Jul. 15th, 1943, Hell's Kitchen, Midtown Manhattan, NYC
「ぐら!」
叫ぶのとほぼ同時に、私は25口径コルト・ベストポケットの引き鉄を引き絞った。轟音、閃光、硝煙、腕から肩に伝わる反動、湿った音と、コンクリートが弾ける音。
私は自分の銃を構えたまま、ぐらから奪い取った拳銃を片手に倒れている男に駆け寄ると、その頭部の左半分が吹き飛んでいるのを確認してから、脇腹を蹴って親友の上からどかした。
「ぐら! ぐら!」
抱き上げて肩を小刻みに揺すると、海の浅い所のような透き通った青の瞳が、ゆっくりと私の顔に焦点を合わせた。
「......あ」
唇を震わせて小さくそう呟くと、ぐらはついと目をそらした。視線の先には、先程彼女が取り落としたナイフがある。
「ごめんワトソン、あたしが足引っ張っちゃった......」
「あなたが大丈夫なら、それでいいの」
大きなコートに包まれた小さな体をぎゅっと抱きしめると、ぐらの左手がおずおず動いた。私のお腹の右下、シャツと下着の下で傷痕が盛りあがっているところを、無意識のように撫でている。まるで、そこから血が出ていないことを確かめているみたいに。
「やっぱり、まだ銃は怖い?」
「うん......」
ぐらは弱々しくそう答えた。普段寂しがる時とはまた違う、憔悴しきり、怯えて芯の無くなった声音だった。私の腕の中で小刻みに震えるぐらは、その見た目と相まって怯えきった子供そのものだ。
全身ですっぽりとぐらを包みこんで、彼女が落ち着くのを待つ間、私は四年前のことを思い出していた。そういえば、事の始まりはちょうど今日くらいだったはずだ。
Jul. 17th, 1939, Watson Detective Agency, Chelsea, NYC
「どうかお願いします、探偵さん。息子を捜してくれませんか」
当時、開業したばかりのワトソン
六階建てでエレベーターの無い雑居ビルのオフィスとしては、一番賃料の安い部屋を借りていたから、最上階の六階に位置する北西向きのその部屋は、窓を全開にしても華氏九十度近くという地獄のような暑さを呈していた。八月にはさらにひどくなるだろう。
そんなオフィスの中で汗をかきつつも、すっかり弱り切った声で私にそう訴えたのは、市外のウェストチェスター*1に住む、とある裕福なご婦人だ。
このクソ暑い――外気温でさえ八十度はある――日に、藤色の外出用ドレスをしっかりと着込み、襟元までボタンをかけ、日傘を携えた手にはシルクと思しき長手袋を嵌めている。私だったら、暑すぎて道のど真ん中でぶっ倒れてしまいそうな格好だ。
「しかしですね、ミセス・キャラウェイ」
蒸し暑さからくる怠さを極力感じさせないよう努力しながら、私はご婦人相手に言葉を紡いだ。
「あなたのようにその......社会的地位のある方のご子息となると、警察も失踪人課を急かして可能な限り速やかに見つけようとすると思うんです。それがこうも音沙汰無しとなると、私のような私立探偵で見つけられるかどうか......」
慎重な言い回しを選びつつ、私はなんとかこの依頼を回避できないかと考えていた。地雷の臭いがぷんぷんしていたからだ。
これは懇意にしている、とある弁護士から回されてきた依頼だったけれど、彼自身は"大恩ある先生"から頼まれた、と言っていた。つまり、アップタウンの五番街かマディソン・アヴェニュー沿いに事務所を構える上流階級専門の弁護士が、ミッドタウンの南端にオフィスを構える三流弁護士に回した依頼が、チェルシーのいかがわしい界隈にある私のオフィスにやって来たわけだ。
たらい回しの気配を感じ取れないようなら、探偵なんかやめてしまえ。いくら家賃の支払いが滞ってるからって、肉体的あるいは社会的な死が待っていそうな依頼に、自ら飛び込んでいくのは大馬鹿だ。
「ですからその、他の探偵をあたられた方がいいと思いますよ? 私もこの街に来て数年程度ですから、"ディペンダブル"とか、有名な探偵さんに払ったほうが有用なお金の使い方に......」
「お金など、なんの問題でもありません」
私の言葉を遮って、目の前のデスクにバシンと札束が叩き付けられた。
「報酬は五千ドルです。引き受けていただけるなら、千ドルをいまここでお支払いします」
「よろこんで引き受けさせてもらいます」
嗚呼、私ってどうしてこう強欲なんだろう。
10:45 AM, Mark Callaway's Apartment, Morningside Hights, NYC
マーク・キャラウェイはアッパー・ウェストサイドのさらに北、彼が学籍を置くコロンビア大学のあるモーニングサイド・ハイツの新築アパートメントに居を構えていた。
玄関ドアの横には、各戸の呼鈴を鳴らすための押しボタンがずらっと並んだ真鍮製のパネルがあり、
「ふーん......いい錠前ね」
玄関ドアを守る
「ま、今回は鍵があるんだけど」
ベージュのケープ付きコートの下から、ミセス・キャラウェイから預かった鍵を取り出して、錠を外してロビーに入った。ドアを閉めて後ろ手に錠を下ろそうとすると、ばね錠らしく自動でデッドボルトが下りるがちゃんという音が背後からした。
「うーん......まあこれは善し悪しね」
ばね錠にした方が、住民の誰かが鍵をかけ忘れてどうこうってことはないだろうけれど、うっかり締め出されて不便な思いをする住民の方が多いんじゃないだろうか。
同じ鍵でロビー内扉の
「悪くないわ、悪くない」
4Bの――それと同じ階の他のアパートメントの――ドアには、玄関ドアのそれと同じようなピンタンブラーのデッドボルト錠が二つ付いていた。どちらにもこじ開けられたような形跡はない。
鍵を開けて室内に入る。
ドア板がごつんと音を立てたので裏側をのぞき込むと、つっかえ式の
さらにドア枠からは、結構な太さのチェーンも垂れ下がっていた。
「防犯チェーンと、警察錠もあるのか。ちょっとやりすぎ?」
モーニングサイド・ハイツは、そんなに治安の悪い地区ではない。ハーレムに隣接し、ブロンクスもすぐそこにあることを考慮すれば、むしろ奇跡的なレベルで治安が良いとも言える。
「なのにチェーンと警察錠まで追加するのは、ちょっと偏執的かな」
押し込み強盗になにかトラウマがあるのか、あるいは見られたくない何かがあるのか。
「いや......何かがあるというよりは、何かをしていた、でしょうね」
防犯チェーンも警察錠も、内側から施すタイプのセキュリティだ。在室中の押し込みは防げるけれど、外出中の空き巣には効果がない。
「とはいえ、家捜しはしましょう。めぼしいものは全部、失踪人課の人が見つけてると思うけれど」
アパートメントは居間と寝室の二部屋からなっていた。
居間には簡素なギャレー・キッチンが造り付けられていて、私はその戸棚から漁りはじめた。物を隠す場所としてはちょっとベタすぎるから、警察ももう見ているだろう。とはいえ、順序はしっかり踏むべきだ。
「芽の生えたじゃが芋、これはもう処分ね......袋入りのいんげん豆、にしんの缶詰、ドライ・フルーツ」
ドライ・ラックには半ダースのグラスとお皿の他、フォーク、ナイフ、スプーン、マグとティーカップが一組ずつ置かれていた。いかにも一人暮らしの男性のキッチンって感じ。いや、まあ、私のキッチンも似たような感じだから、あんまり人のこと言えないんだけど。
缶詰や袋は未開封のものが多かったし、どっちにしても何かが隠されている風はなかった。調味料の壜の中にも、塩や胡椒以外のものは入っていない。
畳んで積まれた布巾の間や、ペーパー・タオルの芯の中にも、秘密のメモ書きや鍵の類が隠されている様子はなかった。流しの下の戸棚も、数種類のキッチン・ナイフや洗剤、オリーブ・オイル、料理用のシェリーの壜などはあるけれど、それ以上のものはない。
蝶番から栓抜きが紐でぶら下がっているケルビネイターの電気冷蔵庫――これもかなり高くつくだろう――の中も、物を隠すどころか大した内容物が無い状態だ。
「シュリッツが二本、クアーズが一本、ハイヤーズが三本*2、一本は飲みかけね......あとはバターと、チーズと......このハムはもうダメそう」
表面が紫色になって、ほのかに異臭を放っている肉塊を冷蔵庫に戻して、さらに製氷室の中や制御盤の裏を調べ、扉を閉めてから機械の後ろ側も確認した。コンプレッサーのために開いている後ろ側に、なにかしら隠されていることがたまにあるのだ。今回は何もなし。
居間の本棚には、経済学やギリシャ哲学に関する本が並んでいたけれど、テーブルの上に出しっ放しになっているのはグラビア雑誌ばかりだった。その両方を一冊一冊手に取って、一ページずつ丹念に調べる。
「ふーむ......マークは経済学専攻で、おそらく
あんまり役に立ちそうにないプレイ・ボーイ誌――おっぱい丸出しの赤毛の女が、水着姿で寝そべっている見開きページに折り目が付いていた――をテーブルの上に放って、私は捜索範囲を寝室に広げた。
「わあ、大きなベッド」
寝室の大部分は、キング・サイズのベッドに占拠されていた。一人暮らしの男にはちょっと贅沢すぎる。
ベッドを避けて窓際に向かい、抽斗付きの簡素なサイド・ボードを眺めた。天板の上には灰皿があり、チェスターフィールドのパックとストーク・クラブの紙マッチが、並んで乗っている。
灰皿の中は綺麗だ。出かける前に空にしたのか、そもそもそんなに喫わないのか。居間には灰皿が無いから、後者かもしれない。
「おっと、おたのしみ用宝箱、はっけーん」
深めの抽斗を開けると、その中には壜入りの潤滑剤、様々な形状の性具、アルミ包装のコンドームが入っていた。
性具の形状を見る限り、マークは女性の前の穴と後ろの穴、両方に興味があったらしい。後者の
抽斗の隅には手巻き煙草用の巻紙と一緒に、乾いた蕾のようなものを詰めたビニールの小袋がいくつかあって、私はそれを手に取って口をほどき、匂いを嗅いでみた。
「......なかなかいいわね。一袋15ドルくらいかしら」
カリフォルニアや南西部なら5ドルくらいでも手に入るだろうけれど、東部で
「これが丈夫な防犯対策の理由かな......?」
その可能性はある。性具と一緒に仕舞い込まれているから、連れ込んだ誰かさんと一緒に
売人関係を当たるべきかしら? いや、これも失踪人課が見つけてるだろうから、彼らがもう当たったに違いない。
「それにしたって、こんないいものを仕舞ってる抽斗に、鍵をかけないのかしら......」
小さな違和感。玄関はあんなにがちがちに固めているのに、違法な物が入ったこの抽斗には、ちゃちな錠一つ着いてないなんて。
しばらく抽斗を――中身に興味があるわけじゃないわよ――矯めつ眇めつ眺めていた私は、あることに気付いて、抽斗そのものをサイド・ボードから外した。中身をベッドの上にぶちまけ、底板を中と外から挟み込むように両手で押さえる。
「......やっぱり」
両手の間には、2インチほどの隙間があった。手触りからして、底板自体に2インチもの厚さがある可能性は低そうだ。
「上げ底ね。深めの抽斗だったから、危うく見逃すところだったわ」
警察の連中も見逃したのだろう。開け方はわからないけれど、何かでこじ開けたような痕跡もないから。
二人組――そうに違いない――の刑事たちが抽斗の中を覗いて、最近の若者の奔放さを嘆き、あるいは揶揄ってから、頭を振って抽斗を閉める様が目の前に浮かぶようだ。その底が2インチも持ち上げられていることに気付かぬまま。
「うーん、これは......もう一度開けることを想定してない感じかしら?」
底板は抽斗にぴったりと嵌め込まれていて、取っ手がわりになりそうな金具や、ナイフなんかを差し込むための隙間も見つからなかった。
「うーん......壊すしかない、か」
脳筋と呼びたいならそうするがいい。
私はキッチンに戻ると、流しの下の戸棚から一番小さい果物ナイフを持ってきた。薄い刃をなんとか、底板と側板の間に差し込もうとする。
「これが、入れば......てこみたいにして外せる......はず」
両方の板を傷だらけにして、なんとか刃を差し込むことができた。
「よおし、これで......!」
ナイフの把手に体重をかける。
ばきっと大きな音がして底板が割れ、ナイフの刃が根元からぼっきりと折れた。
11:55 AM, Gilbert Realty, Lower East Side, NYC
ギルバート
薄暗くて紙屑だらけの汚いロビーを通り過ぎ、吸殻と痰があちこちに落ちている廊下を抜けると、階段室の手前に狭苦しいエレベーターが一基設置されていた。私のビルの負け。
リフトマンは、向かいの小学校を卒業したばかりではないかと疑うくらい幼い少年で、だぼだぼの制服をなんとかずり落ちずに着ていられる、という程度の体格だった。彼は四階にケージを停め損ね、それでパニックになったのか幾度となく発進と停止を繰り返し、ケージの中で上下にがくがく揺られまくった私はついに耐えかねて、露骨な咳払いをした。
リフトマンは顔を真っ赤にして俯き、2インチ以上の段差を残した状態で格子戸を引き開けると、口の中でもごもごと「
ギルバート不動産は隣り合った二つの事務室を借りていて、私は社名が箔押しされている方のドアを押し開けた。
「ええそうよ、家賃は27ドル。それと保証金ね」
真鍮の支柱とガラス板で仕切られたデスクの中から、受付嬢が電話にしゃべりながら、私に掌を向けて待つように促してきた。経営者用の大きな両袖デスクだけれど、受付嬢の両側には恐ろしく大きな書類の山が出来上がっていて、彼女の領分は一般的なタイピスト用デスクのそれよりも狭そうだ。
「うーん......ワシントン
若い受付嬢は指でフック・スイッチを押して電話を切ると、幼少のみぎりは見事なブロンドだったと推察できる薄茶の髪の下から、見た目年齢を十プラスさせる疲れた緑の目をこちらに向けて訊いてきた。
「何の用?」
「さっき電話したワトソンです。
「ああ。パパ......じゃない、ミスター・ギルバートは隣よ。そこのドアから入って」
つっけんどんにそう言って名簿に目を落とすと、受付嬢は
私はきゅっと肩をすくめると、電話で申し合わせた通り1ドル札を受付デスクに置いてから、隣接するミスター・ギルバートのオフィスへ続くドアに手をかけた。