マフィア。この街の――そしてアメリカ中のあらゆる都市の――裏社会を牛耳る犯罪組織。一般人のマフィアに対する認識というのは、まあこれくらいだ。
多くの人々は、生まれてから死ぬまで一度もマフィアと関わり合いにはならない。少なくとも、本人の認識の範疇では。実際には、彼らが街中のあらゆる産業に浸透している以上、どこかしらでその構成員や協力者とニアミスしている。単純に気付かないだけだ。
とはいえあの日、私は気付けなかった。だからそう、結局のところ私も一般人の一人だったわけ。
Dec. 27th, 1942, Kurono Tower, Financial District, NYC
「59階、展望室でございます」
チン、という到着ベルの音に続いて、リフト・ガールがそう言った。対象に動く気配が無いのを確認して、私はケージの隅から離れると、開いたドアから地上260ヤードの展望室へと足を踏み入れた。ここに来るのは三日連続四回目だ。
背後でエレベーターのドアが閉まり、私はため息を吐いた。窓際にある金属製の手摺りにもたれかかり、眼下に広がるニューヨークの夜景を眺めながら、私は60階から上に入るための策を練ろうとした。
今回の追尾対象、ウィリアム・ヒルデブランドは初老の税理士だった。私立探偵お決まりの依頼、奥さんからの浮気調査でここ三日間、退勤後の彼を尾けまわしている。
「最近帰りが遅いわね、あなた」
「仕事だよ、新しい
「まあ。どんな方なの?」
「言えないんだ、悪いね」
という感じの会話の結果、ミセス・ヒルデブランドは旦那さんが不倫していると思ったらしい。実のところ私の体感では、この手の直感が当たっている確率はひいき目にみても五割といったところだ。それでもお金を貰っている以上、しっかり調査はするけれど。
この三日間の追尾の結果、ヒルデブランドは自分の税理士事務所を退勤すると、必ずここにやって来ていた。ニューヨークに林立する摩天楼の一つ、ウォール街40番地。その主要出資者であり、工事一切を取り仕切った建設会社の社長の名前から"クロノ・タワー"の愛称を持つこのビルに。
ビルの60階から70階までは件の建設会社、バンクロニー社の本社が入居している。69階・70階の一部と、最上階71階の全部はバンクロニーの社長私邸になっていた。
「この階でエレベーターを降りないってことは、彼はそのどっちかに用事があるってことよね。普通に考えたら、バンクロニー社が"新しいクライアント"なんだろうけど......」
決めつけるのは早計だ。従業員の誰かと不倫関係にあるのかもしれないし、ひょっとしたら気鋭の女社長オーロ・クロニーと関係を持っているのかもしれない。
それに、本社へのアクセス方法もちょっと怪しい。バンクロニー本社直通のエレベーターもあるのに、なんで一般用の高層階エレベーターを使ってるんだろう?
なんにしても事の真偽をハッキリさせるには、バンクロニー本社に入り込まなきゃいけない。そういった類の、つまり"潜入"は、我がワトソン
「失敗するわけにはいかないわね......といっても、下準備なしでできることもないし、今日も吸い出しと送り込みに留めておくか」
今日は昨日までと同じように、ビルから出てきた対象が寄り道なしで家に帰るのをしっかり確認する、という程度に留めようというのが、展望室をぐるっと一周する間に出した結論だった。
年末だというのに、展望室はがらんとしていて無人だった。というのも、去年の冬に日本軍がパール・ハーバーを襲って以来、アメリカは本格的に戦時体制に移行していた。発電用燃料節約のために灯火管制が敷かれたニューヨークの夜景は、寂寥感に溢れていてまるで死者の街みたいだったし、そもそもこのご時勢に観光しようなんてアメリカ人も少なかった。
だから展望室に他にお客がいないことにも、リフトマン以外誰もいない下りエレベーターに乗った時も、何の違和感も感じなかった。私が初めて違和感を覚えたのは、下りだと思って乗ったエレベーターが上に向かい始めた時だった。
"これ、マズいわ......"
まさに今度潜入しようとしていたバンクロニー本社に、このエレベーターは向かっている。そんな状況の何がマズいの? って思うでしょう? チャンスに見えて、実のところとってもマズい状況だ。
今の時点では、潜入にあたってなんの準備もできていない。つまり、このまま行っても受付の人に追い返されるオチが見えている。そこで顔――特に目元――を覚えられたら大変だ。私の変装は、映画のように特殊メイクを駆使するやり方ではないから、顔を覚えられるとバレてしまう確率が跳ね上がる。
なんとか運転係に頼んで引き返してもらおうとしたとき、もう一つの違和感に気付いた。運転係はリフトマンだった。そう、リフト"マン"なのだ。1940年から徴兵が再開されて、男性労働者がどんどん本国からいなくなってるこの時期にリフトマンだって? しかもどう見ても徴兵対象の年齢だ。兵役免除になりそうなケガもないし、眼鏡をかけてもいない。
とはいえ運転ハンドルを握ってるのが彼な以上、話しかけない選択肢はなかった。
「あの、失礼? 下りエレベーターと間違えちゃったみたいなんだけど」
「いいえ、間違えてませんよ」
イタリア訛りでそう言いながら振り返ったリフトマンの手には、拳銃が握られていた。銃口は真っすぐ私のお腹を狙っている。
「70階までお連れすることになってます。そちらで色々、お話を伺いたいので」
「う......くぅ......」
それからどれくらい経ったのか。私は何度目かの失神から目覚めた。まだ10回には達していないと思うけれど、わからない。私がいる豪華な応接室――だと思う――は建物の内側にあって、外の様子はまるでわからなかった。私はその部屋のシャンデリアから吊るされた鎖で両手を縛られて、ほとんどつま先立ちで監禁されていた。
「単刀直入に訊こう。ミスター・ヒルデブランドを尾行するよう君に命じたのは、どこの誰だ?」
この部屋に連れて来られた当初、大きな革張りのソファに座っていた大男は私にそう訊いた。イタリアのシチリア島から産地直送されたような彫の深い顔に、ひどいイタリア訛り。
目の前にはそんな男がいて、背後からはさっきのリフトマンが相変わらず銃を構えている。探偵は信用第一の商売だけど、こんな状況で守秘義務を盾に出来るほど、私は向こう見ずじゃなかった。なんてことない浮気調査だと、私は素直に包み隠さず話した。
「なるほど、なるほど。聴く限り、実に単純なことらしい」
男は鷹揚そうに言って立ち上がり、私の前にやって来た。
「次はもうちょっとマシな嘘を吐くんだな」
野球のキャッチャー・ミットくらいありそうな握りこぶしが、お腹に深々と沈み込んだ。肺の中の空気が絞り出されて、私は体を折り曲げた。
「はっ......がっ......」
息を吸い込むことすらままならない中で、ぼやけた視界に高速で迫ってくる何かが映った。次の瞬間には上等なツイード織りのズボンに包まれた膝が、私の鼻筋に激突した。
「がぁっ!」
頭を跳ね上げられた私は、そのままふかふかの絨毯が敷かれた床に仰向けに倒れた。右手でお腹を、左手で折れた鼻を押さえると、鼻血がどばっと喉に逆流して、私は地上70階で溺死する危機に瀕した。
「げほっ、げほっ......うぅ」
咳き込むと、殴られたお腹がずきずき痛んで、私は絨毯の上で横になった。体を折り曲げ、胎児のように丸まってなんとか苦痛をやり過ごそうとする。
しかし息をつく暇もなく、男は私の前髪を掴んで頭を引っ張り上げた。
「素直に話す気になったか?」
「さっきから、素直に話してる、わ......」
折れた鼻から止めどなく流れる鼻血でふがふが言いながら、私はなんとか答えた。男が納得してくれる淡い希望を信じて。
「奥さんの依頼の、浮気調査。本当に、それだけ、なの」
男は溜息を吐いて首を振り、私の希望は静かに潰えた。
「もうちょっとマシな嘘を考えろと言っただろう」
前髪を思いっきり引っ張られて、私は無理矢理上体を起こされた。
「やっ......」
反射的に、髪を掴んでいる手に自分の両手を添えてしまった。結果、がら空きになった私のお腹に二発目の拳がめり込んだ。
「ぐぶっ......」
今度はさっきよりも少し上、肝臓の辺りに直撃した。私は前髪がぶちぶち音を立てて抜けるのもかまわず床に崩れ落ちると、上等な絨毯の上に夕食のホットドッグの残骸をぶちまけた。
「げえええぇぇぇ......えほっ、えほっ、えええぇぇ......」
「あーあー、吐きやがって。この絨毯高価いんだぞ」
鼻血混じりの反吐をまき散らす私を見下ろして、さして怒ってもいないような声で男がそう言うのが聞こえた。霞む視界の端に、つま先が尖ったイタリア風の靴がちらりと映り、それがさっと引っ込むのが見えた。
次の瞬間にはそのつま先が脇腹に食い込み、私は
仰向けになり、自分の反吐と鼻血で溺れそうになっている私のお腹に、イタリア製の靴が追撃を加えた。無防備なお腹を何度も踏み付けられながら、私の視界はゆっくりと暗くなっていった。
次に目覚めた時にはすでに、今みたいに吊るされていた。
男は最初のうちこそ素手で殴ってきていたけど、拳が痛くなってきたと見えて、鞭やらブラックジャックやら杖やら、得物を使うようになった。そのせいかどうかはわからないけれど、失神と失神の間隔がどんどん短くなっているように私は感じた。その分一撃当たりの苦痛は増したけど。
そして今もまた、私に苦痛と絶望を与える足音が部屋に近づいてきている。
「も......いや......」
私の弱音は、私以外の誰の耳にも届かなかった。届いたところで止めるような連中じゃないけど。前回――前々回だったかもしれない――ついに我慢できなくなって粗相をした私は、みじめな子供みたいに泣じゃくってしまったのに、「女は嘘泣きするから嫌なんだ」などど言われて拷問は続いた。泣き言ごときで止めるわけがない。
ドアが開く音がしたけれど、私は足元の絨毯――自分が垂れ流した色んな液体で、いくつもの大きな染みと無数の小さな染みができていた――に目を落としていた。
「いい格好ね、間抜けな探偵さん?」
こんなところで聞くはずはないと思ってた人物の声が聞こえて、私は信じられない思いで戸口に目をやった。
「......ぐら? なんで、ここに?」
「なんでって、警察官は困ってる人を助けるもんでしょ?」
恐らくニューヨーク市警察でも一、二を争うレベルでその台詞が似合わない警察官、がうる・ぐら刑事は、いつもと変わらない生意気な笑顔でそう言った。
がうる・ぐら。ニューヨーク市では、それなりに知られている名前だ。フィオレロ・ラ・ガーディア*1やトム・デューイ*2、あるいはオーロ・クロニーほどじゃないにしても、アメリア・ワトソンよりは間違いなく有名だろう。
彼女は巡査拝命から6年という、異例というほどではないがまあまあ早いスピードで刑事に昇任した。そして1年足らずという異例どころかぶっちぎり新記録の早さで、刑事局殺人課の席を手に入れた。
そんなアイルランド系でさえできないようなアクロバティックな昇進の陰には、彼女のパトロンが影響していると噂されていた。なにせ彼女の月給とほぼ同額のスーツを着て、ダンヒルだかダビドフだかがキューバから輸入している葉巻を好んで喫い、アッパー・イーストサイドの高級アパートメントに住んでいるのだ。誰か、までは誰も知らなかったけれど、羽振りのいいパトロンが存在しているのは確実だった。
とはいえ、ニューヨーク市民は彼女に寛容だった。著名人が死んだり、スキャンダラスだったりしたいくつかの殺人事件を、彼女は鮮やかに解決して見せた。殺人課所属にも関わらず、路上犯罪狩りにも熱心だった。その手腕ゆえに多くの市民は、いかにも賄賂を貰っているらしい彼女の暮らしぶりに目をつぶっていた。
そしてその内の一件、彼女の分署刑事課時代に殺人課移籍を後押ししたある強盗殺人事件の捜査の中で、私はたまたまぐらと知り合うことになった。その時の話は今度にするとして、それ以降、ぐらはなにくれとなく私の事務所に暇つぶしにやってきたり、ホーム・パーティーに私を招いたりするようになった。
ようするに、友達になったのだ。私は"懐かれた"って印象を持ったけど。
その友達によって、私はバスタブに放り込まれた。大理石で出来ているらしい大きなバスタブには、痛めつけられた私の体に優しいぬるめのお湯が張られていた。浴室の床は青黒白の三色タイル張りで、アール・デコ建築特有の幾何学的な紋様を床に描いている。柱時計が描かれたステンド・グラスからは、柔らかな朝の光が射しこんでいた。
薄いブルーのお仕着せ姿のメイドがやって来て、石鹸と柔らかいボディ・ブラシで私の体を洗い始めた。文字通り体の隅々まで洗われて、暴力の次は羞恥心で死にそうになったけど、それに抵抗できるような力はまだなかった。それに、私が汚いのも事実だったし。
「うえーっ、アメ、あんた自分がいま、どんな臭いしてるか知ってる?」
私を抱っこして運ぶ途中、ぐらは大げさに顔をしかめて言った。
「想像したくないわ」
「野生のヤギみたいな臭い。すっごく臭い」
拷問されている間に、血、涙、汗、鼻水、よだれ、胃酸、おしっこと、身体から出る液体として考え付くものはほとんど垂れ流していた。それを考えれば、私がそんな臭いを放っていてもなんの不思議もない。
「あんたに会って謝りたいって人がいるんだけど、先にお風呂に入った方が良さそう」
「お風呂よりもお医者さんの方が必要だと思うんだけど......」
「今こっちに向かってるから、先に出来ることからやっちゃおう」
というわけで私は服をひん剥かれて、お風呂に入らされていた。ずたずたの裂け目と汚い染みだらけになった私の服と下着は、メイドの一人がどこかに持って行ってしまった。処分するんだろうけど、私はこのあと何を着ればいいんだろう?
「ねえぐら、私の着替えとか持って来てくれたり、してない?」
ぐらはしばらく沈黙を挟んでから、なんともバツの悪そうな表情を浮かべて答えた。
「......たぶん、すっぽんぽんでも向こうは気にしないよ」
「私が気にするのよ......」
叫び返したいところだったけれど、私には弱々しくそう返す体力しか残っていなかった。