Bad Apple   作:Marshal. K

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House Keeping #6

 

 Mar. 16th, 1943, The Plaza Hotel, Central Park South, NYC

 

「ふあ......」

 

 その日の朝七時、私はふかふかのマットと素晴らしい肌触りのシーツの上で目を覚ました。当然私の家ではないし、ぐらのアパートメントでもない。

 ここはプラザ・ホテル。の、一番安い客室だ。

 一番安いと言っても、プラザはそもそも高級ホテルだ。だからこの部屋は、巨大なキング・サイズのベッドと、アル・ブロジス*1を悠々支えられそうな大きさの肘掛椅子二脚、お洒落なコーヒー・テーブルと書き物用のデスクが入ってなお、まるで狭いと感じないような広さがある。そして一泊当たりのお値段は......ごめん、このことは考えさせないで。

 

「今日は雨か......」

 

 中庭に面した窓の外を見て、私はそう呟いた。柔らかい春の雨が、眼下のパーム・コートの天窓にしとしとと落ちている。

 金ぴかの洗面台で歯を磨いて口を漱ぎ、陶製のバスタブでシャワーを浴びた後、滑らかなバスローブに身を包んで体と髪が乾くのを待ちながら、私は今日一日の動きを再確認した。メモ帳をめくり、日付と時系列を確認して、齟齬や失敗する可能性を一つ一つ確認していく。

 

「よし......よし。これでいける、はず」

 

 もちろん失敗する可能性はゼロではない。なんなら、割と向こう見ずかもしれない。とはいえ今回は頼もしい味方――ぐらではない――がいる。後はまあ、私の計画だから当然だけれど、私次第だ。

 

 

 

 

 

 お昼を回ったところで行動開始。

 まずは着替えだ。今日のために用意した、シャネル・スタイルのレディース・スーツに袖を通す。ヒールが高めの靴を履き、ちょっと大きめの肩掛け鞄を持てば、いかにもオフィス・ガールといった感じだ。これなら、金融地区(フィナンシャル・ディストリクト)の法律事務所の秘書か、その使いっ走りのタイピストだと説明しても疑われることはないだろう。

 

 ありふれた軍服地のコートを腕にかけて、第一段階開始だ。

 テーブルに客室係への10セント玉(ダイム)を置いてから自室を出て、すぐ隣の階段室に入ると、7階から11階へと上がる。廊下を北の角へと進んで、見覚えのあるドアの前まで来ると、ポケットから鍵を出してドアを開け、室内へと滑り込んだ。

 この鍵は、以前ここに侵入したときにモニカが用意してくれた客室係用の合鍵から、型を取って作ったものだ。つまり、合鍵の合鍵ってわけ。ちゃんと使えるか不安だったけれど、タンブラーはあっさりと回ってくれた。頼もしい味方は、今回もいい仕事をしてくれている。

 念のために部屋中をぐるっと見て回って、誰もいない――ゴールドバーグがいないのは間違いないけれど、昨晩誰かと寝たりしたかもしれないでしょ?――のを確認してから、まず壁金庫から、次いでクローゼットの金庫から帳簿を回収した。組み合わせ番号はわかっているから、もう楽勝だった。

 五分後には、私は廊下に戻っていた。静謐で誰もいない廊下から階段室に入ると、7階まで下りてからメイン・エレベーターホールに向かった。ブザーを鳴らして、下りのエレベーターを呼ぶ。ケージはすぐにやって来て、制服姿のリフト・ガールが真鍮の格子戸と銅張りの外扉を引き開けた。

 

「ロビーまでお願い」

「かしこまりました」

 

 ドアが閉まり、ケージは滑らかに下降した。途中の階で止まることはなく、すぐにセントラル・パークに面した宿泊客用ロビーに着いた。

 コンシェルジュ・デスクに鍵を預けてから、軍服コートを羽織り、回転ドアをくぐって外に出る。

 

「どうぞ、マーム」

 

 ドアマンが路肩に停まっているタクシーのところまで走って、後部ドアを開けてくれた。次の目的には地下鉄で行くつもりだったけれど、私は少し考えてから、素直にタクシーに乗り込むことにした。雨のニューヨークで空車のタクシーを見つけるのは、砂漠で一粒の麦を見つけるよりも難しい。

 

「ありがとう」

 

 歩道を小走りに横切ると、タクシーのドアを持っていたドアマンに、ポケットから引っ張り出したダイムを渡して、黄色と赤の39年式チェッカー・キャブに乗り込んだ。三月だけれど、暖房の入っていない車内はなんとなく肌寒い。

 ドアを閉めて、運転手に目的地を告げる。

 

「アベニューCと12丁目の角までお願い」

「はあ?」

 

 自分の聞き間違えじゃないか、という顔で、運転手がこっちを振り返った。プラザ・ホテルから出てきたオフィス・ガール風の女から、アルファベット・シティ*2に行くよう頼まれるとは思っていなかったに違いない。

 

「アベニューCと12丁目の角。早く出して」

「はあ......」

 

 運転手は前に向き直って、料金メーターの空車表示レバーをガチャンと倒すと、車を路肩から離して濡れた59丁目を東に走らせた。

 

 

 

 12:55 PM, East Village Loan and Pawn Shop, Alphabet City, NYC

 

 イースト・ビレッジ金融質店(ローン・アンド・ポーン)はアベニューD沿いに建つ、ぼろぼろの雑居ビルの一階にある。右隣りは十年以上前に潰れてほったらかしの靴屋、左隣りは韓国人が経営している洗濯屋だった。

 この界隈はどの店も、入り口や飾り窓(ショー・ウィンドウ)の前に鋳鉄の鉄格子を入れていて、この質屋も例外ではない。格子とガラス窓の奥にはカラフルなネオン・サインがいくつもあり、

 

「金・銀・宝石 買い取ります」

「ウェスタン・ユニオン短期融資(ペイデイ・ローン)取扱店 小切手引き受け・為替手形払い」

「冬物コート・ファー 預かり致します」

「猟銃・弾薬・釣具・スポーツ用品 大安売り中」

 

 などと謳っている。生憎と灯火管制で全部消灯していたけれど。

 ドアを押し開けて店内に入ると、お店の奥の方でビーッとブザーが鳴るのが聞こえた。

 

「だからあ、これは本物の銀時計なんだって」

 

 薄暗い店の奥から、まだ少年の域を脱していない感じの高い声が聞こえてきて、私は入り口で先客の商談が済むのを待つことにした。気怠そうな、低めの女の声が少年に応える。

 

「冗談はその顔だけにしときなよ。どう見たってニッケルメッキの安物じゃんか」

「そんなわけ無いよ、親父の形見なんだからさ。俺の親父は金持ちだったんだよ、知ってるだろ?」

 

 金持ちの息子とはとても思えない、どぎついアイルランド訛りで少年はそう言った。もうちょっとマシな言い訳は思いつかないんだろうか。

 しばらく似たようなやり取りが続いてから、女がしびれを切らしたように言った。

 

「わーかったわかった、それを質草に5ドル出してやる。それでいいだろ?」

「5ドルだって!? バカ言うなよ、純銀なんだぞ! 最低でも50ドルは貰わないと」

「5ドルで質料天引き。それ以上欲しいなら、よそをあたるんだね」

 

 旧式のタイプライターで質札を打つガチャガチャ言う音の間、少年は黙っていた。これ以上店主が譲歩しないのは、ちゃんとわかったらしい。

 やがてロールから用箋を抜き取る音がして、女店主が言った。

 

「さてと。ウォーターベリー*3の懐中時計、入れは5ドル、利率5%で、手取りは4ドル75セント。期限は2週間、過ぎたらすぐ流すぞ。これでいいな?」

「ああ、いい」

「んじゃ、サインしてくれ。やり方はもうわかるだろ?」

「ああ」

 

 ペンを使い慣れないらしく、紙を引っ掻くような音が、間を空けて三回した。

 

「......よし。ほら、金と質札だ」

 

 店主が言い終わるよりも先に、慌ただしく椅子を引く音がした。

 

「ちゃんと受けに来なよ!」

 

 陳列棚の角を曲がって、薄汚れたオイルスキンにぼろぼろのジーンズを穿き、汚らしい灰色のハンチング帽を被った男が現れた。背丈が高いので、コートの襟を立てて帽子を目深にかぶり、黙っていれば大人に見えないこともない。

 長身の少年は、二枚の銀貨を1ドル札と質札でくしゃくしゃに包みながらコートのポケットにつっこんで、店主にも私にも挨拶一つせず質屋を出て行った。

 私はそばに置かれていた、流質した品物のふりをしている壺に手を入れると、中から鍵を取り出した。外の格子戸をガシャンと閉めて鍵をかけ、内側のドアの本締(デッドボルト)錠二つもしっかり施錠すると、店の奥に向かう。

 そこにはニスの剥がれたひどいマホガニーのカウンターがあり、質屋や銀行なんかでお馴染みの真鍮の格子が、店舗側と事務所側を仕切っていた。黄色がかった金髪の頭に大きな犬みたいな耳を乗せた女店主は、表面がすっかり曇ってところどころへこんでいる懐中時計を、格子の向こうから私に掲げて見せて言った。

 

「正真正銘の銀時計で、50ドルはするんだそうだ。5ドルで買い叩いてやった」

「どうみても銀色メッキの安物だし、転売しても1ドル半がいいとこね」

 

 店主はきゅっと肩をすくめて、カウンター下の抽斗に時計を仕舞いながら言った。

 

「まあ、質受けには来ねえだろうな。酒とハッパに全部使って、来月の今頃になったら、またガラクタを持ち込みに来るさ」

「まあまあ、随分お優しい質屋さんなのね、ポルカ」

 

 "ポルカ"というのが、この店主の名前だ。ギブン・ネームなのかサーネームなのか、そもそも本名なのかさえわからないけれど。

 店主の背後に掲げられている市の質業許可証には、ベドルジッシュカ・"エリカ"・ポラッコヴァと書かれているけれど、店主自身はそれを正確に発音できたことが一度もなかったし、名前に反して彼女の言葉からはチェコスロバキアの訛りも、ポーランドの訛りも感じられなかった。

 かすかに聞こえる訛りがアジア系の移民だと教えてくれているけれど、ごく微かなので具体的な地域はわからない。そもそも私が変装するときにそうするように、訛りを偽っている可能性もある。

 

「まあな。あんたらみたいな悪党からふんだくるから、ああいうガキに優しくしてやってもお釣りがくるんだわ」

「前言撤回。あなたって、金にがめつい自己満足の偽善者ね」

 

 にんまりとチェシャ猫みたいな笑いを浮かべて、ちびたラッキー・ストライクをカット・ガラスの灰皿に突っ込んでから、ポルカはカウンターから離れた。

 

「ご注文の物は用意できてるよ。取ってくるから、ちょっと待っててくれ」

 

 ポルカはそう言って、質蔵に通じる鋼鉄製のドアの前に立った。私からは見えないようにダイヤル錠を操作し、チャブ社の銘板が誇らしげに貼られているレバータンブラー錠に鍵を挿して捻り、真鍮のハンドルに体重をかけて回すと、ドアを固定している四本のデッドボルトがドスッと頼もしい音を立てて外れた。

 私にこの金庫を開けることができるかって? 絶対無理。チャブ式検知錠なんていう怪物の相手は、うぬぼれても一流半がいいとこの私では相手にもならない。なにせ超一流の金庫破りが持てる限りの技術と、50時間を超える時間を費やしてようやく"不可能を可能にした"のだ。

 チャブ社が自社製品のキャッチ・コピーに使っている、「チャブの銘板を見れば、泥棒は逃げ出す」に誇張は一切ない。それは――その泥棒が超々々一流でもない限り――純粋な事実の摘示に過ぎない。

 

 そんな益体もないことを考えているうちに、ポルカが一封のマニラ紙封筒を携えて戻ってきた。ドアをドスンと閉め、ハンドルを回してボルトを下ろし、鍵をかけてダイヤルをリセットする。

 それからカウンターの前に戻ってくると、格子の下の隙間から封筒を私に滑らせてよこした。

 

「ほら、確認してくれ」

 

 封筒を開いて、中の書類を取り出す。リーガルサイズの用箋にはゴールドバーグ法律事務所のレターヘッドが捺され、手書きのメッセージと署名が書き込まれていた。

 

――ゴールドバーグ法律事務所

  ニューヨーク市マンハッタン区 ブロードウェイ149番地

  シンガー・ビルディング 1801号

 

  ミスター・グリーン、

  貴行との契約に基づき、本委任状持参の代理人、リンディ・オーティス・ウィルソンを、当職契約の貸金庫64号に案内されたい。

  また当職は本日、貴行の営業時間内にあっては多忙に付き、電話等での連絡を行えない。明朝、当職からの電話連絡を待たれたい。

  敬具。

 

  W・H・ゴールドバーグ 署名

  法学士(LL.B.) 法務博士(J.D.)――

 

「素晴らしいわ」

 

 私は溜息とともにそう感想を漏らした。

 シンガー・ビルの法律事務所で、私がミノックスで撮影した貸金庫契約書、法律事務所のレターヘッドとゴールドマンの自署、そして屑籠から失敬してきた手書きのメモ。それらをポルカに渡せばあら不思議、ゴールドマン直筆かつ自署入りの委任状ができあがりだ。

 

「自信作だよ。なんなら、もう五枚分くらいお値段を上乗せしてもいい所だな」

「払わないわよ」

 

 ぴしゃりと言ってから、コートの内ポケットから小銭入れを取り出して、格子の下をポルカの方に滑らせた。

 

「十五枚って話だったでしょ? これしか手持ちはないわ」

「残念」

 

 さして残念そうでもない口調で、ポルカは小銭入れを受け取った。口を開けて、中身の20ドル金貨(ダブル・イーグル)の枚数を数えてから、さっきの時計と同じ抽斗にしまい込む。

 

「毎度ご利用どうも。また何か必要だったら、是非声をかけてくれ」

「それなら是非、お願いしたいことがあるの」

「あ?」

 

 

 

 1:20 PM, Bank of Manhattan, Financial District, NYC

 

「ミスター・ヘンリー・ゴールドバーグの代理の者で、彼の貸金庫を開けたいのだけれど」

 

 見事な楢材(オーク)のカウンター・デスクと、ぴかぴかに磨き上げられた真鍮の格子の向こうの副支配人は、私が渡した委任状を注意深く調べてから、椅子から立ち上がりながら言った。

 

「あちらの守衛のところへ行ってください」

 

 マンハッタン銀行本店のホールは、入り口の左右から長いカウンターが奥へと伸びていた。ホールの真ん中あたりでカウンターは湾曲して、U字型を描いている。一番奥まったところではデスクが途切れていて、窓口と同じ真鍮の格子戸があって、その前に制服姿の守衛が立っていた。

 守衛は警察官と同じような濃紺の詰襟の制服だけれど、左胸に留められているバッジは四角い銀色だった。民間の警備員が共通して使うバッジで、警官からは"四角いバッジ(スクエア・バッジ)"と――半ば侮蔑的に――呼ばれている。もっとも警察は安月給で警備員の方が稼げるので、"スクエア・バッジ"を副業で着ける警官は少なくない。

 モザイク・タイル張りの床を歩いて、屈強な守衛の前に立つ。厳めしい表情といい、ぴしっとした立ち姿といい、間違いなく銀行専属の訓練された守衛だ。日雇いや副業の警備員である可能性は限りなく低い。

 とはいえ、弱気な姿勢を見せるわけにもいかない。こちらも背筋を伸ばして凛とした立ち居振る舞いを心がけていると、副支配人がやってきて、内側から格子戸を開けた。

 

「こちらへどうぞ」

 

 副支配人に付いてカウンター後ろの帳場を抜け、大理石の柱に挟まれた戸口からエレベーター・ホールに入った。ドアも壁も銅張りでぴかぴかのエレベーターを使って、地下へと降りる。

 ドアが開くと、間接照明だけが使われた薄暗い、金庫室の前室だった。

 副支配人は私をともなって正面のデスクに歩み寄ると、そこに着いていたピンストライプのスーツの男に声をかけた。

 

「ステファン、こちらの方がミスター・ゴールドバーグの金庫をお開けになりたいそうだ」

 

 男は台帳から顔を上げた。広い肩幅に似つかわしい、厳つい顔立ちをしている。高校大学とフットボールをやってました、って感じだ。首もかなり太く、頭とそう違わない幅を持っている。

 

「委任状は?」

「これだ」

 

 副支配人から委任状を受け取って目を通すと、ステファンと呼ばれた貸金庫係は副支配人に言った。

 

「後は引き受けます、アイザック」

「じゃあ、頼んだよ」

 

 副支配人が去ってエレベーターのドアが閉まると、貸金庫係が言った。

 

「貸金庫係のステファン・グリーンです」

「ゴールドバーグ法律事務所のリンディ・ウィルソンよ」

「今回の訪問について、事前のご予約がありませんでしたね、ミス・ウィルソン?」

「急なことでしたので」

 

 緑のシェードで覆われた卓上灯の光で、顔に彫りの深さを強調する濃い影ができているグリーンを相手に、臆さず淡々と答える。

 

「委任状にある通り、本日のミスター・ゴールドバーグは一日中裁判所から出ることができません。しかしその裁判で想定外の展開があり、こちらに預けている書類が急遽必要になったのです」

「なるほど」

 

 私から目を離さず、ほとんど瞬きもせずにグリーンは言った。

 

「では、合言葉を伺います。"子殺しの女"*4

「"愛と――裏切り"*5

 

 まったく、シラーが好きな悪徳弁護士なんてどういうこと?

 ともかくグリーンはある程度納得したらしく、警戒を少し緩めた声で続けた。

 

「では、規則に基づいてあなたの身分を記録させて頂きます。身分証はお持ちですか?」

「免許証でよければ」

 

 札入れからリンディ・ウィルソン名義の運転免許証を出して、グリーンに渡した。

 この免許証は偽造ではなく、正真正銘ニューヨーク州陸運局が発行した本物だ。どうやって手に入れたのかは、まあ、また今度お教えしましょう。

 グリーンは受け取った免許証を、前室の隅にあったマイクロフィルム撮影機に入れて、謄写を取った。それからデスクに戻ってくると、こちらに台帳を差し出しながら言った。

 

「では、こちらにサインを頂きます」

 

 卓上のペンを執り、L・ウィルソンと読めないこともないサインを殴り書きした。読もうと思えばリンカーンとも、レバーソーセージとも読めるだろう。

 グリーンはそれで満足したらしく、背後の巨大な金庫扉の方へと私をいざなった。

 

「こちらです。足元にお気を付けください」

 

 金庫室の中に入ると、前と左右にも同じような金庫扉があった。正面の扉は大金庫のものらしく閉まっていたけれど、貸金庫室に通じているらしい左右のものは開きっぱなしにされていた。

 

「こちらでお待ちください」

 

 テーブルのところに私を残して、グリーンは左の貸金庫室へと入って行った。

 複雑にして精巧な造りの金庫扉――私では到底開けられそうにない――を眺めていると、一分ほどでグリーンが戻ってきた。長い直方体の箱を携えている。

 グリーンは箱をテーブルの上に置いて鍵を開けると、「済んだらお声がけ下さい」と言って前室へと戻って行った。

 

「......さてと、ご開帳といきましょうか」

 

 蓋を開けると、そこにはバンクロニー社のレターヘッドが捺された帳簿が入っていた。まさに探していたものドンピシャだ。さらに親指サイズのマイクロフィルムもある。

 鞄から、手持ちサイズのマイクロフィルム・ビュアーを取り出してフィルムを差し込み、何が写っているのか確認した。

 

「おっと、これは思わぬ収穫ね」

 

 それはゴールドバーグが帳簿の謄写に使ったらしい、ネガフィルムだった。これを持って帰ればクロニーはほくほくだろう。

 他にも別の企業の帳簿らしいものや警察の書類、高額紙幣の札束などがあったけど、無視することにした。何が狙いだったのか、ゴールドバーグにしっかりと伝わった方がいいだろう。

 必要な物を鞄に詰め込み、金庫箱の蓋を閉めると、私は悠々と金庫室から出た。

 

 

 

 1:37 PM, Krono Tower, Financial District, NYC

 

 三分後には、私はクロノ・タワーにいた。そもそもマンハッタン銀行の本店は、ウォール街を挟んでクロノ・タワーの向かいにあるのだ。

 滞りなく70階のバンクロニー本社社長室に通されると、私は鞄の中から戦利品を出して、クロニーのデスクに並べた。

 

「全部回収できたと思うわ。ホテルの金庫に一冊、お向かいの貸金庫に一冊、そしてマイクロフィルム・コピーのネガ」

「素晴らしいな」

 

 クロニーは抽斗から一枚の小切手を出して私の方に押しやると、席を立って酒瓶をいくつも収めたキャビネットの方へと向かい、私は額面二千ドルの横線小切手を財布にしまってから、客用椅子の上でキャメルに火を着けた。

 

「それが、君が見つけた戦利品の全部なんだね?」

「ええ、もちろん」

 

 我ながら完璧な返事と態度に、内心で自分に感心してしまった。食い気味でなければ言葉が詰まったりもせず、声のトーンも全く同じ。身じろぎ一つせず、椅子の上で悠々と煙草を吹かしながらの、完璧な返しだ。

 

「ならばいい。これで頭痛の種が解決だ。あなたならやってくれると信じていたよ、アメリア」

 

 例のカナダ産ライ・ウィスキーが注がれたグラスを受け取ると、それを掲げながらクロニーに訊いた。

 

「どっちを願ったほうがいいのかしら? あなたのビジネスに幸あれ? それとも、あなたの前に立ちふさがる者に災いあれ?」

 

 クロニーもショット・グラスを片手に、にんまりと笑って私に返した。

 

「もちろん、両方だよ」

 

 

 

 9:50 PM, The Lost Heaven, Swing Street, NYC

 

「素晴らしいわ」

 

 "ロスト・ヘブン"の奥まったボックス席で、ステージ衣裳に身を包んだアイリスがそう言った。今日は彼女がステージに立つ日だったけれど、無理を言って合間に出てきてもらったのだ。

 アイリスは帳簿のページをぱらぱらめくり、その所得隠しの巧妙さをほれぼれとするような目で眺めた。

 

「私の友人もきっとよろこぶよ。ありがとう、アメリア」

「どういたしまして」

 

 私はテーブルの反対側で、先程シガレット・ガールから受け取ったラッキー・ストライクを喫いながら、帳簿に夢中なアイリスを眺めていた。

 

「ねえ、ミスター・Hは相変わらずなの?」

「え? ああ、彼は相変わらずだよ」

 

 帳簿から私に目を戻して、アイリスは続けた。

 

「部下からの突き上げも、上からの圧力もどこ吹く風って感じらしいから。彼抜きで話を進められるかどうかは、アメ、あなたの働きにかかってるんだよ」

 

 私の深い深い溜め息を、アイリスはにやにやした顔で眺めていた。

 

「これが報酬ね」

 

 アイリスが押しやってきた、紙製の買い物袋を受け取り、中の紙幣を数える。

 

「......クロニーがくれた小切手の1/4くらいね」

「仕方ないでしょ、私にだって予算があるんだもん」

 

 するりと席を立ち、アイリスは二色の瞳で私を刺しながら言い放った。

 

「いやならクロニーに恭順して、私を売ってくれてもいいよ。その場合、あなたの友人も必ず道連れにしてあげるけどね」

「わかってるわ」

 

 アイリスが立ち去り、私はショット・グラスの中身を一気に呷った。

 

「アルフォンソ、同じものをもう一杯持って来て」

「かしこまりました、マーム」

 

 ボーイが去り、私は瞑目した。去年の暮れの出来事以来、物事はどんどん複雑になっていくばっかりだった。

 

 

 

*1
フットボール選手

*2
とても治安が悪い

*3
有名な廉価懐中時計メーカー

*4
シラーの詩の題名

*5
上記作品の第六十四行

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