霧子のファーストシスターの座を早い者勝ちで弥彦
「して! して! メアを妹にして! なんでもするって! だからして!」
迫りながら内心でもチャンスチャンス今
そして夕子は根負けした。してくれた。
「……わかったわ。けれど私は姉妹の契りというものの意味や、あなたの言うお姉様、その呼び名の持つ重みを知らないわ。それでもいいの? 安請け合いよ?」
「いい!」
「なら、よろしくね、矢見野さん。っと、お姉様をするのだから、何と呼べばいいかしら」
「メア! メアって呼んで、呼び捨てで!」
おそらくこのお姉様は今後、クラスで霧子と二大お姉様として並び立つであろう。そうなればセカンド以降一般シスターはユウお姉様、キリコお姉様と使い分けることになる。
「メアはお姉様って呼ぶね」
すなわち今この瞬間、芽亜は
「でも、なんだか妙な気持ちね。メアのような同い年の子にそう呼ばれるなんて。それも姉さんではなく、お姉様と呼ばれるのは」
芽亜はこてんと首を傾げてみたが、今の仕草はあざといかなと気になった。
「弟がいるのよ。夕太郎という一つ違いの弟がね。彼……っと、あの子は私を姉さんと呼んでいたわ」
「ファーストブラザー、なの?」
それは解釈違いだよお姉様、という言葉は飲み込んだ。きっといけ好かないイケメンに違いない。夕子と血が繋がっているからには顔が良いのは確実であるが、所詮は姫騎士ではないただの人間の男である。実際に目の前にしてみれば、出来の良い等身大フィギュアくらいにしか思えないであろう。結婚適齢期でない姫騎士にとって人間の男性とはその程度のものでしかないのである。
どうでもいい弟の話など聞きたくない。話を広げさせまいと、「そんなことよりお姉様の話が聞きたいな」と言おうとしたところで、笛の音に似た音がした。キッチンで沸かしていたヤカンである。
「夕食をとり損ねてしまって、これから作るところだったのよ」
時計を見る。この時間に食堂へ行っても寮母さんが盗み食い防止のための施錠を済ませている。芽亜は自分も空きっ腹なのを思い出してお腹をさすった。
「よろしければメアも一緒にどうかしら? 多めに買ってきたから、遠慮しないで」
姫学校章の印刷されたレジ袋がキッチンに置いてある。Pマート(正式名称プリンセスマート、24時間営業、レジ袋無料、
「お姉様の料理……! た、食べるっ。メアも食べる! 食べさせて!」
「大げさね。そんなたいしたものでもないわよ」
芽亜にはもちろんわかっている。夕子はそんな口振りで謙遜しながらも、ぱぱっと調理でシャレオツなお夜食を用意してくれる。スペシャルなお姉様は女子力もスペシャルなものであると相場が決まっている。芽亜の母親と違ってクッ○パッドのあやしげなレシピには頼らない。プロのコックさん顔負けの、真っ当に習い覚えた料理技術である。母親に家事を習っただけの自分の女子力がリアル系女子力なら、絶世の美お姉様である夕子の女子力はスーパー系女子力に違いない。キッチンに向かう後ろ姿からして気品があって美しかった。
エプロンはしないのかなと、疑問に思ったすぐ後に、夕子はレジ袋を手にこちらに戻った。あれ? と疑問符を浮かべる芽亜をよそに、袋をがさがさいわせると、中身をどん、とテーブルに乗せた。カップラーメンのスーパー○ップである。
「デ○うまやでか○るもいいけれど、初日だから奮発したの。メアはどれにする? お醤油、豚骨、豚キムチ、他にも全種二つ買いしたから、色々たくさん食べられるわよ」
どどん、どどどん、とテーブルの上がカップ麺に占拠される。メアは絶句した。絶句しながら夕子を見上げる。輝くような笑顔であった。
「ああでも、メアも女の子ですものね。単調な味は飽きるでしょうし、お肌のために栄養バランスも考えないといけないわね」
夕子が、袋を更に漁りだす。
「玉子にお餅に乾燥ワカメ、コロッケもあるわよ。カスタマイズは自由自在ね。秘蔵のかんずりは……初心者には合わないかもしれないわ。あとそれから、箸休めにツナマヨおにぎり! 醤油スープにはこれよね」
ワカメで野菜のつもりらしく、炭水化物づくしである。スーパー系女子力とはそういう意味なのか、貧乏大学生や不健康独身男性のごとき惨状に、思わず唸り声が出る。
「あら、メアは温玉派かしら? 大丈夫問題ないわ。ちょっと見極めのコツがいるけれど、マグカップに割ってレンジでチンで――」
もしかしたらこのお姉様結構ぽんこつではないだろうかと芽亜は思った。少なくとも想像上の
芽亜と夕子は結局このあと、夕食代わりにカップ麺を三つずつ完食した。お腹が空いていたのである。
入学試験編はこれで終わりですわ。
書き溜めもここまでですわ。