Jul. 17th, 1939, Mark Callaway's Second Apartment, Murray Hill, NYC
「失礼ですが、居住者の方ですか?」
パーク・アヴェニュー20番地は、通り沿いを丸々一
緑の日除けに覆われた玄関から入ろうとすると、濃紺の制服に身を包んだ"
「がうる・ぐら刑事、NYPD」
水色のレインコート――クソ蒸し暑い日だけど、脇の下に吊った拳銃を隠すために我慢して着ていた――から円形の刑事バッジを出して、ドアマンに見せて続ける。
「ここから救急の通報があったの。アパートメント5Fって五階? 六階?」
「五階です」
「ありがと」
小さなエレベーターは無視して、階段で五階まで上がると、廊下はむっとする臭気に満ちていた。監察医務院の、鋼鉄のドアの先にある廊下や部屋でよく嗅ぐ臭いだ。
北に向かって角を曲がると、すぐのドアが開いていた。悪臭は間違いなく、その部屋から流れてきている。
そしてその敷居の上に初老のおっさんが一人倒れていて、小柄な――アタシよりは背が高そうだけど――女が必死の形相で心臓マッサージを施していた。
「NYPD。そのおっさんはどうしたの」
「その! 死体を! 見て! 倒れた! の!」
心臓マッサージの合間を縫って、女は叫ぶようにそう言った。
ドアが開きっぱなしの5Fの中に目をやったアタシは、それを見た。
「げっ」
流石に吐きはしないけれど、そんなひどい腐爛死体を見たのはかなり久しぶりだった。この蒸し暑い日が続いてることを考えても、一週間は優に経ってそうな感じだ。
アタシは立ちあがると、顔から滝のように汗を滴らせて今にも倒れてしまいそうな女に声をかけた。
「一本電話をかけたら、すぐ代わってあげる。それまで頑張って」
「わかった!」
室内に踏み込むと、
「なかなか度胸あるじゃん」
小さく口のなかで呟いてから、受話器を持ち上げ、暗記している分署の番号をダイヤルした。
1:28 PM, 20 Park Ave.
「くそったれ、食べたばかりの昼を戻しちまいそうだ、くそ」
「まったく、一階で倒れてくれりゃいいのに」
"ベルビュー病院 救急医"と書かれた制帽を被った若い
彼らと入れ替わりに、別の二人組が狭い廊下をやってきた。先頭に立つ白衣をまとったほうは知り合いだったので、アタシはひょいっと手を上げて挨拶した。
「や、カリ」
「よう、ぐら」
アタシよりもはるかに背の高いそいつは、ベルビュー病院の病理医の森カリオペ。ベテランの病理医である彼女は市の監察医も兼任していて、マンハッタン区の監察医たちを束ねる
異様なまでに透き通った白い肌と真っ赤な目――たぶんアルビノ気味なんだろう――を持っていて、現場の警官たちからは"死神"という、医者としてはあまりありがたくないあだ名を頂戴していたけれど、カリ本人は気にしていないようだった。
「そこの5Iか?」
「いや、向かいの5Fだよ」
寄り掛かっている5Iのドアを指して、アタシは続けた。
「結構ひどいことになってるから、アタシは先に失礼させてもらうね」
「わかった。リッチー、吐くならエレベーター・ホールに共用トイレがあったから、そこにしろ」
「まさか、吐きませんよ」
カリオペと監察医補佐のリチャードが軽口をたたき合っているのを尻目に、アタシは現場の向かいのアパートメント5Iの中に入った。
「かなりひどい顔してるけど、どう? だいぶ楽になった?」
クソ暑い日だというのに水色のレインコートを着込んだちんちくりんの女刑事は、5Iの居間のソファに沈み込んでいる私を見るなりそう声をかけてきた。特に返事を期待していたわけではないらしく、すぐにこの部屋の主であるミセス・サマセットの方に向き直って続ける。
「部屋を貸してくれてありがとうございます、マーム。なにせ向こうの部屋は......ひどい状態なもので」
「いえいえ、構いませんのよ」
「ミスター・ドーソンはどうなったの?」
私は気力を振り絞ってそう尋ねた。腐爛死体を見た精神的ダメージと、十分近くにわたって続けた心臓マッサージの疲れとで、今すぐにでも意識を手放してしまいたいところだったけれど、これを聞かずにはいられなかった。
「ミスター・ドーソンってのは、倒れてたおっさんのほう?」
「ええ、そう」
「救急隊がベルビューに運んで行ったよ。救急病棟の方ね」
刑事がそう付け足した。ベルビュー病院には市内最大の救急病棟の他に、ニューヨーク市じゅうの変死体が集められる監察医務院が併設されている。それを念頭に、死んでいないことを強調したかったのだろう。
「まだ意識は戻ってないけど、とりあえず死んではいないよ」
「そう......」
私がふたたびソファに沈み込むと、ちんちくりん刑事は咳払いをしてから私に言った。
「お疲れのところ悪いんだけど、あんたから話を聴いて、報告書を書かなきゃいけないんだ。歩けそう?」
「ええ......ええ、大丈夫」
「そりゃよかった。じゃ、下の車まで一緒に来て」
「あの、ここじゃだめですの?」
優しそうなミセス・サマセットは、私を気遣ってかそう言ってくれた。いや、単に好奇心旺盛で事の成り行きを見守りたいだけかもしれないけど。
「二人きりで話す必要があるもので。この部屋を使わせてもらう場合には、マーム、あなたにはどこかよそで時間を潰してもらわないといけません」
「私はもう大丈夫ですから、ミセス・サマセット」
思い切ってソファから立ち上がって、私はそう言った。
「お茶をごちそうさまでした。お蔭で気分がだいぶましになりました」
「そう? ならよかった」
刑事に続いて廊下に出ると、キャラウェイのアパートメントのドアは閉まっていた。中に人がいるらしく、なにやら話し声が聞こえてくる。
むっとする死臭が漂う廊下を歩き、階段で一階まで下りると、玄関の前に二台のパトカーが駐まっていた。周辺にはニューヨークの物見高い市民たちが集まって、野次馬の垣根を形成している。制服巡査とドアマンが二人がかりで、彼らがビルの中まで入って来ないよう奮闘していた。
刑事は、緑のボディに白文字で"NYPD 14th PRECINCT"と書かれた方のパトカーのドアを開けると、助手席に乗るように手で促してきた。素直に乗り込むとドアが閉められ、刑事は車外をぐるっと回って運転席の方に乗り込んできた。
「ちょっとごめんよ」
ちんちくりん刑事は私の前に身を乗り出すと、短い腕を精一杯伸ばし、グローブボックスから書類挟みを取り出した。ぱらぱらめくって、レターサイズの用箋を抜き出し、コートの下から万年筆を出してキャップを外しながら訊いてきた。
「まず、名前は?」
「ワトソン。アメリア・ワトソン。あなたは?」
「あれ、名乗ってなかったっけ?」
「ええ」
刑事はごそごそとコートの下を探って、黒い革の財布のようなものを取り出した。ぱかっと開くと、中には金色の円形バッジが留めてあった。
「がうる・ぐら、第14分署刑事課。これでいい?」
「ありがとう、
「
呼称に関する訂正が入ってから、質問が続いた。
「んじゃ、ミス・ワトソン。あんたはなんであの部屋にいたの?」
「仕事よ」
「仕事ね。何の?」
「私立探偵」
「へーえ?」
ちんちくりん刑事改めがうる・ぐら刑事は、腹の立つにやにや笑いを浮かべながら私の方を見た。その表情はなんというか......クソガキ、としか形容のしようがなかった。
「ちょっと、私はあなたのバッジを見ても、"へーえ?"とは言わなかったわよ」
「そりゃあ失礼」
全然失礼とは思ってない口調だ。すごく腹が立つ。
コートの内ポケットから札入れを取り出し、私立探偵の営業免許を抜き取って刑事に放ると、彼女はそれを興味深そうに眺めてから言った。
「ふうん......で? 私立探偵さんが、何の用であのアパートメントに行ったの?」
そこに至るまでの経緯を、私は包み隠さず全部話した。お金の誘惑に逆らえずにきな臭い依頼を受けたこと、登録住所のアパートメントで隠された契約書を見つけたこと、不動産屋を買収して話を聞き出したこと、ライオンの皮ならぬ上院議員の皮を使って管理人を脅したこと。抽斗の中の
クソガキ刑事はチェスターフィールドに火を着けて、それを銜えたまま私の話をメモ帳に書き込みながら、黙って聴いていた。車内はあっというまに、バージニア莨の甘い匂いで満たされた。
私が概ね話し終えると、刑事は長くなった煙草の灰を灰皿に落として、自分が書いたメモをぱらぱらと見返しながら訊いてきた。
「あんたが捜してるマーク・キャラウェイってのは、どんな人相をしてるの?」
「私が知っている限りでは、白人、黒髪、灰色の目。身長5フィート半、体重110ポンドくらい。写真があるわ」
ミセス・キャラウェイから受け取った写真は、
「さっきの腐爛死体だけど。あれの人相は見た?」
「......見てない」
正確には、見ることができなかった、だ。人間の残骸、としか形容のできないものに視線を向けることが、私にはどうしてもできなかった。電話をかけるときも、心臓マッサージを代わってもらった後も、可能な限り目をそらし続けていた。人としてはさておき、人捜しの依頼を受けた私立探偵としては、落第点な行動だったかもしれない。
私の暗澹たる内心を知ってか知らずか、刑事は特に気にするそぶりも見せずに言った。
「アタシが見た限りでは、黒い髪なのは間違いなかった。肌の変色が激しいから監察医の判断待ちだけど、たぶん白人。目の色は、目ん玉がどっか行っちゃってたからわかんなかったけど、身長はたぶん5フィート半くらいだね」
「じゃあやっぱりマークの死体......」
「さあね」
煙草を灰皿につっこんで、刑事は続けた。
「顔はもう、人相が判別できないくらいぐちゃぐちゃだったし、監察医が何て言うか次第かな。だからあんたも、ウェストチェスターのご夫人に変なこと言わないでよ?」
「わかったわ」
とはいえ、お金を貰っている以上、報告に向かわないわけにはいかない。少なくとも、彼女の息子が賃借している部屋で死体が見つかった、くらいの報告は上げておかなければ。
「ねえ、あなたはいつ頃ウェストチェスターに行くつもり?」
そう訊くと、刑事はじとっとした目つきで私を睨みながら答えた。
「それを聞いてどうすんの?」
「私が報告に向かうのは、あなたが訪ねて行った後の方がいいかなって思って」
「そんなこと言って、アタシより先に報告に馳せ参じようとしてるんでしょ」
ぎくっ。
「......バレた?」
「バレバレだよ」
盛大な溜め息を吐いた後、ちんちくりん刑事は口から出そうとした言葉をふとひっこめて、何か考え込むような顔つきになった。
「いや......その方がいいか」
「何が"その方がいい"の?」
「いやね......アタシ、この後ウェストチェスターまで行くつもりなんだけど、あんたについて来てもらったほうがいいかなって」
「ええ!?」
狭い車内にもかかわらず、驚きのあまり私は大声を出して刑事の顔を顰めさせた。
「うるさい」
「ご、ごめんなさい......あの、差し支えなければ理由を聞いてもいいかしら?」
「左手の臭いは落ちた? 探偵さん」
「......いいえ」
警察に通報するとき、私は腐った体液がべっとりと付着していた電話機を使った。その結果、受話器を握った左手にはその臭いが沁みついてしまったんだ。
ミセス・サマセットのご厚意で石鹸を使わせてもらったけれど、念入りに洗ったにもかかわらず、その臭いはほのかに、手に残り続けている。
「アタシも同じような経験をしたからこう言えるけど、一週間は落ちないよ、それ」
「一週間も......」
「そ。あんたはその臭いを感じた時とか、手を洗う時とか、ことあるごとにマーク・キャラウェイとあの死体のことを考えるようになる。んで、それでも割り切って、何もしないでいられるほど冷たい人間じゃないと思うんだよ、あんたは」
「つまり、勝手に動き回られる前に首輪を付けちゃえってことかしら?」
「その通り」
ちんちくりん刑事は、牙のようにギザギザな歯を剥きだしにして、にんまりと笑った。
「んじゃ、そこで待ってて。アタシは監察医とちょっと話してくるから」
私立探偵にロビーで待つように言って、アタシは普段なら絶対に使わないエレベーターに乗り込んだ。ベニヤの外扉と鉄の格子戸を閉めると、5と書かれたボタンを押す。ケージが大きく揺れてからゆっくりと昇りだすと、アタシはケージの壁に自分の頭をがつんと打ち付けた。
「何やってんだ、あたし......こんなの公私混同もいいとこじゃん」
一目惚れだった。自分がこんなにも面食いだとは、思ってもいなかった。
ドーソン――ミセス・サマセットによると、この建物の管理人らしい――に心臓マッサージを施しているときの必死な顔とか、それを代わった後の放心した表情とか、ミセス・サマセットと話しているときに見せていた柔和な表情とか。言葉遣いから垣間見える純朴そうなところとか、言葉の端々に残る中西部あたりの訛りとか。
およそ"ニューヨークの私立探偵"というイメージからかけ離れたところにいる彼女を、とにかく愛おしいと思っている自分がいて、あたし自身がそれに一番驚いていた。自分が恋に落ちる相手がいるとして、それはたぶん生粋のニューヨーカーみたいなやつだろうと、漠然と思ってたから。
そして自分でも一番驚いたのは、あたし自ら帯同を求めてしまったことだ。理由は単純、彼女ともっと一緒にいたかったから。ただそれだけ。
もちろんだけど普通の刑事は、私立探偵なんて部外者を帯同させたりしない。シャーロック・ホームズが活躍していた時代の
衝撃と後悔とがないまぜになった気分で身をよじっていると、ケージが再びがくんと揺れて、五階に着いた。
「言っちゃった以上、もうどうしようもないか......とにかく、カリに話を聴こう」
格子戸を開け、外扉を押し開けてエレベーターから降りると、カリオペとリッチーが煙草を喫っているところに出くわした。エレベーター・ホールには砂を満たした脚付きの灰皿が置いてあり、二人はそこでラッキー・ストライクを黙々と灰にしていた。
「カリ、ちょっといい?」
「ああ、いいぞ」
灰皿の輪に加わって、チェスターフィールドをパックから出して銜えると、リッチーが火を点けたロンソンを差し出してくれた。ありがたくその火を使わせてもらう。
「ありがと、リッチー......で、DBはどんな感じだった?」
「腐ってるな」
カリオペは至極端的にそう言うと、灰皿に灰を叩き落として続けた。
「お前があの部屋で見て取った以上のことは、今は私たちにもわからん。ああいや、目は灰色だった。ソファの下に転がってたよ。でもそれ以上のことは、剖検を待ってくれ」
「剖検はいつ終わる? 明日?」
「勘弁してくれ。この地獄のような街が"死神"に、一日に何体の死体を送ってよこすと思う?」
短くなってきたラッキー・ストライクを振り回しながら、カリはうんざりした声で言った。
「今朝の時点で四体が解剖未了で、今日中にもっと増えるだろうし、内の一体は"
「んじゃこれで」
アタシはコートのポケットから5ドル札を引っ張り出すと、カリオペに押し付けた。
「くそったれ検査部長にチケットを買ってあげなよ。んで、これは」
カリオペの渋面を見て、もう一枚引っ張り出す。
「あんたとかわいいコックさんの、デート代の足しにして」
紙幣が白衣のポケットに消えると、カリオペはちびた煙草を灰皿に入れて、監察医補佐に合図しながらアタシに言った。
「明日の昼過ぎに電話する。リッチー、そろそろお客さんをお送りするぞ」
「へいへい」
階段を下りる途中、二人の会話が小さく聞こえてきた。
「お前は何も聞かなかった。そうだろ、リッチー?」
「何の話ですか? 俺たちは黙って煙草を吹かしてただけですよ」
2ドルくらい渡したんだろうな、と思いながら階段を下っていく間、アタシは自分の心臓が早鐘を打つように高鳴りだすのを、いやでも意識せざるをえなかった。