Bad Apple   作:Marshal. K

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Hoplophobia #2

 

 Jul. 17th, 1939, Gilbert Realty, Lower East Side, NYC

 

「ああ、確かにこれはうちが出した契約書だな」

 

 マーク・キャラウェイのアパートメントの抽斗に隠されていたのは、別のアパートメントの賃貸契約書だった。ミスター・ギルバートは鼻眼鏡をかけ直し、私が渡したその書類を顔からかなり遠ざけて読んでからそう言った。

 

「うちのレターヘッドが捺してあるし、俺のサインもある......ああ、なんだっけな。今にもこう、面白い話を思い出しそうなんだがな」

 

 ギルバートはこめかみを揉み、薄く開けた目から狡猾そうな視線を私に向けた。ああもう、こいつらは親子そろって。

 ポケットのクリップから1ドル札を抜き取り、デスクの上に滑らせる。ううーん、とわざとらしい唸り声が上がり、私は溜息とともにジョージ・ワシントンをベンチに下げると、エイブラム・リンカーンをマウンドに立たせた。

 

「おお、そうだ。まさにそれで思い出したよ」

 

 ぱちりと指を鳴らして、ギルバートは続けた。

 

「契約自体はいつも通りだった。"新聞広告を見た"って電話があって、あれこれ質問して、こっちがそれに答えた。決めるのに何日か時間をかける客もいるが、キャラウェイは即決する方だったな。それで、都合のいい時に小切手を持って来るよう言ったんだ」

「今のところは、ワシントン一人分の価値もないわね」

 

 遠回しに話をせかすと、ギルバートは鼻髭を撫でながら、勿体ぶった口調で言った。

 

「そう急かしなさんな。ロレッタもそうだが、今の若いのは堪え性というのが無いな。いかんいかん」

 

 見たところ五十代後半くらいのギルバートは、八十歳のおじいちゃんみたいな口調でそう言って、デスクの裏で擦った鳥目(バーズ・アイ)マッチでオールド・ゴールドに火を着け、ゆっくりと一服した。客用椅子を蹴って出て行きたい衝動を堪えるために、私もギルバートに倣って、自分のキャメルに火を着けざるを得なかった。

 

「ふう......それでだ。てっきり電話越しに聞いた、上流階級の子息らしい声のやつが来ると思ったんだ。ほら、わかるだろ? 生まれつきどことなく人の上に立つことに慣れてる、超然とした感じの、余裕のある声さ」

「ええ、わかるわ」

 

 キャメルの煙混じりの生返事でも、ギルバートはとにかく満足したらしい。瞑目して、話を続けた。

 

「ところが、実際に来たのは気取った若者だった。そいつは名刺を出して弁護士だと名乗り、ミスター・キャラウェイの代理だと言ったんだ」

「それで? その人相手に契約を結んだの?」

「ああ。そいつが持ってきた契約書にはサインがあったし、小切手もちゃんとした預金小切手(キャッシャーズ・チェック)*1を持って来てたからな」

「よくあることなの?」

 

 答えは分かっていたけれど、そう口を挟んだ。この手の教えたがる男から話を聞きだすには、教えさせてやるのが一番だ。そうすれば勝手に、5ドル以上のことまで喋ってくれる。

 欠点は、とにかくまどろっこしくて、精神的に疲れることだけど。

 

「ああ、特に金持ち相手の場合はな。愛人を囲う妾宅とか、人目を憚る乱交パーティーの会場とか、そんなのを探してる場合だな」

「なるほどね......ちなみに、その弁護士も若者だったんでしょ? それがミスター・キャラウェイ本人だって可能性は?」

「いいや、無いね」

 

 煙草の灰を書類で弾き飛ばしながら、ギルバートは私の質問を言下に否定して続けた。

 

「ポール・ステュアート*2のスーツなんか着込んで、ポマードでてかてかの髪をしてたが、間違いなく金持ちの子息って感じじゃなかった。俺にはわかる。あんたにはわかるか?」

「うーん......気取りすぎてたから?」

「それもあるが、そうじゃない」

 

 オールド・ゴールドの濃い煙をふうっと吐いて、まだ半分ほど残っている煙草をもみ消しながら、ギルバートは続けた。どうやら重い煙草を一本まるまる喫える体力は、もうないらしい。

 

「ひけらかしてたからだ。スーツも靴も、オーバー・コートも煙草入れ(シガレット・ケース)も、とにかく高価(たか)いものならなんでも手を出したって感じの取り合わせだったからな。金を持っていて、それをひけらかして楽しんでる顔だった」

「上流階級の子息だって、高価いものならなんでも持ってるじゃない。どう違うの?」

「違うさ。連中にとって、金があるのは当たり前なんだ。俺たちがロバート・ホール*3あたりで吊るし物のスーツを買うのと同じ感覚で、連中はロード・アンド・テイラー*4とかでスーツを買うのさ。だから高価いかどうかよりも、合うかどうかで服と靴と小物を合わせる。そしてそれを身に着けていて当然だと思ってるから、自慢げな表情なんて欠片も見せない。それが上流階級の連中ってやつだ」

「なるほど......参考になるわ」

 

 そんなことだろうと思ってたけれど、ギルバートの確信が妄想なのか確かなものなのか、確認しておく必要があった。筋は通ってるし、私も同じような物の見方をするから、彼の確信は今のところ信用に値する、と言える。

 

「とにかくそれで、そいつがキャラウェイ本人じゃないって確信はあった。ただ、電話の相手が上流階級の人間だったのは間違いなかったし、上流階級でキャラウェイって言ったら、思いつく家は一つだけだろ?」

「まあね」

「それでまあ、ちょっとばかりカマをかけたわけよ。"キャラウェイって、あのキャラウェイか? ウェストチェスターに城みたいな屋敷を持ってる?"ってな。そうしたらそいつ、この部屋に他に誰かいるみたいにきょろきょろしてから、さっきのあんたみたいに5ドル札を出して言うんだ、"これは他言無用だ、他の誰にもな"、だと!」

 

 ギルバートは傑作とばかりに膝を叩いて、豪快に笑った。高価い背広をひけらかす若者が、似合わないタフ・ガイ気取りの言動をするさまを思い描いて、私もくすくすと笑いを漏らした。

 

「5ドルで黙ってろって言われたのに、私に5ドルで喋っちゃってよかったの?」

「いやあ、もう10ドルで喋っちまった後だからな」

 

 言ってから、ギルバートは露骨にしまったって顔をした。

 

「喋った? 誰に?」

「いや、その......」

 

 警察ではないな。このおっさんはバッジを見せられたら、10ドル札を出されなくてもべらべら喋るだろう。

 

「黙ってろって言われたんだ、そいつからも。おっかない黒いやつを連れてて、誰かに喋ったら殺すって」

「私があなたから聞いたって言わなきゃ、そいつにもわかりゃしないわ」

 

 そう言ってデスクの上に、さらに5ドル札を追加した。間を置いてさらにもう一枚。

 

「ああもう、わかったわかった!」

 

 デスクの上の5ドル札が四枚になると、ギルバートはそう叫んで、紙幣をかき集めて抽斗につっこんだ。金で動くタイプの人間には、結局これが一番効果的だ。前金のお蔭で余裕があるとはいえ、手痛い出費ではあるけれど。

 ギルバートは先程と打って変わって、せかせかと二本目のオールド・ゴールドに火を着けると、私の方に身を乗り出して小声で言った。

 

「どっちも名乗らなかったから、正確にどこの誰なのかは、俺にもわからん。黒いほうは一言も喋らなかったしな」

「何も言わずに、この部屋に入って来たわけじゃあないんでしょ?」

「ああ。連中は――というか、二人の内の白い方が――マーク・キャラウェイの友人だと名乗ったんだ。この部屋の事も、もう知っていた。先週の今頃だったと思うが、契約書を持ってきた弁護士のことを聞きに来たんだ。10ドル出させて、さっきの笑える話を聞かせて、名刺を見せた。ほら」

 

 抽斗から弁護士の名刺が出てきて、デスクの上をこちらに滑ってきた。それを手に取り、メモ帳に名前と住所を書き込みながら、私は質問を続けた。

 

「そいつの特徴は?」

アイルランド野郎(ミック)だった、それは間違いない。黒髪、青い目、髭は無し。背は俺と同じくらいで、目方は向こうの方が十ポンドは軽そうだった」

 

 私はその特徴もメモした。今のところ使えるあてはないけれど、何の折に役立つかわからないし。

 

「ありがとう、ミスター・ギルバート。それと、もう一つお願いしたいことがあるんだけど」

「何だ?」

「ミスター・キャラウェイに貸した部屋の合鍵とかって、持ってない?」

「いいや、残念ながら」

「そう。じゃあ、その建物の管理人に電話して、私を中に入れるように言ってくれる?」

「待ってくれ、待ってくれ!」

 

 ギルバートは煙草を振り回し、一本目よりもさらに残っているにもかかわらず灰皿に突っ込んだ。

 

「あんたに何の権利があってそんなことを頼むんだ?」

「ミスター・マーク・キャラウェイは、二週間前からずっと大学を欠席してるわ。モーニングサイド・ハイツの自宅にも帰ってなくて、キャラウェイ夫妻は大変心配してるの」

「じゃあお巡りに任せればいいだろ。私立探偵の出番か?」

「ミセス・キャラウェイは、そうお考えの様ね。"ニューヨーク市の精鋭(ニューヨーク・シティズ・ファイネスト)たち*5"は、言うほど有能(ファイン)じゃないって思ってるみたいよ」

「しかし......」

 

 ギルバートが渋る姿勢を見せたので、私は客用椅子から立ち上がると、彼のデスクの電話機から受話器を持ち上げて訊いた。

 

「市外だけど、一本電話をかけてもいいかしら?」

「市外? どこだ?」

「オールバニー*6よ。キャラウェイ上院議員に電話して、あなたが非協力的で、息子さんのことについて何か知ってるらしいけれど隠してるって言うわ」

「おい待て、待てったら!」

 

 構わず0(OPERATOR)をダイヤルすると、ギルバートは慌てて手を伸ばしてフック・スイッチを押さえた。

 

「わかった、わかったよ! 言われた通りにするから、受話器をよこせ!」

「はい、どうぞ」

 

 にっこり笑って受話器を渡すと、ギルバートがぶつぶつ言いながらMU(マーレイ・ヒル)局の番号をダイヤルして、電話の相手に頼みごとをするのを見守った。

 

 

 

 12:40 PM, Mark Callaway's Second Apartment, Murray Hill, NYC

 

「気に喰わん。俺は全く気に喰わんぞ」

 

 マークが別宅に選んだのは、マーレイ・ヒルのパーク・アヴェニュー沿いに位置する高層アパートメント・ビルの一室だった。ドーソンと名乗った初老の雇われ管理人は、不動産屋からの電話と、私からの1ドル札を受け取ると、ぶつぶつ文句を言いながら私を五階に案内した。

 

「こんなことは特例中の特例だからな。州上院議員がバックに付いてるんでなけりゃ、あんたごときにこんなこと許したりしねえんだが」

「はいはい、わかってるわ」

 

 そんなことは百も承知だ。今回みたいな特殊な事情が無かったら、私もこんな正面突破はせずに、ドアマンのいない夜間に侵入を試みていただろう。

 問題は、その時に何を見つけてしまうか、だ。跡取り息子の失踪という重大事を三流弁護士にたらい回しにするあたり、アップタウンの顧問弁護士は何かを知っている。その何かを、自分で見つけたくないのだろう。

 それを見つけてしまった時、事の次第によってはそれを警察に引き継がざるを得なくなる。その時自分が第一級不法侵入罪に問われる――あるいはそれをちらつかせて賄賂を強請られる――のは、極力避けたかった。せっかく使えるライオンの皮があるんだから、かよわい驢馬の私としては、それを被らないって選択肢はない。*7

 

「くそ、誰だ、廊下で吐くか漏らすかしやがったやつは」

 

 エレベーターが停まってドアが開くと、ドーソンは吐き捨てるようにそう言った。少し遅れて、私の鼻もそれを捉えた。饐えた排泄物のような臭いがほのかに、五階の廊下に漂っている。

 

「俺は、のべつ反吐や糞を掃除するために雇われてるんじゃねえんだぞ、くそったれの酔っ払いめ。ほら、ここだ」

 

 36丁目に面したアパートメント5Fのドアに着くと、ドーソンは鍵束を出して、五階のマスター・キーを本締(デッドボルト)錠の鍵穴に挿して捻った。

 

「全く、いいか、これは本当に特べ......」

 

 ドアを開けた瞬間すさまじい音がして、真っ黒な霧のようなものが私たちを包んだ。

 

「うわっ!」

「ぎゃっ!」

 

 それは蠅の大群だった。両手で顔を守り、目や鼻や口から入ろうとする不埒な虫を払っていると、今度は激烈な臭気が鼻を襲った。

 

「げっ!」

「ぐえっ!」

 

 その臭いはとてつもない強さで、私たちの鼻のみならず目をも刺した。咳き込み、涙を流しながら、私は姿勢を低くして、蠅の大群と強烈な臭いをやり過ごそうとした。

 

「ああ、もう! これはいったい......」

 

 目をしばたき、なんとか視界をマシにしてから、部屋の中へと目を転じた。

 それは、玄関から見える居間の真ん中にあった。茶色っぽい巨大なハムの塊のようで、しかしそうじゃないのは明白だった。

 それは人間の残骸だった。腕も脚もぱんぱんに膨らみ、胴体は大きく裂けて蛆虫の苗床と化してしまっている。それを中心に、工場廃液のような真っ黒な液体が放射状に飛び散り、部屋中を汚し、バクテリアが繁殖していることを示す悪臭の源になっていた。

 

「う、ぁ......」

 

 視界が白く染まり、私はそのまま倒れそうになった。実際、そのままだったら失神してただろう。

 

「うっ」

 

 苦しげな呻き声と膝をつく音が横から聞こえて、私の意識は一気に引き戻された。

 

「ミスター・ドーソン?」

 

 初老の管理人が、廊下の床に倒れ込んだ。屈むような姿勢で胸を押さえ、苦しげな顔には玉のような汗が浮かんでいる。

 

「ミスター・ドーソン。ミスター・ドーソン!」

 

 一瞬死骸のことを忘れて、私はドーソンに駆け寄った。首筋に手を当てて脈をとる。

 

「......脈がとれない」

 

 ショックで心臓がいかれたんだろうか。どっちにしても、このままじゃ死体がもう一つ増えてしまう。

 

「あれを使うしかないか......」

 

 私は、悪臭と蠅の巣窟と化している5Fの控室(アンテチャンバー)に足を踏み入れた。四歩歩いて、白いお洒落な――しかし黒い液体がべっとりと付いている――電話機から受話器を取り上げる。ぬるぬるする手のことは極力考えないようにして、0(OPERATOR)をダイヤルした。

 

 

 

 12:47 PM, Herald Square, Midtown Manhattan, NYC

 

「刑事、DBらしいですよ」

 

 お昼休みのビジネスマン相手に六番街で掏摸を働き、メイシーズ・ヘラルドスクエアの前でアタシに見つかりさえしなければ、今日一日で五百ドル近く稼げていたはずの少年のお尻に座ったまま、アタシは簡易書式の逮捕手続書から目を上げてその巡査を見上げた。

 コーツ巡査はついさっきまで、ヘラルド・スクエアの路肩に駐めた39年式プリムス・ロードキングの無線車から引っ張り出した受話器を耳に当てていて、どうやらそれで死体(DB)発見の通報を受けたらしい。

 

本部(セントラル)は、誰か徒歩巡査(ビート・コップ)を見つけてセントラルに電話(10-3)させるように言ってますけど、どうします?」

「アタシが行くよ」

 

 正直言って、気は進まなかった。このまま無線車に乗って分署に戻り、正式に手続きを進めたほうが、アタシにとっての実入りはいい。

 一方で、直感が行くべきだと告げてもいた。この直感は、アタシを警官の道に進ませ、今やマフィアの幹部になりおおせている元娼婦に声をかけさせ、一度はアタシを死地から救ってもいた。今のところ、この直感に逆らうべき理由はない。

 手早く書類の残りを埋めて、サインを殴り書きする。

 

「このアホのお守りをお願いね、コーツ」

 

 アタシは少年のコートに手を突っ込み、数ある魔法のポケットから財布を一つ取り出すと、中身の現金67ドルを抜いて自分のポケットにねじ込んだ。

 

「マクレリー巡査部長によろしく言っといて」

「了解しました。指令番号は137です」

 

 自分の取り分が増えて嬉しそうなコーツ巡査に後を任せて、32丁目まで二街区(ブロック)歩いて非常電話ボックス(ゲームウェル)を見つけた。警官用の鍵を使って蓋を開け、矢印型の発呼スイッチを"非常通報"から"WRQP"に切り替え、背伸びして受話器を取ってフック・スイッチをがちゃがちゃ叩いた。

 

"......はい、通信課です"

「がうる・ぐら、第14分署刑事課(14DS)、シールド875。先通報の事案、指令番号137を扱います」

"了解。DB発見、及び救急患者の通報。マーレイ・ヒルのアパートメントにて、市民が腐爛死体及び救急患者を発見。現場、パーク・アヴェニュー20番地アパートメント5F、パーク20の5Fです。現着次第救急患者の容態を確認して、救急隊出場の可否を電話(10-17)願います"

了解(10-4)。徒歩巡査は呼び出してますか」

"第14分署が、受持区(ビート)のゲームウェルを鳴動中です"

「10-4。32丁目と六番街の角から向かいます」

 

 電話を切り、矢印を"非常通報"に戻してから蓋を閉め、しっかりと鍵をかけた。

 

「ちぇっ、ついに直感が外れる日が来たかなあ」

 

 腐爛死体なんていう、はずれ事案もいいとこな事案――しかも受け持ちの徒歩巡査はサボっているのか、非常電話に出ていない――を引いてしまった自分を恨みながら、アタシは32丁目をパーク・アヴェニューの方へと歩き出した。

 

 

 

*1
自己宛の線引小切手。アメリカでは家土地や自動車の取引によく使われる

*2
アメリカの老舗紳士服ブランド

*3
郊外型の衣料品量販店

*4
五番街の老舗百貨店

*5
市警の警察官のこと

*6
州都。この年度の予算に違憲判決が出たため、州議会は予算再編成のため臨時会を開いていた

*7
"ライオンの皮を被る驢馬"は"虎の威を借る狐"に相当する言いまわし

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